2021年8月6日

無題

 こんばんは、ふたつさん、メプさん。

そしてJunkoさん、コメントが正しく反映されず、また、メールをまめにチェックしていませんので、せっかく5日のうちに送ってくださった誕生日のメッセージを見逃してしまい申し訳ありませんでした。

みなさんからのメッセージに、なかなかきちんとした返事が出来ずに心苦しく思っています。

「生」に対する今のわたしの切れ切れの想いは昨日投稿した通りです。

また昨年まではなんとか、一昨年にはあたりまえのように、今回頂いたような長文のコメントに返事を書けていたということを思うと、一歩一歩下りてゆく階段の「一歩の深さ」を意識せずにはいられません。数段の階段であっても、今は底から見上げるようです。


先にJunkoさんは、わたしとの対話を「禅問答のようだ」とおっしゃいました。Junkoさんがそのように感じてくれていることをうれしく思います。
わたしは「問答」が好きです。「ああでもないこうでもない」という果てしのない思考の流れが、わたしの頭の中の状態です。以前書いたことがありますが、わたしには「自明の事」というものがそもそも存在しません。子供から大人になるということは、心の中、頭の中の「?」を少しづつ「!」に換えてゆくことのように思われます。オセロの駒(?)を黒から白に裏返すように。
けれどもわたしは「!」を求めてはいません。その代り、いつも、より多くの「?」を(無意識に)捜しているような気がします。

ふたつさんは「迷い」こそがうつくしいと書かれています。まったく同じ気持ちです。
「?」を「!」に換えるつもりはない。所謂「答え」「正解」を知りたいとも思いません。

わたしは相対主義者でもあります。相対主義を簡単に言うと、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの言葉が先ず思い出されますが、この場合の「万物の尺度」である「人間」というのは、すべてのにんげんということではなく、「わたしという人間」を意味しています。わたしもJunkoさんの言うように、「わたしの好悪」を絶対視します。
わたしはわたしであって、「彼」でも「彼女」でも「我々日本人」でもない以上、わたしにとってわたしの好悪は当然絶対的なものになります。同時に、わたしの「好き嫌い」はなんら客観的な価値を持ちません。わたしの好きな絵や写真、映画、音楽、言葉、詩・・・これらはみなわたしの好みに合うというだけで、わたしはそれらのものに一枚の薄紙ほどの価値を付与することはできません。わたしは自分の思考(嗜好)を著した文章に誰かの心をを動かす力があるとは思いません。もちろんわたしが紹介することで初めて知った絵や写真、音楽や映像などを新たに好きになる人はいるでしょうけれど。

以上のことを省みると、わたしはいかにつましく、微小な規模であっても「思想家」とは呼べないと思っています。
わたしにこれといった思想はない。「ぼく自身或いは困難な存在」に書かれていることは全てわたしの「感覚」「感性」「美意識」であって、わたしという「個」と不可分です。それらは決して抽象化されることはありません。それゆえ普遍性を持ち得る「思想」となることはできません。

一方わたしを嫌い、わたしが嫌う「彼(ら)」は小なりと言えども「思想家」と呼ぶことができるかもしれません。
何故と言って、彼らは「?」を「!」の手段として用いているからです。繰り返しますがわたしは「!」よりも「?」を重んじる者です。そして「?」は畢竟一個人の感覚であり、一方「!」は抽象化され普遍性を持ちます。
「?????」ばかりが頭の中に渦巻いているような「思想家」なんているでしょうか?

ですから万が一わたしの影響を受けるような人がいるとすれば、それはわたしの「?」を受け継ぐ人と言えるでしょう。わたしの「?」を受け継いだ人が、いづれその「?」=「何故?」を「!」(エウレカーユリイカ)=「見つけた!」となった時に、彼はわたしの影響から脱するのです。

わたしにとって「?」は、未だ「!」になっていない未成の状態でも「!」に成熟・完成・到達するまでの過渡の状態でもなく「?」を持ち続けることが、考えることに繋がるのだと思っています、そして人間は考えることが必要だと思っています。
Junkoさんは、「死」についてのわたしの恐れに対して、「終わりの無いものなど面白くもない」と仰っています。それに倣って言うなら、「答えのある問い(疑問)など面白くもない」。
答え=「!」とは普遍(誰にでも当てはまる)であるからこそ「答え」と呼び得るのです。普遍性とは「遍(あまね)き」ものであるが故に、わたしという個人とは直接の関係を持ち得ません。
参照


この投稿は、ふたつさんの言及された「絶対視」と「迷うこと」そしてわたしの影響力という点についてのまとまりのない習作のようなものです。

本来は、昨日のわたしの誕生日について書かれているメプさん、そしてJunkoさんへの返事を先にすべきなのですが、ひとまずおふたりの誕生祝い(やっぱりこの言葉には抵抗があるなぁ)に、お礼を述べさせていただくとともに、母へのお気持ちにも、こころからの感謝の気持ちをお伝えします。

何やらまとまりのない文章になってしまいましたが、この暑さですので。

Junkoさん、メプさんにも、少しづつお返事を書いていくつもりです。

不悉







2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    まず、前回のコメントですが、書きかけみたいな状態で送ってしまったために、終わりの挨拶すら抜けている状態だったことをお詫びします。
    もうちょっと言いたいことがあるような気がしていたんですが、言葉が思いつかなかったので迷っていたら、いつの間にか書き終わったような気分に成っていて、そのまま送ってしまいました。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    さて、この記事についてですが、これについても、私の解釈はかなり違います。

    私は「〇〇家」という言葉をあまり使わないので、「思想家」とは言いませんが、私にとって「思想する人」とは「?」を続ける人であって、けっして「!」を見つける人ではありません。
    だから、もしも「思想する人」が居るとすれば、それは「?」の人ですね。


    Takeoさんは「?」ばかりの思想なんて無いでしょ?
    と仰っていますが、私にとっては「?」以外の思想はありません。

    私にとって「!」は科学です。

    そして、「!」は「?」を続けるためのものです。
    一つの「?」に対して、なにかしらの「!」が与えられると、そこにまた新たな「?」が産み出される領域が生まれます。

    「ナニカ」があるから疑うことが出来るように成る、「ナニモ」なければ疑いが生じる場がありません。

    「??」までが人間の限度だと思います。
    同じ「?」を繰り返すことは可能ですが、それは「反復」であって「疑問」とは言えなく成っていくというのが、私の考え方ですね。
    「反復」は繰り返されるたびに「疑問」からは遠ざかり、既に予定された「理解不能」と言う答えに向かうように成ります。
    つまり、「疑問」される前から、「理解不能」と言う「回答」に向かうという予測が成り立ってしまった時点からは、「疑問」とは呼べなく成るというのが、私の考えです。

    それを「フレッシュな疑問」に差し戻してくれるのが「!」ということに成ります。

    Takeoさんは「!」を求めるための「?」を好まないのかも知れませんが、「?」と言うのは「ナニカ」を求める気持ちからしか生まれないような気がします。

    もしも、「ナニモ」求めないのであれば「 」であるはずです。
    そして、これが私の理想形に最も近いですね。
    ただし、これは人間の限度を超えています。
    たぶん、『考えない』と言うのは、私には不可能ですね。

    仏教思想や、イスラム教思想では「無」や「空」を求めるそうですが、それは、たぶん一般的に言われている「悟り」に向かう修行と言う意味だけではなく、永遠に続けられる不可能なことに対する飽くことなき探求精神のことを言っているところもあるような気がします。

    つまり、「!のための?」ではなく、「?のための!」ですね。
    「?」を続けるために、仕方なく要り用に成るのが「!」ということです。

    ここで、なぜ一般的には「!」だけが重視されてしまい「?」は「!」のためのアイテムであるかのような判断が主流に成ってしまうかと言えば、そこに「意味」と「価値」が混同されていることが関係していると思っています。

    例えば、ライト兄弟は飛行機を作りましたが、それを実用化は出来なかったようです。
    その後、改良に改良を重ねられた旅客機がいま世界中を飛び回っています。

    ライト兄弟が創り出したのが、私が考えるところの飛行機の「意味」で、それを実用化した人たちが創り出したのが飛行機の「価値」に当たります。

    人は実用的なものを利用すると、自分が得をするので「価値」の方を重視してしまうということですね。
    ライト兄弟が有名なのは、その後産み出された「価値」があるからであって、もしも、飛行機が実用化されなければ、きっと、彼らの名前は忘れられたでしょう。

    しかし、彼らが「飛行機の意味」を創り出したから、その後「飛行機の価値」が生まれたのであって、「価値」が先行することはありません。
    だから、私もどちらかと言えば「意味」を「価値」よりも重視しています。

    しかし、「価値」を軽視しきれるか?と言うと、それも出来なくて、現在自分の周りに有って、自分が使っているもののほとんどが、そういう「価値」によって生み出されたものですから、それらを一切使わないということは、常に裸で生活し、常にたった今自分が素手でで殺した動物の生肉を自分の歯だけで食いちぎって喰い、常に屋根のない土の上で寝ることに成ります。
    植物を食べるとしたら、それが品種改良や栽培などの形で人間の手が一切加わっていないことが必要に成ります。

    それは、私には出来ません。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    つづく・・・

    返信削除
  2. ・・・つづき

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    次に「普遍性」についてです。

    これも、私の考えは少し違います。

    私からすると、Takeoさんがおっしゃっている「普遍性」は、私の中では「一般性」です。
    つまり、「個の多数化」ですね。
    私は、「普遍性」とは「個」の中に宿るものではなく、「自然」とか「本質」とか「全」と言った「世界の根源」となるような「原理」のようなものの中に宿るものだと思っています。
    だから、「普遍的なもの」とは唯一無二であるはずで複数であることはないはずと言う考え方をしています。
    例えていうならば、「宗教」という概念の中に限定して考えた場合は「神」が最も「普遍的な存在」と言うようなことです。
    自然科学を基盤において考えた場合は「宇宙」や「自然」が、最も「普遍的な存在」に成るんだと思います。
    哲学的な思考において、私が最も「普遍的」だと思うのは「全」です。
    ただし、その「全」は「無」に直結していて、ある事象の「普遍性」がもっとも高まって「全」と成った瞬間に、それは「無」と化すというような感じでしょうか。

    例えば、白い壁に赤い点を打っていくときに、その赤い点が無数に増えて行ったあと、白い壁がうめつくされて、真っ赤な壁に成ったとき、赤い点がその壁の中での「全」と成ると同時に、白い壁は消滅して「無」と成ります。

    その途中のたくさんの点の状態が「一般的」な状態ですが、実を言うと、人間の認識は、無数に打たれた点が折り重なって一定の面積を持つように成ったときからは、それを点とは認識しなく成ります。

    つまり、人間の認識の範囲では、点と点が独立した状態、つまり「個」の状態を保っている中で、それが「多数」である状態を「一般」とすることが多いということだと思います。

    たぶん、書いている本人がよくわかりませんから、読んだ方はわからないでしょうが、これが、私の「普遍」と「一般」の違いですね。

    Takeoさんがおっしゃっている「個」は、その「個」が単独である状態を意味していると思います。
    つまり、一つの壁にたった一つの点が打たれているという状態、これを人間に置き換えたのが、私の考える「個人」ですね。

    上の話で言うところの、点が打たれていく過程を「コンテクスト=文脈」ということができますが、多くの場合は、結果的に現れた壁の状態だけを見て、既に無数に打たれた点を図とみなしてしまうために、それが無数の点の集積であることが認識されません。
    だから、Takeoさんは、よく人から『コンテクストをすり替えるな』という類の批判を受けるんだと思います。

    Takeoさんは、よく自分には『0か100か』しかないと言っていますから、いつも無数に点が打たれて既に一定の面積を持った状態から話を始めていることが多いので(たぶん、Takeoさんの中では、それが当然のことなのでごく当たり前のように使ってしまうんだと思います)、結果的に、それを点であると認識することができない人たちには、話をすり替えているように見えてしまうわけです。

    でも、たいていの場合は、Takeoさんは話をすり替えているのではなく、既にコンテクスト(文脈)が『済み』の状態から話を始めているだけなんだと思います。
    つまり、そういう批判をしている人たちは、多くの場合、コンテクストとテクストを読み違えているということです。

    いま、提示されている事象だけを見て、それを「文脈済み」の状態と判断せずに、そこに「文脈」が提示されていると思ってしまうために、その文脈がすり替えられているように見えてしまうわけですね。
    要するに、いきなり「図」を見せられて、それを「点」だと言われても困るよ!と言っているわけですが、それは、実は、「点の集積」と言う「文脈」の結果なのだということが見えていないということなんではないかと、私はいつも思います。


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    さて、みなさんが、Takeoさんの目の状態を気遣って、長い文章を避けている中で、私だけが、何の気遣いもなく、長々しい文を書いています。

    でも、少し言い訳をさせていただいて、さらに文章を長くします。

    私は、Takeoさんと言う人は「心で生きている人」だと思っています。
    だから、もちろん目も大事ですが、「心のエナジー」が増幅されていると、体もある程度は保っていられるタイプの人なんじゃないかと思っているんです。
    (長く生きるということではなく、少し楽に過ごせるという意味です)

    Takeoさんにとって、「心のエナジー」を増幅する源は、「怒り」であり「批判精神」であり、「イライラ」だと思います。
    私は、そういう一見するとネガティブな感情こそ、TakeoさんをTakeoさんたらしめているものだと思っているので、いつも、どうしてもこういうコメントに成ってしまいます。

    いや、『わるいな』とは思っているんですよ。
    嘘じゃなくて、わるいとは思ってるんですが、Takeoさんに何か言うとなると、どうも、こうなってしまうんですねぇ。

    私は、どちらかと言うと素直な人間ではないので、どうしても、『やっぱりこんな感じでしょ?ここに書くことは』という方を優先してしまうわけです。

    だから、ここ数日のやり取りの中で、少しだけかもしれませんが、「いつものTakeoさん」が戻ってきたように見えたのは、私には嬉しかったですよ。


    それから、JunkoさんはTakeoさんによく『自分を抱きしめてほしい』と言っていますが、私自身も、前にそんなことを言ったことがあるような気がしますし、それもよくわかるんですが、今は、Takeoさんには「自分を抱きしめること」は出来ないだろうなと思っています。

    これは、私自身の中にもそういう感覚があるんですが、『自分には身体が無い』と言う感覚があって、『この体は幻想にすぎない、あるのは心だけだ』と言う感覚があるんです。

    もしかしたら、Takeoさんとは全然違うのかも知れませんが、

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    『からっぽな からだに あふれる こころ』

    からだが あるというのは
    さっかくに すぎない

    ほんとうは からだは
    からっぽだ

    からだが なければ
    その からっぽの からだを
    だきしめることは できない

    それでも そこに 
    まだ こころが あるなら
    それを どうにか つつみこんで いないと
    こころが あふれてしまう

    だから りょうてで 
    こころを いっしょうけんめい つつみこんで いる


    それでも すこしづつ うしなわれて いく こころを 
    ひろい あつめる
     
    それが いきると いうこと


    そして ついには
    こころを つつみこんでいた その てを はなしてしまう

    それが しぬと いうこと


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    こういう感じがあるんですね。

    これ、『体が重い』と感じているJunkoさんとも似ているけど、やはり少し違うかな?と思うんですね。

    私の場合は、幻想の中の身体を抱きしめても、空気をつかむような感覚が残るだけと言う印象があるんですね。
    だから、心を重視していますし、その溢れ出ていく心を少しでも集めていられたら、イイのかな?と思っているんです。
    それが、私にとっては、絵を描くという作業なんですよね。


    それでは。

    返信削除