日が長くなってきたせいもあるのかもしれないが、ここのところ、いやまして一日が長く感じられて仕方がない。何もする気が起きない。何もしたくない。身の回りのことも出来ないことが増えてきた。
しかしそんな中でわたしは何を望んでいるのか?どうなりたいのか?それがはっきりしない。
「外に出ることが困難な精神障害者が、何もやる気が起きずに一日をもてあまして困っています」
市役所の障害者支援担当の部署に伝えるのはそれだけなのだろうか?
障害者を支援する場所に限らず、それが精神科であっても、彼らはこのような訴えを聴いて、「良くなりたいんだな」「少しでも元気になりたいんだな」と短絡に考えはしないか?
例えば役所の担当者が、「あなたはほんとうに元気になりたいですか?」 と訊いて来たら、わたしは素直に「もちろん」とは答えることが出来ない。
時折、「やはりどうしても今の時代には生きられない・・・」と強い絶望を感じる。
その感覚は当然、「元気になることへの懐疑」に繋がる。
わたしは「生」自体を否定しているのではなく、「現代」という時代の様相を否定しているのだ。
だから例えば、「ミソフォニアの日常」にも書かれていたように、ミソフォニア=「音嫌悪症」が生き残る道として、「海外移住」を挙げているのは至極当然だと思う。
加えて、わたしは普通の精神障害者ではない。
現にわたしの気持ちは、母にも、十数年通っている(た)主治医にも理解できない。
わたし自身、誰かこのブログに書き連ねたこと、わたしの内面=狂気を理解できるものがいるとは思っていない。
であれば、それがデイケアであれ、当事者の自助グループであれ、わたしの「居場所」「行き場所」になり得るとは思えないのだ。
彼らが「引きこもり」であっても「発達障害で聴覚過敏を持っている」としても、彼らは「スマホの群集(あるいはスマートフォンという存在)に耐えられずに」外に出られないわけではないだろうし、聴覚過敏の人は、その音が如何に不自然且不必要に思われようと、町の薬局で流される小鳥のさえずり程度の音には耐えられるのではないだろうか?実際に彼らはそれぞれの自治体が毎日数回定時に流す防災防犯防疫の放送に、いちいち耳を塞いでいるだろうか?(わたしは「聴覚過敏」ではないけれども)
いづれにせよ、精神障害者も含めた一般の人たちとは感覚が、感受性が大きく・・・いや、まったくといっていいほどに異なるのだ。
しかし繰り返すが、わたしは日一日と衰弱し、時の長さに耐えられずに誇張ではなく呻吟しながら毎日を何とかかんとか乗り切っているという現実もある。
わたしは生きたいのだ。ここが、ヨーロッパの古い町或いは田舎町であるなら。
わたしは生きたいのだ。今が1970年代であるのなら。
いや、せめて、町がもう少し静かであれば、そして生活様式の多様性がもっともっと重視される国であるなら・・・
けれどもそれが現実不可能で、尚且つ、わたしがわたしである以上、誰とも、文字通り誰とも話が通じないことを自覚しながら、尚、誰に、何を訴えることが出来るのか?
繰り返すが、元気になることを放棄しているのではない。今、この時代にあって、元気になることとはどういうことかを教えて欲しいのだ。
そして誰ならそのことを教えてくれるのかを知りたいのだ。
確定死刑囚が刑務所内で病気になり、苦痛が耐え難い。無論医師たちは「殺す」という目的にために全力で彼の回復を目指すだろう。
しかし治癒した彼の気持ちはほんとうに晴れ渡っているのだろうか?
心の底から回復をよろこんでいるのだろうか。
病癒えた彼の獄中の生活に何があるというのか?
・・・いや、大道寺将司、島秋人、そして永山則夫の例もある。
獄中にだって、生きがいはある。おそらくはほとんどの囚人には。
しかしわたしにはこの世界に「よろこび」「たのしみ」、何一つ見つけることができない。何故か?わたしには「獄」以上の頚城がある。
それを「孤独」という・・・
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