2021年2月16日

Mさんへ

 
コメントを拝見しました。いつもありがとうございます。
 
断片的に感じたことを書きます。本音を言えば、Mさんへの返信の形を借りた愚痴のようなものですが・・・
 
先ず、ストレッチですが、考えてみれば、こちらに引っ越してくる前から毎日寝る前にやっていました(といっても5~6分程度ですが)、からだがみしみしいうんですが、やった後はさっぱりしますね。
 
音楽は毎日聴いています。今はコーヒーを飲みながら。コーヒーを飲みながらジャズを聴く機会はいまでも多いと思います。ただ、昨年あたりから、いかにも「現世的」なジャズよりも、中世ールネサンスーバロック時代の音楽を聴くことが増えています。ジャズといっても、わたしが聴くのは、それこそチック・コリアの世代くらいまで。いちばん良く聴くのはやはり50年代です。そしてジャズといえば、酒と紫煙、そしてヤク。それらと無縁な健康的なジャズメンたちには興味がもてません。
 
一方で、せいぜいモーツァルトの時代までの音楽を聴くと、心が落ち着きます。聴くのは宗教音楽が多いですね。グレゴリオ聖歌など聴いていると、地上のあれこれが、彼岸の出来事のように感じられます。またそれは否応なく「死」というものを連想させます。(「死」と無縁の宗教音楽はありませんから)
 
マリメッコは母から聞いたのです。昔、銀座松屋にマリメッコの店があったとか。
立川のルミネにも、マリメッコを扱っている店がありますが、なんというか、わたしにとっては縁のない「ブランド品」という印象を受けました。
 
「デイケア」や「作業所」についてのMさんのご意見も、よくわかります。
 
 
さて、今回敢えて、Mさんのメッセージの一部を使わせていただいたのは、
ブログを続けていくことが難しいと感じ始めているからです。
 
下の「性格とは運命である」で書いたように、わたしを取り巻く壁をどうしても突き崩すことができそうにないのです。
 
わたしが外に出られない理由は幾重にも重なっています。芋蔓式につながっています。
 
わたしは知りたいのです、何故これほどまでに現代社会を嫌悪するのか?その象徴としての携帯電話をこれほどまでに憎悪するのか?何故それを(それを持つ者たちを)無視することができないのか?
 
その原因を突き止めず、「音の感じ方を和らげる薬」などの薬物療法だけの精神医療なら不要であるとさえ思うのです。
 
もうひとつは、ご覧のように、毎度毎度同じことしか書けないということ。出口のない円の中をぐるぐると巡っているだけのような徒労感。書くことによって、何かしら進むべき道筋が途が見えてくるということがなく、徒労感の上塗りにしかならないという現状。
 
そして、このような記事をよろこんで読んでいる者がいるということ。
 
これまで何度もブログを止めたり再会したりしているのも、過去に千以上の投稿をしてきたというわたしの内面の蓄積への執着。愛着。同時にいつも頭の隅にその人物がいるという大きなジレンマ=ストレスからです。
彼は「引きこもりは罪人(つみびと)である」といった人物です。
そしてこのブログの過去の閲覧者の総数の三分の一を占めるほど、このブログに足繁く通っています。管理画面によると、昨日今日、そのブログからの訪問数が5回。
 
気持ちは揺れますが、ここに書いている以上、そしてわたしが障害を持ち、外に出られず苦しんでいる以上、彼(ら)の好奇の眼差しからは逃れられないと感じています。そしていまのわたしはもうこれ以上、憎悪の対象を持ちたくはないのです。
 
今は100人の読者を失っても、彼(ら)から逃れられるのなら、という気持ちが嘗てなく強まっています。
 
高校時代の友人は、わたしのコンピューター、オーディオ、ヴィジュアルの面での欠かせないアドバイザーで、彼の存在なしにわたしのインタネットもありえないのですが、彼は、「そういう人間は仮にキミがブログを移ったところで、必ず見つけ出すよ」と言っています。
 
無論この投稿も読んでいるでしょうから、当然また恰好の話題になるでしょう。彼らはわたし以上にわたしの障害についても詳しいようですから水際立った分析がなされるでしょう。
 
母は人から馬鹿にされるのが何よりも嫌いだと言います。
 
ここまで彼に餌を与え続けてきた自分がひどく愚鈍なうすのろに見えて仕方がありません・・・
 
このブログを続けている限り、彼(ら)から逃れることはできない。そのことを肝に銘じておきたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

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