こんばんは、底彦さん。
「社会というものは思想の網の目では捉えきれないほどに複雑なもの」という考え方に底彦さんは共感されています。しかしほんとうにそうでしょうか。いうまでもなく「社会」というものは、「人間がその中で生きてゆくための装置」に他なりません。それは文字通り、「健康で文化的な『最低限度の』生活」を営むための仕組みです。
◇
人間と社会はそれぞれ本来は別個のモノです。しかしほとんどすべての人は特定の文化・習慣・伝統・風俗を持ったクニ=社会の中に生まれてきます。
これも繰り返しになりますが、我々は自分の生まれてくる時代も、国も、性別も、親の人格も、家庭の豊かさ貧しさも、家族との関係も、自分の性格・性質も、容姿も体質体形も、才能・能力も、障害や持病の有無も、何ひとつ自分で選んだものはありません。我々人間は、そのような「自分が自分である」という基盤を、何ひとつ自分で選べないという不条理と共に生まれてきます。これを言い換えれば、我々は、良かれ悪しかれ、すべて違うということになります。
一方で「社会」というものは、既定の生き方というものを我々に提示するだけです。
小学校に行き、中学に行き、高校に行き、その先は、専門的な技術や知識を身に付けるための学校に行き、大部分は企業という組織に入り、やがて結婚し、子どもを設け、子どもは孫を産み、自分は年金で暮らしてゆく。という大まかな「コース」が予め決められています。
もっとも、この所謂「既定のコース」「定食の人生」というのは、個々人よりもクニ=しゃかいを優先するという、遅れた国の持つ特徴でもあるでしょうけれど。
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「社会」というものは、「決まり事」の総体です。けれども、我々個人個人は、良きにつけ悪しきにつけ、「個性」(個別性)というものがあります。しゃかいはニンジンやピーマンを食べさせようとしますが、ニンジンやピーマンが嫌いな人もいます。ニンジンが嫌い、ピーマンが嫌いということは、わがままではなく、その人間の「個性」「個別性」に他なりません。そこに「社会」と「個人」との軋轢・相克が生じます。そして社会の成熟度とは、レディー・メイドのシステムからはみ出た者にどれだけ寛容であるかによって量られます。或いは「個人」と「社会制度」との軋轢・対立の多さによって。ニンジンやピーマンが嫌いだから食べないという人を、どれだけ寛容に受けとめられるかによって決められます。
畢竟社会の豊かさの規準とは「ニンジン、ピーマン」に代わる「選択肢」の多さです。
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>自分は社会のシステムに寄りかかっている, 助けられている.
しかしその社会は自分を簡単に振り落とす可能性を持ったシステムである.
繰り返しますが、社会というものは、その国に暮らす者が「漏れなく」生きることのできる装置であり仕組みです(で、なければなりません)。社会はこぼれ落ちたものを放置しておくことはできません。こぼれ落ちたものを救助するのは社会の責務です。わたしは何故「社会に助けられている」等という言葉が出てくるのかがわかりません。助けない(助けられない)というのは、とりもなおさずその社会の薄志弱行に他ならないからです。
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個人は社会を否定することができます。けれども、個人と社会は左右対称ではありません。仮に社会を全否定する者であっても、社会は、その者を否定することは許されません。
極論するなら「右の頬を擲たれたら、左の頬を差し出せ」これが社会というものの本質ではないでしょうか。少なくとも「国」「社会」は、「民主主義国家」を謳う以上、国民・市民の「下僕」であるはずです。
繰り返しますが、すべての人間が自分が生まれ落ちた社会の仕組み、文化・習慣、思考様式に馴染めるわけではありません。何故なら、我々はそれぞれに違うことを前提とした生身の人間・生体であって、同一均質を大前提とした「製品」ではないからです。「製品」でない以上、JIS「日本工業規格」(Japan Industrial Standard )のような「スタンダード」=「規準となる規格」もまた、存在しません。
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>Takeo さんには社会との繋がりが驚くほど無い, そしてその繋がりを作る意思も無いように感じます.
最後に、わたしは「社会と繋がりを持つ気もない」わけではありません。「社会が」わたしを遠ざけるのです。そのことはここで何度も語ってきたはずです。
大学時代にゲーテの言葉に出逢った時に、わたしは「優秀な規格品になるよりもお手製の馬鹿になろう」と決めました。そして、この国は、規格外品に対し、驚くほど不寛容です。
生まれる前からア・プリオリにそこにある社会に馴染める人間と、馴染めない人間が存在するということは、まったく当たり前のことであるという認識が欠けている人間がこの国には多すぎます。わたし(たち)にとって、この社会は、「たまたまそこにあった」という理(ことわり)に対する認識の欠如もまた然り。
◇
意識の上で社会=クニ(政ーまつりごと)を我々個々人の上位に置くことの危険性は、それによって容易に社会は全体主義化する、ということです。
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マチスは、自分はどうしてもほかの画家のように描くことができなかったと、率直に語っています。見向きもしなかったのではなく、真似をしようとしてもどうしてもできなかったのだと。そしてその、人と同じことの出来なさが「マチス」を生んだのです。
司馬遼太郎が、概して天才というものは、普通の人があたりまえにできることができない人間である、と言っていることは、尤もだと思います。
最後にわたしのアートブログに一時なりとも心が穏やかになれると言って下さったこと、大いに励みになります。正直言って、あの統一性のないイメージの氾濫に、なにゆえ心癒されるのかがわからないのですが。
また話しましょう。
Takeo さん, 返信 (「返信に代えて」とありますが...) をありがとうございます.
返信削除いろいろ考えていました.
> 「社会というものは思想の網の目では捉えきれないほどに複雑なもの」という言葉に底彦さんは共感されています。しかしほんとうにそうでしょうか。いうまでもなく「社会」というものは、「人間がその中で生きてゆくための装置」に他なりません。それは文字通り、「健康で文化的な『最低限度の』生活」を営むための仕組みです。
この文章に引っ掛かっていました.
社会というものが「人間がその中で生きてゆくための装置」であり, 「健康で文化的な『最低限度の』生活」を営むための仕組みに他ならない, と Takeo さんは言います.
その通りだと言い切ってしまいたい自分の傍らに, それに同意できない自分がいます.
ずっと考えていたのですが, 気付いたことがありました.
私が考えている社会というものは, ここで Takeo さんが仰っている「社会」とは少し異なり, 観念的というか, 私の想像 (妄想?) の中にあるようです.
それは, 幼少期の家族における親との関係性や, 学生時代・仕事をしていた時期の他人との関わりの中で味わった精神的苦痛やコミュニケーションの局面において悉く失敗した体験, そして, これだけが現実ですが, 現代社会の分断や閉塞の状況の総体です. これが私が考えている社会の姿なのではないかという気がします.
この「自分の考える社会」は, 私にとって恐ろしいものであり, 忌避したい対象です. それができない苦しさを, 私は自分の思想の未熟さ・幼さが理由だと思っていて, だから「社会というものは思想の網の目では捉えきれないほどに複雑なもの」という言葉への共感が出てきたのでしょう.
その後に続く Takeo さんの説明はそのような「私の社会」に対して, 沁み入るようなものでした.
「「自分が自分である」ことを選べない不条理」, 「個々人よりもクニ=しゃかいを優先するという、遅れた国の持つ特徴」, これは私の記憶から構成される部分を含む「自分の考える社会」の特質をよく言い表わしていると思います.
内向的でおとなしい私は, そのような体験ばかりをしてきたのです.
私が自分で体験した記憶の中の小さな社会 (家族・学校・企業等) では, 確かに私は簡単に振り落とされてきたのです.
> 社会=クニ(政ーまつりごと)を個々人の上位に置くことの危険性は、それによって容易に社会は全体主義化するということです。
記憶の中にある私の周囲の社会と現実の社会との総体が, 私が「自分で考える社会」だと書きました.
これについて私が最も拒否感を抱いているものは「みんな」を個人の上位に置くことです.
その思いと体験はそのまま, 現代の社会 ── 特にこの国 ── への拒否感に繋がっています.
社会の中でうまく「規格品」になれた人間が, それを自分本来の力だと思い込み, 「規格」から外れた人間を攻撃する.
「鬱病になったのはお前が適当に生きてきたから」「なぜ言う通りにできない?」「言い訳をするな」
「仕事」が最優先され, それをうまくこなす者が優秀な者とされ, その思想 (と言うにはあまりにも軽いものばかりですが) や人格が尊敬の対象となる.
ここに深い思想や真理への敬意などは無く, 効率と生産性が価値の規準となります. 極めて皮相的だと思います.
社会を個々人の上位に置くことの危険性は至るところで起こっていると感じます.
小さなこととしか扱われない場合が多いですが, そこには確実に全体主義の萌芽が見られます.
> >Takeo さんには社会との繋がりが驚くほど無い, そしてその繋がりを作る意思も無いように感じます.
>
> 最後に、わたしは「社会と繋がりを持つ気もない」わけではありません。「社会が」わたしを遠ざけるのです。大学時代にゲーテの言葉に出逢った時に、わたしは「優秀な規格品になるよりもお手製の馬鹿になろう」と決めました。そして、この国は、規格外品に対し、驚くほど不寛容です。
私の上記の言葉はかなり無礼なものだったと思います. ごめんなさい.
Takeo さんが下した, ゲーテの言葉に触発されての自らの姿勢・生き方の決定を私は尊敬します.
それは Takeo さんを苦しめ, 悩ませているかも知れませんが, そこに私は Takeo さんの高潔な人柄を感じます.
私はと言えば, 障害年金・デイケア・作業療法のアトリエ・アルコール依存症の自助グループなどとの繋がりを断ちたくないという思いから, 自分と社会との関係性について未だにその不条理について考えています.
答えはほぼ見えているようにも思いますが, 判断を下すのが怖いのです.
マチスについての文章, 励みになります. 彼は徹底して自分であることにこだわったのですね.
> 最後にわたしのアートブログに一時なりとも心が穏やかになれると言って下さったこと、大いに励みになります。正直言って、あの統一性のないイメージの氾濫に、なにゆえ心癒されるのかがわからないといえばわからないのですが。
Takeo さんが投稿する絵画や写真が, 私の想像力を働かせるのです. 元々, 想像の世界に浸るのが好きでしたから.
たとえば投稿される写真は, どれも「現実・時代を切り取ったもの」というよりも何か, 何処か別の世界の不思議な出来事の記録のように見えます.
Ciao Takeo さん
返信削除今、Takeo さんのもうひとつの「Clock without hands」を見てきました。
私はTakeo さんが見つけてくる絵や写真が大好きです。
なぜか心惹かれていつまでも眺めていたくなります。
で、少し前から思ってるのだけど、Takeo さんキュレーターになったらいいのになあと。
きっととても興味深いアートスペースが出来上がるだろうと思いました。
そんな場所でまったりした午後をやわらかい日差しの中で、アートに囲まれて過ごしたいなあなんて思いました。
こんばんは、Junkoさん。ここのところ、1日に2回くらいしかこのブログにはログインしていないので、その間に頂いたコメントに気づくのが遅くなります。加えて、メールのチェックも、1度もしない日がありますので、コメントの反映が遅れて申し訳ありません。
返信削除それから底彦さん、こんばんは。
わたしはあれで話をおしまいにしたつもりはないのですが、心身の状態が日を追って悪くなっていて、今はもう前のような文章を書くことが出来なくなっています。それでもこのようなブログでも、日に数人の訪問者があって、過去の投稿に目を通してくれているようです。
何処の誰が読まれたのかはわかりませんが、ここ数日「もってけ泥棒!」という記事が何度か読まれているようです。読者の方に導かれるようにその記事を再読してみると、さしあたって、わたしの中での「個」と「社会」との(個人的な関係)の在り方が改めてわかるような気がします。
◇
さて、今はJunkoさんとも、底彦さんとも、アートブログの方で繋がっているのでしょうか?
それもわかりません。おふたりは、まだ、時に訪れてくれるアートブログに、嘗てのわたしの面影を感じることができるのでしょうか?すっかり鈍ってしまった頭で選んだ画や写真に、往時のTakeoの残照をみてくれているのでしょうか?
文章を考えようとするとすぐに頭が混乱してしまいます。
Junkoさん。やさしい言葉を気さくな文章で送ってくれたことに感謝します。
底彦さんもどうか穏やかな日々を過ごされますよう。
まともな文章が書けないことを、改めてお詫びします。
武雄
追伸
返信削除おふたりとちゃんとした会話ができないことを心から残念に、そして悲しく思います。
Ciao Takeoさん
返信削除私はこちらもあちらも両方訪れて見させていただいています。
あちらのブログには、タイトル以外言葉というものはありませんよね。
それでも確かに伝わってくるものがあります。
コミュニケーションとは、言葉でするものではないと思っています。
アボリジニ族の人々は互いに会話せず、テレパシーで繋がり合います。
昨今は表面だけの思いの籠っていない言葉もどきが、さも本物であるかのように大手を振って多用されていますが、言葉はあくまでも道具であって、そこに思いがこもっていなければ、ただの置き忘れられた金槌と一緒です。
私はTakeoさんを写真や絵から感じます。
そっちの方が確かな感覚です。
ですから私はTakeo さんと会話をしていないとは感じておりませんから、だからどうぞお気になさらないでください。
Takeoさんもふと耳を澄ましてみたら、きっとみんなからの思いを感じられることと思います。
Takeoさんのことを気にかけ、Takeo さんとお母様の穏やかな日々を心から望んでいる人々は私だけではありません。
ご自愛ください
こんばんは、Junkoさん。
削除Junkoさんは、アートや写真のタイトルを、わたし自身が考えてつけていることに気づかれていましたか?
正式(?)なタイトルは絵や写真の下に記入しています。
今夜は案山子の画を投稿しました。考えてみれば、「かかし」ってあの絵のように、ひとりぼっちで、ずっと広い畑の真ん中に立ち尽くしているんですよね。独りであることを運命づけられているような存在です。
自分の周りに鳥や他の動物が寄ってこないようにするのが彼の役目。一人ぼっちで夕陽を見ている彼の画に、わたしはwill you be my friend? 「お友達になれない?」というタイトルを付けました。
アートのセレクトもまたクリエイティブな営みですが、ほんの短い言葉で自己表現を試みています。もちろん無理矢理タイトルを考え出そうとしても、かえって不自然になってしまうので、そのような時には、ごくシンプルなタイトルを付けます。
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タンブラーではブログのように自由にタイトルを付けたり歌の一節を引用したりしてもほとんど気付く人はいないので、同じ絵や写真を双方に投稿しても、どうしてもブログの方に比重がかかってきます。
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余談になりますが、Tumblrで、WE HAD FACEというタイトルで、往年のハリウッド映画の「スター」たちのポートレイトを投稿しているブログがありました。先日、そのブログの持ち主の女性が、Tumblrを辞めるという投稿をしました。特に理由は書いていなかったように思いますが、このところの度々のモデルチェンジにいい加減見切りをつけたのだろうなと勝手に解釈していました。そう思ったのは、「かつて私たちには顔があった」というタイトルから、わたしとおなじように「オールド・ファッションド」なタイプの人かと思っていたからです。
ところが一昨日、彼女の「サンキュー・アンド・グッドバイ」のメッセージの投稿に、「わたしはいまでも古いハリウッド映画を、当時のアクターやアクトレスたちを愛しています、これからはインスタグラムで投稿しますのでどうかフォローをお願いします」ということが書かれていました。そしてその投稿に200以上の「スキ」乃至「リブログ」のリアクションがありました。
正直わたしは幻滅しました。"Once, We had a face"とはどういう意味だったのか?SNSに「顔」があるのか?
Clock Without Hands には顔があると思っています。
わたしの選んだ画や写真を入れる器として、インスタグラムはじめ、SNSというものはあまりにチープです。
わたしは自分の選んだアートであれ、自分自身の言葉であれ、より多くの人に見て、読んでもらいたいとは思わないのです。そのかわりに、わたしのこの両方のブログに訪れてくれる人たちに深く感謝しています。
わたしは、「Takeoの言葉」が、フェイスブックやツイッターでJunkoさんに伝わるとは思わないのです。わたしの選んだアートがインスタグラムを通じて、Junkoさんの心に語り掛けるとは思わないのです。SNSに貌はありません。匂いも味もありません。
つまり、わたしは、ひとりでも、ふたりでも、「わたしのほんとうの顔」を知ってもらいたいから、あくまでも「ブログ」にこだわり続けています。
Junkoさんが言われるように、言葉はどんどん「想い」から、単なる「情報」へと変質してきています。
正直言って、アートブログも、以前のように心から楽しんでやっているという実感は希薄です。
けれども、ブログでも、Tumblrでも、わたしの選んだ画を、写真を好んでくれる人がいる。それによって束の間でも現実を忘れることができる人がいる。そのような思いがわたしの力になっていると思います。
わたしはJunkoさんのメッセージと無関係なことをお話したでしょうか?
それが言葉であっても、アートであっても、その人物の心がこもっていないものは無意味だということを書いたつもりです。
やさしいお気遣いをありがとうございます。
久し振りにおはなしができてうれしかったです^^