2018年4月29日

パンの味


あのころはパンはパンの味がした。葡萄酒は葡萄酒の味がした。
そして哀しみにはときにはまだ笑いの味があった。

              ー ジャック・プレヴェール


これは1954年に、1905年に亡くなった作家、アルフォンス・アレーの生誕百年を記念して催された集会で、プレヴェールがアレーに捧げた詩の一節です。

写真はエリオット・アーウィットの撮ったフランス、プロヴァンス。プレヴェールが、「あの頃はパンはパンの味がした」と詠んだ翌年、1955年の写真です。

おそらく近所の村から、朝の食卓に乗せられるパンを買いにおそろいのベレー帽をかぶって町まで自転車で出かけていった親子の帰り道でしょう。

当時詩人が毎日、パンの味のしないパンを齧り、水のようなワインを飲んでいたはずはありません。そんなもので胃袋を満たしながら『天井桟敷の人々』や「枯れ葉」のような詩(詞)が書けるはずがありませんから。


今日は「昭和の日」。昭和という長い長い時代が終わって三十年。
プレヴェールが、愛すべき男、人生と笑いを愛した男に捧げた詩を書いてから約六十年。アルフォンス・アレーが亡くなってから百年以上。

パンはまだパンの味がし、葡萄酒はまだ葡萄酒の味があり、そして人生はまだ深い味わいに満ちているでしょうか?


FRANCE. Provence. 1955. (© Elliott Erwitt. Magnum Photos).




2018年4月28日

板門店の奇跡

基本的に政治には背を向けているが、南北朝鮮首脳による板門店会談(宣言)には文字通り心動かされ、胸が熱くなった。

ベルリンの壁崩壊、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカ・グラスノスチ、そして大国ソビエトの消滅・・・

今回、欧米だけではなく、日本以外の国においては、人の力によって、また優れたリーダーによって、政治は、国の形は変わり得るのだという「奇跡」を目の当たりにした思いだ。

「感動」という言葉が素直に当て嵌まるような出来事は、フィクションの世界においても、ましてや現実に起こり得たことに遭遇するのは、いったい何年振り、何十年ぶりだろう。

けれども残念ながらこの国は変わらない。世界がどう変わろうと・・・




わたしのなまえ

詩人の石原吉郎が、「確認されない死の中で」という一文の中で、1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』のラストシーンについて語っていた。

心中を決めた男女が、死に場所を求めて歩きまわる。途中、偶然出会った男性に、男が相手の名を尋ね、その後自分の名前を名乗って立ち去る。

石原はこのように記す、

私がこの話を聞いた時に考えたのは、死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで、存在したということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが彼に残されたただひとつの証しであると知った時、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。
いわば一個の符号に過ぎない一人の名前が、ひとりの人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからに他ならない。ここでは疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。
私がこう考えるのは、敗戦後シベリアの強制収容所で、ほぼこれと同じ実感をもったからである。

けれども、「彼」がまさしく他ならぬ「彼」であるということは、そばに愛する人がいるという時点で、既に明らかにされているのではないだろうか?
「彼」は天涯孤独の身で、ひとりぼっちで死に場所を探しているのではない。 今彼が抱いているその愛に、すなわちその女性との関係に殉じようとしている者が、何者でもない訳はない。
存在の最後の瞬間まで、「何者か」であることができれば、死後のことは知ったことではないとわたしは考える。
先日引用した誰かの言葉、「肝心なのは、死後の生が存在するかではなく、死ぬ前に生が存在したかだ」に従えば、この映画のふたりは、命の灯が燃え尽きる瞬間まで「生」と共にあったのだ。

それに対して思い出すのは、セルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』という、やはり60年代の美しいモノクロ映画だ。

戦争で負傷し、記憶を失った若者ピエールと、孤独な少女シベールとの束の間の友情。
森の中で日曜毎にあって、散歩をし、話をする二人。けれども、記憶を失った若い男性であるピエールは、周囲の誤解と偏見によって、シベールと戯れているところを射殺されてしまう。ラストシーンで、この孤独な少女に名前を聞く警官に対し、ピエールの亡骸のかたわらで、シベールはひとこと、「わたしに名前なんかない」

わたしは石原吉郎のように、誰にでも名前がある、とは思ってはいない。
シベールがシベールであったのは、ただピエールとの交流においてのみであった。
そして彼の存在が無くなってしまった時、シベールという彼女の名前もまた、ピエールと共に消えたのだ。

「私は無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである」
と石原は書く。

わたし自身を省みた時、わたしはまさしく「無名の者」であり、TAKEO という名前も、たんに番号ではないというに過ぎない。
「名前」というのはわたし固有のものではなく、誰かがわたしを呼ぶときに必要なものなのだ。つまり名前を必要としているのはわたしではなく、わたしを呼ぶ他者である。
とはいえそこに相互の敬愛が欠けている場合には、とりあえず、その人物を特定しうるものでさえあれば事足りるのだ。

「確認されない生の中で」わたしはそんな風に感じている。











2018年4月27日

ありがとうございました。

これがこのブログでの多分最後の投稿になると思います。

いまわたしは、いろいろな疑問に突き当たっています。

たとえば・・・

「人間」である条件とはなにか?

「なぜ言葉が必要なのか?」(この中には「なぜ読むのか?」「なぜ書くのか?」という問いも含まれます。)

「わたしを「わたし」たらしめているものは何か?」



先日「他人が存在するにもかかわらずわれわれは生きて行けるか?」という
トーマス・マンの言葉について考えていると書きました。

ひとつには、もし人がわたしと似ていたら、わたしの独自性はその分だけ損なわれるのではないか?という懼れ。

そして同時に、わたしが世界中の誰とも似ておらず、気持ちが通じ合うことができないとしたら、それは絶対的な孤絶であり、絶望ではないのか?という思い。



わたしの書いてきたもの、そしてこれからもどこかで書き続けるであろうことは、全てわたしという異形の者が、その全存在を懸けて発し続けた「必死の問いかけ」です。



日本では明日から大型連休が始まります。そしてこのブログは、この国以外の方の閲覧もあったようです。その方たちには、どうかよい週末をお送りくださいと申し上げます。


短い間でしたが、このような奇妙な文章にお付き合いくださった方々にお礼をいわせてください。

ド ウ モ ア リ ガ ト ウ ゴ ザ イ マ シ タ


Great regards

 Takeo









電車内での化粧は何故みっともないのか?


電車内での女性の化粧に眉を顰める人たちがいる。最近は年に数回、それもせいぜい20分程度しか乗る機会が無くなったので、そういう光景はごくまれに見かける程度だ。けれども、個人的には、女性の電車の車内での化粧姿に嫌悪感を感じたことはない。

以前雑誌で、肌が弱くて、口紅すら塗れないくらいなのに、あんなに惜しげもなく口紅やリップグロスを塗り、筆ペンの如きアイライナーをたっぷりと使うような化粧が羨ましくて、ついつい目が釘付けになってしまうという女性の記事があったけれど、わたしもまた、若い女性の盛大な化粧姿を見る機会というのはほとんどないので、「釘づけ」とまではいかなくても、ついつい目が離せなくなってしまう。

彼女たちの車中での変貌ぶりを苦々しく感じる人たちは、いったい何が不快なのだろうか?「化粧は公衆の面前で堂々とするものではない」ということなら、その根拠となっている意識はなんだろう。「恥の観念の欠如」であろうか。「いくら外見を美々しく粧っても、内面の美意識が欠けている」というのだろうか。

簡単にいえば、「恥」の観念というのは、「私的な空間で行われること」を「公の場で公然と行う」ことへの嫌悪感だろう。

わたしは電車に乗って、真向かいの座席で、或いは真横の席で、化粧を始められたとしても席を立つことはないが、隣でスマートフォンを取り出してチャラチャラといじくられると、それだけで不愉快になって席を移動してしまう。聞こえよがしに大きなため息をついたりして。無論彼らにはスマートフォンが嫌いな人間がいるということなど、想像もつかないだろうが・・・

仮に電車内での化粧が、私的な行為を大勢の面前で行う故に嫌われ、顰蹙せられているのなら、車内での、ホームでの、レストランでの、街中でのスマートフォンに関しては、「危険である」という点以外に、見てくれがよくないという声が皆無であるのは何故なのだろうか。

化粧も、スマートフォン(或いはその他モバイル、パソコン)の使用も、外界が瞬時に閉ざされた自室と等質になるという点で、その本質に於いては、なんら相違はない。

嘗ては電車やバスの中で、「大人がマンガ本を読んでいる」と冷笑された時代があった。
スマートフォンを操る人たちは、「俺は、わたしは、仕事のことで・・・」というのだろう。けれども、それが仕事のメールチェックだろうが、ゲームだろうが、SNSだろうが、傍から見れば同じことである。「公と私の壁の決壊」それが至る所に溢れている。

電車内での女性の化粧を揶揄するなら、そのナルシシズムに於いて、所謂「自撮り」なるものの滑稽さ、珍妙さは、化粧の比ではない。

「目は常に未開の状態で存在する」と、アンドレ・ブルトンは言ったという。これがどのような文脈の中で言われたものか知らないが、網膜に映ずるものを認識・理解すること、そしてその次にそれに対して独自の意味付けをすること、その時点で既に目は意識によって「開拓」された状態になっている。意味付けをすること=解釈をすることとは、主体の価値判断を伴う。

わたしにとってみっともなさとは、(ことの大小、善悪、美醜を問わず)人と違ったことをすることではなく、皆と同じ見てくれで、その挙措動作、行住坐臥に於いて、マス(みんな)に埋没していることを恬として恥じないことである・・・







2018年4月26日

朝のおつかい、 ロベール・ドアノー 1946年

Rue Marcelin Berthelin Berthelot, Choisy le Roi mai 1946 © Robert Doisneau.

2018年4月24日

生れたわけ


もう30年以上前に切り抜いた新聞の、読者の投稿を時々眺める。

いわき市 佐々木スミ
    (無職 79歳)


四月十五日付「読んで下さい娘の作った詩」を読みました。私は体まで揺れるような感動を受け涙が流れ、周藤勝彦様の親心が痛いほどわかりました。
実は私、脳性マヒの娘の親です。娘は言語障害の上車椅子に頼っており、重度障害者施設にお世話になって、先生方の教えと励まし、入所者たちの友情で元気に過ごしています。一生懸命に話をしますのに通じないので、どんなに悲しい思いをかみしめていることと思います。先生に励まされ、友だちと一緒にいたわり合い、思うことを詩に託して生きがいを感じているようです。
初めて書いた娘の詩を読み、この子がこのようなことを考えていたのかと、うれしく切なく、胸に抱きしめて泣きました。その時から下手なりに、身の回りのことを詩にして、自分の生きがいにしているようです。周藤さん、どうぞ娘さんを褒め、励ましてください。終わりに、わたしの娘の書いた詩を見てやって下さい。


敬老の日に七十を超えた母が面会に来た。

ふつうの年よりなら孫に肩をたたいてもらう日だろうに、

娘の好きなケーキを買ってきた。

そして三十になる娘の口に食べさせる母はどんなにつらいだろうに。

いつまでも苦労をかけてご免ねとつぶやく

母の目には涙がほほに流れた。


この時ご母堂は79歳、もう亡くなられておられるだろう。
娘さんも60代だろうか。

けれども、ただこの一瞬、ただこの一篇の詩のためだけにでも、
娘さんとお母さんは、ともに、生まれてきた幸福を持てたのではないだろうか。


シモーヌ・ヴェイユが、終焉の地ロンドンで、両親に宛てた手紙、

この地でも、春はじつにみごとです。ロンドンには、白い色、ピンクの色の花が咲く果樹がいっぱいあります。

・・・おふたりがご健康でいらっしゃり、お金のご心配もないようでしたら、どうぞ青い空や、日の出や、夕日や、星や、牧場や、花が咲き、葉がのび、赤ん坊が育つのを、心から存分に味わいたのしみつくしてくださったらいいのに、と何よりもねがっております。
一つでも美しいものがあるところにはどこでにでも、このわたしもいっしょにいるのだとお思いになってください。

「偉大な」と呼ばれる哲学者であれ、重度の脳性マヒをもつ者であれ、母にとって、その貴さと愛おしさは寸分の違いもない。彼女たちがいることこそがうつくしいのだ。

より弱い者にこそ美を見出したヴェイユのような高貴な精神が、現代人の心から夙に揮発し去り、一方で一部の者たち=自称知識人たちによって彼女が神格化されていることに居心地の悪さを感じる。
いま必要なのは、ヴェイユという偶像を仰ぎ奉ることではなく、かつて彼女の眼差しに映し出された弱き者、餓えた者、汚れてしまった者たちに、思いを馳せること、せめて心なりとも彼らの存在に寄り添うことではないのだろうか?それはとりもなおさず、この世界に僅かに残された美と(自分自身をも含む)人間性の残照に対する、人として為しうる最低限の表敬ではないのか・・・

老人、幼子、障害者、病者、弱者、また人生の敗北者、落伍者、故郷喪失者など、あらゆる孤独な魂は、その悲しみゆえに美しくはないか?

こぼれる涙よりも、美しいものはあるか?