2018年12月12日
2018年12月11日
不通状態…
パソコンの調子が悪い。
音声チャットで、何日も深夜にあれこれと原因究明と復旧に協力してくれて、これ以上はわからないという状態になった時、「よき友人」が最後に言った言葉
「壊れたらくれない?直して使えるかもしれないから」
ふたつさんはCD-Rを送りましょうかと言ってくれた。横浜から。
品川区の「友人」は都心に多くある100円ローソンのイヤフォンが、値段の割には聴けるといい。
「近くなら持って行ってあげるのに」
精神病院の「デイケア」参加が認められた。そのことを昨日電話で担当者が伝えてくれた。意外だった。担当者は今後の手続き等の要件を言い終わると、1秒もおかずに電話を切った。そのことが「デイケア」参加の喜びを相殺し、彼女の惜しんだ3秒が、傷跡として残った。
いくつかの大手電機メーカーに電話を掛ける。担当部署に繋がるまでに延々と流れる「音声ガイダンス」が神経を逆撫でする。指示された番号を何度か押し、やっと人間に辿りついたかと思ったら、相手の女性が人間かどうかわからない。AIなのか?と思う。大手電機メーカーなのだからあり得ないことではない。不自然な滑らかさが癇に障る。
世界と友好的に繋がることができない・・・
遠くディオゲネスの孤独を想う・・・
40度の酒と、Bluesを友に・・・いや、縋りつくようになった・・・
お報せ
わたしの心身の状態に比例して、ここ数カ月、このパソコンの状態も悪化しつつあります。
最近はほぼ1時間に2度くらいの割合で、強制終了しなければならない状態です。
わたしのインターネット歴はウィンドウズ95の頃からですので、ほぼ20年になります。けれども、設定・修理その他は全て高校時代からの友人にお任せです。
わたし自身はアップロードとダウンロード、ファイルとフォルダーの違いもよくわかりません。
今現在はだましだまし使っていますが、いつ使えなくなるかわからない状態です。
もしこれが使えなくなれば、普通は、修理か、あらたなパソコンの購入ということになるのでしょうが、いずれにしても、真っ更な状態です。このPCに入っている膨大な情報をどうするか?それを一時保存するハードディスクを買いに行くことはわたしにはできません。また仮に、パソコンも、データ保存のためのHDなども、全てネットで買ったとしても、今は、それこそゼロから現在の状態まで復元させるために、品川区に住む友人を府中まで呼ぶことはできません。
確かに過去、大田区に居た頃から、何度も彼に来てもらい、一日仕事で復旧してもらったこともあります。けれども、今は外に出られないのと同様に、仮に古くからの友人であっても、6時間7時間と、同じ部屋にいることができません。
ご存知のようにわたしは携帯電話も持っていません。ですから、このパソコンが使えなくなれば外界との接点が消えることになります。
またテレビも視ない、最近は本も読めず、映画を観る気にもならないので、起きている時間はすべてインターネットの時間でしたが、それも無くなれば、起きていてもやることが無いので、文字通り、一日中寝ている状態になるでしょう。
このパソコンが使える間だけ、みなさんと、そして外界と繋がっていることができます。
いつ完全に使えなくなるか、予断をゆるしません。
現在の状態で使っているのもかなりなストレスですが、そのような状態であるということを一応お伝えしておきます。
2018年12月10日
「未来の人間」について、優介さんへ
先日紹介した「牛乳拭いた雑巾臭いブログ」の中に、またちょっと興味を唆られる記事を発見したので、再びそれについての感想を。
以下優介さんのブログより全文引用
◇
SF脳持ってません
文明化や機械化が生理的に受け付けない、という人はけっこういるけど
僕はどっちかというと、機械のナチュラル化の方が受け付けない
人工は洗練されれば自然に近づく
異質だったはずのテクノロジーは徐々に世界に馴染み、自然との境目がなくなっていく
でも人工の持つ不自然な美しさが僕は好きなんだ
僕は”電脳”にロマンを抱いていた世代です
マトリックスとか攻殻機動隊みたいな(どっちもちゃんと見てない)サイバーゴスぅな世界観に憧れました
その気持ちがまだ残っているので、今でも夢のアイテムを手にしちゃったという気持ちで携帯をパカパカしています
小学生の頃、街でiMacのでっかいポスターを見た時に感じた近未来へのトキメキ
21世紀は超未来!SFが現実に!みたいなあの期待感は一体なんだったの?
電話線に繋がなくてもネットが出来るようになったら、もっとSci-fiに生きられるのかと思ってなかった?
20年前より今の方が、当然ハイテクなはずなのに、ちっともあの頃思い描いたスタイリッシュ未来になっていない
目に埋め込まれた記録装置がキュイーン…みたいなそういうやつ(馬鹿なりの精一杯の表現)
背中にいっぱいコード繋いだりとか…
コードない今の方が進んでるんだけど、そういうことじゃないんだよ
技術の面で言えば、スマホの顔認証はかなりスタイリッシュ未来だと思います
こういうの、確かに昔アニメで観ました
でも、外人の可愛い姉ちゃんの健全で親しみやすいCM見てると、何か違うんだよな~~~~
こういう時は普通、スキャナーから緑色の光出すよね!?
スタイリッシュは人間にとって不便なんだよね
真四角の方がスタイリッシュサイバーだけど、角がとがって危ないので、結局丸っこくなっていく
蛍光グリーンは目に痛いし、ピタピタした全身スーツは着心地が悪い
夢見ていたのは、技術の進歩ではなく、みっともない生活感の排除だった
外人の姉ちゃんがカメラの前ではしゃいで見せるような、嘘くさいヒューマニズムが淘汰され、誰に対してもにこりともしない無機質が反映することを望んでいた
21世紀になって、僕が言い表せないようなすごいことが色々可能になっても、生活感の中に技術があるだけだった
どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない
スタイリッシュ未来を乗りこなせるのは、スタイリッシュな人間だけ
キアヌ・リーブスのためだけに世界はデザインされない
いくらキアヌが金持ってても、残り60億のキアヌじゃない方にビジネスが寄せられていくのは当りまえだ
インテリアに調和するけど何なのかよくわからない製品より、生活感とわかりやすさを兼ね備えた小林製薬を買っちゃうんだ
人類がキアヌにならない限り、世界はマトリックスにならないんだな
やっぱキアヌすげーわ
◇ ◇
こんばんは、優介さん。
また投稿を元に、勝手な意見を述べさせてください。
Y:文明化や機械化が生理的に受け付けない、という人はけっこういるけど
T:そうでしょうか?そういう人をどこで見ましたか?
またそういうつぶやきをどこかで聞いたことがありますか?
わたしは(一部の高齢者を除き)誰もが何の抵抗もなく、機械化・文明化を受け容れているように思えます。
Y:人工は洗練されれば自然に近づく
T:ん?洗練されると益々人工的になるんじゃないですか?
だって、「洗練する」ということ自体が「作為」です。
「廃墟」は「洗練されなくなった」から、より自然に近づいているんじゃないでしょうか?
Y:異質だったはずのテクノロジーは徐々に世界に馴染み、自然との境目がなくなっていく
T:わたしの目にはやっぱり異質だし、機械だし、無機的です。世界とは馴染んでいるけど、所詮人工的な無機物と自然は相容れないと思います。
Y:人工の持つ不自然な美しさが僕は好きなんだ
T:これは優介さんの美意識だし、「自然」と、アーティフィシャルな「不自然」とが厳然と区別されているので、わかりやすい。
Y:小学生の頃、街でiMacのでっかいポスターを見た時に感じた近未来へのトキメキ
21世紀は超未来!SFが現実に!みたいなあの期待感は一体なんだったの?電話線に繋がなくてもネットが出来るようになったら、もっとSci-fiに生きられるのかと思ってなかった?
T:これは世代の差というよりも、個人の美意識=何に美を感じるかの違いでしょうが、
わたしは「未来世界」に憧れを持ったことがありません。優介さんとは逆に、なんとなく、「機械っぽい雰囲気」に抵抗があったのです。
(Sci-fiってなんですか?)
Y:目に埋め込まれた記録装置がキュイーン…みたいなそういうやつ(馬鹿なりの精一杯の表現)
背中にいっぱいコード繋いだりとか…コードない今の方が進んでるんだけど、そういうことじゃないんだよ
T:わたしはSFXというのか、CGというのかよくわからないけど、スピルバーグ監督の『マイノリティー・リポート』という映画を観た時に、何とも言えない違和感・不快感を感じました。ひどく安っぽくて、チャチで。それだけじゃなく、全体を覆う未来のイメージというものが、ちょうど『ロスト・イン・トランスレーション』を見た時に感じた生理的な嫌悪感と非常に近かった。この二つの映画は、わたしがこれまで見てきた映画の中でも最も「グロテスク」な映画でした。
Y:技術の面で言えば、スマホの顔認証はかなりスタイリッシュ未来だと思います
こういうの、確かに昔アニメで観ましたでも、外人の可愛い姉ちゃんの健全で親しみやすいCM見てると、何か違うんだよな~~~~
こういう時は普通、スキャナーから緑色の光出すよね!?
T:これはわかります。機械はあくまでも生体にとって「異質」なモノ、冷たい無機物であって、人間と馴れ親しむモノではないはず。機械はペットでもなければ友達でもない。あくまで「マテリアル」=「モノ」「血の通っていない物質・道具」以外のなにものでもありません。
Y:夢見ていたのは、技術の進歩ではなく、みっともない生活感の排除だった
外人の姉ちゃんがカメラの前ではしゃいで見せるような、嘘くさいヒューマニズムが淘汰され、誰に対してもにこりともしない無機質が反映することを望んでいた
T:全く正反対のようだけど、わたしは優介さんの「求め方」のほうに自然さを感じます。
ただ、人間が生きるということ自体、避けようもなくみっともないことだと思っています。
そしてそのみっともなさの裡にこそ、尊厳や美が潜んでいるのだと。
「機械(道具)」と人間が相親しみ、融和して生活していた時代が、つい一昔前まであったのです。けれども、現代はそのようであるべきではない。あくまでも温もりを排した冷たい関係=相互にディタッチメントなスタンスが、デジタルと人間の生体の関係としては相応しい。それによって、人間から温もりが次第に失われてゆくことは避けられないとしても、それを選んだのは彼ら自身です・・・
Y:21世紀になって、僕が言い表せないようなすごいことが色々可能になっても、生活感の中に技術があるだけだった
どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない
T:「生活感の中に技術があるだけ」
「どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない」・・・
「どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない」・・・
この辺りが、わたしとの感じ方の違いのようです。
わたしは電車の中で、街中で、スマートフォンやタブレットに見入っている人たちを、そもそも「人間」であるとは思えないのです。(これは「人間以下」といったニュアンスではなく、「生物・動物」としての「人間」という意味です)
彼ら / 彼女ら一人一人がそれぞれまた「端末」であって、その背後に、優介さんの言う「みっともない生活」や「キッチンで牛乳パックを乾かしている時間」つまり「人間の時間」或いは「生体としての人間の姿に戻る時間」が広がっているとは、どうしても思えない。ましてや「牛乳をこぼして雑巾で拭いている姿」など、到底想像もできないのです・・・
彼ら / 彼女ら一人一人がそれぞれまた「端末」であって、その背後に、優介さんの言う「みっともない生活」や「キッチンで牛乳パックを乾かしている時間」つまり「人間の時間」或いは「生体としての人間の姿に戻る時間」が広がっているとは、どうしても思えない。ましてや「牛乳をこぼして雑巾で拭いている姿」など、到底想像もできないのです・・・
優介さんの目とは逆に、わたしは今や人びとは「生活感」や「みっともなさ」「みすぼらしさ」からほぼ脱したように思えるのです・・・
この投稿に関して、わたしと優介さんの決定的な差は、未だ人間は、「みっともない生活臭」を纏っていると見る優介さんと、すでに「人間らしい生活感を脱し、自然とではなく、デジタル機器と、無機物と共生するようになり、自らも進んで無機物になった人間の姿」を見るわたしとの相違でしょうか。
わたしは自他ともに認める狂人です。けれども、生身の人間だからこそ狂えるのだと思っています。「彼ら」は、狂えない・・・
わたしは自他ともに認める狂人です。けれども、生身の人間だからこそ狂えるのだと思っています。「彼ら」は、狂えない・・・
今回もとても興味深い投稿でした。このような優介さんの文章に接するたびに、学歴の無意味さを感じます。
2018年12月8日
ターニング・ポイント、または「性格とは運命である」
今日はなんだか、わたしの生涯のひとつの分岐点になるような気がする。
母に付き添ってもらって、最寄駅からふた駅、そこから歩いて10分ほどのクリニックに行ってきた。
今日の受診前に、ここ数日間、せめて過去1週間分くらいのブログ(コメント含む)を読んでおいて欲しいと主治医に伝えていた。
先ず、「ここ」でのやりとりについて、医師は「それぞれの言い分はわかる」としながらも、「普通の人はここまでやらない。途中で止めるだろう」=「長々と議論しない」という感想を漏らした。それはつい先日「いのちの電話」で、相談員がわたしと話していて、「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う」「理屈か屁理屈か、屁理屈なのか理屈なのか?」「単純に真っ直ぐなモノを無理に捻じ曲げ捻じ曲げて・・・」云々と評したのと通じる。
青梗菜さんにとっては甚だ迷惑な話だろう。深くお詫びします。
しかしこれに関しては、わたしはQ&Aサイトの「哲学カテゴリー」で、議論好きが、それこそ「ああ言えばこう言う」というやりとりを延々と繰り返しているのを知っているので、ある事柄について、ある主張や意見について、どこまでも掘り下げていくのが好きか、適当なところで終わらせるか、結局は「趣味の問題」(そして「時間の問題」「暇の問題」)であると思っている。
ただ、これはわたしの主観的な印象に過ぎないと断っておくが、主治医自身は、「いのちの電話」の相談員と同じように、こういうタイプの人間は、どちらかというと苦手・性に合わないと感じているという印象を受けた。「こういうタイプの人間」・・・つまり彼の目の前にいるわたしのようなタイプである。
そしてこれも主治医にとっては全くの誤解であり極めて不本意であると思われるかもしれないが、今日のやり取りで、わたしのような人間は、どちらかといえば人から敬遠されるタイプであると言っていたように、わたしには聞えた。
自分が人から好かれない人間であることは、今更誰に指摘されるまでもなく、当人が最もよく認識している。けれども改めて、長くわたしを診てきた主治医から「敬遠されるタイプ」と、念押しされると、流石に落ち込む。それが単に一医師の意見ではなく、おおよそその通りであることは理解していても・・・
しかし繰り返すが、これらのやり取りでのわたしの印象・感想は、あくまでわたしの偏見を通した主観的なものであって、決して「医師がそう言っていた!」というのではないということを改めて確認しておく。
◇
さて、どちらかというとこちらが本題なのだが、
一連の「スマホ問題」について、コメントを寄せてくれた人たちが口々に、「なぜそこまで「スマホ」にこだわるのか?」「嫌いなら無視すればいいじゃないか?」と言い、外界と内面の区別だとか境界線などと言っているのがわたしには全く理解できなかったが、そのことを伝えると、「ふつうの人は、外界の情報を全て取り込んでいるのではなく、無意識に取捨選択しているんです」「嫌いなものは無視。これは心理学でいう「フィルタリング効果」といって、殆どの人はそれが見えていても、内面まで取り込まないようなフィルターを持っています」「ごく稀に、特に発達障害などを持っている人に、外界の情報を全て自分の内面に取り込んでしまう人がいますが・・・」
という説明をしてくれた。
外界と自己の境い目とか、嫌いなものは見なければいいという意味がまったく理解できないどころか、「嫌い=無視」なんてことがそんなに都合よくできりゃ苦労しないよと、反撥さえ覚えていたが、医師によると、殆どの人はそれが当たり前にできるのだと。わたしのように、目の前でスマホをいじっている人々の姿=醜悪さが濁流のように自己の内面まで浸水してくるということはないのだと。
つまりわたしは、ほとんどの人が当たり前に備えている自己防衛機能を持たずに生まれてきた。嫌なものから自分を防御する扉を、楯を、壁を持っていない人間なのだ。
であれば、嫌いなモノのイメージは怒涛の如くわたしの「内側に」押し寄せてくる。防ぐものがないのだから。
わたしが何故嫌いなものにそれほどまでに拘るのか、無視できないのかのメカニズムが解明されたような気がした。
無論これはあくまで主治医の判断であり、実際にレントゲンで調べて、「なるほど。確かにありませんね」「いや、小さいけれどもあることはありますよ」と言えるものではないのだが、この説明はわたしには合理的に思えた。
先に紹介した、わたしの過去の投稿に書いたこととも符合する
『「田舎者」と「都会人」、あるコラムをめぐって』
わたしはこの診断は、ほぼ正しいと思っている。
前に、ある統合失調症の女性のブログで言われた、「Takeoさんて嫌いなものがすごく沢山あるんですね」という言葉の意味も、今はわかる気がする。
これは先天的な障害で、生涯治ることはない。つまりわたしのスマホ=外界嫌悪も・・・
「人から避けられるタイプ」「嫌なものをシャットアウトする機能を持っていない」
ひとに好かれず、また、柵もフェンスもない無防備故、キライなものたちは、自由にわたしの内面に侵入してくる・・・
その上で、尚。尚。生き続ける意味とは?
つまり、苦しみ続ける意味とは・・・?
ー追記ー
この投稿でご迷惑をお掛けした方々。わたしの主治医、そして青梗菜さんはじめコメントをくださったみなさまに改めて深くお詫び致します。
しかし同時に、もう誰に嫌われようが同じことという気持ちもあるのです。ご理解いただければ幸いです。
きみはぼくの死だった──
きみをぼくはひきとめておくことができた
すべてがぼくから脱落したときも。
ー パウル・ツェラン「きみは」『パウル・ツェラン詩集』 飯吉光夫訳より(1975年)
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