2021年8月12日

断想 「弱者」について

 先の投稿のコメント欄で、ふたつさんは、「すべての弱者を敬う気持ちを持っている」と言われている。

では「弱者」とは何か?

「わたしの信仰は美である」と何度も書いた。弱き者、苦悩する者、貧しき人々、虐げられし者たちは、存在論的に美を具えていると考えている。弱さこそ美である。苦しみ悩むことは美である。襤褸を身にまとうものはうつくしい。虐げられし者は、その憎しみ故に美を持つ。

至極簡単に、且傲慢な口調で言うなら、以上のようなことをわたしは思っている。

先の投稿で、「人を傷つけることは許されない」と書こうとして思い直した。ほんとうに「ヒトヲキズツケルコトハ ワルイコト」なのだろうか?


今日偶々母から、先週の小田急電車の車内で起きた傷害事件について初めて聞いた。
母も最近は新聞をゆっくり読む時間もないほど忙しいようだ。既に誰もが知っていることだろうが、先週末、走行中の小田急線の車内で、30代(?)の男性が、刃物を振りかざし、乗客数人に重軽傷を負わせたという話だった。以下事件についての詳細は省くが、

わたしはその男性を悪く思うことができない。

無差別に人を傷つけ、ひょっとしたら死者が出ていたかもしれない事件を起こした男性を、わたしは憎めない。

何故ならわたしは、広義・狭義問わず、彼は弱者であると思うからだ。


2008年、秋葉原での、当時20代の男性加藤智弘くんによる殺傷事件の際に、わたしは彼に強くこころを寄せていた、そのような若者も少なくはなかった。あの時「他人事じゃないよな」と呟いた(主に若者は)、「いつどこで「キチガイ」に襲われるかわからない」・・・という意味ではなく、いつ自分が加害者=「殺人者」になり得るかわからないという怖れ(乃至「畏れ」)を述べていたのだ。その事件から13年。人心の荒廃は日を追って加速している。
今、秋葉原の事件の際に「加害者」に自分を重ね合わせた人たちのように、小田急線での「加害者」に自分を重ねることができる者は増えているのだろうか?或いは減少しているのだろうか?
わたしは13年前に比べ、更に生きてゆくことが困難になっている今の時代、逆に当時ほど加害者にこころを寄せるものは多くはないのではないかと危ぶむ。

デラシネ(無宿者)、貧困者、障害者だけが弱者であるという考えは皮相であり、あまりにも紋切り型だと思うのだ。わたしにとって加藤智弘くんがそうであったように、今回の小田急線で、若い女性に切りつけた若い男性(?)もまた、社会の被害者であり「弱者」であったと考える。

以下、過去の投稿から、今回の事件に関連すると思われる記事のリンクを載せておく。






わたしの言いたいことは結局、イランのドキュメンタリー映画、『少女は夜明けに夢をみる』ー 英語のタイトルは ' Starless Dreams'(星のない夢)ーを評した女優春名風花さんの言葉に尽きるのではないだろうか。

「彼女たちは罪を犯した。でも・・・罪とは、何なのか?
「加害者になるしかない命」もまた、立派な被害者なのだ。

弱者は盗み、殺すだろう。生きるために?憎しみのために?

それでも尚わたしは弱き者を愛す。

なぜなら

我もまた弱き者なれば也

我もまた鞭打たれし者なれば也・・・


ー追記ー

先日のコメント欄にあったふたつさんの詩、よかったなぁ。











3 件のコメント:

  1. こんにちは。

    とりあえず、お礼を。

    『先日のコメント欄にあったふたつさんの詩、よかったなぁ。』

    どうもありがとうございます。
    本当は、ここを自分の発表の場のようにしてしまっているような罪悪感がるんですが、理屈では説明できないようなことがあると、ついつい使ってしまいます。


    この投稿にもコメントしたいんですが、先のコメントでどうもエネルギー切れです。
    この件には、私も興味があるので、いつか、もう少し書きたいと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    と言いながら、一つだけ言えることを。

    これは、Takeoさんには、少し意地悪な質問に成ってしまうかも知れませんが、もしも、お母様が上記のような事件の被害者であった場合どうでしょうか?
    また、加害者であった場合は、どうでしょう?

    私は、このような事件を起こす人を紋切り型に切って捨てるような批判には、意味が無いと思います。
    そして、個人的にはこのような「自暴自棄」に陥ってしまった人を肯定したいと思う気持ちも強くあります。

    しかし、やはり、『このようなことが起きないことを願わずにはいられない』と言うのが、私の思いでもあると、言わざるを得ませんね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    上で言ったことを、また無視してしまいますが、



    『あの むしあつい なつのひ』

    ぼくは 
    げんばくが とうか された ひろしまに いた
    ぼくは 
    その げんばくを とうか した ばくげききに のって いた
    ぼくは
    にほんの どこかに いて てんのうへいかバンザイと さけんで いた
    ぼくは 
    イギリスの じょうひんな かていの にわさきで 
    アフタヌーン・ティーの クッキーを つまみ ながら だれかと だんしょう して いた

    にわに さく くさばなの うつくしさに ついて

    きっと そうに ちがい ない



    あの むしあつい 9がつの あるひ

    ぼくは 
    りょかくきが つきささった まま もえさかる こうそうビルで
    ほのおに やかれ にげまどう ひとの なかに いた
    ぼくは 
    その りょかくきを のっとり ビルに つっこんで 
    アッラーアクバルと さけびながら すでに じばくして いた
    ぼくは
    にほんの どこかで テレビを みながら
    へぇ たいへんなことが おきたもんだと おもって いた
    そう
    まったくの ひとごとと して

    きっと そうに ちがい ない


    そして いま 
    ぼくは 
    げんばくの ひには まよわず なみだを ながし
    グラウンド・ゼロに むかって まよわず いのりを ささげる だろう
    そう
    いつわり ない かなしみを こめて
    そう 
    それでも やっぱり まったくの ひとごとと して

    きっと そうに ちがい ない



    そのとき
    ぼくが どこに いたかは わからない
    でも
    ぼくが どこかに いたの ならば
    きっと 
    そのとき そのばしょで まよわず いきて いた だろう


    だから いまは 
    まよって いようと おもいます



    いったい ぼくは

    だれの ために なみだを ながし 

    そして

    どこに むかって いのれば いいのでしょう


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    芥川龍之介の「藪の中」と言うのを読んだことがあるんですが、同じことが人によって全く違うことのように語られてしまうという内容だったと記憶しています。

    やはり、私は「悲惨な出来事」は起きないで欲しいなと、どちらの立場からも、そう思ってしまいますね。

    これを八方美人と言われれ場、それを認めますが、それでも、また同じことを言うしかないかもしれませんね。


    それでは。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      いや、今回の詩も素敵です。とてもいい。
      わたしは好きです。うまいなぁと思います。

      ・・・いい詩だから、ということではなく、ここをふたつさんの表現の場として利用して頂いて構わないのです。それはJunkoさんでも、メプさんでも、底彦さんでも同じです。

      Junkoさんやメプさんは、自分たちが貴重な時間を割いて考えて考え抜いて書いた長文のコメントに一向に返事がないことに対しここで抗議してくださって構わないのです。
      そう。開き直るつもりは全くありませんが、ほんとうにいつも気にしながら、コメントの返事が書けずにいます。
      おふたりはとうにもうわたしには愛想を尽かされているかもしれませんが、改めて、ここでお詫びをさせてください。



      >しかし、やはり、『このようなことが起きないことを願わずにはいられない』と言うのが、私の思いでもあると、言わざるを得ませんね。

      勿論です。わたしは決して盗みや人を憎むこと、或いは殺してしまうことをいいことであると言っているのではありません。

      「デモクラシーとは、投票の権利を持つことではなく、誰もが人間としての尊厳を持って生きることのできる社会のことである」と、ナオミ・クラインというアメリカの作家・人権活動家は言っています。

      尊厳を毀損された時に、人の心は鬼になります。そして言うまでもなく今のこの社会は一部の(或いは多くの)人たちの人権を、ひととしての尊厳を傷つけずにはおかないような構造になっています。
      それはアメリカでも同じでしょう。人間としての尊厳を傷つけられた者は、再び自分が人間に戻るため、自分を人間の地位から引き摺り下ろした社会に報復します。



      この詩の中にあるアメリカの世界貿易センタービルへの自爆テロについて、フランスのジャン・ボードリアールという哲学者は、何憚ることなく、「それをやったのは彼らだが、彼らにそう仕向けたのは、我々(アメリカを中心とした西側諸国)だ。」と実質的にテロを是認しています。
      是認どころか、西部邁、辺見庸は、政治的な立場はまったく正反対ですが、9.11について、共に、バンザイを叫ばんほどに自爆テロに共感しています。

      ふたつさんの言うように、無力な我々は、このようなことが起きないことをひたすら祈ることしかできませんが、このような事件が起きた時に、一方的に加害者を責めるようなことは、結局再びおなじような事件を繰り返し再生し続けるようなものです。

      われわれ日本人は、他民族に比べ、「社会が病んでいる」「社会が病む」という認識があまりに希薄であると思っています。



      彼もまた「坑道のカナリア」のひとりであったのだと思います。
      けれども、何羽のカナリアが毒ガスで死んでも、この社会は決して引き返そうとはしていません。そして次々にカナリアを殺し、揚げ句自分たちを生贄にするカナリアに殺される人たちを再生産し続けるという愚を繰り返しているのです。

      最後に、死刑廃止論者に対し、「自分の身内が殺されたとしても、お前は犯人を許せるのか?」
      という質問がよく為されます。わたしに関していえば、それでもわたしは死刑には反対です。
      けれどもわたしはきっと復讐をするでしょう。
      但し、加害者が永山則夫のような人物であったなら、おそらく仕方がなかったのだと思うのでしょう。

      「人を傷つけることは悪いことか?」という自分自身の疑問に対しては、加害者が全く無傷の場合には許されないという答えです。9.11の自爆テロも、永山則夫も、加藤智弘も、それぞれにこころに深い傷を負っていました。そしておそらくは今回の小田急線の事件を起こした男性も。



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    2. いや、この詩は今まで読んできたふたつさんの詩の中でも一番の傑作だと思います。

      それから芥川の「藪の中」は、黒澤明監督の『羅生門』という映画の原作になっています。
      これもまた傑作と言っていいでしょう。

      初期の、つまり『赤ひげ』までのクロサワ作品はどれも傑作という名に相応しいものだと思います。

      ベスト5を挙げるなら順不同で

      『悪い奴ほどよく眠る』
      『生きる』
      『どん底』
      『赤ひげ』
      『醜聞』

      でしょうか。

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