2018年12月31日

あたたかくしてお過ごしください。


Dinah Shore & Buddy Clark - Baby Its Cold Outside 1949

ダイナ・ショアとバディー・クラークの「ベイビー・イッツ・コールド・アウトサイド」
「外は寒いよ」ー いろんなヴァージョンがあるけど、この二人の掛け合いが絶妙です。
もう帰らなくっちゃという彼女と、外は寒いよ、もう少し一緒に居ようと、あの手この手で懸命に引き止めようとする彼のコミカルなやり取りが微笑を誘います。




わたしの好きな写真たち



好きな写真家のひとり、何藩 - ファン・ホー(Fan Ho) ー 中国(1931 – 2016) の写し撮った古き良き香港です。

Sunset Return「家路」1960年

Back Alley 「裏通り」1955年

Little Grandma「小さなお婆さん」1958年

Her Study 「宿題?」1963年

In Daddy's Arms, 「父に抱かれて」1966年









「親子だから」


今年4月の東京新聞の『本音のコラム』の切り抜きがある。筆者は看護師の宮子あずささん。
タイトルは「親子だから」

◇

今日で四月が終わる。四月は両親の命日が続く。父が十五日、母が十七日。父の死から十八年。母の死からも六年が経った。月日を経ても、思い出が蘇る月である。
母がいよいよ動けなくなった時、世話をする私に母は「あっちゃんなんでそんなにやさしくしてくれるの」と聞くようになった。母が求めている答えはわかっていて、「好きだからだよ」と言ってほしいのだった。
しかし私は、どうしてもそれだけは言えず、「親子だから」と、にべもなく答えた。母はごく親しい人の名をあげ、「○○ちゃんは好きだから、って言ってくれた」。すごく不服そうだった。
すねた顔を思い出すたび、申し訳なかったなと思う。それでも答えは変わらない。なぜなら、どんなに気が合おうとも、私たちは親子。逃げ場のない関係を引き受け、ついたり離れたりしながら生きてきた。「好きだから」といってはその根本が嘘になってしまう。
私たちは皆たまたま誰かの子に生まれ、親子として生き始める。そんな偶然の関係なのに、逃れようがない。友人や配偶者など、選択を経ての関係とは、ここが決定的に違っている。
だから何回きかれても「親子だから」。今もそう答えると思う。元気な時には「親子は友達にはなれない」と言っていた母。むくれながらも、本当はわかっていたと思うことにする。

◇

これを読んだ時、わたしは「なんて冷たい人なんだ」と感じた。
当時この宮子さんの記事について母と話した。母は宮子さんのいうことが別に冷たいとは思わない、というようなことを言っていたように思うが、記憶が曖昧で定かではない。

「たまたま出来た関係」「逃れることのできない関係」親子の情愛など微塵も感じさせない口調。

世の中には、いくつものことなったタイプの人間がいて、そのひとつに「強い人」と「弱い人」があると思う。この場合の強さとは、あくまでも精神的な強靭さのことだ。
わたしは愛情・情愛の上に成り立っていないこのようなクールでドライな親子関係には到底耐えられない。

強い人間は自分自身の足で立つことができるけれども、わたしは抱き締めてくれる「愛情」を必要とするし、寄りかかることのできる「支え」を必要とする。更にいうなら、わたしは本能的に「強い人間」が怖い。
暴れて物を壊す精神障害者は怖くはないが、「自分の足で立っている人」、「しっかりしているひと」、たとえば精神科の看護師長である宮子さんのような人はわたしは苦手だし、「怖い」と感じてしまう。自分への「攻撃」でもないのに、その人が「しっかりした人」であるというだけで「こわい」と感じてしまうのはどういう理由からなのだろう。
さしあたって、何度も引用しているが、「健常であることの避けようのない暴力性」(辺見庸)ということだろうか。それとも彼ら / 彼女らの反論しようのない「正しさ」「真っ直ぐさ」「硬質さ」「冷静さ」そして自他に対する「厳しさ」・・・などへの生理的な拒否反応なのだろうか。わたしは映画『カッコーの巣の上で』の看護師長よりも宮子さんのほうがこわい(冷たい)と感じる。

宮子さんのこのような意見に対して、わたしは返す言葉を持たない。つまりあまりにも、あまりにも考え方が違いすぎるので、最早何も言うことがないのだ・・・


=追記=

あまりにも有名な言葉なので、ここに引くのも気が引けるが、レイモンド・チャンドラーの「人は強くなければ生きて行けない。やさしくなければ生きている資格がない」という言葉をふと思い出した。







2018年12月30日

許されざる者とは…


医師、「いのちの電話の相談員」「デイケアのスタッフ」・・・仕事以外でわたしの話しを聞いてくれる、わたしの話し相手になってくれる人は母だけだと思っていた。
けれども、母は、わたしや弟の話し相手になることも親としての仕事=勤め(責任)だと言った。
産んだ者の責任だと。

もちろん仕事や義務や責任感以外でわたしの話し相手になってくれるものなど居るはずはない。

「障害者は不幸しか生まない」という植松聖(辺見庸の『月』(未読)では「さとくん」)被告の言葉はわたしに関していいえば必ずしも間違いではない。
「身を鴻毛の軽きにおく」のではない。初めから鴻毛の如き身の上なのだ。

「障害者の生きる権利」はもとよりだが、もっともっと吟味されていい。

愛情と、生きる意志を持たない者の生の根拠とは何かを・・・

わたしは「さとくん」を単純に悪鬼と切って捨てることはできない・・・

母を愛しているから、生まれてきてゴメンネといいたい・・・








Mon Dieu


矢川澄子の『受胎告知』を少しづつ読んでいる。

中でも「湧きいづるモノたち」は彼女らしい観念的な短編小説で気に入っている。

わたしは映画でも小説でも、簡潔に粗筋を説明するということが出来ない。

だから今日も、自分のための抜き書きとして、「湧きいづるモノたち」から抜粋する。


◇


デュモンさんに片言の日本語で話しかけられたのは、ちょうどそんなときだった。
夕暮れの道で、見知らぬ巨漢がわたしに道をきいてきたとき、その返事がただの
I don't know.だけで終わらずに、いっしょにさがしてあげる、ということになり、それどころか進んでその人の傍らに行って手をとって歩き出したのだから、われながらどうかしている。こんなふうに心よりも体が先に立って動き出してくれたなんて、わたしとしてはめったにないことだったのだ。
あのときのわたしは、よっぽど大きさに飢えていたのだろう。父がなくなって、母がおかしくなって以来、わたしには依りどころがなくなってしまったということばかりではなかった。それ以上に、つい先刻まで話し込んでいた母の主治医の、人間的な卑小さが目交(まなか)いにちらついて、ほとんど反射的になにか大きなものを求めていたのだった。
人が信仰に走るというのは、おなじような心の空隙を感じたときなのだろう。わたしの場合求めていたものはただただ大きさであり、安らぎだった。デュモンさんの大きさたるや、傍らに寄り添って立つと小柄なわたしはちょうど彼のわきの下におさまってしまう寸法なのだ。「神のみつばさの下に」。どこかで習いおぼえたことばがふっと甦った。デュモンさんはそんなひとだった。少なくともわたしにとっては。


きくところによると、祖父自身は完全な人工栄養児で、母乳をほとんど吸ったことがなかったという。当時の銘柄品だったらしいが、もっぱら鷲印のコンデンスミルクのおかげでどうにか人並みに育ったとのことだった。
いまではあまり用いられなくなった和製英語にスキンシップということばがあるけれど、一頃あのことばをきくたびに、わたしは反射的に祖父のことを思い出してしまったものだ。母の胸に抱かれてその母乳を吸ったことのない子、それが祖父だった。あのひとがひどく観念的だったのは、もしかしてそんな生い立ちも関係しているのかもしれない、と、こちらは聞きかじりの心理学の知識で思ったものだ。
甘えを許さぬ環境。それが祖父の作った家だった。べたべた付きまとうのは恥ずべきこと、はしたないこととして最も忌み斥けられた。
母はしかし、そんな家風のなかで男の子並みに厳しく育てられながら、その後知り合った男である夫のいささか過剰な愛情表現が、かならずしもいやではなかったらしい。二年間の留学を終えた父の帰国を待っていざ結婚してみて、あちら仕込みの父の身ごなしにある戸惑いを覚えながらも、次第に馴れていったというのが実情ではなかろうか。
わたしの記憶にあるかぎり、母はなるほど人前では多少はにかみながらも、やはり父に肩を抱かれればうれしそうにしていた。
父が欠けたことによってわが家から失われたものは、じつにこれだったのだ。


今の母に欠けているのは父のHUGだ。わたしの素人考えでは、それさえあればすべては解決する。ただしそれは父のでなくてはならない。だれもその代わりはつとめられない。残された唯一の家族であるわたしがどう足掻いてみても、この欠落は埋められるわけがない。
(下線は原文傍点)


大聖堂の広場にて
岡の上の町ではほとんど真横から夕日が当る。
甃(いしだたみ)にデュモンさんの影が長く伸びている。
わたしはわざと、彼の影の中に立つ。
デュモンさんは大きいので、こちらはまるごとすっぽり、彼の影の中につつみこまれてしまう。
わたしはいまのところ、影のない女、なのだ。
春の日差しは弱々しく、夕暮れとともにうすら寒さがしのび寄ってきたので、わたしはコオトの襟を立てながら、思わず影を避け、少しでも日に当たれるように西日の中へ歩み出す。
影は二つになり、わたしはデュモンさんの腕にすがる。
風が立ちはじめている。


◇


この「湧きいづるモノたち」は作者の生前には発表されなかったようだ。
『受胎告知』が出版されたのは2002年11月。その年の5月に彼女は自死している。
「湧きいづるモノたち」の主人公である女性(娘)はデュモンさんという自分をHUGしてくれる相手を見つけることで生き延びることができた。
けれども、その母は、夫である男性のHUGによってしか救われることはない。

「母の心とからだをひらく鍵は、彼女にとっておそらく唯一の異性である父にのみ委ねられていたのだろう。それが墓場に持っていかれてしまったかぎり、もう母の常態に戻る日は二度とやってこないのだろうか。」

「あたしの目下思いつく唯一の解決策は、そりゃお父さんだけよ。お父さんが生きかえって、もとのようにしっかりHUGしてあげること。それしかないのよ。でもそんなこと、はじめから不可能にきまっているものね。」

彼女の母にとって、代替の効かない存在であった「夫」(とそのハグ)が失われたことは、そのまま、母の、少なくとも内面の、魂の死を意味する。

◇

何かとても大切なものが失われたのちも、尚生き永らえることができる人たちがわたしには不思議でならない。

何故、「〇〇の存在しない世界」に、尚彼らは生きているのか?
なにかが永遠に失われてしまったことで、最早自分自身も生きてゆくことができないという気持ちは、わたしにはまったく自然の感情としてよくわかる。

わたし自身、今、失われた東京の廃墟の上を歩くことができないでいる。
そして母の死はそのままわたしの命の終焉を意味する。

これはあくまでわたしの勝手な想像だが、この生前未発表作品では、矢川澄子自身が、実はデュモンさんという存在と巡り合うことによって生き延びることが出来た「娘」ではなく、かけがえのない存在を失い、自失している母に自身を投影していたのではなかったか。

矢川澄子の自死の原因をわたしは知らない。けれども、この短編は、なにかが(誰かが)喪われたことで生きることができなくなった人を描いているという点で、今のわたしの心の中に自然と流れ込んでくる。

デュモンさん、と聞くと、わたしは反射的にシャルル・デュモンというシャンソン歌手を思い出す。一番印象深いのは、ピアフと歌った、「モン・デュー」「わたしの神よ」という歌だ。

なだいなだ氏がパリ滞在中にピアフが死に、パリじゅうの人が嘆き、悲しむ姿を見たと書いている。そして彼女の死にショックをうけたジャン・コクトーがピアフの死の数時間後に亡くなったとも。








2018年12月29日

「日本人のこと」本日も反省の色ナシ


なだいなだの『パパのおくりもの』(1965年)の中に「日本人のこと」という一文がある。名文である。誰に紹介するのでもなく、自分のために書き記しておく。

◇

パパは日本人としてのお前たちの半分に(※なだいなだの妻はフランス人である)、一言だけ忠告をしておきたい。それは日本人の日本人に対する責任感である。
今ドイツで、戦争が終わって18年になるというのに、アウシュヴィッツで働いたドイツ人の裁判が行われ、その記事が毎日のように新聞にのっている。ドイツ人がドイツ人を裁いているのである。だが日本ではどうであったろう。戦争の反省を示すものとしては原水爆反対運動以外に何が見当るだろうか。戦争の罪の問題や意識はどこに行ってしまったのだろう。

今パリでは、「法皇」という題の芝居をやっている。これは戦争中、ピオ十二世が、ユダヤ人のナチによる虐殺の際に、それを知りながら、何故無言のままであったか、を問題にしている。無名の神父たちが、死を賭して、それに反抗していた事実もあるのに、法皇は最後まで、ドイツのカトリック教徒に対し、警告を発しなかった。ある者は、ピオ十二世が知らなかったと主張するし、沈黙には別の大きな理由があったのだとも言う。しかしパパは思う。ある地位にあっては、知らなかったこと、知ろうとしなかったことに責任を持たねばならぬ。ある地位がロボットを意味していることも確かにある。しかし、人間が自分の人間としての威厳に責任を持つ限り、ロボットになることを拒絶しなかった人間は、その責任を感じなければなるまい。

日本では戦後十数年して、戦争犯罪人として何年か巣鴨にいた人間が首相になった。
ドイツでは、最近も一人の大臣が、過去にナチに関係していた前歴があるというだけで、それが新聞にあばかれると、大臣をやめた。日本には、戦争の責任を知ろうとさえしない人間もいる。ここで戦争の責任というのは、外国に対する責任でない、自分自身、日本人自身に対する責任のことである。そして原子爆弾の責任のみを問題にする。原子爆弾も重大な問題ではある。しかし、自分自身の責任に厳しくなかった人間が、他人の責任の奥深くまでどうして立ち入ることができようか。戦争が終わった後、占領者が日本人を裁いたことがあっても、日本人はついに自分自身を裁こうとしなかった。他人の裁きが、どうして本人の良心に達し得ようか。罰は人間の肉体をくるしめても、心には達し得ない。
かくして、日本人は、被害者意識から抜け出し得ないのである。原水爆禁止運動が、この被害者意識の上に成り立ち、ある特定の国を非難するだけのものに終わり、人類の罪の意識の上に成り立たないのならば、それが世界的なもの、全人類的なものになることはないだろう。

日本人は戦争が終ると一億総懺悔と言った。実を言うとその時はもう、日本人は一億はいなかったのだけれども。そして、ざんげのあと、罪の意識はどこかへ行ってしまったようだ。ざんげ、罪の意識、その間に日本人の精神のすべての弱点がよこたわっていると言ったら、言いすぎであろうか。パパはお前たちに希望する。お前たち、半分が日本人であり、半分がフランス人であるもの、が、その間を埋めてほしいと。そうすることができたらパパは満足である。
(下線Takeo)
『なだいなだ全集第九巻』(1983年)


そしてこの文章が書かれて50年後、辺見庸は次のように記した。

九か国条約、パリ不戦条約をやぶって満州を侵略して中国大陸侵攻を一気に拡大、国際連盟から脱退、ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、「自存自衛」「大東亜の新秩序建設」のためと称して太平洋戦争に突っぱしり、おびただしい人びとを死にいたらしめた歴史を、すこしでも反省するどころか、南京大虐殺も従軍慰安婦の強制もなかった、極東軍事裁判はまちがいと否定するこの男の言のいったいどこを、信じるのか。
東条英機内閣の商工大臣や軍需次官をつとめ、戦犯被疑者として巣鴨拘置所に入所した岸信介の外孫は、ただいま戦争の亡霊を墓場からひきずりだすのにいそがしく、憲法9条を完全に破壊して日本を軍事強国化しようとしている。
[2015年2月9日付けブログより]




2018年12月28日

「今年よかったこと…」


わたしがこの1年間フォローしてきたブログのひとつに「こうストーリーズ」という、おそらくわたしと似たり寄ったりの年齢の女性の日記がある。

彼女の最近の二つの記事と、今の自分の気持ちを重ね合わせてみる。

◇

2018年 12月 16日

今年のいいことって言ったって。


「今年のよいこと」というのが次回のエッセイ教室のお題である。

そんなことを言ったって・・・と思う。

娘が結婚した、子供が大学に合格した、孫が生まれた、ect.の出来事を書けというのだろうか。

わたしのいいことは、すべてが淡々と過ぎていったこと。
それだけ。

道端の草花や木々や、空に浮かぶ雲や、通り過ぎた赤んぼの髪の毛とか・・・。

そんなものにほっとするのが、また、ほっとする。

どうなるのかな、さっぱりわからない。



2018年 12月 22日

たぶん今年は。


やはり、今年はなにもなかったと。
どん底気分が続くことはなく
過去のことに思いが拘泥することもなく
先のことにやたら不安がることもなく

つまり、より、今のことに気持ちが向くようになったこと。

それが一番のことではなかったか・・・。

エッセイ教室の「今年のよかったこと」は
それになるのではないかと思う。


◇


「今年よかったこと」・・・先日デイケアの体験参加の折に、スタッフが参加者に同じことを訊いていた。わたしは答えられなかった。

「自分が幸せではないと感じている者は、今免れている不幸を思ってみればいい」
たしかシオランがこんなことを言っていた。

わたしにとっての「幸福」や「よかったこと」は、まさにこの言葉の通りで、「いま免れている不幸」の上にしかない。
だから、今年は(も)なにもなかったということが、とりもなおさず、しあわせなのだ。

過去の事、そう。わたしは過去の事ばかり考えている。
過ぎ去った歳月が「いくつもの不幸を免れている」という意味以上の積極的な幸福を持っていたと言い切れる自信はないが、それでもやはり、確かに今よりもわたしは生きていた。

先のことは全く考えない。意識的に考えないようにしているのではなく、いまのわたしには過去と現在しかないのだ。
そのせいだろうか、もう何年もカレンダーというものを買っていない。

こうさんのように、今目の前に映し出されている
「道端の草花や木々や、空に浮かぶ雲や、通り過ぎた赤んぼの髪の毛」にほっとする、ということもない。外界はただわたしを消耗させる。そしてなによりもわたしが愛でることのできるものが、まだこの世界に残っていると思うことができない。

わたしにとって世界は「きらびやかな廃墟」だ。