2021年2月6日

少数派の中の少数派の中の少数派・・・

 

ここでひとつのブログを紹介したい。

ミソフォニアの日常」という、過去にも少し触れたことのあるブログだ。

ブログの説明にも記されているように、「ミソフォニア、音嫌悪症と共に生きていくしかない日常と苦悩」

非常に意義のあるブログだと思う。

「音嫌悪」とは、簡単に言ってしまって申し訳ないが、このブログにも再三書かれているように、「いびき」「咀嚼音」「洟をすする音」「タイピングの音」「書類(或いは本など)を捲る音、「お茶を飲む音」などに接して、生理的な不快感を催すことを言う。
 
 
以下の投稿が興味を引いたので一部抜粋引用させていただく。
 
 
 
薬を飲むだけでゴックン!というでかい音が本当に必要でしょうか。
お茶漬けを食べるだけで、御茶碗にがっついてジュルジュル言わせながら食べる必要があるでしょうか。
飲み物のおいしさを表現したいがために、ゴキュゴキュとのどをいわせる必要が本当にあるでしょうか。
揚げ物のをおいしさを表現する方法は、サクサク、バリバリいわせるだけでしょうか。
食事をおいしそうに食べるのはいいですが、目をひんむいて大きな口を目いっぱいあけてがっつくのは不自然ではないでしょうか。
焼き菓子のおいしさを表現したいのは分かりますが、口に入れてからガリガリボリボリ言わせないといけないのでしょうか。
 
つまりここでも「その音」「その表現」は本当に必要なのか?妥当であるのか?という疑問が取り上げられている。
 
そして書き手が強調しているのは
 
他の障害と同様に、ミソフォニアや聴覚過敏、HSPといった障害への配慮をしてほしいというだけの話なのです。 

そして、視聴者側の結論となってしまいますが、今の状況で考える最善の策は、「テレビを見ない」という選択肢一択になります。

率直に言って、わたしには、ものを食べるときに発せられる音、せんべいを齧る音、そばを啜る音、味噌汁を飲む音に非常な抵抗と嫌悪感を示すということがわからない。しかし問題は、わたしがわかるとかわからないなどという次元ではなく、現にそのような音で苦しんでいる人が存在するということ。

それだけなのだ。 
 
昨日書いたように、わたしも様々な音に苦しめられている。けれどもわたしの症状にはまだ診断名が存在しない。
 
工事の音は言うまでもなく耐えられない。
そして「音の大きさ」という点に関して言えば、「電車やバスの車内でのアナウンス」、も決して「爆音」でも「轟音」でもない。しかしわたしには耐えられない。
 
加えて、わたしは電子音(?)というものに嫌悪感がある。例えば、券売機。電話の音声ガイダンス。そしてレジでの自動清算機の音。自治体が毎日数回定時に流すアナウンス(今なら、「不要不急の外出は控えましょう」といった類のこれまた「不要な」もの)。更にスマートフォンやタブレットなど、視覚的に嫌悪感を引き起こす物が加わる。
 
 
ことほど作用に、わたしは現代社会を蔑視し、敵視している。
 
 
ミソフォニアの症状があるときに、どれだけ絶望は身近なものとなりえるでしょうか。
ミソフォニアは、音を嫌悪し、憎むものです。
嫌悪する音が日々たくさん耳に入ってきて、激しい怒りの衝動に駆られながらも、我慢して我慢して、耐え忍ぶという毎日です。
これは絶望に値するのか。
難しい問題ですが、値すると言えるのではないでしょうか。
 
 
人によってはひとりになったときに、怒りを抑えきれずに、自身を激しく殴打することもあります。それは、まったく力の制御が効かないため、目いっぱいの力で自分の身体を殴打してしまうのです。

ですが、その怒りは本来自分に向けられているものではなく、その音そのものに向けられているものであり、ひいては音を出している人に向けられたものです
我慢できずに自分の身体を殴打してしまうほどの感情は、本来は音を出している人に向けられているのです。
つまり、本来は、音を出している人を殴打したいのです


たとえば今日、私は電車に乗っていました。ガムを噛んでいる人がいました。本当はその人を殴りたいと思っていました。それもかなりの衝動で、実際にこぶしを握っていました。もちろん、そんなことはせずに、我慢するのみです。

わたしもこの気持ちはよくわかる。プラットホームなどで、スマホに見入りながらのろのろと歩いている者を見ると、それが若い女性であっても、上記のような暴力衝動に駆られる。


ミソフォニアというだけで、周囲には全く理解されない深い深い苦しみがあります。
ですが、それを嘆いているだけでは現実は変わりません。
その対策を行い、理解を求めていくという行動によってのみ、道は切り開けるのです。
死に至る病であるということは否定できないものですが、あらがうことができないものでもありません。
ならば、できるだけあらがってみるしかないのです。
 
ここで彼が主張しているのが、
 
「耳に入ってくる嫌悪音を最小限にとどめるという努力をすることは、誰にでもできるのです。」
 
「その対策を行い、理解を求めていくという行動によってのみ、道は切り開けるのです。」
 
そして
 
「あまり深刻に考えすぎず、ひとりで苦しむのではなく、同じように苦しんでいる人たちもいるので、SNSでそういう人たちと話してみたり、ブログなどを読んでみると参考になる部分があると思います。
ツイッターでミソフォニアと検索すれば、たくさんの仲間が見つかります。
同じ苦しみを共有できるというのは、とても力になるものです。 」
 

彼の言っていることは確かにその通りだ。けれどもこれは、このブログを書いた男性のような「普通の人」が運悪く「ミソフォニア」という障害乃至精神疾患を持ってしまった場合には当てはまるだろうが、残念ながらわたしにはこのような途はない。

わたしにとっての「死に至る病」とは、「嫌悪すべき音」ではなく、いまという時代そのものなのだ。
そして今という時代を憎む者がどのように、他者の理解を得ることができるだろう。

現にわたしは、「ミソフォニアである彼の味方」であるはずのSNSも、ツイッターも、そして「ケンサク」することさえも嫌うのだ。
 
 
しかし同時に今尚、わたしは、生きている以上誰かと繋がりたいと希むのだ。
これは虫のいい話だろうか?現代社会を全否定しつつ、その中に生きている人と通じ合いたいというのは。
 
だとすれば、時流に阿ることのない以上、時代のしつらえたお仕着せを拒む以上、わたしに残された途はやはり、どのような形であるかはわからないが、孤立、そして「死」以外にはありえないのだろうか?
 
ある時代を憎む者は遂には時代に滅ぼされるだけなのだろうか?
あらゆる時代、人は、「今・このとき」に従順であらねばならないのか?
あらゆる人間は、畢竟、時代の産物でしかないのだろうか?
 
そしてわたしは滅びなければならないということを説明してくれる人間が存在しないのは何故か?
 

 
 
 
 

 

 

 

 

 

 
 

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