2022年2月14日

「社会性」を持つことの危うさについて

先日以下のような文章をネット上で見かけた。

書かれていたのは、社会を批判をする前に、「自分自身の社会性の欠如」を省みるべきではないか、といった主旨の文章であった。文中、わたしの記憶に強く残っているのは、
 「社会批判の前に、自らが社会性を備えれば、批判の対象がなくなるかもしれないから。


この文章を書いた者にとって「いま・ここに在る(社会の)現実」は、個々の実存、「個々人の抱える現実」に優先される。
社会を批判する前に、先ず自分自身の『社会性』の欠如に目を向けろ」と。
これは容易に「いじめる側」の論理に通じ、そして「いじめられる側にも責任はある」と言った戯言(たわごと)に極めて近似した、残忍で冷酷な考え方であることがわかる。

では「社会性」とは何か?簡単に言ってしまえば、自己を取り巻く有形無形の環境への適応能力であり、順応性の謂いである。己を取り巻く「現実」への順応性・適応性が高い者ほど、「自分」=「エゴ」というものの弱さが目立つ。自身のスタイル、ポリシー、美意識、価値観、譲れない拘りなどがなく、自己の内面の水位と、社会の水位が常に平衡を保っている者ほど、社会性は高く、独自性は希薄である。


Anniston, Alabama, 1936, Peter Sekaer (1901 - 1934)


ナチの支配する「社会」があり、軍国主義が国民全体を洗脳する「社会」もまた「いま・ここにある社会」である。彼の理屈を極限まで推し進めれば、「プロテスト」というものは必然的に否定される。
「レジスタンス」「パルチザン」も、「ゼネスト」も「百万単位のデモンストレーション」も「暴徒化」も、なべて「社会性の欠如」に因があるということになるのだろう。

この写真の若者たちも「有色人種専用階段」の存在=「差別の象徴」を批判する前に、自分たちの「社会性の欠如」を省みた方がいいようだ。


North Carolina, (Segregation Fountain), 1950, Elliott Erwitt

「ノース・キャロライナ 白人と有色人種とに分けられている水飲み場」1950年
写真 エリオット・アーウィット


「いかに多種多様な個別性を包摂し得るかがその社会の成熟度の指標である・・・」などと、高校の優等生の言うような「陳腐な」セリフを今更言う代わりに、わたしは以下のセリフを引用する。

*

“ Let my country die for me.”

― James Joyce, Ulysses

「この国をわがために滅ぼしめよ」

ー ジェームス・ジョイス 『ユリシーズ』



ー追記ー

「社会性を備える」と言うことは、換言すれば、「わたし」が「わたし」であることを、「自己のアイデンティティー」を放棄せよということと同義である。何故なら「社会」(=多数派)と「私」(個ー「絶対的マイノリティー」)とは常に対立関係にあるものだから。














樹の話

「うつくしいもの」への憧憬、「いい文章を書きたい」という欲求は、いまだ心の底に熾火のように仄かな光を発している。けれども「生の倦怠」もしくは「生の蹉跌」がそれを上回る。

その Ennui を打ち破り、わたしを「生」へと回帰させる「うつくしさ」はどこにある?



窓の外の樹々が、「剪定」という名目の誤魔化しによって、繊細な枝々を無慚に斬り落とされてゆく。「裸木の美」を知らぬ粗野で野蛮な田夫野人たちによって。







なんとかお前に交わる方法はないかしら

葉のしげり方

なんとかお前と

交叉するてだてはないかしら




お前が雲に消え入るように

僕がお前に

すっと入ってしまうやり方は

ないかしら

そして

僕自身も気付かずに

身体の重みを風に乗せるコツを

僕の筋肉と筋肉の間に置けないかしら



川崎洋「どうかして」『現代詩文庫33川崎洋詩集』(1987年)より



My name is Takeo.

T is for Tree.

樹を伐られるのを見るのは自分の身を切られるのと同じくらい辛く悲しい

樹々の枝がなくなれば、小鳥たちの啼き声を聴くことも出来なくなる。
この邦で、美と、自然との交叉は限りなく難しい・・・


◇  ◇

Albín Brunovský. Slovakian (1935 - 1997) 
- Etching - 

*

“Your head is a living forest full of song birds.

e.e. cummings

*

「きみのあたまは生きた森だ。そこにはいつも鳥たちのさえずりが充ちている」

e.e. カミングス










2022年2月3日

レス・イズ・モア

 嘗て 「市場に詩情なし」と書いた。

「金儲け」と「美学」とは背馳する。

"Less is More" という美学、美意識ほど、現代社会、そしてインターネットの世界と縁遠いものはない。






困惑の中から...

 いまのわたしは非常に神経質になっている。現在、何もかもが悪循環に陥っていて、なにかをきっかけに状況は好転し得るのか?それとも、そもそも今の時代の何もかもが、わたしとは合わないのか・・・見極めは難しい。


一例をあげると最近アートブログにも、Tumblrにも投稿ができていない。だけでなく、フォローしているブログの投稿を見ても、心が高鳴るということがない。視ていて頭の中、胸の中に感嘆符〔!〕が灯るということが久しくない。

Tumblrに限らず、国内・国外を問わず、ブログを眺めていて、惹きつけられるような魅力を感じることがない。

人の投稿に美や歓びを見出すことができない上に、最近Tumblrのダッシュボード(フォローしているブログの投稿が流れてきて、イメージの下にある「スキ」や「リブログ」ボタンを押したり、自分もそこに絵や写真を投稿する場所の名称。SNSなら「タイムライン」というのだろうか)そのダッシュボード上に、Amazon Kindleの、








このような広告が頻繁に流れてきては気分を損なわせる。やる気を殺ぐ。

いいポストができていれば、このような広告など無視黙殺できるのだろうか。
それともやっぱり広告の「効果」が、そこに「うつくしいもの」を加えるという営み(=創作活動)に冷水を浴びせかけているのだろうか。わからない・・・

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、
「わたしは本に囲まれていないと眠ることができない」と言った。

見苦しい広告に囲まれて、「美」をその流れの上に浮かべることはできない。

そもそも先のSNSが自壊し、フェイスブックに行くものとTumblrに行くものとに分かれたとき、Tumblrを選んだ者たちの規準は、「目障りな広告がないこと」ではなかったか。

以前に比べるとだいぶ難しくなってきているが、わたしはネット上での「余計なお節介」を嫌う。


ただ、まっさらな画面に自分の選んだ「美」を写し出したいだけなのだ。










きつおんの うつくしさ

吃音はすでにして「詩」である



2022年2月2日

繰り返し 祈りのように...

 

‘Mine Own King Am I & Joel’ by Eric Vloeimans & Holland Baroque Society
 [Old, New & Blue, 2013]

*

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」

― エミール・シオラン『生誕の災厄』より







読めない 書けない...

最近愛読しているブログがある。 折々に感じたことを1・2行ほどの字数で表現する。

簡単そうで、わたしにも出来そうにも思うが、わたしが書くとどうしても「箴言」のようになってしまう。或いは「定義集」か。

そのブログが先日、こんな投稿をしていた。

「臨機応変」

書けない時は 読む

実は今日読み返すまで、「書けない時は 寝る」だとばかり思っていた。その方がわたしにとってすんなりと納得できるからだ。
書けない時は読む・・・わたしにいわせれば「読めないから書けない」のだ。

なにも読む気になれない。DVDで映画を観る気にもならない。枕元に置いてある、母に頼んで図書館から借りてきてもらっている本を、気まぐれに数ページ読んでみるが、すぐに気分が沈んでしまう。
いつも4~5冊、図書館のホームページを通じてリクエストして、母に運んで来てもらっているが、結局読めずに返却することの繰り返しだ。

胸の奥に「いい文章を書きたい!」という強い欲求はあるのだけれど、良質のインプット無しに、よい文章は書けない。

孤独なのだ。紹介したブログのタイトルじゃないが「文字のみ」(正確なタイトルは『文字の実』)ではなく、ひととのつながりを欲しているのだ。

これも図書館から借りているサイモン・アンド・ガーファンクルの「早く家にかえりたい」
(Homeward bound) の歌詞の一節にある

”I need someone to comfort me...”

という部分だけが浮き上がって、「太字で」聴こえる。

・・・若い頃は、「明日に架ける橋」の歌詞に涙を流したこともあったけれど、今はそれも、キャロル・キング(あるいはジェイムス・テイラー)の「きみの友だち」(You've Got a Friend) の歌詞も、まるで信じちゃいない。

このあいだ、「頑ななまでに自分の美意識に忠実と言えなくて、なんの「わたしのブログ」か!」と書いた。
【かたくな】という言葉を辞典で引いたら、こう書かれていた。

「頑固なこと。心がひねくれて片意地の強いこと」
『岩波国語辞典第二版』より

こころがひねくれて、か。いいさ。