2021年8月19日

このところ、気持ちの中に少しづつ変化が兆しているように感じる。
端的にいえば、「人とのつながりを欲しなくなった」、或いは「人間に興味がなくなった」・・・といった感じだろうか。

うまくいえないのだが、これまでわたしは「ひとにあらざるもの」すなわち「人外(にんがい)」であると自分を規定していた。故に求めても人とつながることはできないのだと。
今回わたしが「他者」とのつながりを求めなくなったというのは、求めても所詮得られぬものという諦めや、自棄(やけ)の感情とは明らかにちがう。


わたしは外に出ることが困難な人間で、せいぜい徒歩、或いは自転車で10分圏内のコンビニやスーパーで売っている弁当などをひとりで食べていて、味覚障害を起こした。かといって、ここに引っ越してきた当初のように、自分で簡単な料理を作るということも1、2ヵ月で出来なくなり、以来、母が一日おきに食べ物を作りに来てくれるようになった。電車とバスを乗り継いで。約1時間かけて。
母が、当日と、翌日の食事を作ってくれたおかげで、何とか味覚は正常に戻った。けれども、ここのところの変化は、母がここに来ることに抵抗を感じるまでになりつつある。

近頃は、所謂「引きこもり」と呼ばれている人たちが、食事を部屋の前に置いてください。という気持ちがわかる気がするのだ。できればロボットが食事の支度から後片付け、何から何まですべてやってくれればいいのにとさえ、思うようになり始めている。

家族と一つ屋根の下で、自分の部屋に籠っている分には、「食事はドアの前に置いてください」で済むだろう。母はわざわざわたしのために食材を運んで来て(或いは箱に詰めて送って)この台所で作ってくれている。けれども現在のわたしの精神状態を考えると、台所との間仕切りのふすまを閉めきって、出来たらテーブルの上に置いておいて帰ってください・・・という心の状態になり得るかもしれない。更には母がここに来ることを辞退することになるかもしれない。そうなれば(生きるために)自分でコンビニなりスーパーに食べ物を買いに行くか?そうは思えない。母が食事を作りに来ることが苦痛になった時、それはわたしが死ぬ時だ。単に餓死ということを意味するのではない。母の存在すら厭うような心境の中で生きている意味など存在しない。


一時は底彦さんがアルコール依存症の人たちの自助グループに参加しているように、
どこか、同じ悩みを持った人たちの自助グループのような場所があれば、と。或いは所謂「地域活動支援センター」のような、障害者のための居場所のようなところに行って、ひとと雑談でもできれば、などと考えていたが、そんな気持ちはもうとうに失くしてしまった。

わたしには母さえ避けるようになっている気持ちが何処から来るのかわからない。
自助グループも、友だち作りもどうでもいい(=関係ない)という気持ちが、何故ここまで強くなってきたのか、わからない。ただ、これだけは確信を持って言えることだが、「感情の鈍麻」ではないということだけは明らかだ。わたしは今、死を異常に恐れている。だから自殺のことばかり考えている。何故なら死から逃れる唯一の手段が自殺に他ならないからだ。


「人はなぜ死ぬのでしょう?」という不如帰のセリフが頭から離れない。

「生を与える」ということは、とりもなおさず「死を与える」ということに他ならない。
人は何故そんな残酷なことができるのか・・・
あなたは今その胸に抱いている赤ん坊に「死」を与えたのだ。「生」を与えることによって・・・

「生」を与えるということは同時に「病い」と「老い」と「衰弱」をも、与えることだ。

しかしわたしは母に何故生んだとは決して言えない。何故ならわたしは母に会えてよかったと思っているからだ。


ド・ゴールが「結局は死が勝利を収めるのだ・・・」と言った時の、当時の文化相アンドレ・マルローの反論はわたしの耳には入らない。「結局は死が勝つのだ。」ド・ゴールの言葉は、「生まれてきたことが敗北なのだ」というエミール・シオランの言葉と対を成す。


しかしマルローはいったい何を言いたかったのだろうか?
「結局は死が勝つ」それは唯一絶対の真理だ。それに対して一体どのような反駁が可能だというのか?













4 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    > わたしには母さえ避けるようになっている気持ちが何処から来るのかわからない。

    苦しいですね. 私は, お母様さえ避けるというその気持ちが Takeo さんの生への意思から来るように思います.
    もう少し言えば, その気持ちは Takeo さんの生きようとする意思からの悲鳴のような思いなのではないですか.

    > 「結局は死が勝つ」それは唯一絶対の真理だ。それに対して一体どのような反駁が可能だというのか?

    「結局は死が勝つ」というのは, ほぼ反論が不可能なような言説ですが私たちは生きています.
    望もうが望むまいが, 生きて, もしくは生きてしまっています.
    そして上記の言葉を発した人も, 自身の生を反芻することができたからこそそれを言うことができたのではないでしょうか.

    私は自らの生に価値を認めない者ですが, 端的に「死が勝つ」と言われることには抵抗します.
    それは, 自分が生きるのだという意思の表明では無く, 「死」を万能の言葉のように使わないで欲しいと考えるからです.

    自分のことを言えば慢性的な鬱に苦しめられていますが, その中に自分の縊死のイメージが繰り返し現れます.
    ただ, それはイメージに過ぎないのです.

    イメージに過ぎない「死」というものを, あたかもあらゆる者への救済のように「死が勝つ」と言い放つことへの抵抗があります.

    私は Takeo さんの「Clock Without Hands』を非常に楽しみに見ています.
    死に惹かれているかも知れない Takeo さんですが, その美しさへの眼は私など到底及びもつかないものです.
    また, このブログにしばしば見られるような Takeo さんの博学さはどうでしょうか.

    Takeo さんは生きるべきだと思います.
    文章の最後にあった, メプさんの言葉に励まされたこと, 良かったと思います.

    感情的な言葉になってしまいました. ごめんなさい.

    友人より, Takeo さんの平安を心より祈っています.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      一昨日だったかに拝見した時には、依然として8月13日付けでブログの更新が停まったままでした。このコメントを見つけたのが今日(23日月曜日)の朝。今現在その間の投稿が為されているかを知りません。

      それ以前の記述で、鬱の症状にひどく苦しめられていることがしきりに述べられていました。昨日ここにコメントを頂きましたので、若干ではあっても、気分が良いのかと考えています。



      わたしと底彦さんとでは、根本的な人生観が異なります。人生観、或いは現実観でしょうか。
      不躾ながら、底彦さんのブログに最近書かれている、「現代社会を生き延びる(或いは現代社会で生きる)示唆を本から得られないものか。」という述懐に例によって違和感を覚えました。現代社会でサバイヴするということは、当然現代社会の在り方を肯定し、それと妥協するということではないでしょうか?

      わたしは「健康とは、自分の心身と、自分を取り巻く外界(環境)との融和であって、自身の身体一個の、独立し、自己完結した健康などあり得ない」と繰り返し述べて来ました。

      現代社会で、「病みながら生きる」ということもまた、全肯定ではないにせよ、現代の社会の在り方を追認することではないでしょうか?

      無論現代社会を是認しようと、全肯定しようと、それは個人個人の考え方で、わたしが容喙すべきことでは更々ありません。それは相手が底彦さんであってもふたつさんであっても同様です。
      わたしは社会の在り方がどうであろうと生きたいのだという叫びを、わたしは軽んじることはできません。

      ただ、わたし個人に関していえば、ここで繰り返し言ってきたように、「生きる」ということは、「わたし個人」(の実存)と「外界」との調和であり、友好的な関係性であって、それがままならない以上、生きることは非常に困難になります。



      わたしの引用した、ド・ゴールの言葉への底彦さんの抵抗はよく理解できます。
      わたしにとってもっとも有効な反駁は、このような生(き)の感情の表出です。
      感情的な文章になってしまったことを詫びておられますが、その必要はありません。
      自分の気持ちをそのままぶつけてくれたことに対し、こちらからありがとうといいたいくらいです。

      底彦さんの気持ちと、「結局は死が勝つのだ」という言葉に対する抵抗に共感しつつも、やはりわたしは「死」はある意味で「救済」であると考えています。

      仮に可能性が高くはなかろうと、(いつの日か)底彦さんの鬱病が、「完治」とまではいかずとも、8割方、回復する=ほぼ健康な状態で日々を暮らせるという「希望」はあります。底彦さんが苦しめられているのは、底彦さんを苦しめているのは、「鬱病」という疾病です。

      一方わたしに「治癒」はあり得ません。何故ならわたしは、どうしても現代、そして来るべき時代と絶対的に反りが合わないからです。一例を挙げるなら、スーパーの会計が(最近は「会計」ではなく"Casher"と言うらしいですが)すべて自動精算機になれば、わたしはスーパーで買い物はできません。(現実に立川駅前の東急ストアではレジの清算がすべて機械なので、買い物はできません。)── あらゆるもの、あらゆる場所が機械化されていく中で、わたしの厭離穢土の感情はいやまして高まり、厭世観はますます強まって、その結果として「死は濁世からの逃亡」という感情に少しづつ近づいてゆきます・・・

      「死が勝つ」ということも(わたしにとっては紛れもない事実ですが)それ以上に「死は救いである」という気持ちがこれほどまでに強いのは、やはり、現代社会とわたしの「感覚・感受性・本能・美意識」があまりにも乖離しているが故です。



      底彦さんは、わたしのアート・ブログを好感を持って眺めてくださっているという、何よりの励ましの言葉です。更にそこに美があると。仮にわたしに美が見える感覚や感受性があるとして、そのような美に敏感な者が、醜悪なものに対しては極めて鈍感であると思われますか?

      もし底彦さんが、心底、わたしの投稿の何割かに、紛れもなく「美」を見出してくれているとしたら、その美を見出したもの(=魂)は、この現実世界に紛れもなく「醜(しこ)」を見て苦しんでいるのです。

      わたしはあれらの写真に写されている人たちの生をいとおしみます。そしてそれらを写した写真家たちを愛しています。

      美と醜はうらおもてです、愛と憎しみもまたうらおもてです。底彦さんが惹かれるあれらの写真群やアートたちに惹かれれば惹かれるほど、わたしの現世への絶望と嫌悪は深まり、遂には、死こそ救済であるとさえ思うようになったのです。

      繰り返します。わたしは生を愛しているからこそ、それを毀損する現代文明を憎悪するのだと。底彦さんはわたしの「生」への慈しみを、あのブログを通じて、無意識に感じ取っておられるはずです。

      どうかお大事に平穏に日々を過ごされますように。

      あなたの友人

      武雄

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    2. 追記

      底彦さん、わたしは観念的な、形而上的な話をしたのではありません。
      最近「もう長くはないな・・・」と実感として強く感じることが多いのです。
      それは「死は救済である」「濁世からの逃亡である」などという文学的(?)なものではなく、もうすぐ自分が死ぬという、呼吸が速迫してくるような生々しい恐怖です。

      シェイクスピアの言葉だったか、「どんなに偉大な哲学者も歯痛には勝てない」
      そいうことです。

      昨日投稿した、英国の画家、イヴリン・ド・モーガンの「死の天使」"The Angel of Death" のタイトルにある"Death"という文字にも敏感に反応してしまいます。

      形而上的には「死は救い」であり厭離穢土の成就ということを指しますが、現実のわたしの存在は死を恐れています。厳密には死に伴う様々ないたみやくるしみを・・・

      わたしが底彦さんのブログ全体を通じていつも感じているのは、自分に比べてこの人は何という強靭な精神力と、生命力の持ち主なのだろうという「驚き」です。



      >自身の生を反芻することができたからこそそれを言うことができたのではないでしょうか.

      アンドレ・マルローの反論は、不正確ですが「・・・確かにそうですが、死が「直ちに」勝利を収めるというわけではありません」というものだったと記憶しています。ベルイマン風に言うなら、「死は最終的には勝利を収めますが、それまでに「生」という、死までの「猶予期間」があるのではありませんか?」

      これがわたしの記憶にあるマルローの反論でした。

      けれども、わたしには省みるべき「生」はほとんどありません。
      省みて気付くのは、孤独と、死と病気への恐怖に支配された「生」だったと言えるでしょう。

      そしていま、もう来年の夏にはこの世にいないかもしれないという感情が、実感として側側として迫っているのです。

      そんな気持ちの中で、「結局は死が勝つ」という言葉はごく自然に頭の中に浮かんできました。



      >自分のことを言えば慢性的な鬱に苦しめられていますが, その中に自分の縊死のイメージが繰り返し現れます.
      ただ, それはイメージに過ぎないのです.

      >イメージに過ぎない「死」というものを, あたかもあらゆる者への救済のように「死が勝つ」と言い放つことへの抵抗があります.

      ここで啄木の歌や、エミール・シオランの「自殺という逃げ道が無かったらわたしはとうに自殺していただろう」という言葉を頻繁に引用するのは、「自死」のイメージがわたしの心を多少なりとも落ち着かせてくれるからです。いざとなれば(「縊死」も含め)「自殺という逃げ道があるのだ」と思うことで救われています。

      この場合は、しかし「死は勝つ」ではなく、「死(の恐怖)に勝つ」という意味で使われています。本文中にも書いたように、死を殺すのが自死だとわたしは昔から考えています。

      死ぬことを/持薬を飲むがごとくにも/我は思へり/こころ痛めば (啄木)

      (自)死のイメージは、このように、わたしや、啄木や、シオランの魂を救っています。

      繰り返します。わたしは形而下、身体のレベルで「死」「病」乃至「死病」を恐れています。それは生々しい実感を伴った恐怖です。その時に、「結局は死が勝つのだ」という思いは、当然の帰着点のような気がします。
      更に底彦さんの言われる「死のイメージ」は、上記のような死の恐怖からの「逃げ道」として、いつも開けられていると思うことによって、多少なりとも救われているのです。

      わたしは芥川がアウグスト・ストリンドベリについて「彼もまた、死にたいと思いながら死ねなかったひとりだったのだ」と言ったような意味で、今現在まだ、生き存らえています。

      乱文にて

      武雄

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    3. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんは「生きる」ということに対して非常に誠実ですね.

      > わたしは生を愛しているからこそ、それを毀損する現代文明を憎悪するのだと。底彦さんはわたしの「生」への慈しみを、あのブログを通じて、無意識に感じ取っておられるはずです。

      また, Takeo さんは一貫しています. 「生を愛しているからこそ、それを毀損する現代文明を憎悪する」というのは, Takeo さんがこのブログで何度も書いてきたことだったと思い出しています.

      Takeo さんの文章の中には, 他にも

      > 「生きる」ということは、「わたし個人」(の実存)と「外界」との調和であり、友好的な関係性であって、それがままならない以上、生きることは非常に困難になります。

      > わたしに「治癒」はあり得ません。何故ならわたしは、どうしても現代、そして来るべき時代と絶対的に反りが合わないからです。

      のような記述があります.

      Takeo さんには現実の社会との繋がりというものが, 驚くほどありません.

      私にしても, 社会から弾き出された人間ですが, それでも通院や障害年金を通じて, 社会との細い繋がりを持っています.
      だから, 現実の社会をある部分で受け入れ, その中で自らの生の可能性にしがみついているのです.
      これは, Takeo さんも仰るように一種の妥協だと思います. 今の自分には, この妥協を解消すべき方法が見出だせません.

      現実社会を拒絶し, 社会との繋がりを断ち, Takeo さんは実際問題として追い詰められています.
      その不安は

      > もうすぐ自分が死ぬという、呼吸が速迫してくるような生々しい恐怖です。

      という文章で生々しく述べられています.

      私から見れば, そのような不安・恐怖を感じつつも Takeo さんは自らの一貫した立場を貫き, まるで喪われていく「美」に殉ずるかのような姿に見えます.
      Takeo さんは, 上記のような恐怖になぜ堪えられるのですか. 「美」があるからですか.

      私には, 不安が絶えることがありません.
      それは, この最低の社会の中でこの先生きていけるのだろうかという不安であり恐怖です.
      自分は社会のシステムに寄りかかっている, 助けられている.
      しかしその社会は自分を簡単に振り落とす可能性を持ったシステムである.

      シモーヌ・ヴェイユの文章は, 読んでいるとそのような自分にある種の考える示唆を与えてくれています.
      自己を非常に低く置く姿勢, 美と真理に対する尊敬, 注意力への焦点, 等々.
      ただし今のところ「示唆を受けるような気がする」だけです.
      それによって自分の不安や恐怖が払拭されるというものではありません.

      Takeo さんが「結局は死が勝つ」という言葉を引用した理由はよくわかりました. 文字通り, 形而下での「死」「病」ないし「死病」を恐れる思いから導かれたものだったのですね.
      私が語った「死のイメージ」としての「縊死」は, 私自身の意識と照らし合わせても, 死の恐怖からの「逃げ道」ということで間違いないと思います. 意識のすりかえのようなものですね.
      個人の実感としてはやや辛い逃げ道ではありますが.

      Takeo さんには社会との繋がりが驚くほど無い, そしてその繋がりを作る意思も無いように感じます.
      そのことから派生してくるであろう形而下の恐怖に苛まれる中で, Takeo さんは美しいアートを投稿しています.
      追い詰められて, ということもあるのかも知れませんが, 「美」と Takeo さんの静かな触れ合いには心から憧憬の念を抱きます.
      また, Takeo さんの投稿されたアートには心底癒されています.

      Takeo さんが喪われていく美を過去の写真や絵画に見出だして投稿を行うこと, それを鑑賞することで Takeo さんと繋がれていることを私は喜びに思います.

      私は, Takeo さんとはもう少しお話をしてみたいのです.
      自らの省みるべき生について

      > 孤独と、死と病気への恐怖に支配された「生」だった

      と仰っていますが, 少なくとも Takeo さんの美への視点は, それが現代の醜さと表裏であったとしても確実にある豊かさを持ったものに感じられるからです.

      友人として, Takeo さんの心が少しでも平安であることを祈っています.

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