2021年2月13日

「生きづらさ」について




最近はあまり訪れなくなった英国のエディター兼アーティストの女性のブログを見ていて、偶然見つけたイラストである。作者はChris Dunn(クリス・ダン?)。
夜、お父さんが子供に本を読んで聞かせている絵だろう。
キルトの布団、木のベッド、オイルランプ、木製のおもちゃ、壁に飾られたおそらくは子供が描いた絵・・・
シンプルだけど安らぎのある部屋だ。
 
この絵を見ていると飽きることがない。
 
結局はホームシックなのだ。この絵に描かれている世界への。
 
 
図書館で数人待ちだった内田樹(たつる)の『生きづらさについて考える』という本の順番が回ってきた。しかし結局借りることなくキャンセルした。
 
生きづらさ、という言葉を耳にすることは多いが、今更学者先生の売らんかなの著述を拝読するまでもなく、この時代、どう考えたって生き易いわけがないじゃないかと思わずにいられない。
 
安っぽいプラスティック製品に溢れかえる世界。

旧聞になるが、スウェーデンの環境保護運動家グレタさんは、新聞で斜め読みしただけで記憶が曖昧だが、環境保護の演説を行うために、国連だったかに向かう際、ヨットを使ったと話題になった。
 
けれども、彼女を揶揄したトランプ元大統領にやり返したのはツイッターではなかったか。そしてそれは「何で」発信したのか?それはまさしくプラスティックを主な素材として作られたものではなかったのか?── そしてわたしは使ったことも、持ったこともないので知らないが、「それ」は古くなったから、壊れたからといって「捨てる」ということはないのか? ──
結局は彼女も避けがたく「時代の子」であったのではないか?
 
そういうわたし自身、このようにパソコンを使いCDを聴いている。
 
世界にそのようなものと一切かかわらずに生きている人が少数でも存在する以上、わたしもまた堕落している。そしてこれを皮肉というべきか、わたしはこれ以上はもう一歩も進むことはできない。
 
 
嘗てわたしの親友だった人が言ったことが鮮明に記憶に残っている。
 
「今は物質だけが豊かになって心の貧しい時代だなんていうけど、物質的にも全然豊かじゃないじゃない。わたしの子供の頃は、ものは少なかったけど、「ほんもの」しかなかった」
 
確かに今は何から何まで、本当に何から何まで、フェイクの時代に生きているという感覚を拭い去ることができない。
 
では「本物」と「フェイク」=「まがいもの」はどのように区別しうるのか?
 
あくまでも個人的な規準だが、「山(土)川草木」からの距離によって。
 
わたしは上の絵に「まがいもの」は何一つないと考える。
 
 
小津安二郎の『お茶漬けの味』という作品にふたつ、印象に残っているセリフがある。
 
ひとつは、若き日の鶴田浩二が、ラーメン屋で、津島恵子に言う言葉。
 
「せつ子さん。世の中にはね、安くておいしいものがいっぱいあるんですよ」
 
わたしは今ではほとんど外には出られないが、10年ほど前までは、東京の街をあちらこちらと毎日のように歩いていた。親友と入った店も数知れない。けれども、この1950年代に作られた映画の中のセリフを思うたびに、「失われた古きよき時代」としか思えないのだ。
わたしはバブル期に若き日を送った世代である。大量生産大量消費、言い換えればわたしの20代は既に「本物」の時代ではなく(旨いものは当然ながら値も高く)「粗製濫造」の時代であった。
「安くてうまいものがたくさんある時代」はとうに過ぎ、「安かろう悪かろう」の時代に突入していた。
 
その後ファストフード、ジャンクフードの時代、どの町にも同じチェーン店を見る時代が間近に迫っていたことは周知の事実である。
 

 
『お茶漬けの味』のもうひとつのセリフは、佐分利信が妻の小暮美千代に言うセリフ。
 
「プリミティブでインティメットな関係がいいんだ」(「根源的で親密な」とでもいうのか)
 
例えば、わたしが始めて会った人と、喫茶店なり、レストランなり食堂なりに入ったときに、「スマートフォンの電源を切ってくれますか?」といえるか?おそらくはいえないだろう。
 
先日紹介した「ミソフォニアの日々」に
 
大切な人がいてその人が嫌悪音を出すということであるなら、理解を求めることもできるのです。
自分には嫌いな音がある、だからその音を出さないでほしい、と言うだけで変わる現実もあります。
 
わたしはスマートフォンの電源を切ることは目の前の相手に対する当然のマナーだと思っている。
何故なら、電源を入れたままいつ何時電話がかかってくるかわからない状態にしておくということは、わたしと、その人との間にもうひとり、3人目の人間を割り込ませることに他ならないからだ。そして向き合っている双方が同じように携帯電話の電源を入れたままにしているということは、現実にはその場には最低4人の人間がいることになる。
それがはたして、根本的で親密な会話といえるだろうか。わたしはそのような状況ではとてもリラックスして話はできない。
 
もしそれが親しい間柄の男女だとして、向き合って、或いは並んで座っている時にどちらか一方の携帯が鳴るような関係が、そもそも「恋人」と呼べるだろうか?
 
携帯電話は人と人との、原初的な、親密な関係を毀損しなかったか?
 
数年前の新聞で、生命科学者の女性だったか、新聞に「人は超高層ビルの中で生きることができるか?」というようなことを書いていた。
 
つまり、人はどれほど反自然的状態の中で、大地から離れて心身ともに健康で生きることができるかという問題提起である。
 
誰もが何の問題もないと思っている。誰もが、それが現代だと平然としている。
しかし、それは知らず知らずのうちに、所詮は地球上の生物の一種類に過ぎない我々の生体を、そして精神を、魂を毀損してはいないか。
 

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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