2018年1月31日

絶望の先に見えるもの・・・

「もし、希望を語るとすれば、今の社会に絶望する人間が少しでも増えること、それが希望です」と、最晩年の西部邁は語っていたと、ある人のブログで読んだ。

100%共感できる言葉だ。
けれども「絶望の先」に、彼は何を見ていたのだろうか。
「絶望をするにも能力がいる」と言った人がいたように思う。
自分が「極北の地に立つ」ことを、どれだけの現代人が自覚し得るだろうか?
多くは「絶望の獄に繋がれていること」に「甘んじている」のではないかとさえわたしには思えてしまう。

「籠の中に生まれた鳥は、飛ぶことを考えることをしない」と、ホドロフスキーが嗤うように・・・
「立ち上がろうとしない者は足枷に気付くことはない」と、ローザが嘆息するように・・・

自分が牢獄に繋がれていることを自覚し、その軛から抜け出そうとするか?
或いは終生格子なき獄中生活に甘んじるのか。

絶望の先に見えるもの、それはなにか・・・

わたしはふと朝日平吾を思い出す。彼と、その最期の言葉を・・・
昭和十一年如月、深雪の中の兵士たちの心を想う・・・

西部邁が「この社会に絶望するものの多からんこと」と願ったのは、ただ絶望のための絶望でしかなかったのか?

「おれたちはみなドブの中にいる。けれどもそこから星空を見ている奴だっているんだ!」というオスカー・ワイルドの言葉は「絶望の先の光明」を見据えてはいなかったか?
「腐敗(くされ)」と「荒廃(すさみ)」の薄昏いどぶの中に蠢く己を見出したとき、
ひとは夜空に清浄な光を放つ星に手を差し伸べるのではないか?たとえそれに手が届かずとも・・・

にごれる憂き世の嵐にわれ怒りて、
ひとつ家、荒磯(ありそ)の沈黙(しじま)にのがれ入りぬ、ーー
捲き去り、捲き来る千古の浪は砕け、
砕けて、悲しき自然の楽の海に、
身はこれ寂寥児(さびしご)、心は漂いつつ、
静かに思いぬ、岸なき過ぎ来し方、
あてなき生命の舟路に、何処へとか、
わが霊(たま)孤舟(こしう)の楫(かじ)をば向けて行くと。
夕浪懶うく、底なき胸のどよみ、ーー
其色(そのいろ)、音皆不朽の調和(ととのい)もて、ーー
捲きては砕くる入日のこの束の間、
沈む日我をば、我また沈む日をば、
みつめて叫ぶよ、無始なる暗、さらずば、
無終の光よ、「全て」を葬れとぞ。
ー 石川啄木「ひとつ家」










2018年1月30日

壊れた世界 壊れた心・・・世界はまだ美しいという人がいる・・・

ひとびとは写真を撮る
まるでまだ世界にはうつくしいもののかけらが残っているかのように

秋に散ったたった一枚の色づいた落ち葉
路にころがっている一この団栗
わずかに世界に遺された美の欠片
そのいちまい、そのひとつぶを手に取るために
それを見るためだけに外へ出るべきなのだろうか?

自然は美しい それは
僕の 末期の目に
映るからである

と、芥川龍之介は書き遺した

けれどもわたしのこころを圧し潰すこの圧倒的な醜さは

なぜ扉を開いて外の世界へ足を踏み出すのか?

地に落ちた美の遺骨を拾い上げるために?





世界の微かなうつくしさのみを針小棒大に語り、膨大なその醜さから目を背けるものをわたしは厭う・・・



わが心を領したる鬼は
嗟嘆す
美しと見ゆるもの
そは すべて
豪奢と兇悪を
具えたりと 
      ー村山槐多






















2018年1月28日

文化としての騒音 壊れた景色 Ⅳ

東京メトロ、地下鉄日比谷線のダイヤの一部で、明日、1月29日月曜日から車内にBGMを流すというニュースを知り、且て中島義道が「日本の文化としての騒音」と書いていたことを思いだした。彼の『うるさい日本のわたし』(正・続)は、共感と反発、相半ばする気持ちで読んだが、「日本では騒音を文化と見做している」という主張には100%共感する。

流れる音楽の種類が何であっても、そもそも個人々々の「趣味の領域」に属するはずの「美」や「快適さ」を、一様に親切ごかしでお仕着せるという発想が、いかにも邪蛮(ジャパン)的で、そこには、差し引いてゆくこと、控えめであること、抑制することではなく、上乗せすること、付け加えることを良しとする粗野で幼稚な美意識が露呈している。

現代日本人の耳目は「何もない空間や時間」というものに堪えられなくなっているのかもしれない。その目は不断に文字や画像を読み取らずにはおらず、耳は無音の状態に居たたまれない。

「水」や「空気」は、本来「無味無臭」である。けれども、それは決して「無味乾燥」ではない。「水」や「空気」の持つ「味」や「匂い」「うま味」に無感覚な者は、「何もない空間」の滋味というものを解し得ないのではないか。

「水にちょっと甘みを付けましょう」「空気に少しよい香りを乗せましょう」それと同様の倒錯した美意識が、今回の電車内でのクラシック・ヒーリング・ミュージックのBGM採用に通底しているように思われてならない。
日々の風景にどのような色付け、味付けをトッピングするかは個人の裁量に委ねられるべきであって、他人の容喙すべき事柄ではない。

ありふれた日常に逍遥し、世界の小さな断欠を観察する者にとって、或いは人気のまばらな車中の夢想者にとって、その妨げとなる「ノイズ」は、「ダダンダダン、ダダンダダン」という、単調であるがゆえに心地よく反復するリズムを体内に刻み込む列車の走行音ではなく、両側に一列に並ばせて口をこじ開け、飴玉をしゃぶらせるように、無理強いに聴かされる、まともな三半規管を持つ者にとっては堪え難い騒音でしかない「ショパン」であり「ドビュッシー」である。

「聴かされる」音楽は、いらない。











2018年1月27日

待ち望む終末(或いは厭離穢土)

昨年暮れ、思い立って利用してみようかと考えていた訪問看護も、精神科でおこなっているカウンセリングも、結局立ち消えになってしまった。
こちらのブログにも書いたように、現在の日本に生きていながら、それらを利用することで、どのように「生き易く」なるのか、まるで見当がつかないからだ。

引きこもりを余儀なくされている多くの人たちのように、わたしは「人が怖い」ということはない。けれども「人間嫌い」は年々その度を強めているようだ。人間嫌い。そして生まれ育った街であり、約半世紀を閲して、再度の「健康の祭典」へ向けて着々と「観光穢土」化する東京への嘔気。常に疑似(エセ)東京たらんと努める地方都市への厭気・・・

自分が現在の美意識や感受性、或いは「正気」を保ったまま、この国で生き易くなるということが考えられない。

人々は往々にして、「どのような社会を創るか」という方向にのみ目を向けているが、わたしの夢想は寧ろ「どのようにこの社会が滅びるのか」ということにある。
言い方を換えれば、「創出するために破壊する社会そのもの」が消滅するときである。
わたしが見たいのは、虚飾に満ちたきらびやかな都市の週末の風景ではなく、待ち望んで已まぬ全き終末の光景である。






2018年1月26日

弱者の罪・・・

「自分がダメなのは自分のせいであって、それを他人や社会のせいにする人はわたしは嫌いです」と言う人たちがいる。幾らかの優越感と自己満足を伴って。
こういう考え方ほど為政者にとって好都合なものはない。自分たちの無能・怠慢、無為・無策によって、人の一生の行程の至る所に穴ぼこをこしらえておきながら、それに落ちたのは誰のせいでもない、自分が悪いのですという者たちほど、政治家にとって愛おしい存在はないだろう。

以前若者のホームレス救済・支援活動をしているNPOを取材した本を読んだ時に、若いホームレスたちの多くが、こういう状態になったのは自己責任だからと、なかなか援助を受けたがらないという記述があった。その時わたしが感じたのは、痛ましいという気持ちでも、また憐れという感情でもなかった。わたしは彼らのそのような言葉に、なにやら滑稽なものを感じずにはいられなかった。「どこまで人がいいんだろう」と、可笑しくなった。

「人のせいにも社会のせいにもしたくない」ということが、まるで立派な心掛けででもあるかのように思い込んでいる人たち。
もっとひとのせいにしてもいいのに、もっともっと社会や政治のせいにすべきなのに、そうしないことで逆に弱者全体を更に窮地に追いやっていることに気付いていない者たちの罪。

もし「弱者の罪」というものがあるなら。それは「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなわたしのせいなのよ」と卑屈になって見せる人たちの被虐癖=マゾヒズム、そしてその偏狭さによって、本来味方であるはずの者(例えば生活保護費を使ってパチンコで憂さ晴らしをする者)を「恥ずべき存在」呼ばわりして足れりとする愚かしい「利敵」行為に他ならない。

引かれ者よ堂々と小唄を唄へ!


誰か 肯じて坐守して
亡逃するなからん

「誰が座して死を待とう
 逃散して賊となり
 叛徒となるのが当然ではないか」 ー 詩 王安石  意訳 竹中労








2018年1月23日

壊れた景色 Ⅲ

移ろいゆく町の姿に嘆息しながらも、「・・・町は変わってゆく。この町を愛しているけれど、わたしは再開発反対などと声高に唱えるつもりはない」と書いていたアマチュア・フォトグラファーがいた。そんな言葉を読むたびに、自分の感性との大きな隔たりを感じずにはいられなかった。

仮にわたしが毎日親しみをもって見ている樹があり、或る日その樹が伐採され無くなっているのを目にしたとき、その時わたしの心は、最早樹のあった時のものとは同じではない。大袈裟ではなく、わたしはその樹と共に、なにかを、魂の一部を喪失したのだ。

あそこにあった木造のアパートが取り壊されていた・・・
駅前の商店街の様子がまるで変わってしまった・・・
「アルベキモノ」が最早なく、「無かったもの」が現れる。
わたしはそれを「町は変わってゆくのだ」と肯い、受け流すことはできない。

ふるさとに入(い)りて先ず心傷むかな
道広くなり
橋もあたらし -啄木

その低劣な文化と極めて低い美意識に因って変わってしまった、また変わり続けることを宿命づけられたこの街の姿、形・・・。あるべきものが消えてゆくこと。「そこ」が最早「そこ」ではなく、「あそこ」は既に「あそこ」から消えていること・・・その心の傷み=「傷」が、終生癒えないこと。
それを「この景色は醜い」というよりも「わたしは苦しんでいる」というべきだとヴェイユは言うのだ。

わたしはこの街に「根」を持つことはない。何故なら「この街」「この国」自体に根というものが存在しないのだから。「根」或いはそれを「錨」と言い換えてもいいだろう。存在を安定させ固定しておくアンカー、錨。錨の名を持つスイスの画家、アルベール・アンカーは、かつて「見なさい、世界は呪われてはいない」といったというけれど、わたしは目まぐるしく転々流転する安らぎのない風景の中を漂いながら、永遠のホームシックに苛まれている。


2018年1月22日

壊れた景色 Ⅱ

長く家に閉じこもっていることを余儀なくされると、人を愛し、慈しみ、敬い、思い遣る心や、やさしさ等の感情は次第に萎え、しぼんでゆき、心は次第に狭量になり、憎しみや怒りがわたしの胸の中を支配するようになる。

シモーヌ・ヴェイユはこう書いている。

わたしたちは事実と想像の乖離にじっと耐えなければならない。そして「わたしは苦しんでいる」と言った方が、「この景色は醜い」というよりもいいのだ。
ー『重力と恩寵』
We have to endure the discordance between imagination and fact. It is better to say, “I am suffering,” than to say, “This landscape is ugly
. 
 わたしは 「この景色の醜さ」に苦しんでいる・・・
しかし「景色の醜さ」に「苦しむ」ということを誰が理解できるのだろうか・・・









2018年1月20日

あさましな過ぎ来し道を見かへれば只わが影をわれ抱き来ぬ

レディー・シャーロットは、川の中洲の一室に生き、外の世界を直接見ることはできなかった。来る日も来る日もタペストリーを織り続け、鏡に映し出される外界を見るのみだった。
或る時、ランスロット卿の歌声を耳にした彼女は、掟を破り外の世界を見てしまった。
その瞬間、鏡は音高くひび割れ、糸が身体中に巻き付いた。
彼女はそれを振り払い、小舟に乗ってランスロット卿を負ったが、船がキャメロット城の岸に着いた時にはシャーロットは既に息絶えていた。



鏡にうつる「世界の影」しか見ることの出来ないシャーロットは、
いのちを失うほどに焦がれるものを外の世界に見出した。
憧れに手を伸ばしつつ命を失うということが、何故か幸福なことのように思えてならない。

ラファエル前派やヴィクトリア朝の画家たちによって描かれた「レディー・オブ・シャーロット」の絵は、どれも川辺に生い繁る葦や草木に取り巻かれ、ミレイの「オフィーリア」とともに、最も美しい死の姿のひとつに、わたしの目には映るのだ。


其のために いのちも魂も捧ぐべき ものか人かのあれと祈りし 
ー片山廣子


誰か外にいますか?

外の世界の様子はいかがですか?

まだ野の花は咲いていますか?

まだせせらぎの音は聴こえていますか?

まだ小鳥たちは囀っていますか?

土のにおい、草のにおいはしますか?

黄昏ゆく空は茜色に染まりますか?

梢の葉は風に揺れていますか?

夜空に月は映えますか?

だれか・・・誰か教えてください・・・


「シャーロットの乙女」ウォルター・クレイン (1862年)
The Lady Of Shalott, 1862, Walter Crane. (1845 - 1915)









2018年1月19日

孤独について 「壊れた景色」

「孤独」とは、いったい何からの疎外だろう
ひとはいかなる時に孤立し孤絶した自己を感じるのだろう
それは必ずしも周りに「ひと」がいないことを意味しない。
おそらくは、周囲の風景に溶け込むことができないときに。
天と地の間にその身と魂の置き処がないと感じるとき、ひとは堪えがたい孤独を感じる。

たとえば木の葉の舞い落ちる場所が、澄んだ水の面や、湿った土の匂いのする野の大地ではないとき、
梢で慄える病葉は哀しい孤独を感じているだろう。

水 底 の 岩 に 落 ち 着 く 木 の 葉 か な ー 丈草

辺りの景色に溶け込むことができる時、ひとは孤独を忘れる。
彼を取り巻く世界と融和することが出来なければ、他者の存在も彼の孤独の救いにはならない。

孤独は先ず街の景観によって生じる。
孤独は、都市の姿、佇いに因って「あらしめられている」

わたしは東京というこわれた景色の中で、いい知れぬ孤独を感じている・・・

誰も居てはいけない
そして樹がなけらねば
そうでなけらねば
どうして私がこの寂しい心を
愛でられようか -原民喜

















2018年1月17日

見ることと読むこと

「見る術」をまなぶこと。
見ること、読むこと・・・またそれらによって盲目化された眼差し・視線の本来の在り方を知ること。



見るだけでは充分ではない。

読むだけでは足りない

沈黙の仕草

視線を外すこと

細かい枝が静かな水の表に微かな物語を描くように、心の面に書き写された言葉を読むこと

風が立ち、さざ波が水面の文字をかき消してしまうまで

新たな頁をめくるまで・・・

静寂が返ってくれば、また一つの言葉が生まれてくる・・・

Beatrice, 1895, Marie Spartali Stillman.  (1844 - 1927)
- Gouache on paper - 

断想

わたしの不在を深く重く受け止めてくれる人の存在が無ければわたしの生は無意味だ。








わが病の
その因るところ深く且つ遠きを思ふ
目をとぢて思ふ -啄木

だからわたしは遠くまで、深くまで遡って行けなければならない。



いかなる言葉も[・・・] の前では軽い。 愛するものの喪失を語る言葉はない。
もとより普遍的なものである「言語」は「個」を語ることはできない。



寒くあること 息のあたたかい白さが見えるほどに 暗くあること 幽かなともしびが見えるほどに さびしくあること 風の音、月の光にさえ慰めを感じるほどに
風の音、月の光にさえ打ち震えるほどに



2018年1月16日

無題(短歌風)

力込め ズボンにアイロン押し当てど 邪な心消えず波打つ


夏の日に 拾ったの抜け殻を ゴミ箱に捨つ 魂の抜けた我が身の如くに


気紛れに 足踏みいれし工具店 全てが「武器」に見ゆる心よ


これ同じ これも同じと削りきて 「ババ」に成りたき ひとりの心


浅黒き 細面(ほそおも)にして 眼鏡かけおり
野生の獣の剽悍を感ず
鷲の手を以(も)て本を爪繰る





2018年1月15日

断想 「絵はがき」または「本」について・・・

「絵葉書の行き先が君を貫くと、君は自分が誰だか分からなくなる。絵葉書がその宛先から君に、君だけに、呼びかけるまさにその瞬間、絵葉書は、君に届くのではなく、君を分割し、あるいは君を遠ざけ、しばしば君を無視する。」
ー ジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ 』



わたしにはこれは、この言葉は、「本」(= 出版された本一般)について言われていることのように思える。 本はわたしを遠ざけ、屡々わたしを無視しさえする。 ところが絵葉書は、まさに「わたし」に宛てて届けられたもの。 世界中にわたし以外の一切の宛名は記されず、 わたしの実在以外の何者の宛先も持たず、
もちろんそれはわたしのよく知っている「あなた」の手によって書かれている。
わたし以外の誰も読むことがない。

「本」「出版」ーー ' Publish ' すなわち「公に」すること、「公的」なものになること。
語源?シノニムは「パブリック」。すなわち生れた時から「皆のための」もの・・・
それ故時に本はわたしの実存を疎外する。

ある本について大勢が語っているのを聞くと、わたしは自分が「個」(・・・或いは「孤」)として、本との密接で親密な連繋を欠いていることに、そもそも何らの特権的な立場も付与されてはいないことに気付く。
「本」という 'Public Place' の中、バスケットボールのコート内でまごまごしている稚拙なプレーヤーのように。

それはわたしの手元から離れ、彼の手からまた別の者の手に渡り・・・わたしの思考・思惑・感情は、その都度公約数によって分割・約分され、本というボールは微笑みながらわたしの傍らをすり抜け、わたしを無視している。

「本」を含めたあらゆる「公的」なるものは、「私的」なものでないがゆえに、常に「個」に届くのではなく、「個」を分割し、あるいは「個」を遠ざけ、しばしば「個」を無視する・・・







2018年1月11日

しあわせな孤独

孤独を感じさせるこんな絵(イラスト)も好きだ。

英国ウェールズのアーティスト、リチャード・カートライト (Richard Cartwright. b.1951) の作品から好きなものをいくつか・・・

「鉄橋にて」
The Railway Bridge - Pastel - 
「木々と男」2008年
Man Sitting with Trees,
 2008  - Pastel -  
「シーティングエリア」
The Seating Area ,  - Oil - 
「風船売り」2008年
The Balloon Seller,
 2008  - Oil on Panel -  

これらの絵の人物たちはみなひとりぼっちだけど、ただひとつ、ぼくと違うのは、彼らはきっとこの場所がお気に入りなんだろうということ。

ぼくが好きだった場所・・・独りでいること、ひとりで歩いたり、佇んだり、じっと座っていることがほんのりと幸せに感じられる場所はもうどこにもなくなってしまった。



2018年1月9日

空っぽで満たす


ないものを視凝(みつ)め

ない音に耳傾けること

仮初の「美」と呼ばれるものを洗い流し

天空の星屑や西陽刺す部屋に舞う埃に眼差しを注ぐこと

虚(うつろ)でいること

「空っぽを満たす」ことではなく

空っぽでみたすこと

綿あめを食べた時の、「口いっぱいのなんにもない感じ!」


The Renowned Orders of the Night, 1997, Anselm Kiefer
アンセルム・キーファー


「セルフ・ポートレイト」1930 ウォーカー・エヴァンス
Walker Evans, Self-Portrait Seated on Floor Against Wall with Dark Cloth Around Neck, 1930–31



2018年1月8日

アンタイトルド

「アンタイトルド」2009-2010 ビル・ヘンソン 
Untitled, © Bill Henson.  


「アンタイトルド」1985-1986 ビル・ヘンソン 
Untitled, © Bill Henson.  

  「テレフォン・ライン」エレクトリック・ライト・オーケストラ      
Electric Light Orchestra - Telephone Line (Live) 

2018年1月6日

不幸としての記号

外に出たくても出られない。そんな状況を誰が思い浮かべることができるだろう。或いは、こうも言えるかもしれない。「行ってみたいと思わせるような場所がない」と・・・

いずれにしても、外に出ることができないという状況によるストレスは、最早閾値にまで達している。たまに医者に行く必要などがあって外出して、このストレスが引き金になって、傷害或いは過失(?)致死のような暴行に及ぶことを怖れている。



「それだけではいかなる苦しみの原因でもないのに、記号(シーニュ)として苦しませる事物がある。何をあらわす記号か。単独で不幸を構成するにはあまりに抽象的なので、稀にしか(あるいはまったく)苦しみを与えないような状況をあらわす記号である。この種の記号は、それ自体が苦痛の原因ではないが、苦しみを引き起こす。
かくて、敗戦とドイツ人兵士の光景。
[・・・・]
かかる記号が頻繁に連日見られるならば、そこには不幸がある。
ふたつの事物の間に、記号(シーニュ)と記号内容(シニフィエ)のきずなが無ければ生じず、あれば生じる苦痛。ところで、この苦痛は肉体的に感知される(涙を流させるまでに)」
シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」

「それだけではいかなる苦しみの原因でもないのに、「記号(シーニュ)」として苦しませる事物・・・」
それはわたしにとっては、人々の持つ携帯用端末である。
「スマートフォン」と呼ばれるその「記号」(シーニュ)の表す「記号内容」(シニフィエ)とは「全体主義」である。

わたしが外に出るとき、路上で、また公園で子供を遊ばせながら、電車を待つ駅のホームで、目的地へ向かう電車やバスの中で、はたまた病院の待合室で、人々はまるで魅入られたように「スマートフォン」という滑稽な名称を持つ携帯端末に顔を近寄せている。

「例外のないこと」が「全体主義」の最も的確な定義であるなら、わたしは「モノ」=記号それ自体ではなく、それが象徴する「誰も彼も」「猫も杓子も」「老いも若きも」「あの人もこの人も」という文化の在り方に嘔気を催し、殺意を掻き立てられるのだ。

わたしにはそれが、人間が生きていく上で、どのように「欠くべからざるもの」であるのかがわからない。またそれが、生物学的な意味での生存に無関係であっても、「文学や芸術」のように「文化として」欠かせないものというのなら、ある特定の「文化様式」に対し、「否」という者が誰一人存在しないということが、なによりも不気味さを感じさせる。

わたしはこの「一つの記号をほとんどすべてが応諾している」という事実を「戦争」のさきがけとして忌避しているのではない。いや、寧ろこのような現状が果てしもなく続く日常よりも、全き破滅をこそ請い願う。
わたしには、均一なものや均質な言動、同一性、類似性に対する生理的な嫌悪があるだけだ。全ての人が一様であること、ひとつの型に嵌められているように見えることに、身の毛のよだつ思いがするのだ・・・

袖すり合うも他生の縁というが、「それ」に憑り付かれた者が、肩をぶつけてきた時に、
我を忘れ、憤怒と憎悪の激情に支配されたわたしが何をするかわからないという怖れを抱く。
たとえ「罪を作った」のが相手であることを承知していても・・・


邦人(くにびと)の顔たへがたく卑(いや)しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ ー 啄木











2018年1月5日

無題

【土左衛門】- 溺れて死んだ人のふくれた死体。水死人。
  ▼昔、この名の力士の太り方が水死人と似ていたことからという。

国語辞典の中にこんな記述を見つけて笑ってしまった。



ニューヨークの赤


「赤い傘」ニューヨーク、ソール・ライター 1957年
Red Umbrella, 1957, Saul Leiter.

「ニューヨーク」1955年 エルンスト・ハース
New York, 1955, Ernst Haas. (1921 - 1986)




「ライク・サムワン・イン・ラブ」エディ・ヒギンズ・トリオ

2018年1月4日

無題

( 寒い冬の夜 )

吐く息の白さ哀しき わが孤独もてあましたる36.5分の熱

かなしき肉体(放哉の句に寄せて)

淋 し い か ら だ か ら 爪 が の び 出 す  ー放哉

この句は西行の

捨て果てて身は無きものと思へども 
雪の降る日は寒(さぶ)くこそあれ
花の咲く日は浮かれこそすれ

という歌と同じ状況を詠っている。

どんなに過酷な孤独の裡にあっても、どんなに世を厭うていても、躯からは爪がのび、ひげが生え、腹が減り、寒さに震え、花の頃には心も浮き立つ。
まるでこちらの懊悩や悲しみとはまったく無縁に、躯はそれ自体自律しているかのように見える。

同じく

の び て 来 る ひ げ が 冷 た い

も、凍てつく寒さの中でも芽を吹く木や花を思わせる。


こ っ そ り 蚊 が 刺 し て 行 っ た ひ っ そ り (放)

血の流れなくなった冷たい皮膚に蚊はとまらない。

死のうという間際、岸壁の際に立っても蚊に喰われた跡を無意識にかいている。

結局のところ、人間なんて、そんな愛(かな)しい滑稽な生き物なのだ。












奇れいな夕陽

「バー」ニューヨーク、1952年 エルンスト・ハース
Bar, New York, 1952, Ernst Haas. (1921 - 1986)




「ソリチュード」ベン・ウェブスター

2018年1月3日

本の内側

「古本のなかにさりげなくはさまっている紙切れが好きだ。」と、堀江敏幸は、エッセイの中に書いている。

「映画館や美術館の入場券、裏面に思いがけない広告が刷られている古い新聞の切り抜き、箸袋をやぶって書いたらしい電話番号のメモ、ブルーインクで書かれた流麗な女文字の暑中見舞い、ボールペンで住所に訂正のほどこされた名刺、「上様」とあるなにやら妙に区切りのいい数字がならんだ領収書、皺ひとつない戦前の拾圓札。紙切れの代わりに、何千万年もむかしの琥珀に閉じ込められた虫さながら蚊が平たくつぶれて半透明に乾き、鮮やかな朱が楕円の染み作っていたりするきわものもあった。衝動買いを名目にしながら中身をほとんど確かめず、表紙の感触だけで古本に手を出す悪癖は、じつはそんなふうに黄ばんだ紙の海の漂流物を見つけるためだといっても過言ではない。望んで得られるものでないだけに、頁のあいだからこぼれ落ちた過去の証人は、ときとして書物の中身以上に強い感動をもたらす。」
『回送電車』堀江敏幸 より「耳鳴り」(初出 1996年)

古い本のページを開き、ふとみつけてなによりうれしくなるのは、「押し花」や「押し葉」たちだ。
それは入場券や葉書、名刺や領収書といった「紙きれ」のように、且て「何かの用」を為していたものではなく、純粋にその愛らしさ、美しさを愛でるために拾われ、摘まれて頁の間にしまわれていたものだから。そして本の中に挟まれた花はおおむね小振りなものだ。

花も葉も、当時に比べれば色褪せてしまっているけれど、本が手に取られ、頁が開かれるのを待っていたようなその小さないのちのうつくしさは変わらない。
花や葉は、色褪せているからこそ愛おしいのだ。

「古本の中にはさまって入る紙切れ」といえば、昔銀座の教文館で求めたしおりを思い出す。その栞を長く使いたいためにぶ厚い本を読み始めたこともあった。それはロッソ・フィオレンティーノの「リュートを弾く天使」だった。












2018年1月1日

美(うる)はしきもの見し人は

美(うる)はしきもの見し人は
はや死の手にぞわたされつ、
世のいそしみにかなわねば。
されど死を見てふるうべし
美はしきもの見し人は。

『トリスタン』アウグスト・フォン・プラーテン(1796 - 1835) 生田春月訳



『セント・ジェイムス・ストリート』
ジョン・アトキンソン・グリムショウ、英国ヴィクトリア朝の画家。(1836 - 1893)

完璧な夜がかつてあった・・・



プラーテンの詩はもともとドイツ語で書かれたものだが、春月の訳は文語文で意味が通じにくいところがあるので、英語ではどのように訳されているのか調べてみた。

Who looked at the beauty with eyes,
Is already given to death,
Will not be good for any service on earth,
And yet he will quake before death,
Who looked at the beauty with eyes.


美をその目で見た者は、
既に死の手に渡っている。
この地上のいかなる活動にも適さず、
しかもなお(彼は)死を前に震えおののく
美をその目で見た者は。



もとよりわたしはいつの時代に生きようとも何の役にも立つことはないが、
美しいものを見てしまったばかりに、「アリウベキ世界」を観てしまったがために、
「現にアル」世界にどうしても馴染むことが出来ずにいる。



「家にあれば筍(け)に盛る飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは、行旅の情をうたったばかりではない。われわれは常に「ありたい」ものの代わりに「ありうる」ものと妥協するのである。
学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取ってみれば、椎の葉はいつも椎の葉である。
椎の葉の、椎の葉たるを嘆ずるのは椎の葉の筍たるを主張するよりも遥かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少なくとも生涯同一の嘆を繰り返すのに倦まないのは滑稽であるとともに不道徳(過度)である。実際また偉大なる厭世主義者は渋面ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディさえ、時には青ざめた薔薇の花に寂しいほほえみを浮かべている・・・

芥川龍之介『侏儒の言葉』より

けれどもこう書いたその人は、遂に美に殉じたのではなかったか?
椎の葉の椎の葉たるを一笑し去ること能わざる者ではなかったか?
美はしきもの見し人として、夙に死に供された魂ではなかったのか?

実用の世界に於いて、筍が椎の葉であっても、「不便を忍ぶ」ことはできただろう。
けれども美が醜によって駆逐された世界で、まして醜の美たるを主張する世界に於いて、尚それを一笑に附すことは彼にも為しえなかったはずである・・・