状態は相変わらず。しかし、「相変わらず」であることだけでも救いであるのだろう。
しばしばわたしは「死」の吐息に怯えている。「死にたくない!」と慄いている。
これまでわたしはこのブログで、「今この世界で元気になることにどんな意味がある?」と繰り返し主張し続けてきたのではなかったか。それをいざ死の気配が近づくと「寝たきりになるのも入院するのもいやだ」と願っている。ふ。滑稽じゃないか。つまりわたしは自分のこれまで書いてきたことをすべて反古にしてまで、(信念とやらがあったのなら)、変節も厭わずに、生にしがみついている。
母に自嘲交じりに「滑稽だね・・・」というと、「人間は誰でも滑稽だよ」
いっぽうで死の影に蒼くなって慄きながら、では、一重に「元気になること」を望んでいるかといえばそうでもないようだ。
死神が居眠りしているときなど、インターネットをのぞく。母から新聞に載っていた記事の話を聞く。
そして思うのだ。「やはりどうしてもわたしはこの世界では生きられない」 と・・・
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昨夜、「無職日記」という30歳くらいの女性のブログを見つけて目を離すことができず、全ての投稿を読んだ。
パワハラー派遣切りで、その日から無職ーそれから現在に至るまで3年間、「日雇い」「バイト」「派遣」を問わず仕事を探したが、未だに働き先は見つからない。
未経験でもできる仕事と謳いながら、書類選考だけで落とされる。無職の身には履歴書を送る140円だって大事なお金なんだと怒り、書類選考で落とされた求人先が、別の媒体で「急募」としているのを見て「面接をして欲しかった」とうなだれる。
ブログのコメント欄を開けたことがあったが、誹謗中傷のコメントばかりで、もう二度とコメント欄は開けないと打ちひしがれる。
吃音症がひどくなった。パニック障害で電車一駅乗るのも困難。母親からは「働かざるもの食うべからず」と冷たくあしらわれる。
周囲はコンビニ一軒ない田んぼと畑だけの環境で、時間をつぶすために図書館に行くにも交通費がかかる。
求人を探す以外はパソコンを眺めているか、横になって天井を見つめているだけ。
ブログのほぼ全てのページに「死にたい」「苦しい」「孤独」「働きたい」という言葉が記されている。
けれども彼女だけが、極めて特殊な例とはいえないのだ。
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わたしは今の世の中で元気になってどうなると嘯いてきた人間だが、そしてその気持ちは根底では変わらないが、これまで100社以上の「バイト」の求人に落とされ、誰からも人間扱いされていないかに見える彼女を無言で抱きしめてあげたいと思いがこみ上げてくる。仮に彼女がLINEをやり、インスタをやる人であっても・・・
加えて彼女は中学校から大学までずっといじめられ通しだったという。
彼女が祈るような思いで、履歴書を送っても、連絡がないことで「不採用」としている企業が相当数あるという。
こんなことが何年も続けば、「死にたい」「苦しい」と呻き、布団の中で泣きわめくのも当然だろう。
繰り返すが、わたしは現代社会に一文の値打ちも見出すことのできない人間であり、且、「自死」を肯定する者だが、彼女には一日も早く働ける場所が見つかって欲しいと願う。
働きたいと願うのなら、その願いがかなうようにと望む。
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彼女のブログに嘲弄と侮蔑と攻撃的なコメントを残した者たち。
いったい彼ら/彼女らは、いつ神に、お前の人生は生涯安泰であるとの保証を受けたのか?
心に傷を負った人のブログを読んで、話したいなと思うときがある、けれども、鬱病や、引きこもりなどの人たちのブログのコメント欄がオープンにされていることは少ない。
心を病むことは、決して、けっして、その人の責任ではない。同時に、ある者が今現在健康であるのは「幸運」であり「僥倖」であって、なんらその者の功績でも能力でもない。それにもかかわらず、この国の人間は、弱った者をそっと見守ることができない。
宗教と哲学の欠如というものはこれほどまでに人間をいびつにさせるものか・・・
極論すれば、上記のブログの女性は人生を知っているが、オレの人生順風満帆とご満悦の人間の目には、人生の表層しか見ることはできない。
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次回母に、主治医のところに行ってもらう際、母は主治医に「抗鬱薬がひつようでしょうか」とそれとなく訊いてみる、と。
しかし、わたしは抗鬱薬は要らない。仮に処方されたとしても飲まないだろう。
抗鬱薬にせよ、他の薬にせよ、それを飲むことで、わたしの孤独が、孤立が癒されるのか?
精神医療というものは、患者の症状を聞き、不眠であるとか、イライラ、不安といった「症状」を緩和させる薬を処方するのが仕事なのか?
無論差し当たりの対症療法も必要だろう。寝られなくてつらいのなら、寝られるようにする。それは当然の処置だろう。しかし不眠の訴えを聞けば、何故患者が眠れないのか、その原因を探るのが本来の精神医療の役割ではないのか?
そうでなければ精神科医とは所詮薬屋の親玉でしかないことになる・・・
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馴染めない国の虚ろな巨大都市で孤独であること。人との意思の疎通が極めて困難であること。
これを脇に置いたまま、いったいわたしの援けになる薬とは何だ?
死への恐怖、死にたくないという思い、それと、現実の肯定是認とは左右対称ではない。
「死にたい」「苦しい」「孤独」を繰り返す彼女にとって、すぐにでも必要なのは、抗不安薬、抗鬱薬などを浴びるほど飲むことではなく、働き口がみつかることだ。
わたしにとっては・・・わからない・・・いまのわたしはただ、死という生々しい現実と向き合うことへの恐怖と、厭離穢土の感情、底なしの虚無感、空虚の間にゆれるひともとの蝋燭に過ぎない。