2018年11月12日

狂的独言


● わたしはあまりに永く生きすぎたようだ。40代の後半、当時のSNSの友達に、
50歳になったら自殺すると言っていて、まだのめのめと生き永らえている。
その間にそのSNSの仲間が4人死んだ。イタリアの男性(50代)と女性(30代)、スペインの女性(40代)、アメリカの女性(40代)・・・みなやさしいいい人たちばかりだった。
55歳、永く生きすぎじゃないか・・・


● 今80歳で重い持病を持つ母といのちを共にすることは、決して変わることのない気持ちだ。仮に母亡き後に数億の財産があったとしても、わたしの気持ちは何も変わらない。
この世に生まれてきて、唯一わたしに親切にしてくれた人、その存在なくしてはただの一日も生きることはできない。
つまりもうあまり長く生きなくてもいいということだ。


● 心を病んだ人たちのブログを読むと、わたしなどよりも遥かに重い症状に苦しみながら、何らかの形で「社会復帰」を成し遂げたいと考えている人が多いことに驚く。
35歳の時、つまり20年前に社会から完全にリタイアして以降、わたしは社会への復帰ということを一度も考えたことがない。母も、その間関わった何人かの精神科医も、現在の主治医も、一言も「社会復帰」などと口にしたこともない。決して「やさしい」とは言えない生活保護担当のケースワーカーでさえ、「作業所?はは、あんたのような根気のない人に単純作業が勤まるわけがないでしょう」と一笑に附した。
わたしに勤まる仕事はないと皆わかってくれていることは助かっている。


● もう本を読めなくなって何カ月にもなるし、観たい映画=ビデオを借りることもままならなくなった。わたしを取り巻く世界はわたしの意思に関わりなく日毎に収縮してゆく。
わたしが外に出たくても、出させない。
昔のように簡単にはビデオ(DVD)を廉価では借りさせない。


● 最近フォローしたブログの筆者の文才に嫉妬する。
彼の読者が口々に言うように、何故彼はものを書く仕事を探さないのだろう?
何度も書いているように、過去に小規模ながら「出版社」に籍を置いて、三度が三度とも「キミはモノを書く仕事には向いていない」と、僅か数カ月で馘になった経験のあるわたしのような者には、彼の巧まざる文才が妬ましい。というよりも、何か一つでも秀でた才を持つ者が、Good For Nothing =いいとこナシのわたしには、単純に羨ましいのだ。
まぁだからこそ、辛い勤めをしなくてすんでいるのだが・・・
「塞翁が馬」。極端に劣っているということも、まんざら悪いことばかりではないということか・・・

孤独中年男の細々生活記


すべて過ぎたこと(或いは「未開の国」にて)


なにをしたいのかわからない。
なにができるのかわからない。

数日前、今年初めて電車に乗って隣の駅に行き、駅から歩いて10分圏内のクリニックに行って帰ってきた。それだけで、わかった気がする。
わたしの時代はとうに終わっていたのだ、と。


新宿TSUTAYAで、今週水曜日まで旧作・準新作レンタルオール100円というメールが届いた。
けれども、わたしは「割引クーポン」を提示できない。携帯用端末とやらを持っていないからだ。
昔、つまりせいぜい5年ほど前までは、どこのTSUTAYAでも不定期に、月に一回くらいの割合で、「クーポン無しでもレンタル100円(半額)」などとやっていた。

こんな都会で生きている自分が馬鹿に思えて仕方がないが、他に行くところもない。
「こんなところは人間の生きる場所ではない」等とは言わない。わたしの考える「人間」と、わたし以外のほとんどがイメージする「現代人」というものが、そもそもまったく異質のものなのだから。



ある人がブログに書いていた。LEDの光が攻撃的に感じられる。コンビニの照明も・・・
うちではLED電球はひとつも使っていない。名もないメーカーの白熱球を使っている。
東京都では、これまでの電球とLEDを無料で交換しているらしいが、わたしは、昔ながらの電球をくれるなら、LED分のお金を払ってもいいと思っている。
(「白熱球」いわゆる「裸電球」と呼ばれていたものは、単なる光源ではなく、ひとつの「文化財」だと思っている。文化とは即ち「様式美」である。電灯の明りではなく、キャンドルの灯の下で食事をするような。「文化」とは「美」への拘り方である。故に「美意識」のないところ(例えば日本 / 東京)に「文化」は存在しない。)
── 電球1つの寿命が2年だとして、1か所に3個もあればわたしの生きている間は間に合うだろう。

LEDが、コンビニの照明が攻撃的に感じられるという意見に対して、今更同感ですもヘチマもない。あれが攻撃的でなくてなにが攻撃的だというのか?
(人体に優しいデジタルなんてものがあるとでもいうのか。そもそも「プラスティック」という物からして生体(生態系・地球)に攻撃的ではないのか。先日薬局でもらった薬の袋が、これまでの紙の袋から、ジッパー付きのポリ袋に替わっていた。帰って母に見せると、「プラごみを減らそうという時代に逆行してるね」と。まったく同感だ。以後その薬局は利用すまいと決めた)



国立に行く時に切符を買った。券売機の、(切符とお釣りの)「お取り忘れにご注意くださいお取り忘れにご注意くださいお取り忘れに・・・」という音声を1年ぶりに耳にして、既にもうその時点で疲れていたのだ。
昼間だというのに、ホームには、これも「相変わらず」照明が点いている。それも昔の蛍光灯ではない。
いつも感心するのは、国立という駅では日中はホームの照明を点けていない。JRでこういう駅をわたしは他に知らない。昼には電気を点けない。こんな当たり前すぎるくらい当たり前のことが、とても意識の高い見識のある駅のように思わせるほど、東京というところは粗野で野蛮な場所なのだ。

スマホとLEDが跋扈する世界にまだ居続ける自分をつくづく馬鹿だと思う。好きで苦しんでいるのだと。
先の短いことが救いだと思う。

ビートルズに'When I'm 64'という歌があるが、わたしに64(歳)はない。

サイモン・アンド・ガーファンクルの「旧友」Old Friends という歌には、

Can you imagine us years from today,
Sharing a parkbench quietly
How terribly strange to be seventy.

今日から何年も後のぼくたちを想像できるかい?
公園のベンチに一緒に黙って座っている。
ぼくたちが70歳になるなんて、なんて奇妙な感じだろう・・・

もちろんわたしに「70歳」という年齢は存在しない・・・してはいけない、したくもない、させてもいけない。


2018年11月11日

ボギー俺も男・・・だ?


最近は絵よりも写真の投稿が多くなった。古いモノクロ写真も大好きだけど、同時期(50~70年代)のカラー写真の味も捨てがたい。

わたしが「フィルム・ノアール」好きだと言ったら驚くだろうか?
「ノアール」=黒、闇、夜、影・・・日蔭者を自称するわたしがそれを好きでも不思議じゃないだろう?
しかし、「フィルム・ノアール」に付き物なのは、「酒」「シガー」「女」「銃」「ヴァイオレンス」「破滅」つまり「ハードボイルド」・・・
非モテの引きこもりにはおよそ縁遠いものばかり(笑)

何でこういうスタイルに惹かれるんだろう?
わからないけど、とにかく「スタイルのあるもの」に惹かれる。
「ポリシー」を持ち、自分の「テイスト」「スタイル」を持っている人たちに興味をそそられる。
もちろんあくまでそれは、わたし好みの「テイスト」であり「スタイル」「ポリシー」であることは言うまでもないことだけど。

ところで、今日コメントをくれたYさん。「わたしに長所なんかない」という言葉に、
「ありのままの自分を表現する姿勢。 これが最大の長所」だと。
なるほどと納得。

レイモンド・チャンドラーに
" There is no bad whiskey. There are only some whiskys that aint as good as others. "

「悪いウィスキーってのはないんだ。ただ、他のウィスキーと同じほどいいのじゃないのがたまにあるってだけさ」
なんて言葉がある。

わたしはこれを、"That aren't as same as others" 「他と同じじゃないのがたまにあるってことさ」と言い換えたい。

◇   ◇


「俺たちはみんな壊れている。だから光が差し込んでくるんだ」
ー アーネスト・ヘミングウェイ


ーPeople Are The Worstー
「人間!最悪だ!」外出時にはこのキャップを。


“I hope to arrive to my death, late, in love, and a little drunk.” 
       ー Atticus.

「願わくば、我が死、恋と、少しの酩酊の後に訪れんことを。」
ー ヘロデス・アッティクス(古代ギリシャのソフィスト)


New York City - 1940's, Weegee (Arthur Fellig) 

ニューヨーク、撮影、ウィージー(1940年代)


New York, 1952, Ernst Haas.

ニューヨークの黄昏時、エルンスト・ハース(1952年)

“I drank to drown my sorrows, but the damned things learned how to swim.”
― Frida Kahlo

悲しみを溺れさせるために飲むんだけど、あいつら、泳ぎ方を覚えちゃてさ」
ーフリーダ・カーロ



Chet Baker - Almost Blue

チェット・ベイカー「オールモスト・ブルー」





 










2018年11月10日

唯一つ



たったひとつ、わたしが胸を張って言えること。それは

「誰もわたしを愛することはできない(わたし自身をも含めて…)」







外の世界


「事実というものはない。ただ、解釈があるだけだ」

というニーチェの言葉をもじっていうなら、

「世界」というものはない。ただ、世界観があるだけだ」

わたしが見、わたしが感じている世界以外に世界は存在しない。無論わたしにとっては。

" We Don't See The World As It Is, We See It As We Are "
ー Anaïs Nin.

「わたしたちは「世の中」をありのままに見てはいない。ただ世界をわたしたちのあるがままに見ているだけ」
ー アナイス・ニン

無論これは [See]「見る」を、[Hear]「聞く」、[Smell]「嗅ぐ」、[Taste]「味わう」、[Touch]「触れる」に置き換えることもできる。つまりわたしたちは、その五感+α(第六感)で「世界」と繋がっている。世界に触れることは、即ち「自己」に触れることに他ならない。言い換えれば、わたしたちは、決して「わたし」の外側に出てゆくことはできない。

L.フォイエルバッハの『キリスト教の本質』にとても興味深いことが書かれている。
「太陽系内の星の数だけの太陽がある」と。何故なら、火星にとっての太陽、地球にとっての太陽、そして海王星にとっての太陽は、全く「物理的に」別のものであるから。
「太陽は一つではない」という「発見」は非常に大きな衝撃であった。








2018年11月9日

現実


「生きている価値がない」とかあるとか、そんなことどうでもいいし、誰もそんなこと知っちゃいない。思いたいように思うがいいさ。
道端の草や土を喰って、人に迷惑をかけさえしなければ、人の目に入りさえしなければ、お前さんが生きていようが死んでいようがわれわれには全く関係はないんだ。

洞穴の中で「生きる価値がない」と100万遍唱えようと勝手だが、自殺だけはよしてくれよな、現実に迷惑がかかるんだからさ・・・塵ひとつ残さず跡形もなく消えてくれるなら話は別だがね・・・



信仰


「わたしには生きている価値はない」「わたしは無価値だ」「いや無価値どころか有害ですらある存在だ」

── どんなに名高い精神科医や臨床心理士がそれを否定しようと試みても、上に書いたことは既にわたしの「信仰」でさえある。

故に何人もこれを否定することはできない。

「不合理故に我信ず」但しわたしの自己否定は決して「不合理」ではないが・・・


ー追記ー

「わたしの自己否定は」ではなく、「わたしの存在は」何よりもわたし自身にとって有害である、という考え方は成り立つだろうか。