2018年9月2日

四角じゃないよ、アートだけじゃないよ!


先日、6月で閉店した青山ブックセンターの閉店セールについて書きました。
洋書ビジュアル本がオール500円、そしてペーパーバックは全て200円均一だったと。
わたしはヴィンテージのイラストにも、滅法目がないんですよ。
特にいわゆる「パルプ・フィクション」のイラストには(笑)

200円。ポストカード1枚でも150円はします。
洋書ですから、中身は読めなくても、ものによってはカバーだけでも充分手に入れる価値はあると思います。
手に入れてどうする?もちろん表紙だけ切り取って額装するんです。4枚くらいのコラージュにして。

所謂日本のアート好きって、どうも純粋芸術ーFine Artにばかり目を向けていて、パルプのカバー、ましてエロティク・イラストレーションなどは、「アート」の範疇には入れてもらえないような気がします。別に「アート」であろうとなかろうとどうでもいいんです。好きなんだから。

前回は600円の写真集や画集を買いそびれた、買わ(え)ないまでも、どのような本が安くなっていたのかを見損なったことでくよくよしていましたが、今は、ひょっとしたらわたし好みのペーパーバック・カバーを見つけることが出来たかも!と、くよくよしています。

例えば、有名なところでは、ロバート・マッギニスのカバー・イラスト。





ウィリアム・アイリッシュの作品のカバーを描いたビル・フレミング。これは1941年の作品です。



2007年から約4年間やっていたMyspace(マイスペース)という、当時世界最大のSNSでは、わたしのこの手のヴィンテージ&エロティック・イラストレーションのポストは、男性女性関係なく人気でした。やはり当時も「フレンズ」は外国の人たちばかりでしたけれど。
こういうポストも、ちょっと間違うと削除されたり、あるアメリカの友人は、もうしょっちゅうアカウントを消されていました。

わたしも英語を満足に話せないし、ロシアやイタリア、スペインなど、ヨーロッパの人たちも、みな流暢に英語を話せるわけではない。それでも同じインターネットでも、「日本人ばかり」のグループよりもずっと自由闊達な雰囲気で楽しかったですね。

当時知り合った20代の帰国子女は、ディータ・フォン・ティースというアメリカのセクシュアル・アイコンが好きだと言っていました。もっとも、帰国子女はみなそんな感じかというとそうではなく、育ちが良くて、美しいものだけが好きで、「ブルース」も「カントリー&ウェスタン」も好きじゃないと嘯いていた美女もいました。理由は「泥臭い(土臭い)」から。
だから前者には上のような絵を送るし、深窓の令嬢には、アカデミックな(?)「アート」を送るわけです。

双方から言われたのは、「Takeo さんはひどく変わっていて扱いにくいけど、センスは認める」
何故そんなことを言われたかというと、例によって二人と仲たがいして「フレンド」を解消してしまうことになったからです。
二人の美女にセンスを認められたことは嬉しいけれど、やはり何処へいっても性格の問題はついて回るのか、あるいはどこまでも日本人とは相性が悪いのか・・・



映画『パルプ・フィクション』で、ユマ・サーマンが、トラボルタにいう
" Don't be a square" = 「あんまりマジメにならないでね!」というシーンが印象的です。(スクエアー=四角四面。江戸っ子なら「マッチカク」と言うんでしょうね)


E.L.O. エレクトリック・ライト・オーケストラ『ターン・トゥ・ストーン』


Via  1 . 2 . 3





2018年9月1日

「しないでいることができる人」


こんにち、「~できる」こと(ひと)よりも、「しない」でいることの方が、遥かに困難であり、同時に貴い。
つけくわえるなら、「どのような人間であるか?」よりも「どのような人間ではないか?」に、より興味を惹かれる。




2018年8月31日

サビシイデスネ…


もしあなたがブログを書いているとしたら、こんな風に感じたことはないだろうか、
自分の言っていることはちょっとおかしいんじゃないか?どこか変なんじゃないか?

何故こんなことを訊くかというと、わたし自身、音楽やアートについて書いているとき以外、「そもそも人間が理解可能なことを書いているのだろうか?」という気持ちを、しばしば持つからです。

数人いるかいないかの訪問者たちも、実際は「狂者のうわ言」としか思っていないのではないか?
だって現に書いている本人が、「狂人のうわ言だな・・・」と感じているのだから。



わたしがフォローしている、Kさんという同世代の女性は、わたしと、もう一人の、少し年上の女性が、月に1度ほどコメントを残すくらいですが、そんなことをまるで気にしている様子もなく、じつに淡々と、自分の気持ちをほぼ毎日、ブログに綴っています。

彼女は、「何処かにいる誰かのこころに届いているのではないかと思って書いています」と。



嘗てリルケは書きました

誰が私に言えるだろう、私の命がどこまで届くのかを

けれどもわたしは知っています。わたしの声は決して誰の心にも届くことはないということを。


This is my letter to the world

That never wrote to me
「これはわたしの、世界に宛てた手紙です 

決して返事の来ることのない」

ー エミリー・ディキンソン




「形而下の健康」と「形而上学的健康」…


8月最後の日。今日も暑い。
先日、市の保健師と話したときに、「ではTakeoさんは、いまのドクターでは、或いは別の医者にかかっても、どうせ治りっこないと感じたから通院を止められたのですね?」と訊かれた。
そう訊かれるまでは、わたしもそのように考えていた。
精神科通院歴25年。現在の主治医との付き合いは約8年(?)それでもわたしの、所謂「生き辛さ」は改善・軽快するどころか、ここ数年は目に見えて悪化している。

しかし、わたしはほんとうに「よくならないから」医者に通うことを止めたのか、と考えてみると、実はそうではないのかもしれない。

このことは最近繰り返し書いているけれど、
「よくならないから」ではなく、「よくなりたいのか?」が解らなくなっている。
「よくなる」「元気になる」「外に出られるようになる」ということが、いったいわたしにとって、どういう意味を持つのかが、わからない。

今のような状態になったのは、2008年、ちょうど今から10年前に、生涯に唯一持った親友を失って以降のことだ。同時に、この10年間でわたしを取り巻く世界は文字通り激変した。

失われた友も、過ぎ去った歳月も、再び取り戻すことができない以上、「よくなること」「元気になること」が可能とは思えない。「再び」よくなることとは、わたしにとって「元通りになること」と同義だ。つまり「過去の再現」である。しかしいったい誰がそれを可能と考えるだろう。

これも繰り言のようになるが、「戦場での健康」刑務所や動物園での、「檻の中での健康」という概念は、わたしには存在しない。
そしてわたしにとって21世の世界、或いは日本は、正に「戦場」であり「格子なき牢獄」に他ならない。

健康とは、自己をとりまく世界・環境との友好的な「調和」であり「融和」だと考えている。そして「苦しみ」の原因は、自己と世界の美意識の不一致である。

外から電話を掛けることさえ一苦労な不便な世界。
腕時計を持たなければ街中に時計ひとつない不細工な世界は不愉快だ。

もし「現金」を使えない場所が増えるようなことになれば、わたしの世界はますます狭まってゆく。
極論すれば、「電子マネー」を使わなければ食料品が買えないとなれば、わたしは餓死することも厭わないだろう。
「スイカ」や「パスモ」などを使わなければ乗り物には乗れないというのなら、わたしは何処へも行かないだろう。友人の葬儀にさえ。(友人がいればだが・・・)

21世紀は人類が初めて体験するデジタルの世界。だからすべての人間が、ただ一人の例外もなく、また何の抵抗もなく、こんにちのデジタルワールドに溶け込むことができるとでも思っているのだろうか。

わたしは薬を含めたいかなる方法によってであろうと、自分の感受性、美意識を「変革」するつもりはない。

先日のニーチェの言葉を繰り返す。

「それがいい趣味だからでも、悪い趣味だからでもない。これが「わたしの」趣味なのだ。だからわたしはそれを恥じることも隠そうともしない」

9月・・・涼しくなるにはまだ一月はかかるだろう。仮にそれが年々短くなってはいても、まだ「秋のようなもの」は残ってる。けれどもわたしが失ったものは二度と再び巡っては来ない。そしていずれはまた、秋さえも。






2018年8月30日

好きな音


先に「好きなもの」リストを挙げたけど、もうひとつ。

石畳の舗道に響く馬の蹄の音・・・





Horse And Cart, Paris, 1949, Robert Frank.

ロバート・フランク「馬と荷台、パリ」(1949年)


あ!思い出した、スコット・ラファロ。ビル・エヴァンス・トリオのベーシスト!



2018年8月29日

答えを知る意味


たとえばわたし(T)と友だち(F)が、或る日の昼下がり、喫茶店で向き合ってしゃべっている。

わたしがいう「ぼくはビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』とコルトレーンの『バラード』でジャズに目覚めたんだけど、ビル・エヴァンス・トリオってさ、ビル・エヴァンスと、ポール・モチアンと、もうひとり誰だっけ?」

F:「え?よく憶えてないな。誰だったっけ?」

T:「ポール・モチアンって、ドラムだっけ、ベースだっけ?」

F:「ドラムじゃなかたっけ?」

T:「ううん。あとひとり、誰だったけかなあ・・・」

F:「うん。なんかね、思い出せそうで思い出せないよね」

と、ここで、友人が、スマホを取り出して「検索」する必要はまるで感じないのだ。
別に3人目が誰であったかを思い出さなければならない理由はない。
というよりも、そこで、その場で、「サクサクとケンサク」して「答え」を知ってしまうことがひどく不粋に思えるのだ。

わからないまま二人はわかれる、帰り際、ふと第三の男の名前が閃く。
帰ってから夜、彼に電話する。「あれから歩いててふと思い出したんだよ。誰々だよ!」
「あ!そうか」

こんな感じがいい。別れた後、駅までの道を歩きながら思い出しても、その場でスマホを取り出して、まだ帰路にあるだろう友達に報せる必要もない。

解らないことがある、忘れてしまった名前がある。
いつでもどこでもその知らなかったこと、忘れてしまった名を教えてくれる機械というものが存在する世界、そのことがとてつもなくグロテスクなものにおもえる。
道がわからなくて通りすがりの誰かに尋ねる必要もない。そんな世界がとても味気なく・・・いや、不気味にさえ感じられるのだ。

「なんだったっけ?」「誰だったっけ?」と、ひとりで、或いは誰かと、じれったい気持ちを抱えて悶々としてるのって、そう悪くないじゃないか。
さんざ道を間違えて、やっと目的地にたどり着いた時に思わず浮かぶ笑みって、そう悪くないじゃないか。

そんなことを考えているから、わたしはただ一人時代に取り残されているのだろう。






2018年8月28日

暢気な人


前にツイッターの文学系投稿を時々のぞいていたときに気になっていた人がいた。
編集者・ブックデザイナーという肩書を持つ女性で、やはり「ブロガー」でブログを書いている。

心の重さに反比例して、ツイッターという表現形式が持つ「言葉の耐えられない軽さ」に忌避感が募り、しばらくツイッターから遠ざかっている。(もともとわたしはツイッターのアカウントを持っていない)

久し振りにその人のブログに立ち寄ってみた。

8月15日の投稿を引用する。


pha『しないことリスト』を読んだ。いい本だった。

「だるさというのは大事な感覚だ。だるさを単なる怠惰な気持ちとして無視するんじゃなくて、もっとだるさに敏感になったほうがいい。╱だるさを感じるときは、「体調が悪い」とか「精神状態が悪い」とか「今やっていることがあまり好きじゃない」とか、そうした漠然とした現状への違和感が身体や気分のだるさとして表れているのだ。」

「「仕事というのは、イヤなつらいことを歯を食いしばって、ひたすら耐えてがんばってこそ成果を残せるのだ!」みたいなことを言う人がたまいいるけど、そんな変な話はないだろうと思う。╱人生はそんなマゾゲーじゃない。」

「死にたい気分のときは、ケータイやパソコンの電源を切って、好きなものを食べまくって、部屋に籠もってひたすら寝よう。╱他人のことや社会のことや、責任とか義務とかは何も考えなくていいから、一切のイヤなことや面倒なことを投げ捨てて、つらくないことだけして過ごそう。ひたすら時間をムダに使おう。」

 やさしい人だなあ、と感じた。いつか、ものすごく疲れたりつらくなったりしてどうにもならなくなったときに、読み返そうと思う。


これを読んだ時、先ず、「へえ、あの人が、phaなんて人の本を読むのか」と、意外な感じを受けた。(「phaなんて人」といったけれど、そもそもわたしはこの人がどういう人か、ほとんど知らない。ただ、いわゆる「自己啓発本」の類をたくさん書いている、ということくらいしか)

そして上に引用した文章について、

「やさしい人だなあ、と感じた。いつか、ものすごく疲れたりつらくなったりしてどうにもならなくなったときに、読み返そうと思う。」という感想を漏らしていることに、少なからぬ幻滅を覚えた。

結局この「著者」も、「読者」も、「心を病んではいない」或いは「心を病んだことがない」のだなぁという感想しか持つことができなかった。
しかし、いくら断片的な引用でしかないとしても、少しお粗末すぎやしないか・・・

わたしには話し相手がいないので、最近は時々「いのちの電話」に電話をかけて「雑談」・・・とまではいかないが、精神科医や保健師等、所謂医療・福祉関係者との間で交わされる「病気」に関連することだけではない「話し」をしている。

上の思考レベルでは「いのちの電話」の相談員にはなれまい。「死にたい気持ち」になっている人たちが電話をかけてくる場所には、相応しくない。なぜって、「部屋に籠もってひたすら寝る」ことしかできないから死にたくなっているのだから。「ひたすら時間を無駄に使っていること」=「なにもできないこと」が辛くて仕方がない人たちが手を差し伸べているのだから。

それにしても、どうして京大とか東大卒というひとって(わたしの知る限り)こうも凡庸で深みのない人ばかりなのだろう。そもそも「深く思惟する」ことと、(日本の学校で)「勉強ができる」という二つの現象が、根本的に相反することなのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。