2020年5月9日

Tumblrの外観を変えてみました


2011年春に初めてこれまで一度も変えたことがないのですが、今回ダッシュボードがひどくチープになったので、少しでも投稿のモチベーションを上げるためにブログのデザインを一変しました。

わたしはインスタグラムというものをいちども見たことがありませんが、少なくとも、フェイスックやツイッターは自分でデザインをつくる・選ぶことはできません。
タンブラーは所謂SNSではないので、各々がそれぞれの「ブログ」を持っています。

多分瀬里香さんは見たことがあるかと思いますが、底彦さんも、Junkoさんもよかったら、
「新しい」(苦笑)わたしのタンブラーのブログを覗いてみてください。

さすがにこのブロガーほどは細かいところまでの設定はできませんが、これまでは良くも悪くもシンプルだったのをすこし変えてみました。結構気に入っています。


Poboh.tumblr.com 


◇

ー追記ー


「猫額洞」さんの昨日今日一昨日の投稿は読み応えがあります。
ただし今日の投稿について考察する元気はいまのわたしにはありません。
そしてこれらの投稿は素晴らしいのですが、わたしは今も、今後も、インターネットで情報を収集するということはしないでしょう。

タンブラーでは「リブログ」は一切しないというのがわたしのスタンスです。
絵や写真はすべて自分で世界中のアート系のサイトからハンティングしてきます。
ただし、「情報」は別。まったく別ものです。














2020年5月7日

繰り返される愚昧さ


ドイツでもお店がほぼ正常営業できるようになった。新聞には、再び患者数が増えるようなら再度外出禁止令を出すということ、6月2日までは外出時のマスク着用を「義務付ける」ということが書かれていた。

「どうして日本は韓国やドイツのようにできないのか!」といったところで、どだい無理なこと。そもそも戦後に築き上げてきた歴史と、そもそもの民族性が違うのだ。

前の投稿で、「過去」と「現在」との時間軸ー垂直方向での対比をしたが、同じ時代を生きるにしても、また或いはデジタル・ワールドの様子は韓国やEUの方が進んでいるのかもしれないが、日本ではGWが明けても、相も変わらず、「フヨウフキュウノ ガイシュツハ ヒカエマショウ ミナサマノ ゴキョウリョクヲ オネガイシマス・・・」と繰り返し放送が流れる。

中島義道のいう(日本の)「文化としての騒音」そして根生いの「パターナリズム」

これだけはドイツはもちろん韓国や中国にも存在しないだろう。

電車に乗れば「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」「ホームと電車との間に隙間が空いている箇所がございますので気を付けて・・・」「事故防止のため「やむを得ず」緊急停止することがございますので、お立ちの方は手すりや吊革につかまって・・・」「携帯電話はマナーモードにして車内での通話はお控えください」「優先席があります。妊娠中の方、身体の不自由な方におゆずり・・・」

バスに乗れば「走行中の座席の移動は大変危険ですので・・・」「バスから降りて道路の横断には気をつけて・・・」「爆発物の持ち込みはおことわり・・・」

商業施設では「エスカレーターにお乗りの際はベルトにつかまりステップの中央に。良い子のみなさん。エスカレーターの駆け下り駆け上りはたいへん危険ですのでやめませう・・・」

つまりなにもかも手取り足取りああしろこうするなと教えてもらわないと電車にもバスにも、そしてエスカレーターにさえ乗ることができない民族が、どうして突発的な危機に際して適切かつ迅速な行動に移せるだろうか。

これだけ街に騒音が溢れていても、誰も「ガキ扱いするな!」とは言わないし、おそらくはそんなこと感じてもいない。現に中島の本『うるさい日本の私』には、「アナウンスがないから忘れ物をしたじゃないか!」と怒鳴り込んでくる客がいるという。

これがまさしく「文化」である。

70余年をかけて成熟してきた国と、決して「成長」も「成熟」もあり得ない国と、同列に扱うことは不可能だ。

しかし「お前は国から「義務付けられ」たり「禁止命令」を出されるようなことは嫌う人間じゃなかったのか?」と思われるかもしれない。確かに日本は、ドイツや韓国のように、いざとなれば数百万単位のデモ行動を起こし、大統領でも引きずり下ろすようなことは決してしない。エスカレータの乗り方も毎日その都度教えてもらわなければ忘れてしまうようなこどもの国だから、すべて「親」=「お上」の言うがまま。皮肉なことに「自己責任」・・・言い換えれば「自分で判断して行動する」という観念から最も縁遠い国・・・そこに日本という国の、どうしてもアジアを含めた諸外国に追いつけない「限界」がある。














バンクシー、或いはあらまほしき世界と現にある世界との齟齬



Untitled, before 2003, Banksy. born in 1975 in UK
- Stencil, Oil on Canvas -


つまり、結局はこれなんだよな。


わたしにとってはドローンも、オスプレイも、スマートフォンもタブレットも、電子書籍もキャッシュレスもペイ・ペイもスイカもパスモもみな同列なのだ。

そういう意味でまさしくわたしは過去から未来(つまり「現代」)に紛れ込んでしまった異質の存在であることに間違いはない。



Ruiner i Riesengebirge, ca 1834, Caspar David Friedrich (1774 - 1840)

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ、ドイツロマン派・・・わが心の源流









2020年4月30日

「人間は慣れる動物である・・・」


わたしに「精神科」或いは「精神医療」というものが必要だろうか?
なるほどわたしは正真正銘、混じりっ気なしの気狂いである。それに異議を唱えるものはどこにもいないだろう。では混じりっ気なしの完全な狂人/狂気と精神医療との接点はいったいどこにあるのだろう?
精神科医はキチガイを治癒できるのだろうか?そして「キチガイ」の、乃至「狂気」の「治癒」とはどのような状態のことを言うのだろう?

現在の状況・状態がコロナのストレスと全く関係がないとは思わない。けれども、その多くは、毎日繰り返される「フチュウシカラノ オシラセデス シンガタ ウィルス カンセン カクダイ ボウシノ タメ フヨウ フキュウ ノ ガイシュツハ ヒカエマショウ・・・」という放送と、You Tubeで突然地雷を踏んでしまったように流れてくる「若きバカたち」の、同様の内容の「国のコマーシャル」への不快感が耐えがたい。

嘗て、毎日夕方に流されるチャイム(?)メロディー堪え難しと、地元自治体を相手取って精神的苦痛への賠償金を求める訴訟を起こした評論家がいる。名前を呉智英という。

訴訟の経緯も結果も知らないが、そもそも「人間は慣れる動物である」とは、いったい誰が、どのような根拠に基づいていて言っているのか?もしそれが常識なら、事実ならば、呉智英はそんなことすら知らなかったのだろうか。

いづれにしても、ここまで状態が悪化してしまったからには、精神科との接点を無理やり求めるとすれば、薬漬けで、常時ぼんやりした、何も感じない、何も考え(られ)ない状態に向かわせる(押し込める)ことしか考えられない。

最早「精神療法」「カウンセリング」など全く無意味だ。
クスリによって脳の機能をマヒさせる・・・ほぼ仮死状態、乃至痴呆状態にさせる以外に精神科にできることはないだろう。

いまのわたしはいつ人を殺しても不思議ではない状態だ。けれども、入院を勧められるくらいなら、射殺してくれた方がいい。ほんとうに、今何が欲しいと訊かれれば迷うことなく「銃」というだろう。

お前に銃を持たせると人に危害を加えかねないという危惧があるなら、頼むから誰かわたしの脳天を吹き飛ばしてくれ。しかしそれならハリー・キャラハンが持ってるような44マグナムだっけ、首から上が跡形もなく飛び散るくらいの破壊力のあるものでなければ・・・

◇

現実的に、これまでかかっていた精神科には電車に乗らなければ行くことができないという点で、ほぼ不可能だ。かかりつけの内科医は、紹介状があれば、現在の精神科医が出している薬を処方してくれると言っていた。けれどもあそこにはテレビがある。少なくとも、テレビから突然「フヨウフキュウノ ガイシュツハ・・・」などというコマーシャルが流れているうちはあの医院にも行けない・・・

わたしに関して言うなら「障害者は不幸しか生まない」というテーゼは、最早揺るぎなく正しいものとなっている。

おそらく誰もわたしの死を悲しむ者はいない。母でさえも。そのことも今は確信に近くなっている・・・











2020年4月29日

なぜわたしは「正しい」のか・・・


外に出るということが非常なストレスだ。昨日は弟が泊まった。わたしの自転車が壊れていて、内科に行くのに自転車が無ければ(少なくともわたしは)とても行くことができないので、午後4時からの診療に弟の自転車を借りて行った。

以前底彦さんが、眼科だったか、内科だったかに行った時に、待合室がごった返していたわけでも、長く待たされたわけでもないのに、受付や医師とのごく短いやりとりで非常に疲れたと書かれていた。昨日のわたしもそれと同じだが、それにプラスして、医院の待合室の窓が何処も少しも開けられていないことが気になって仕方がなかった。換気扇が回っているとか、空気清浄機が働いているのかはわからないが、この時期、窓の開いていない病院・クリニックは、特に内科は、落ち着かない。
そしてそれ以上に苛立たされたのは、いつもつけっぱなしのテレビだ。
普段は気にも留めないが、医師会武見会長の会見だとか、例によって、若いアホウたちの「不要不急の外出は控えましょう」・・・無論画面など視ないが声は聞こえてくる。今はこの馬鹿さ加減につくづく疲弊させられる。

弟の自転車を借りて行ったわけだが、電車に乗らないからと高をくくっていた。これほどのストレスとは・・・帰って、当然ながら弟がいるということにほとんど耐えがたい気持ちだった。ほんとうに下手をすると弟を刺し殺すことさえやりかねないと痛感した・・・

わたしは人を、ましてや家族を殺すこと等絶対にありませんなどとは「絶対に」言えない。

コロナで死ぬことを極度に怖れているが、それとはまったく別のところで、「自死」のことはいつも考えている。仮にいつの日か、この疫病で死ぬ危険がほぼゼロに等しくなった時にまだ生き延びていたとして、今回の経験で、世界はますますデジタル化が急加速し、それが西部邁が言っていた「新たなる信仰」となるだろう。

ところで、わたしが電話をかける場所といえば、クリニックとか、図書館とか、保健所とかいう場所に限られているが、例えば今の時代、「友達と電話で話す」って、いったいどうやって話すのだろう?わたしは高い料金を払って携帯電話にかけてまで「世間話」をするつもりはない。というよりも、そんな余裕はない。それは駅前のスーパーに夕食の材料を買いに行くのにタクシーを使うのと同じだ。

ほんとうに、携帯電話を持たない者が、きょうび、個人的な電話をするにはどうするのか、誰か教えてくれないか。

◇

大学時代に、古代中国のこんな小話を読んだことがある。
人々が飲み水として使っていた川の水で、みな気が狂ってしまった。王様ひとりだけは城内の井戸から水を飲んでいたが、自分一人だけが狂っていないことが苦しくてならない。いっそ「狂水」を飲んでみなとおなじになって楽になろうかと王様は日々煩悶する。

結末はあったのかなかったのか覚えていないが、印象に残っている話だ。

この場合王様ひとりだけが「正気」で、彼だけが「正常」「まとも」だったのだろうか?
そうではない。王様ひとりだけが狂っていたのだ。だから苦しいのだ。

狂気と正気は、正しいことと間違ったことと同じく、あくまでも相対的なものだ。
わたしがよく引用する「99人の狂人が集まっていて、そこにひとり正気の人間が加われば、「彼」が狂人だ」という、誰の言葉かは忘れたが、これは全く正しい。

王様が自分だけは狂ってはいないといっても、それは通用しないし、わたしもその言葉には同調できない。何故なら「正しさ」とは「多数派」の謂いに他ならないのだから。
相対性を超えた絶対的な正しさというものは存在しない。『肉弾』で、若き主人公が、「にっぽんよい国エライ国、世界でひとつの神の国」と小学生が教科書を暗誦しているのを聞いて「狂ってる」といったが、彼の「正気」なるものは限りなく「無」に等しい。

「自分一人だけが正しい」ということはそもそもあり得ない。「ただしさ」とは大勢と共有されることによってはじめて「正しい」と呼ばれるようになる。「私だけの正しさ」などというものは、存在しない。

わたしの生きることの困難さは、わたしの正気に、そして世間の狂気に起因するのではない。正しさ云々というのなら、寧ろ正しいのは「多数派」である世間の方だ。
唯一客観的な事実いうのは、「わたし」と「世間」乃至「社会」が、丁度王様と、その他のすべての人と同じように、絶対的に「違っている」ということだけだ。

「私が私である」ということは、「私は正しい」ということとはまったく無関係だ。
そもそも人間存在という一回性に対して、「普遍的な正しさ」など求めようがない。

誰も「正しく」は成り得ない。サルトルも、キルケゴールも、ニーチェも、ゲーテも、エマソンも。
ただ、多数派にはなれる。そして正しさとは畢竟多数派に属している、皆と同じように考え、ふるまっていることに他ならない。故にわたしは自信をもってわたしは決して正しくはないといえる。

以前のブログに「わたしは間違ったことしか言っていない」と書いた記憶がある。
「わたしの言ったことで、いちどでも間違いじゃなかったことがあったか!」と。

繰り返すが、わたしの生の苦痛はわたしの正しさ、感覚・感受性の「正常さ」に由来するものではない。それは多数派との「違い」に起因する。

「少数派」(少数であること)は「正しさ」を意味しない。けれども、だからこそ、それを「ただしさ」(と見做されていること)とひとし並みに扱うということが、社会の成熟度の目安になる。


ー追記ー

何かを「醜い」と感じ、これはマズイと思い、うるさいと感じ、クサイと感じ、不快だと感じるのは、なんらわたしの感覚の「正しさ」を根拠としない。証明しない。
そこにあるのはただ、わたしという個人の感受性でしかない。

ある絵を美しいと見做すか、醜いと思うか?「いったいどちらが正しい」なんて議論はそもそも愚かしくナンセンスなのだ。

「みんなちがってみんないい」とかいう絵空事には、オルダス・ハクスリーのことばで答えよう。

「違うということは、必然的に孤立を意味する」『素晴らしき新世界』より


















2020年4月27日

辺見庸ブログより・・・


久し振りに、本当に久しぶりに辺見庸のブログを読む。

その前に、これも久しぶりに昨年2度ほど(?)出入りした「メル友募集」ーこれも(?)サイトにできた「ツイッターのようなもの」も読む。

辺見庸の言葉が、「彼ら/彼女ら」の言葉よりも数段深いのは「あたりまえ」なのだろうか?この「ツイッターのようなもの」に比べて「ツイッター」は遥かに深いのだろうか?
とてもそうは思えない。規模の違いが質の違いに比例する理由はなかろう。

しかし辺見の言葉を読んで、ほんの、ほんの少しだが、気が休まった気がする。


◇


「みんな疲れている。しんそこ疲弊している。けふ、「エッセンシャル・ワーカー」ってどういう意味かおしえてもろた。ふざけやがって。」



「巣箱。けふも空き家。視床痛。助辞も繋辞も面倒くさい。まだまだこれからだよ。まだ先。ひとの目が獣じみるのは。
記憶がある。寂れた夕まぐれ。駅前。失業者たちの目が
赤く、ときに金色に血走る。知っている。見たことがある。

忘れてしまっているのだろう。そのような時代の、かわたれどき。ひとの輪郭が煮こごりみたいに崩れる。瞳がなぜか煮こごりのなかに奥まって、凝りのなかから哀れがましく、恨みがましく光る。燐光の殺意。

60すぎの失業者がスーパーでカップ麺をまんびきして捕まりました。
81だかの無宿者が、野球部員たちに何百メートルも追いかけ回され、激しい投石をうけて死にました。ひとりぐらしの、少しニンチ入ったおばあちゃんが、アパートで飢え死にしてました。

本ブログをご覧になっているがんのひと、パーキンソンのひと、ウツのひと、統合失調といわれているひと、もやもや病のひと、反社性向のひとびと、片マヒのかたがた、神経障害性疼痛のみなさん・・・きましたね、ついにやってきましたね!

きたということをまずかくにんして、それから、予想どおりと思いませんか。ほぼ予感どおり。そして、ほんのちょっとだけ〈ざまあみやがれ〉てな気分も。しかしながら、世界の全的瓦解はまだ始まったばかり。

夕暮れの駅前では、影をなくしたおとこたちが力なく咳をしている。言葉と結果がたがいに反駁しあい、どこまでも空しく毀損しあう夕暮れ。だが、まだだ。〈完了〉にはほど遠い。こんご、おとこたちの頬骨はもっともっと高く、最終的には見ちがえるほど尖るはずだ。

とりあえず、すべてのアウラというアウラは剥がされたのだ。
〈自己責任〉をかたるものを信じてはいけない。ぜったいに。」



「つい2、3か月前のことでも、はるか遠い昔のことのように懐かしいのだ。」




「某紙編集委員と話す。これからどうなるのか?順不同で・・・コジキ、強盗、殺人、自殺、監視、告げ口、ホームレス、DV、抑うつ、ドラッグ、各種差別およびヘイト増大、全体主義とそのニューノーマル化、ウイルス再変異、米中戦争の可能性・・・。」


「友人の会社でも感染者がでた。あれはものごとをことごとく「無意味」にしてしまう。疫病にしたって味も翳りもありゃしない。あれの報道はおそろしくつまらない。
あれの功績はニンゲン世界の薄っぺらさを証明したことだろう。大したものだ、とも言える。」


「アソーを殴ろう。あのひん曲がった傲慢な口を左ストレートで殴ろう。

BSで「世界の知性」のありがたきお話。マルクス・ガブリエルとか。
つまらなかったぜよ。視点がどうも為政者的なんだよ。

鼻水たらして泣いている失業者の涙の奥から世界を見ていない。


犬がおれに言う。「おっちゃんも10万円もらえるの?コルト・ダブル
イーグル買うと?バンバンいてこますの?」。おれ無言。」


「国家とは、そういうものなのだ。コロナで何十万、何百万人が死のうとも、
軍事訓練だけはおさおさ怠らない。ニンゲンというのはそもそもが毒性ウイルスなのである。」


「「社会の共同性に対する強い違和感・・・」と表4にはある。3.11を経てもそれはある。というか高じている。災禍そのものより、腕を組んで"団結"し声を合わせて歌いたがる質の共同性を怖じ、怪しみ、甚だしくは敵視さえする癖。」



「ふとNBCテレビをみたら、いま少なくとも600数十万人が失業中という。画面はシカゴだろうか、食糧配給に列をなしている。コロナ感染者も並んでいるようだ。

大恐慌時代をおもう。あれは1929年から3年くらい続いた。2020年も新大恐慌時代のはじまりだ。これからはもっとひどくなるだろう。コロナとダブルパンチだし。

こんなときにはなにをすべきか。銃を乱射するか、それともチェット・ベイカーを聴くか・・・だな。」

◇

以上辺見庸ブログより個人的な嗜好で抜粋引用した。(下線は引用者ーTakeo)

けれどもわたしは以前のようには彼を好きにはなれないのだ。

猫額洞にしても辺見庸にしても、言っていることは悉くその通りであっても、既に「ニューノーマル」に順応している者とは馴染めなくなっている。

それでも「読む」のか・・・











来週の生存確率・・・


これまではなかったことだが、ここのところこのブログに書いた投稿は、思いつくままを書いて読み返すことも推敲することも無くなった。これまでは書くのに半分、推敲に半分の時間を費やしていたのだが・・・

苛立ちと不安が募る。「死」というものが、観念的なものではなくなっている。一週間後にこの世にはいないかもしれないのだ。その厳然たる事実は、わたしや母だけのものではないはずなのに、なぜか皆左程「一週間後のいのち」についての不安におののいているという風には感じない。何故か?

パソコンで映画を観る習慣はないが、たまたま(勿論海外の人の投稿した)日本映画、岡本喜八監督の『肉弾』をお気に入りに入れていて、音声を主に聞いていた。原爆投下後、敗戦までの数日、特攻(といっても戦車に体当たりだが)に決まった若者の数日を描いた名作だが、「あすのいのちのないものを」という点で、今は驚くほど戦時中に似ている。
猫額洞のいうように、気狂いの指導者を頂いている、という点に於いても。キチガイというよりも、単なるアホウなのだが。

You Tubeで何よりも腹立たしいのは、若い芸能人だかミュージシャンが出てきて、「(感染拡大を防ぐために)外出は控えましょう」と。
そんなことはわかっている。お前らは安倍の、小池の犬か!

今、外に出られないことで、追い詰められ、窮地に陥っている人たちがどれだけいるか、お前らにわかっているのか。同じことを言うにしても、もっと苦渋に満ちた表情で言えないのか。その人たちのことを思えば「外に出ない。そんなの当たり前だよね」といった正義面は反吐が出るぜ!

多くの人たちが、外に出られないことで、疫病に等しい苦悩に呻吟している。
「若いからバカでもいい」とは言わせない!

今回のことで、また久しぶりに海外のブログ漬けになってみると、つくづくこの国の文化の底の浅さがよくわかる。

そして同時に、今改めて「障害者は不幸しか生まない」という命題が、いかんともしがたく正しく思えて仕方がない。

今日のタイトルは「猫額洞」のタイトルを拝借した。

ー追記ー

わたしの投稿を読み、コロナの恐怖であたまがおかしくなったと思う者もいるかもしれない。何故その者たちは「死ぬのが怖くない」のだろうか?つまりは戦時中の日本と同じで、「死ぬのが怖いなどといっている臆病者」ではない、といいたいのだろうか・・・

だとしたらつくづく恐ろしい国だ。

「にっぽんよい国 エライ国。世界でひとつの神の国」-『肉弾』で小学生が読んでいた教科書だ。主人公の若者はそれを聞いて一言。「狂ってる・・・」


[関連投稿]  「憂うべき自殺者の減少」