2021年2月11日

「ひとり暮らし」ということについて

 

昨夜偶然あるブログを見つけた。書き手はおそらく30代の男性で、統合失調症を患っている。
内容も多岐に亘っていて、暇を持て余している身にとっては、(失礼ながら)格好の読み物を見つけたと思った。
全ての投稿に目を通しているわけではなく、哲学的な思索を思わせるタイトルを主に拾い読みしている。
 
彼とコメントで対話したいと思わないこともないが、今のわたしにその元気はない。
自身、統合失調症ということもあって、木村敏の著作もかなり読んでいるようだ。そんな人がわたしのブログを読んでどのような印象を持つか興味があるが、しかし、それが誰にせよ、また誰の著作が元になっていようが、わたしという「一回性」「特殊性」を精神医学や心理学の術語で訳知り顔に裁かれるのは御免蒙る。もっとも、ここで触れている彼は、知識よりも思惟を重んじる人のように感じられる。
 
 
心理的にも経済的にも、親離れができていない。自分は外に出ていたほうが楽に過ごせるというのは、そこに関係があるんじゃないか。親離れするためにも、就労を目指したほうがいいんじゃないか。まずは経済的に自立することだろうか。働きに出ることを目指したほうがいいんじゃないか。そうすれば自分の病状も軽くなるのではないか。

 

だから、いつになるかわからないけど、一人暮らしすることを目標にしようと思う。そのために、働かなければならない。経済的にも、精神的にも親から独立するために。

 

これは昨年春に書かれた彼の投稿「親離れ」と「一人暮らし」という二つの投稿である。
 
 
わたしの一人暮らしはあっけなく挫折した。
先に1月に風呂に入ったのは4日間のみと書いた。そして、2月はまだ一度も。
 
食欲も暫減しているが、まだ、一日飲み物だけというところまではいっていない。
昨日、午後に自転車で5分ほどのコンビニに行って、ガラガラになった棚から、弁当とおにぎりを買って食べたが、そのまずいこと。
先日も同じ弁当を買ったが、これほどまずいとは感じなかった。
 
「風呂に入らなければ」 という気持ちはない。食事にしても、死なない程度に何か口にしていれば、と思っている。とにかく何をするにも倦怠感が先に立つ。

苦痛なのは、風呂に入る気にならないことや、食欲がないことではなく、目が覚めたとき、今日もまた、空っぽの長い一日が始まるのかという気分である。
 
眼圧が高いのは、おそらくは、自律神経の乱れと、極度のストレスによるものだろう。それにしても、自転車でいける範囲に眼科があるというので、近いうちに行かなければならないだろう。
しかしそれすらも面倒くさいと感じてしまうのは、所謂「うつ状態」ではなく、自分が存在していることの根拠が夙に失われているためだと考えている。
 
以前にも書いたと思うが、わたしは自分の内部に自己の存在の根拠を持たない。
故に、自分のために飯を食う、自分のために風呂に入るということの無意味さは、一人暮らしをすることで、いとも容易に露呈する。
 
母がわたしにとって、世界との唯一の接点というよりも、寧ろ、わたしにとっての外部そのものであるというのは、逆を言えば、母以外は悉くわたしにとっての「対立者」であるという意識と裏表である。
 
わたしにとって、母の不在ということは、文字通り、「世界にたった一人遺棄されし者」になることを意味する。
 
わたしは誰とも繋がることができない。わたしは人間が理解できる言葉を持たない。
これはわたしの妄想ではなく、これまでの半生が証明してきた事実に他ならない。

母はわたしの外部であり、わたしをわたしたらしめている、いまや唯一の存在であるのだ。
 

 
「今や唯一の」ということについて、贅言するなら、例えば、ここで言及している男性のブログに興味深いことが書かれていた 


家の中で本の位置を移動することも難しかった。というのも、本を置いてある位置を少しでもずらしたりしただけで、世界の秩序が失われて、自分自身の秩序が乱れて、自己喪失に陥る恐怖を感じていた。

世界の秩序はそのまま自己の秩序であると感じていた。本棚の内容、また部屋の中の物の位置は、自分の精神の内部をそのまま映していると感じていたから、本棚とか物の位置をいじることは、自分の精神をいじることにほかならなかった。本棚の内容、部屋の物の位置をでたらめに乱しでもしたら、ぼくの精神は崩壊しただろう。)
(下線Takeo)
 
これについてコメントを残した。彼から返事があり、そこには、
 
部屋の整理は心の整理である、という考え方もあるみたいです。ぼくの場合は、明らかに病的なものでした。日常生活が相当に制限されていました。

 わたしは、常々言っているように、自己の内面と外界とは分離不能であり、外界の変化に伴い内面も当然の様に変容する、ということを言ったつもりだった。 

彼の文章を借りるなら、「本棚」を「街の景観」と言い換えることができる。


 ── もしこれ以上議論を推し進めるなら、それは最早「依存」や「親離れ」といった話ではなく、「誰かに寄りかかることなしには生きられない者の生の権利云々」の問題になる。
 
「生きる」という選択ではないにせよ、「死ねない」という現実がある以上、わたしは母に依存しなければならないのだ。母の不在は直ちにわたしの精神と肉体の死を意味する。だからわたしは常々「わたしに「親亡き後」は存在しない」と言い続けてきた。
 
「自立とは、一つでも多くの依存先を確保することだ」と。しかし、わたしが依存できる先は後にも先にも母以外にいない。わたしは普通の人間ではないのだ。

そして空っぽの毎日が続くことと同様に、わたしは自分がこのような狂人であることに疲弊し尽くしている。
 
 
 
 
 
参考にさせていただいたブログ 「駅弁祭りの読書、音楽、食べ物日記」
 
 
 
 
 




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