2022年2月20日


人間存在に対する己の無智を、弱者へ振りおろす鞭にすり替えるな



「目に見えるということに欺かれてはならない」

 

Dance, 1931, Erika Giovanna Klien (1900 - 1959)
- Watercolor and Pencil on Cardboard -

*

"Visibility is a trap."

Michel Foucault - The Birth of the Prison, 1975

*

「目に見えるということに欺かれてはならない」

ー ミシェル・フーコー 『監獄の誕生』(1975年)



「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
そもそも、批判すべき「society」がない。

ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」



「改善すべき社会はない」「批判すべき社会は存在しない」故に「社会状況は極めて悪い」とはどういうことだ?

いったいこの者、自分で何を言っているのかわかって書いているのか?
失笑を禁じ得ない。

何故ハッキリと言わないんだ?自分は(自分の力では動けない)障害者と、所謂(部屋に閉じこもっている・・・ようにしか「彼らには見えない」)「引きこもり」なる人種が「キライ」なのだ、と。そして「あれこれができない」人間が存在するということ自体が自分にはわからないと。

「批判されることがこわい」のか?(言っとくが障害者や引きこもりをいくら叩こうが愚弄・嘲弄しようが誰も「批判」なんかしないよ)


繰り返す。

「可視的なるものに欺かれてはならない」

「(身体が)動いている」ことと「何かを為(成)している」ということを同一視してはならない。
愚かしくも「動いていない」ということと「なにもしていない」こととを混同してはならない。



Self-portrait, from the ensemble Prague - Sunday afternoon, 1937, Zdenko Feyfar. 


ひとつ大事なことを附記しておこう。およそ人間には「目に見えない」(Invisible
「精神」というものがあるということを。そして「精神」は容易に病み、崩れるということを・・・










2022年2月17日

唾棄すべき「人類」愛すべき「人間」

フェルナンド・ペソアはこう書いている。

「ルソーのように、人類を愛する人間嫌いがいる。
私はルソーに強い親近感を覚える。ある分野では、私たちの性格はそっくりだ。
人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛、その一方で、ある種のエゴイズム。これが彼の性格の根本だが、それはまた私のものでもある。」

『不穏の書、断章』より、「断章85」澤田直 訳



わからない。わたしには。「人類を愛する人間嫌い」などというものが。

何故ペソアがこんなに人気があるのか、わたしには理解できない。

まして「人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛」となると、唖然として開いた口がふさがらない・・・

わたしは寧ろ

“I love mankind ... it's people I can't stand!!”

と叫ぶチャーリー・ブラウンに共感する。


Old Fashioned Kitchen, Virginia, ca 1936, Peter Sekaer (1901 - 1950)

これはピーター・セーカーの撮った、1930年代のアメリカ、ヴァージニア州の、とあるキッチンの写真だが、写真家自身がつけたものであるのかは定かではないが、タイトルに「オールド・ファッションド・キッチン」とあるので、1930年代といえども、このようなスタイルのキッチンは既に旧式のものだったのかもしれない。

この写真を見、そこに暮らす人々の生活を想像すると、正にペソアの言う「強烈な、説明できない愛」を覚えるのだ。

わたしはおそらく「人類」に対して、「唾棄」という言葉が決して大袈裟ではないほど「強烈な、説明できない嫌悪感、忌避感」を抱いている。けれども、この世界に、貧しく、質素に暮らしている人たちがいる限り、誰もが持つモノを持たずにいる人たちがいる限り、わたしの「人類からはみ出したひと」に対する愛情の灯は消えることはないだろう。

胸が熱くなるような、うつくしい写真である。









2022年2月15日

思考の波紋...

 

Wave Energy, Wilhelmina Barns-Graham (1912 - 2004)
- Pen, Ink, Oil on Card -

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“It is hard enough to remember my opinions, without also remembering my reasons for them!”

― Friedrich Nietzsche

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「いかにして私がその考えに達したか。その理由を知らずに、私のもろもろの思想を血肉とすることは極めて困難である」

ー フリードリッヒ・ニーチェ









2022年2月14日

「社会性」を持つことの危うさについて

先日以下のような文章をネット上で見かけた。

書かれていたのは、社会を批判をする前に、「自分自身の社会性の欠如」を省みるべきではないか、といった主旨の文章であった。文中、わたしの記憶に強く残っているのは、
 「社会批判の前に、自らが社会性を備えれば、批判の対象がなくなるかもしれないから。


この文章を書いた者にとって「いま・ここに在る(社会の)現実」は、個々の実存、「個々人の抱える現実」に優先される。
社会を批判する前に、先ず自分自身の『社会性』の欠如に目を向けろ」と。
これは容易に「いじめる側」の論理に通じ、そして「いじめられる側にも責任はある」と言った戯言(たわごと)に極めて近似した、残忍で冷酷な考え方であることがわかる。

では「社会性」とは何か?簡単に言ってしまえば、自己を取り巻く有形無形の環境への適応能力であり、順応性の謂いである。己を取り巻く「現実」への順応性・適応性が高い者ほど、「自分」=「エゴ」というものの弱さが目立つ。自身のスタイル、ポリシー、美意識、価値観、譲れない拘りなどがなく、自己の内面の水位と、社会の水位が常に平衡を保っている者ほど、社会性は高く、独自性は希薄である。


Anniston, Alabama, 1936, Peter Sekaer (1901 - 1934)


ナチの支配する「社会」があり、軍国主義が国民全体を洗脳する「社会」もまた「いま・ここにある社会」である。彼の理屈を極限まで推し進めれば、「プロテスト」というものは必然的に否定される。
「レジスタンス」「パルチザン」も、「ゼネスト」も「百万単位のデモンストレーション」も「暴徒化」も、なべて「社会性の欠如」に因があるということになるのだろう。

この写真の若者たちも「有色人種専用階段」の存在=「差別の象徴」を批判する前に、自分たちの「社会性の欠如」を省みた方がいいようだ。


North Carolina, (Segregation Fountain), 1950, Elliott Erwitt

「ノース・キャロライナ 白人と有色人種とに分けられている水飲み場」1950年
写真 エリオット・アーウィット


「いかに多種多様な個別性を包摂し得るかがその社会の成熟度の指標である・・・」などと、高校の優等生の言うような「陳腐な」セリフを今更言う代わりに、わたしは以下のセリフを引用する。

*

“ Let my country die for me.”

― James Joyce, Ulysses

「この国をわがために滅ぼしめよ」

ー ジェームス・ジョイス 『ユリシーズ』



ー追記ー

「社会性を備える」と言うことは、換言すれば、「わたし」が「わたし」であることを、「自己のアイデンティティー」を放棄せよということと同義である。何故なら「社会」(=多数派)と「私」(個ー「絶対的マイノリティー」)とは常に対立関係にあるものだから。














樹の話

「うつくしいもの」への憧憬、「いい文章を書きたい」という欲求は、いまだ心の底に熾火のように仄かな光を発している。けれども「生の倦怠」もしくは「生の蹉跌」がそれを上回る。

その Ennui を打ち破り、わたしを「生」へと回帰させる「うつくしさ」はどこにある?



窓の外の樹々が、「剪定」という名目の誤魔化しによって、繊細な枝々を無慚に斬り落とされてゆく。「裸木の美」を知らぬ粗野で野蛮な田夫野人たちによって。







なんとかお前に交わる方法はないかしら

葉のしげり方

なんとかお前と

交叉するてだてはないかしら




お前が雲に消え入るように

僕がお前に

すっと入ってしまうやり方は

ないかしら

そして

僕自身も気付かずに

身体の重みを風に乗せるコツを

僕の筋肉と筋肉の間に置けないかしら



川崎洋「どうかして」『現代詩文庫33川崎洋詩集』(1987年)より



My name is Takeo.

T is for Tree.

樹を伐られるのを見るのは自分の身を切られるのと同じくらい辛く悲しい

樹々の枝がなくなれば、小鳥たちの啼き声を聴くことも出来なくなる。
この邦で、美と、自然との交叉は限りなく難しい・・・


◇  ◇

Albín Brunovský. Slovakian (1935 - 1997) 
- Etching - 

*

“Your head is a living forest full of song birds.

e.e. cummings

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「きみのあたまは生きた森だ。そこにはいつも鳥たちのさえずりが充ちている」

e.e. カミングス










2022年2月3日

レス・イズ・モア

 嘗て 「市場に詩情なし」と書いた。

「金儲け」と「美学」とは背馳する。

"Less is More" という美学、美意識ほど、現代社会、そしてインターネットの世界と縁遠いものはない。