Junkoさん、「誕生日の断想2」に真っ先に頂いたコメント、なんども読み返しましたが、結局わたしには「どうもありがとうございました」以上のことは書けないと感じました。
生の問題は本文中にあるように「死」と切り離すことができません。そしてわたしは今「死」と真正面から向き合うことが出来ません。その勇気が、覚悟がありません。
ラ・ロシュフーコーでしたか、「誰も死と太陽をまともに見ることはできない」と箴言に記したのは。
わたしは現在、言葉の本来の意味で「生きている」とは言えない状態にあります。強いて言うなら、「生きながら死んでいる」といった状態でしょう。
みなさんのハッピー・バースデーには心からお礼を申し上げました。そしてJunkoさんも、メプさんも、口先だけではなく、心から「誕生日おめでとう」と言って下さったのだと思っています。
しかしわたしの「生」とは何だったのか?
◇
母は時折、自分たちの結婚について、或いは父について、結局自分自身も含めて誰も幸せにすることが出来なかった。と言います。自分たちの結婚は失敗だったと。それは自分が愚かで、人生について何も知らなかったからだ、と。
母にとって、父との結婚は生涯の失敗だったのでしょう。
思い出したように、「その頃の自分は馬鹿で無知だったから・・・」と、取り返しのつかない悔いをにじませるような口調で言います。
わたしの親友だった女性も、幼い頃の、主に言葉による虐待が忘れられず、屡々そのことについて口にしました。行く先々で「またその話か・・・」といわれながら。それでも母も、親友だった女性も、自分の人生にとって一番苦しい出来事を言葉にして吐き出さずにはいられないのでしょう。
母は以前、「お母さんはどうして私を生んだんだろう、生まなければ、本人も私も苦労せずに済んだのに・・・」と言ったことがあります。
その言葉はそっくりそのまま、わたしの母に対する言葉です。
わたしと弟を生みさえしなければ、母はもっと幸せな人生を送っていたかもしれない。「幸せ」といわずとも、少なくとも今よりも苦しみの少ない人生を。
◇
>こうして生を与えられた以上、最後まで生ききってやろうと思っています。
自殺もまた「最後まで生き切る」ということではないでしょうか?
>私は全てのことに意味があると信じていますし、そして見始めた映画がどんなに退屈なものであっても、最後まで観ないではいられないのと同じで、この人生も最後まできちんと見届けたいと思っています。
わたしとJunkoさんの根本的な人生に対する見方の違いを思います。
わたしは「すべてのことに意味がある」とは思いません。「無意味なこと、もの」はいくらでもあると思います。そしてわたしは30代で社会から完全にリタイアして以降、孤独の中で、いつまでもこのつまらない遊技場にとどまっている意味はないと考えていました。
エミール・シオランは、「自殺という逃げ道がなければ、私はとうに自殺していただろう」と言っています。
嘗て石田衣良という流行作家は、愚かしくも、「自殺を禁止します」という短文を、主に若い人に向かって書いたことがあります。何という蒙昧。わたしはこれが仮初にも作家と呼ばれる者の言葉であることに一驚しました。
彼にはシオランの言葉の含蓄を到底理解できなかった。
死ぬことを/持薬を飲むがごとくにも/我は思へり/心痛めば
という啄木の歌の意味すらも分からないでしょう。
◇
これは失礼ですが、ジョークだと受け取りましたが、Junkoさんは、「神」の存在を信じておられるのでしょうか?
わたしは死ねば無になると考えています。無神論、唯物論では必ずしもありませんが、「死ねば無になる」と考えることがわたしの救いでも慰めでもあります。
「かつて江戸川乱歩は、もう一度生まれ変わるとしたら何になりたいかと問われて、どんなものだろうと二度と再び地上に生を受けたくないとニベもなく言い放ったが、三島もまた当然、吐き出すように同じ答えをしたことであろう。」
>このお誕生日に、Takeo さんも書いていらっしゃいましたが、お母様に「ありがとう」と言って差し上げたら、(あくまでもそう言う気持ちになれたらの話です。私はお世辞はもちろんホワイトライも好きではありませんから、、) それは何よりものお母様への労いになるのではないかと考えます。
ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
吉野弘 -奈々子にー
「自分を愛すること」。もうずいぶん長く聞いたことのないような、または生まれて初めて聞くようなふしぎな言葉だ。
この言葉は私には、まるでラテン語か何かのように響く。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。
わたしには、自分を心から愛したおぼえがない。
自分で自分の身体に泥をなすりつけるようなことばかりして来た。
時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすててきたりした。
自分を愛すること。
自分を愛すること。
一体それはどういうことなのだろう。
『石原吉郎詩文集』「一九五六年から一九五八年までのノートから」(2005年)
わたしは死ねば無になると考えています。無神論、唯物論では必ずしもありませんが、「死ねば無になる」と考えることがわたしの救いでも慰めでもあります。
ー中井英夫『ラ・バテエ』より。
わたしも、おそらくは母も同じ気持ちでしょう。
◇
わたしは母に対しては、この世に存在してくれてありがとうと心の底から言うことができますが、自分を生んだことでの母の苦しみを思うと、逆立ちしても出てくる言葉は「生まれてきてごめんね」以外にはないのです。
わたしの生は自分自身も含めて、誰も幸福にすることはできなかった。それどころか母の人生を台無しにした。これはわたしにとって、揺るぎない事実なのです。
◇
>種子を残そうが、子孫を残そうが、私たちの人生の重みがそれで軽くなったり重くなったりする事はないと思います。
実際、私も種子も子供も残していませんが、その種子を残さないがために、未来への「続く」がない私の人生を、私だけの人生として愛します。「あらゆる罪を犯してきた。父親となる罪だけをのぞいて」
またぞろシオランですが、わたしもまったく同感です。
けれども、「その種子を残さないがために、未来への「続く」がない私の人生を、私だけの人生として愛します。」
という言葉はわたしには当てはまりません。わたしは人生に愛されなかったし、人生を愛することもできませんでした。
「私の人生を愛する」なんという遠い言葉でしょう・・・
そう、Junkoさんと話をすると決まって出てくるのが、以下の言葉です。
◇
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
吉野弘 -奈々子にー
「自分を愛すること」。もうずいぶん長く聞いたことのないような、または生まれて初めて聞くようなふしぎな言葉だ。
この言葉は私には、まるでラテン語か何かのように響く。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。
わたしには、自分を心から愛したおぼえがない。
自分で自分の身体に泥をなすりつけるようなことばかりして来た。
時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすててきたりした。
自分を愛すること。
自分を愛すること。
一体それはどういうことなのだろう。
『石原吉郎詩文集』「一九五六年から一九五八年までのノートから」(2005年)
◇
>我こそはこの地球上に存在する価値がある。その価値は、私たち自身が与えるものであると私は信じますし、何の目的もなく、そして産まれて来た意味を知ることもなく、必然性も妥当性もなく、「ただ生きる」では足りませんか?
わたしは「ただ生きる」ということはできません。(と言いながら現在、いや、生まれてきた時から、ただ無駄に生きているのですが)
やはり生きているからには、「喜び」とか「うれしい」「幸せ」そういうものが必要なのです。「喜怒哀楽」の中で、怒りと悲しみだけの人生はもう充分です。
価値は自分で創り出すものといっても、やはりわたしはこの世界を好きにはなれませんでした。
この世界は、読む価値のない本であり、見続ける価値のない映画であり、居続ける意味のない遊園地に過ぎなかったのです。
◇
以上書いてきたように、互いの人生に対する考え方の大幅な相違からこれまでコメントに返信を書くことができませんでした。
ただ最後に是非言っておきたいのは、Junkoさんのコメントにただの一言も上辺の言葉がなかったこと。そのことは充分に理解しています。Junkoさんはありのままのご自分を語られた。
考え方の懸隔は明らかですが、Junkoさんの真摯な、真心のこもったメッセージに心よりの感謝の気持ちを(遅まきながら)述べさせていただきます。
誕生日のメッセージをどうもありがとうございました。
Takeo
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