2019年11月10日

ここはわたしの居場所ではない

先日、ネット上での知人が、『この星は、私の星ではない』というドキュメンタリー映画を観に行った。
その題名を聞いてすぐに、境界性人格障害の女性の手記の書名『ここは私の居場所ではない』を思い浮かべた。

このような感覚を、こころのどこかで常に感じていない人と、わたしとは、結局本質的なところで異質なのだろう。

「ここは私の居場所ではない」の「ここ」とは「すべての」「ここ」だ。








2019年11月4日

真空地帯

いまわたしは何もない世界に生きている。

26歳から17年間住み、大好きだった「〇〇荘」のない世界。「親友」のいない世界。「公衆電話」のない世界。「カセット・ウォークマンのない世界」「ブラウン管テレビのない世界」「裸電球のない世界」etc....

これがないこと、あれがないことを、「常に」、悲しみと懐旧の想いと共に意識しながら生きている。

「あれもこれも、もう存在しないのだ」という「現実」を受け容れることが出来ずに生きている。

二階堂奥歯が、「人間が恐怖(不安?)のピークで死んでしまうような弱い生き物だったらよかったのに・・・」と書いていた。わたしも心から共感する。

わたしをわたしたらしめているモノたちが喪われた世界にまだ存在しているわたしとはいったい何者だ?

「わたしをわたしたらしめていたモノたち」を欠いた「わたし」とは、わたしを「わたしたらしめているものを」持たない「わたし」とは、いかなる存在か・・・




The War On Drugs - Nothing To Find




先日も投稿したっけ?

最近お気に入りのバンド、ザ・ウォー・オン・ドラッグスです。

CD探してみよう。




貴い傷と偽りの美

以前、フロイトとマーラーのエピソードを紹介した。
フロイトの元を訪れたマーラーの診察をフロイトが躊躇した。訝るマーラーに彼は、「しかし治療が成功してしまうと、もうあの美しい曲を聴けなくなってしまう・・・」

中条省平氏の本に、フランソワ・トリュフォーが一時、深刻な鬱状態に陥った時、彼は、一旦始めた精神分析を途中で打ち切ったという話が、トリュフォーの元夫人のインタヴューの中で語られている。
トリュフォーは彼自身で、フロイトがマーラーにしたのと同じ判断を下したのだ。


ところで、わたしの「スマホ」嫌悪については、仮に、なんらかの方法で(魔法でも催眠術でも秘薬でも)スマホ嫌いが完全に消えると言われても、施術・治療はお断りする。
スマホを嫌うことで得られるものは何もない。どころか、世の中から大嫌いなモノがひとつ減るということは喜ばしいことじゃないかと誰もが思うだろう。

けれどもわたしは醜いものに平気になれることを自分に許すことはできない。
また10人が10人、唾を吐きかけ、鞭打つ者に対し、たったひとりだけ、少なくとも、唾を吐きかけず、鞭打つことをしない者でありたいのと同じように、10人中10人が「是」とするもの、100人中100人が「諾」というモノに与したくはないのだ。



先日Tumblrで、拙い英文でこのような投稿をした

「時々、ある人経由で、美しいモノクロ写真を目にする。しかしわたしはデジタル写真というものがわからない。何故ならそれはわたしにとって本当に美しいのか?それとも、「それ」がわたし(わたしの脳)に「美しい」と感じさせているのかの判断がつかないからだ・・・」



するとわたしをフォローしている人から返信が来た。

Beauty is in the eye of the beholder. If it makes you think or feel that it is beautiful it is. The medium does not matter.

「美はそれを見る者の心にある。もしその「デジタル写真」を、あなたが「美しい」と感じたのなら、それは「うつくしい」んだ。媒体は問題じゃない」

わたしは彼(彼女?)に反論する英語力を持たないし、意見をくれただけでもうれしいと思っている。

けれども、わたしは如何様にも加工できる写真を写真とは呼ばない。
少なくとも、わたしにとっての写真とは、デジタル以前のものを指す。

現実にはそうではなくても、そのように見せることができる。しかしそれは現実でもなければ真実でもない。そこにそんなものはなかった。あるいはあったものが消されている。
厳密には、デジタル写真とは、「写し撮る」ものではなく「創作する」乃至は「デッチ上げる」ものだ。少なくともそのようなことが可能なメディアだ。

「美しい」と思う前に、先ず疑わなければならない。

「嘘」に踊らされたくはない・・・












2019年11月3日

書くことの困難、そして映画


書くことが困難になってきていることを感じる。その「困難さ」をきちんと伝えることができるなら、少なくとも、今までの様に説明することができるなら、それを「困難」とは呼ばない。

これまではわたしの抱えている悩みにも、ある程度、「重さ」が感じられた。
その「重み」を言葉に移し替えることが、ここでものを書くことだった。
しかし、今は様々なことの境、境界が非常に曖昧になってきている。
「死」と「生」、「死ぬこと」と「生き永らえること」、「孤独」と「独りではないこと」、「好感」と「嫌悪」ー エトセトラ…これまで対峙し、対立していたそれらのことが混然一体としてきたような感覚、とでも言うのか・・・これ以上書くと、「嘘」ではないにせよ、言葉を重ねれば重ねるほど、それはわたしの本心からはなれてゆく気がする。

今のわたしには、この右目がそうであるように、何も見えていない。微かに、そこに山があるように感じられ、そこに樹があるように思える。けれども、その山の尾根の姿、樹の手触り、色合い、そのような、山や、樹を作り出している「細部」が見えない。

見えていないものを見えているように書く意味がわたしにはわからない。





母が、わたしが好みそうな映画を教えてくれた、今日から、神保町の「岩波ホール」で上映されている、イランのドキュメンタリー映画、『少女は夜明けに夢をみる』英語のタイトルは ' Starless Dreams'(星のない夢)

母がわたしに教えてくれたのは、この新聞広告に載せられている少女の

わたしの罪?
生まれてきたこと。
わたしの夢?
死ぬこと。

という言葉を読んだからだろう。

広告の中で、この映画を3人の女性が評している。
作家・奈良少年刑務所元講師の寮三千子さん、ジャーナリスト・ドキュメンタリー監督の伊藤詩織さんというお二人の言葉は、わたしの心にまるで届かなかった。
ただひとり、声優・女優の春名風花さんの言葉

「彼女たちは罪を犯した。でも・・・罪とは、何なのか?
「加害者になるしかない命」もまた、立派な被害者なのだ。

という言葉がわたしの胸に強く響いた。

岩波映画では、8月に、母が、ニューヨーク市立図書館のすべてを描いた『エクス・リブリス』'EX-LIbris'という3時間強の作品を観て、彼我の文化水準の圧倒的な差を見せつけられてきた。

高野悦子氏没後も、岩波映画は良質な映画を配給し続けているようだ。

10代の少女が、強盗・殺人を犯し、

生まれてきたことが罪といい、死こそが夢という。

そんな国があること、そんな言葉を吐ける少女が存在することが、その本質に於いてイランよりも貧しいであろうこの国に生きるわたしの心の小さな支えになってくれるかもしれない。

映画に救いは要らない。救いのなさこそが救いなのだから。





世界中の病院のベッドで、子供たちが、早く元気になりたいと願っている。
その願いはわたしにもよくわかる。どうかみなが元気になれるようにと願わずにはいられない。
病院の外の世界が、わたし自身、決して生きたいとも、生きられるとも思えない世界であったとしても・・・













 



2019年11月2日

ヴィンテージ・フォト


"Wall Street," 1958. © Marvin E. Newman.American, born in 1927,

「ウォール街」1958年、マーヴィン・E・ニューマン







断想


主治医(精神科医)を替える必要がありそうだ。今の医者では埒が明かないということではない。物理的に、もうわたしがクリニックまで通えなくなっているからだ。
ここから最寄り駅まで歩いて約15分、電車で二駅、そこからまた徒歩10分ほどの距離が通えない。

それにわたしは「良くなる」「元気になる」「改善される」ということを望んでいない。
とうよりも、わたしにとって、今の時代「良くなる」「健康になる」という意味がわからない。親切で患者の話を聞いてくれる稀なドクターではあるが、患者本人が通えずに、母に薬を取りに行ってもらうことが増えている。これでは医者も困るだろう。

「良くなる」ということを目指していない以上・・・というよりも、「良くなりようがない」以上、通える範囲で、そこそこ人当たりのいい医者であれば構わないと思っている。




木村敏がまだ臨床医だったころ、彼の看ていた分裂病の患者が、「自分が他の人たちと同じ人間であるという実感がない」と言った。わたしもまったく同じ感覚を抱いている。

同じように、わたしはスマホを持っている人間が、自分と同じ人間であるとはどうしても思えない。もちろん「同じ人間」である必要はどこにもないのだが。しかしだとすれば、上述の患者や、「わたし」は一体「何モノか?」

「彼らが人間であるなら、わたしは人間ではない」
「わたしが人間であるなら、彼らは人間ではない」

とはいえ、わたしは別に自分が「人間」でなければならないとは少しも感じてはいないが・・・