2018年9月5日

え?もっと?


" a lot... ? 'lot' is my favorite number"

ウディ・アレンの『マンハッタン』で、ベッドで「もっと・・・」とせがまれた時の彼のうれしそうなセリフです。「’もっと’は、ぼくの大好きな数字だ!」


映画『ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』でミシェル・ファイファーが「メイキング・フーピー」をセクシーに歌うシーンです。

※もし曲が終わってもビデオが続くようでしたら、お手数ですが画面左のボタンをクリックして停止してください。



アムール Amour...


恋をしたいのか?それはわからない。
「恋について語り合えるひと」は欲しいと思う。
恋そのものよりも、素敵な女性と「恋について」話したい。


写真はNico Jesse / ニコ・ジェス(1911-1976)。おそらくパリの恋人たちでしょう。
1950年代の写真です。

スコット・ハルグレン「フィルム・ノアール」(2010年)

「フィルム・ノアール」といえばつきものなのが「ファン・ファタール」=「悪女」です。「悪女」に憧れるかって?いえいえ、滅相もない。映画の中だけで充分。

マレーネ・ディートリッヒは悪女の典型のような女優のひとりですが、1930年の『嘆きの天使』では堅物の中年教授をその色香で滅ぼす役。逆にビリー・ワイルダー監督の『情婦』(1957年)では色男に騙される役。共にフィルム・ノアールの名作ですね。

ところで、セックスについては、こんな名言(?)があります。

“If you want to get laid, go to college. If you want an education, go to the library.”
「もし女と寝たかったら大学へ行け。もし学びたいなら図書館へ行け」
ー フランク・ザッパ

少なくとも、大学は「就職のため」に行くところではないようです。





2018年9月4日

「寂」


さび【寂】古びて趣があること。枯れて渋みのあること。
特に芭蕉一門の俳諧で根本理念とする、閑雅・枯淡の美。
▽「荒(さ)ぶ」に由来し、「錆(さび)」と同語源。
『岩波国語辞典 第二版』より

「錆びる」=「寂(さ)びる」

なんという心惹かれる美意識であることだろう・・・

辺見庸は日本を「土人の国」と呼んでいて、わたしも全く同感だが、近世まではこのような上質の「美意識」を持っていたのだなあ・・・





いくつかの断想


昨年暮れより精神科への通院を中断しているので、話し相手、(メールや電話も含め)は母以外にはいない。
最近は「いのちの電話」に週に3~4回電話をして、話をしている。話し相手は皆ボランティアで、わたしの知る限りほとんどが女性だ。みな時間を気にせず、こちらの話に根気よく付き合ってくれる。

そうした中で、「ああ、わたしはこういうところの相談員にはなれないな」と思った。一番大きな理由は、予め話す時間を30分なら30分と決めておくことも、また話の途中で「申し訳ないけど、そろそろ時間だから…」と会話を中断させることも出来ないと感じたからだ。
話を聴く以上、聴き手は、話し手が納得するまでとことんまで付き合うべきだと思っている。けれどもわたしにはそんな根気も思い遣りもなく、際限なく話を聴いてあげることができない。そのような理由で、聴き手としての能力以前に「相手との時間」という点に於いて、わたしは「いのちの電話」に限らず、相談員にも、またカウンセラーにも向いていないと感じた。

自分が相談する立場に立てば、時間を機械的に分割できる人と話したい、悩みを聴いてもらいたいとは思わない。そこには「仕事臭」がプンプンしている。
もちろん医師も、カウンセラーも職業である。どこかで線引きをしなければならない。けれども、そのことに心のいたみを感じない者は論外である。

随分以前、ある会社のサービスセンターに勤めていたことがある。客の評判は良かったのだが、トップが、「○○は対応が丁寧なのはいいが、一人一人に時間をかけ過ぎる。もっと捌け捌け!」と注意された。

わたしは時に(心の中で)人を裁くけれど、相談してくる人を「捌く」ことはできないので程なくしてそこを辞めた。

◇

「痛々しさをかんじることはよいことだ。それがむきだされることは、すこしも悪いことではない。わたしも参加者も友人たちも、ありていに言うなら、怒るよりも先に、どうすればよいのか、途方に暮れている。それをみんなが隠さずにすんだ。痛々しく途方に暮れている者には、アジ演説、説教、クリシェ、虚勢、正義の押し売り、知ったかぶり、安手の箴言……はまったくなじまない。傷をいっそう深めるだけだ。じぶんの言葉をしぼりだすしかなかった。疵口からやっと声を発するしかない。 」

ー辺見庸 2014年4月のブログより、
「茅ケ崎で行われた講演会についての記述より抜粋」


傷口から滴り落ちる血のように、言葉を、気持ちを発したからといって誰かが足を止めて、耳を傾けてくれるわけではない。

ある人の傷と、別のある人の傷は、決して同じ深さをもってはいない。
ある人の血と、別のある人の血は、決して同じ重さをもってはいない。

目に見えて血を流しているものにはみな駆け寄るだろうが、
目に見えない傷口から血を滴らせている者には、だれも気付かない。

著名作家の傷と、その他「雑民」の傷の価値は、決して同じではない。
作家の「傷口」は金鉱だ・・・

◇

もしわたしの言葉が誰にも理解も共感もされないとしたら、わたしが存在している理由はいったいなんだろう?

◇

わたしは知りたいのだ。親友を失ってから、この10年間、外の世界はいったいどのように変わったのかを。そこはまだわたしが生きる余地を残しているのか?それとも最早わたしの寄る辺はどこにもないのか?

わたしは食堂で、隣に座った人がタバコを吸うのが耐えられない。けれども店がそれを許しているのなら、こちらが席を立つしかない。
同じように、わたしは喫茶店や食堂で、近くの人がスマートフォンを取り出して、出てきた食べ物の写真を撮ることに強烈な嫌悪感がある。けれども店がそれを注意しないのなら、そこを去るしかない。

◇

昨日マドンナのルイ・ヴィトンの広告の写真を投稿した。

わたしが20代中頃、巷はルイ・ヴィトンを持った若い女性たちで溢れていた。
誰も彼もが「ヴィトン」を持ち、また持ちたがっていた。

わたしはどうしても、細かい点での違いはあっても、「ルイ・ヴィトンのバッグ」という、「誰もが持っているものを自分もまた持ちたい」という心理が理解できなかった。
わたしにとって「人と同じである」ということは「恥ずべきこと」であり「嫌悪すべきこと」でしかなかった。彼女たちは「軽蔑すべき人々」だった。
残念ながら、当時彼女たちのひとりに「皆と同じものを持っていて恥ずかしくはありませんか?」と尋ねる機会はなかったが。

◇

わたしは屡々「親友がいた頃」と書いている。
けれどもほんとうにわたしは親友を持っていたのだろうか?

恋人同士が6年間付き合った後に別れる。するとその6年間はどうなるのだろう?お互い、相手への変わらぬ愛情友情を抱きながら、仕方なく別れなければならない場合を別にして、憎み合って別れた後、その6年間は、現実に存在していたと言えるのだろうか?

◇

「作業所」とか「デイケア」というのは、障害者に対する、ある種の「厚生」ならざる「更生施設」なのだろうか?
竹とんぼ作りにしても、ポスティングにしても、封筒貼りにしても、それらの労働に対する対価が100円を下回るとは、いったいどういう理由なのか?

◇
 
ある臨床心理士のブログに、村上春樹の「普通というのは普通じゃないところを含んでこそ普通」という発言と、それを受けた精神分析医北山修(元フォーククルセイダーズ)の、「正常は異常を含んで初めて正常」というようなことが書かれていたが、「普通」も「正常」も「非・普通」「異常」も、相対的な概念で、普通とか正常という固体・実体(像)があるわけではないので、そもそも上のような言説は成り立たない。
「お汁粉に塩をほんの少し入れると甘さが引き立つ」という話と同じではない。だれも「普通」とは何かを知らず、また定義もできないのだから。
ブレヒトの「ファシズムはファシズムと反ファシズムによって構成される」は意味が通じる。誰がファシストであるかはわかる。けれどもそのファシストが「普通であるのか」「異常であるのか」は分らない。

◇

「自殺」というのは、ある意味で、精神医学に対する「人間の精神」の勝利と言えないだろうか。科学でこころを解明できると考える人間の嗤うべき傲慢さに対する勝利だと。











2018年9月3日

お話ししませう


基本的にストリート・フォトグラフィーが好きなのですが、ミッドセンチュリーのファッション・フォトも。


これは女流ファッション・フォトグラファー、リリアン・バスマン(1917-2021)の1955年の作品。

モノクロームですが、どこかペンで描いたような繊細さがシックです。

◇

わたしがまだテレビを見ていた頃ですから、もう20年くらい前でしょうか、
深夜に映画を観終わった後、気紛れにTV画面にしたら、「麻布狸穴(まみあな)」という番組が流れていて、当時知り合い(?)だったJ-WAVEのナビゲーター、ロバート・ハリス、神田うのなどがしゃべっていて、もう番組はエンディング近かったのですが、うのがハリス氏に「ハリスさんはどんな写真集が欲しいですか?」と尋ねると、「うーん、やっぱりヘルムート・ニュートンだな」と答えているのを聞いて、「ええ!?」と呆れると同時に(女好きの)彼らしいなと苦笑したことを思いだします。

仮に同じ質問をされたら迷いますが、少なくとも、エロティック系や美女系ではないことだけは確かです。
「アート」の範疇に入れられる写真で、本当にエロティシズムを感じさせる写真を見たことがありません。「プレイボーイ」や「ペントハウス」のピンナップでさえ、「綺麗」です。

スティーヴン・マイゼルの撮った、ルイ・ヴィトンの広告のマドンナは、確かにセクシーでしたね。





ところでここ数年・・・いや、親友を失った10年以前から、「雑談」というものをしていないので、誰かと、この時期ならビア・ガーデンで、或いは焼き鳥の煙の立ち込める居酒屋で、喫茶店で、アルコールやコーヒーを飲みながらおしゃべりを交わしたいと思います。

映画や音楽について主に話題にしているブログを読むのは、言ってみれば、彼女や彼らの話を聞いているようなもの。
そしてわたしもここで、誰が聞いているのかわからない「雑談」を綴っている。
そういう者同士が、いつか出逢えれば・・・

そうそう、昔(から)わたしが愛読していたブログで話題にされている音楽は、大雑把に分けると、(洋楽の)「ロック」や「ポップ」がほとんどですが、最近自分の持っているCDを適当に聴いていると、確かに、60年代の頃のものも、2000年前後に流行ったギター・ポップ(?)もいいんですが、やっぱりわたしがおちついて耳を傾けていられるのは、シナトラやナット・キング・コール、ビリー・ホリデー、エラやサラなんだなぁと改めて思います。



コラ・ジャズ・トリオ「チャン・チャン」(2008年)
(セネガル及びギニア出身の三人組。編成はピアノ、パーカッション、そしてコラ。)

〔コラ(kora)は、西アフリカが発祥のリュート型撥弦楽器。セネガル、ガンビア、マリ、ギニア、ブルキナファソなどの国々で300年以上に渡って受け継がれてきた伝統的な民族楽器で、特にセネガルとガンビアに代表される。長いネック、ヒョウタンの共鳴胴、そして21本の弦が特徴。
ハープやギターの原型とも言われ、アフリカの民族楽器の中でも最も美しい音色を持つとされる。〕











2018年9月2日

四角じゃないよ、アートだけじゃないよ!


先日、6月で閉店した青山ブックセンターの閉店セールについて書きました。
洋書ビジュアル本がオール500円、そしてペーパーバックは全て200円均一だったと。
わたしはヴィンテージのイラストにも、滅法目がないんですよ。
特にいわゆる「パルプ・フィクション」のイラストには(笑)

200円。ポストカード1枚でも150円はします。
洋書ですから、中身は読めなくても、ものによってはカバーだけでも充分手に入れる価値はあると思います。
手に入れてどうする?もちろん表紙だけ切り取って額装するんです。4枚くらいのコラージュにして。

所謂日本のアート好きって、どうも純粋芸術ーFine Artにばかり目を向けていて、パルプのカバー、ましてエロティク・イラストレーションなどは、「アート」の範疇には入れてもらえないような気がします。別に「アート」であろうとなかろうとどうでもいいんです。好きなんだから。

前回は600円の写真集や画集を買いそびれた、買わ(え)ないまでも、どのような本が安くなっていたのかを見損なったことでくよくよしていましたが、今は、ひょっとしたらわたし好みのペーパーバック・カバーを見つけることが出来たかも!と、くよくよしています。

例えば、有名なところでは、ロバート・マッギニスのカバー・イラスト。





ウィリアム・アイリッシュの作品のカバーを描いたビル・フレミング。これは1941年の作品です。



2007年から約4年間やっていたMyspace(マイスペース)という、当時世界最大のSNSでは、わたしのこの手のヴィンテージ&エロティック・イラストレーションのポストは、男性女性関係なく人気でした。やはり当時も「フレンズ」は外国の人たちばかりでしたけれど。
こういうポストも、ちょっと間違うと削除されたり、あるアメリカの友人は、もうしょっちゅうアカウントを消されていました。

わたしも英語を満足に話せないし、ロシアやイタリア、スペインなど、ヨーロッパの人たちも、みな流暢に英語を話せるわけではない。それでも同じインターネットでも、「日本人ばかり」のグループよりもずっと自由闊達な雰囲気で楽しかったですね。

当時知り合った20代の帰国子女は、ディータ・フォン・ティースというアメリカのセクシュアル・アイコンが好きだと言っていました。もっとも、帰国子女はみなそんな感じかというとそうではなく、育ちが良くて、美しいものだけが好きで、「ブルース」も「カントリー&ウェスタン」も好きじゃないと嘯いていた美女もいました。理由は「泥臭い(土臭い)」から。
だから前者には上のような絵を送るし、深窓の令嬢には、アカデミックな(?)「アート」を送るわけです。

双方から言われたのは、「Takeo さんはひどく変わっていて扱いにくいけど、センスは認める」
何故そんなことを言われたかというと、例によって二人と仲たがいして「フレンド」を解消してしまうことになったからです。
二人の美女にセンスを認められたことは嬉しいけれど、やはり何処へいっても性格の問題はついて回るのか、あるいはどこまでも日本人とは相性が悪いのか・・・



映画『パルプ・フィクション』で、ユマ・サーマンが、トラボルタにいう
" Don't be a square" = 「あんまりマジメにならないでね!」というシーンが印象的です。(スクエアー=四角四面。江戸っ子なら「マッチカク」と言うんでしょうね)


E.L.O. エレクトリック・ライト・オーケストラ『ターン・トゥ・ストーン』


Via  1 . 2 . 3





2018年9月1日

「しないでいることができる人」


こんにち、「~できる」こと(ひと)よりも、「しない」でいることの方が、遥かに困難であり、同時に貴い。
つけくわえるなら、「どのような人間であるか?」よりも「どのような人間ではないか?」に、より興味を惹かれる。