2021年8月5日

誕生日の断想2

生まれてくるということ、「生」というものが、すべからく「死」を前提としたものであることを思うと、「生む」ということは、「死なせる」という意味を孕んでいる。

これは残酷なことではないのだろうか・・・

「種の保存のため」だという。けれども、あらゆる有機体の中で、我こそはこの地球上に存在する価値があるという「種」は、果たして何を根拠に、自分の属する種の生存・存在、そして存続を肯んじ得るのだろうか。

路傍の野の花に訊く、「きみが生き、きみが種子を残すということの必然性・妥当性とはなんなのだ?きみの自己肯定、そして種の肯定はどこから来たるのか?」








5 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    こちらはまだ8月5日ですから、お誕生日中にお祝い、まだ間に合いますね 笑

    Takeoさん
    お誕生日おめでとうございます。

    Takeoさんはすでにご存知の通り、私は子供の頃から誕生日が嫌いで、産まれて来る前に産まれて来たくないと思っていた自分の思考を覚えています。
    肉体を持って生きるという事の重さを覚えていたので、怠惰な私はこんな厄介でくたびれる事はもうやりたくないと思ったのです。
    しかしながら、
    こうして生を与えられた以上、最後まで生ききってやろうと思っています。
    私は全てのことに意味があると信じていますし、そして見始めた映画がどんなに退屈なものであっても、最後まで観ないではいられないのと同じで、この人生も最後まできちんと見届けたいと思っています。
    そうでないと、あっちに逝ってから神様に「いくらなんでもあれはやり過ぎでしょ」などと言う、真っ当な文句の一つも言えないでしょうから。

    Takeoさんは、「生」というものが、すべからく「死」を前提としたものであることを残酷であるとおっしゃいますが、私はそうは思いません。
    お終いのないものほど退屈なものはありません。
    終わりのない、変わらないものなど、どんなに精巧に本物そっくりに作られていても、何も伝えてこない造花と同じ、退屈です。
    終わりがあるから、生はそれが鈍かろうが、眩しいほどであろうが、その光を放ち輝くのだと思います。
    もう何遍言ったか、覚えてもいませんし、ふたつさんもそうおっしゃっていましたが、Takeo さんがどんなにご自分を嫌い、どんなにご自分の生を呪おうが、私にとってTakeo さんの生は極めて興味深い光を放って輝いていますし、Takeo さんの脳力、感性、思考は際立って人を惹きつけると、私も含め、そう思います。
    確かに、万人向けではないのでしょうが、万人なんてクソ喰らえでしょ? 苦笑

    Takeoさんのお母様、いろいろとご心労もあると思いますが、そんな中でも、Takeo さんのお母様は、Takeo さんを産んでよかったと思っていらっしゃると思います。少なくとも、産まなければよかったと思った事は一度もないと推察します。
    それは、母と言う人たちの超人間なところから来るものかもしれませんが、何と言ってもTakeo さんのような方をこの世に出したお母様ですから、多分、人生の中で起こる苦い部分にもそれなりの「甲斐」を見出される方なのではないかと拝見するからです。
    このお誕生日に、Takeo さんも書いていらっしゃいましたが、お母様に「ありがとう」と言って差し上げたら、(あくまでもそう言う気持ちになれたらの話です。私はお世辞はもちろんホワイトライも好きではありませんから、、) それは何よりものお母様への労いになるのではないかと考えます。
    自分はどんなに大変でもね、愛する人、愛する子供の笑顔を、それがたとえ一瞬であったとしても、それを見る事ができたとしたら、全ての苦労が報われた気持ちになるのではないかと、とりわけ母と言うものはそう言う人たちであると、そう思うのです。

    種子を残そうが、子孫を残そうが、私たちの人生の重みがそれで軽くなったり重くなったりする事はないと思います。
    実際、私も種子も子供も残していませんが、その種子を残さないがために、未来への「続く」がない私の人生を、私だけの人生として愛します。
    我こそはこの地球上に存在する価値がある。その価値は、私たち自身が与えるものであると私は信じますし、何の目的もなく、そして産まれて来た意味を知ることもなく、必然性も妥当性もなく、「ただ生きる」では足りませんか?

    私が人間以外の生き物を、花を木を蜂をある種の尊敬を持って愛するのは、彼らが何も問わず、何も求めず、彼らの生を「ただ」生きているからです。
    私は彼ら「ただ」黙々と生きるその姿に感動します。
    私が誰かを愛する時に、理由はあまりありません。
    ただいいなあと思うだけ、それと同じように自分の人生も好きになる理由など特に要らなくないですか? 

    Takeoさんが、産まれて来てくれて、そしてこうしてお知り合いになれた事を私はとても幸運に思っています。
    きっとここに来る私以外のたくさんの人もそう思っているはずです。

    このお誕生日を皮切りに、Takeo さんの目や体調がぐんぐん回復されていきますように、。
    Takeoさんを産んでくれたお母様に、感謝の気持ちを。
    そしてお二人に穏やかな時間をと祈ります。
    8月、夏の盛りのこの佳き日に。


    返信削除
  2. こんにちは, Takeo さん.

    私がこのコメントを書いているのは 8 月 6 日, 一日遅れになってしまいましたが...

    Takeo さん, お誕生日, おめでとうございます.

    毎日, Takeo さんのこのブログ, そしてアートのブログ "Clock Without Hands" を読み, 救いを得たり癒されたりしています.
    Takeo さんの感性や美に対する感覚は素晴らしいものです. これを言うのは何度目でしょうか.

    Takeo さんが人間の生に対して, 憎しみにも似た疑問の念を持ち, 特にその攻撃性が Takeo さん自身に向かっているということは, 文章の端々から感じられることです.
    けれども, Takeo さんのそういった否定の問いかけは, 私にとっていつも何かの示唆を与えてくれているものです.

    私は, 自分が屈辱と失敗に塗れた半生を送ってきたこと, 全て駄目だったこと, それを知っています.
    鬱病という病の症状でもあるのでしょうが, 私の自己否定の根底にはそのような意識があるのです.
    非常に苦しいものです.

    Takeo さんの文章を読むと, 全てにおいて失敗してきた自分に, 今残っているものはあるのだろうかという自身への問いが生まれてきます.
    これは本当のことで, 何とか苦しさを紛らわすために, そのような問いかけを大学ノートの日記に書いて考えています.
    これで何度も酷い鬱から救われています.

    人の「生」が「種の保存」のためなのかどうか, 私にはわかりません.
    私は一人者ですし, 子孫を残すことも無いでしょう. 「種の保存」が「生」の意味なら, 私はすでに生きるべきヒトたちから脱落しています.

    Takeo さん自身も苦しい環境にいるのですね.
    しかし, 少なくとも私は, 苦しみの中にいる Takeo さんから与えられています.
    文章の一節だったり, 詩の引用, 写真, 絵画等, それらから生じる精神的な糧, これまでも, そして現在もです.
    ですから Takeo さんには感謝しています.

    Takeo さんは何かに導かれるようにか, 文章を書き, アートを渉猟しブログにアップしています.
    そのことが, 周囲の仲間に与えているものの豊かさを知ってくれたら, と思います.

    少しでも Takeo さんが, そしてお母様が穏やかで平和な日々を過ごされますよう, 心から祈っております.

    底彦

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、底彦さん。

      コメントを、そして誕生日のお祝いの言葉をありがとうございます。

      >毎日, Takeo さんのこのブログ, そしてアートのブログ "Clock Without Hands" を読み, 救いを得たり癒されたりしています.
      Takeo さんの感性や美に対する感覚は素晴らしいものです. これを言うのは何度目でしょうか.

      そうでしたか、わたしは底彦さんがいまだに、というよりも、いまでもなお、これらのブログを訪れてくださっていることを考えませんでした。
      昨日の「無題」のような、内容の無いものしか、今は書けなくなっていることを自分自身が身に沁みて感じているからです。「昔」は、もう少し、中身のあるマシなモノが書けていたような気がするのですが、それも錯覚だったのでしょうか。

      ここに来てコメントを残してくれる人たちは、決して口先だけのお世辞をいう人ではいないと思っていますが、今のわたしの文章が、どうして底彦さんには素晴らしいと形容できるのか、わたしにはわからないのです。「誉められて文句を言ってれば世話はない」と母あたりに言われそうですが、わたしは少なくともこのブログに関しては、今年に入って自分で満足のいく文章を書いた記憶がありません。

      わたしの文章が「いまだに」底彦さんの微かな灯となっているという理由がわからないのです。このような言い方は傲慢でもありまた滑稽でもありますが、わたしは「嘗ては」底彦さんの言葉を素直に受け取れるだけのものを書いてきたように思うからこそ、「変わらない」と仰る底彦さんと、「尾羽打ち枯らした」という自覚を持つわたしの気持ちとにズレがあるのでしょう。

      何故こうまで底彦さんが(好意を以て)軽く言われたことにクドクドとこだわるのか?
      それはやはりこれまで出来ていたことが出来なくなってしまっているという悔しさでもあり、哀しさの気持ちからです。「ぼく自身或いは困難な存在」は、わたしの「生」と等価と言っていいものです。わたしの「エッケ・ホモ」=「この人を見よ」であったものが、今では「この人」は、正に先日投稿した、頭部のない、また魂も持たない案山子のようなありさまです。いつもそのような自覚を持っているわたしにとって、底彦さんの、「なんどもいうけれどもすばらしい」という言葉が、とても実感として捉えることができないのです。

      急いで付け加えますが、わたしは決して底彦さんが迂闊にものを言ったと考えて欲しくないし、このことでご自分を決して責められることのないようにと願います。
      底彦さんは、率直にご自身の感じたままを書いてくださった、けれども、その言葉は、わたしの現実と遠くかけ離れているように思えてしまうのです。

      不躾な物言いを赦してください。



      >私は, 自分が屈辱と失敗に塗れた半生を送ってきたこと, 全て駄目だったこと, それを知っています.
      鬱病という病の症状でもあるのでしょうが, 私の自己否定の根底にはそのような意識があるのです.
      非常に苦しいものです.

      今度は逆です。わたしは底彦さんの生が、「失敗」「すべて駄目だった」とは露ほども思わないのです。そこにわたしの「現代社会」への憤りが嫌悪の源泉があります。

      >Takeo さんが人間の生に対して, 憎しみにも似た疑問の念を持ち

      と底彦さんは仰いますが、もしわたしがほんとうに、「人間の生に対する憎しみ」に凝り固まったものであるなら、わたしのもう一つのブログに投稿されている写真たちをどのように説明できるでしょう?
      最近の投稿は主にモノクロ写真になっていますが、そこに映し出されている人間の姿は美しく、また愛(かな)しくは見えませんか?

      底彦さんが、わたしのアートブログを見て、嫌悪感を覚えたり、気分が落ち込んだりすることなく、僅かでも心和むことがあるのなら、それは底彦さんが、わたしの投稿する写真や絵の中に、人間の生活への愛おしさを見られているからではないでしょうか?

      人間に対する憎しみが、わたしを石内都の写真や、シモーヌ・ヴェイユに向かわせるでしょうか?

      わたしが憎むのは、人間が最早人間ではいられなくなっている現代文明であり現代社会です。それはヒューマニズムの対極に位置しています。そんな社会の中では、人間性をより多く具えたものほど、逆に振り落とされ、落ちこぼれてゆきます。

      底彦さんとの違いは、わたしは茨城のり子の「落ちこぼれ」という詩にあるように、「落ちこぼれ/結果としてではなく/華やかな意思であれ」(手元に詩集がないので不正確ですが)という途を選び、底彦さんは、その豊かな人間性のゆえに、アンチ・ヒューマニズムの時代から振り落とされてしまったという点に過ぎません。

      自己否定・・・現実を肯定すれば、当然それに適応できない自分を否定することになります。
      けれども、わたしは現実を否定します。現代の非・(乃至反・人間的)なマテリアル・ワールドを全否定します。
      故にそこから(茨木のり子の言葉で言えば)「落ちこぼれた」底彦さんという存在を肯定します。

      つまりわたしの価値観で言い換えるなら

      「私は, 現代社会が多くの人間存在を屈辱にまみれさせるほど失敗であったことを、戦後に築いてきたこの国の思想、価値観、人間観(即ち哲学)が全く駄目だったこと, それを知っています」

      一方で、わたしの自己否定の根底にあるのは、現代社会に関わりなく、「自分で自分のことを何もできない人間が、人の(母の)犠牲の上に生きている」という自己譴責です。

      確かにメプさんやJunkoさんが(母のわたしに対する感情について)言われていることはおそらく正しいのでしょう。けれども、それを認めてはいけないという意識がいつも心の底に横たわっています。

      >Takeo さんの文章を読むと, 全てにおいて失敗してきた自分に, 今残っているものはあるのだろうかという自身への問いが生まれてきます.

      底彦さんというご自身の存在。それこそがいちばん重要なモノ(存在)ではないでしょうか?更に言うなら、存在の苦しみから生まれる思索(日記)があると言えると思います。

      最後に

      >人の「生」が「種の保存」のためなのかどうか, 私にはわかりません.
      私は一人者ですし, 子孫を残すことも無いでしょう. 「種の保存」が「生」の意味なら, 私はすでに生きるべきヒトたちから脱落しています.

      わたしたちの個々の人間の「実存」は、ヒト(ニンゲン)という種=「本質」に先立ちます。わたしたちは決して、「ニンゲン」という生物の「種」に従属する二義的な存在ではありません。わたしはわたしとして、底彦さんは底彦さんとして、「種」の一部であることを超越して存在していると思うのです。

      >少なくとも私は, 苦しみの中にいる Takeo さんから与えられています.
      文章の一節だったり, 詩の引用, 写真, 絵画等, それらから生じる精神的な糧, これまでも, そして現在もです.
      ですから Takeo さんには感謝しています.

      この返信を書いているうちに気付くことがありました。確かに冒頭に述べておられる、わたしのブログに底彦さんが刺激を受けているということが、わたしの中で整理され消化されたような気がします。

      ブログをいつも拝見しています。最近は苦しい日々が続いているご様子で、お辛いこととお察しします。僭越ながらわたしの言葉、引用を含むわたしの文章、そしてわたしの投稿するアートが、ほんのわずかでも、束の間であっても、底彦さんの日々の慰めになればと強く願います。

      充実した対話をありがとうございました。
      またいつでも感じたことを書いてください。

      お返事はお気になさらずに。どうか平穏な日々が訪れますように。

      改めて苦しい中、コメントを、そして誕生祝をありがとうございました。

      乱文失礼します。

      友より。











      削除
    2. こんばんは, Takeo さん.

      まず, 私の先の文章についてです.

      > Takeo さんが人間の生に対して, 憎しみにも似た疑問の念を持ち, 特にその攻撃性が Takeo さん自身に向かっているということは, 文章の端々から感じられることです.
      > けれども, Takeo さんのそういった否定の問いかけは, 私にとっていつも何かの示唆を与えてくれているものです.

      「Takeo さんが人間の生に対して, 憎しみにも似た疑問の念を持ち」と書きましたが, これは明らかに違いますね.
      Takeo さんの返信を読んで自分でも認識しました.

      人間に対する憎しみがあるのなら, 石内都やシモーヌ・ヴェイユ, さらには「Clock Without Hands」に投稿されているような様々な写真を Takeo さんが見出だす筈はありません.
      これは私の Takeo さんへの誤解でした. ごめんなさい.

      私は, 自分が現代社会から落ちこぼれた人間だということをわかっています.
      鬱病, コミュニケーション恐怖, アルコール依存症.

      それなのに今後その「現代社会」で, 生きていけるのだろうかどうかという強い不安を持っています.
      これほど落ちぶれても, 生きたいという欲望があるのです.
      それは私が臆病だからかも知れません.

      ただ, Takeo さんのブログを訪れるとそういった不安から束の間, 逃れられますね.
      現実逃避と言われても構いません.

      最近では, 8 月 11 日に Takeo さんが「Clock Without Hands」に投稿した一連の木の写真:

      Portraits of Trees, Paul Kozal, American, born in 1966

      をとても美しいと感じました. 良かったです.
      私はどうも, 非現実を感じさせてくれるようなものに惹かれるようです.

      ありがとうございました.

      Takeo さんが静かに美の世界に生きられますよう, 祈っております.

      底彦

      削除
  3. Junkoさんへ、

    コメントへの返信が後先になってしまい申し訳ありません。底彦さんはいまとても苦しい状態にいます。今回は敢えて、巧遅よりも拙速を尊びました。

    自分で読んでも乱文ですが、苦しい中、コメントを下さった底彦さんへの返事を先にしました。

    いうまでもなく、この順番が、わたしにとっての友人たちの優先順位ではないことはご理解いただけると思っています。

    底彦さんとは充実した会話が出来たと思います(文章はマズいですが)

    Junkoさんとの対話をたのしみにしています。

    この場を借りて、Junkoさんはじめ、みなさんへのメッセージへのお礼と返信の遅れをお詫びします。

    Junkoさん、そしてふたつさん、メプさん、どうか平穏な週末を過ごされますように。

    武雄

    返信削除