2021年2月26日

「これは狂人の絵だ」という賛辞

 
東京新聞夕刊一面に「紙つぶて」 というコラムが掲載されている。母づてに聞いたのだが、ムンクの『叫び』という絵、あれは叫んでいるのではなく、耳を塞いでいるのだと。
そしてわたしは記事を読んでいないのでわからないが、そのコラムの筆者だろうか、『叫び』を評して、
「これは狂人にしか描けない絵だ!」と。

「狂人にしか描けない絵」・・・なんという褒め言葉であろう。
その表現が妥当であるかは措いて、これ以上の賛辞はないと思っている。
 
ああ、わたしも「狂人にしか書けない」といわれるような文章が書きたいと強く願う。
 
 
 
 

2021年2月20日

Mさんへ。

 
コメント欄を閉じていますが決してMさんを拒否しているわけではありません。
 
昨日数日振りに投稿をしましたが、ここに投稿すべきだったかと、いまでも心が乱れています。
 
書くたびに、そのような葛藤に悩まされるのはもう限界だという思いは以前からありますが、駄文であるにせよ、ここなら自分の本心を書くことができるのです。
 
コメント欄を閉じたのは、今は誰であれ、返事を書く心の余裕がないからです。
 
Mさんには感謝しています。けれども、今の気持ちの乱れをお察しくだされば幸いです。
 
平和な週末を過ごされますように。
 
 
 
 
 
 
 
 

抗うつ薬は要りません

 
状態は相変わらず。しかし、「相変わらず」であることだけでも救いであるのだろう。

しばしばわたしは「死」の吐息に怯えている。「死にたくない!」と慄いている。

これまでわたしはこのブログで、「今この世界で元気になることにどんな意味がある?」と繰り返し主張し続けてきたのではなかったか。それをいざ死の気配が近づくと「寝たきりになるのも入院するのもいやだ」と願っている。ふ。滑稽じゃないか。つまりわたしは自分のこれまで書いてきたことをすべて反古にしてまで、(信念とやらがあったのなら)、変節も厭わずに、生にしがみついている。
 
母に自嘲交じりに「滑稽だね・・・」というと、「人間は誰でも滑稽だよ」
 
いっぽうで死の影に蒼くなって慄きながら、では、一重に「元気になること」を望んでいるかといえばそうでもないようだ。
 
死神が居眠りしているときなど、インターネットをのぞく。母から新聞に載っていた記事の話を聞く。
そして思うのだ。「やはりどうしてもわたしはこの世界では生きられない」 と・・・


昨夜、「無職日記」という30歳くらいの女性のブログを見つけて目を離すことができず、全ての投稿を読んだ。

パワハラー派遣切りで、その日から無職ーそれから現在に至るまで3年間、「日雇い」「バイト」「派遣」を問わず仕事を探したが、未だに働き先は見つからない。
 
未経験でもできる仕事と謳いながら、書類選考だけで落とされる。無職の身には履歴書を送る140円だって大事なお金なんだと怒り、書類選考で落とされた求人先が、別の媒体で「急募」としているのを見て「面接をして欲しかった」とうなだれる。
 
ブログのコメント欄を開けたことがあったが、誹謗中傷のコメントばかりで、もう二度とコメント欄は開けないと打ちひしがれる。
 
吃音症がひどくなった。パニック障害で電車一駅乗るのも困難。母親からは「働かざるもの食うべからず」と冷たくあしらわれる。
 
周囲はコンビニ一軒ない田んぼと畑だけの環境で、時間をつぶすために図書館に行くにも交通費がかかる。
 
求人を探す以外はパソコンを眺めているか、横になって天井を見つめているだけ。
 
ブログのほぼ全てのページに「死にたい」「苦しい」「孤独」「働きたい」という言葉が記されている。
 
けれども彼女だけが、極めて特殊な例とはいえないのだ。
 
 
わたしは今の世の中で元気になってどうなると嘯いてきた人間だが、そしてその気持ちは根底では変わらないが、これまで100社以上の「バイト」の求人に落とされ、誰からも人間扱いされていないかに見える彼女を無言で抱きしめてあげたいと思いがこみ上げてくる。仮に彼女がLINEをやり、インスタをやる人であっても・・・
 
加えて彼女は中学校から大学までずっといじめられ通しだったという。
 
彼女が祈るような思いで、履歴書を送っても、連絡がないことで「不採用」としている企業が相当数あるという。
 
こんなことが何年も続けば、「死にたい」「苦しい」と呻き、布団の中で泣きわめくのも当然だろう。

繰り返すが、わたしは現代社会に一文の値打ちも見出すことのできない人間であり、且、「自死」を肯定する者だが、彼女には一日も早く働ける場所が見つかって欲しいと願う。
働きたいと願うのなら、その願いがかなうようにと望む。
 
 
彼女のブログに嘲弄と侮蔑と攻撃的なコメントを残した者たち。
 
いったい彼ら/彼女らは、いつ神に、お前の人生は生涯安泰であるとの保証を受けたのか?
 
心に傷を負った人のブログを読んで、話したいなと思うときがある、けれども、鬱病や、引きこもりなどの人たちのブログのコメント欄がオープンにされていることは少ない。
 
心を病むことは、決して、けっして、その人の責任ではない。同時に、ある者が今現在健康であるのは「幸運」であり「僥倖」であって、なんらその者の功績でも能力でもない。それにもかかわらず、この国の人間は、弱った者をそっと見守ることができない。
 
宗教と哲学の欠如というものはこれほどまでに人間をいびつにさせるものか・・・
 
極論すれば、上記のブログの女性は人生を知っているが、オレの人生順風満帆とご満悦の人間の目には、人生の表層しか見ることはできない。
 
 
次回母に、主治医のところに行ってもらう際、母は主治医に「抗鬱薬がひつようでしょうか」とそれとなく訊いてみる、と。
しかし、わたしは抗鬱薬は要らない。仮に処方されたとしても飲まないだろう。
 
抗鬱薬にせよ、他の薬にせよ、それを飲むことで、わたしの孤独が、孤立が癒されるのか?
 
精神医療というものは、患者の症状を聞き、不眠であるとか、イライラ、不安といった「症状」を緩和させる薬を処方するのが仕事なのか?
無論差し当たりの対症療法も必要だろう。寝られなくてつらいのなら、寝られるようにする。それは当然の処置だろう。しかし不眠の訴えを聞けば、何故患者が眠れないのか、その原因を探るのが本来の精神医療の役割ではないのか?
 
そうでなければ精神科医とは所詮薬屋の親玉でしかないことになる・・・
 

 
馴染めない国の虚ろな巨大都市で孤独であること。人との意思の疎通が極めて困難であること。
 
これを脇に置いたまま、いったいわたしの援けになる薬とは何だ?
 
死への恐怖、死にたくないという思い、それと、現実の肯定是認とは左右対称ではない。
 
「死にたい」「苦しい」「孤独」を繰り返す彼女にとって、すぐにでも必要なのは、抗不安薬、抗鬱薬などを浴びるほど飲むことではなく、働き口がみつかることだ。
 
わたしにとっては・・・わからない・・・いまのわたしはただ、死という生々しい現実と向き合うことへの恐怖と、厭離穢土の感情、底なしの虚無感、空虚の間にゆれるひともとの蝋燭に過ぎない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

2021年2月16日

Mさんへ

 
コメントを拝見しました。いつもありがとうございます。
 
断片的に感じたことを書きます。本音を言えば、Mさんへの返信の形を借りた愚痴のようなものですが・・・
 
先ず、ストレッチですが、考えてみれば、こちらに引っ越してくる前から毎日寝る前にやっていました(といっても5~6分程度ですが)、からだがみしみしいうんですが、やった後はさっぱりしますね。
 
音楽は毎日聴いています。今はコーヒーを飲みながら。コーヒーを飲みながらジャズを聴く機会はいまでも多いと思います。ただ、昨年あたりから、いかにも「現世的」なジャズよりも、中世ールネサンスーバロック時代の音楽を聴くことが増えています。ジャズといっても、わたしが聴くのは、それこそチック・コリアの世代くらいまで。いちばん良く聴くのはやはり50年代です。そしてジャズといえば、酒と紫煙、そしてヤク。それらと無縁な健康的なジャズメンたちには興味がもてません。
 
一方で、せいぜいモーツァルトの時代までの音楽を聴くと、心が落ち着きます。聴くのは宗教音楽が多いですね。グレゴリオ聖歌など聴いていると、地上のあれこれが、彼岸の出来事のように感じられます。またそれは否応なく「死」というものを連想させます。(「死」と無縁の宗教音楽はありませんから)
 
マリメッコは母から聞いたのです。昔、銀座松屋にマリメッコの店があったとか。
立川のルミネにも、マリメッコを扱っている店がありますが、なんというか、わたしにとっては縁のない「ブランド品」という印象を受けました。
 
「デイケア」や「作業所」についてのMさんのご意見も、よくわかります。
 
 
さて、今回敢えて、Mさんのメッセージの一部を使わせていただいたのは、
ブログを続けていくことが難しいと感じ始めているからです。
 
下の「性格とは運命である」で書いたように、わたしを取り巻く壁をどうしても突き崩すことができそうにないのです。
 
わたしが外に出られない理由は幾重にも重なっています。芋蔓式につながっています。
 
わたしは知りたいのです、何故これほどまでに現代社会を嫌悪するのか?その象徴としての携帯電話をこれほどまでに憎悪するのか?何故それを(それを持つ者たちを)無視することができないのか?
 
その原因を突き止めず、「音の感じ方を和らげる薬」などの薬物療法だけの精神医療なら不要であるとさえ思うのです。
 
もうひとつは、ご覧のように、毎度毎度同じことしか書けないということ。出口のない円の中をぐるぐると巡っているだけのような徒労感。書くことによって、何かしら進むべき道筋が途が見えてくるということがなく、徒労感の上塗りにしかならないという現状。
 
そして、このような記事をよろこんで読んでいる者がいるということ。
 
これまで何度もブログを止めたり再会したりしているのも、過去に千以上の投稿をしてきたというわたしの内面の蓄積への執着。愛着。同時にいつも頭の隅にその人物がいるという大きなジレンマ=ストレスからです。
彼は「引きこもりは罪人(つみびと)である」といった人物です。
そしてこのブログの過去の閲覧者の総数の三分の一を占めるほど、このブログに足繁く通っています。管理画面によると、昨日今日、そのブログからの訪問数が5回。
 
気持ちは揺れますが、ここに書いている以上、そしてわたしが障害を持ち、外に出られず苦しんでいる以上、彼(ら)の好奇の眼差しからは逃れられないと感じています。そしていまのわたしはもうこれ以上、憎悪の対象を持ちたくはないのです。
 
今は100人の読者を失っても、彼(ら)から逃れられるのなら、という気持ちが嘗てなく強まっています。
 
高校時代の友人は、わたしのコンピューター、オーディオ、ヴィジュアルの面での欠かせないアドバイザーで、彼の存在なしにわたしのインタネットもありえないのですが、彼は、「そういう人間は仮にキミがブログを移ったところで、必ず見つけ出すよ」と言っています。
 
無論この投稿も読んでいるでしょうから、当然また恰好の話題になるでしょう。彼らはわたし以上にわたしの障害についても詳しいようですから水際立った分析がなされるでしょう。
 
母は人から馬鹿にされるのが何よりも嫌いだと言います。
 
ここまで彼に餌を与え続けてきた自分がひどく愚鈍なうすのろに見えて仕方がありません・・・
 
このブログを続けている限り、彼(ら)から逃れることはできない。そのことを肝に銘じておきたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

2021年2月14日

「性格とは運命である」

 

毎日が苦しい。この苦しみから少しでも楽になれたらと強く思う。
 
ここに書くことで今の心の状態を少しでも整理できればとページを開いたが、そこにはただもつれにもつれた糸の塊が転がっているようで、頭と胸の裡の混沌を解きほぐす糸口などは見つかりそうもない。
故に思いついたままを断片的に記して行こうと思う。
 
真っ先に思うのは、わたしの弱さだ。ここに来て、苦しいなどといっていること自体がお笑い種のようにすら思える。いったいこれまでここでわたしが書いてきたことはなんだったのか?これでは所詮は口先だけの男と思われても仕方がない。
 
本来はこういうことはもう少し気分が安定しているときに書いたほうがいいとも思う。不安と混乱の中で書くことは、徒に自己と他に対して攻撃的になり勝ちだから。
 
しかしあえて今、覚束ない足元の上に立って書くことが、わたしの真の闇を明らかにすることになるのではないかと考えるのだ。確かに、心の闇イコール真のわたしとは言えないかもしれない。けれども、気分が軽いときに書くよりも・・・と思うのだ。


先ず「楽になりたい」というのは具体的にはどういうことを言うのか?
おそらくは一日の果てしのない長さを感じないようになること。そして、嘗てのように自由に本が読め、映画が観られるようになること。

では今現在それを妨げているものは何か?
 
おそらくは凍て付くような孤独・孤立。
 
何があなたを孤独にし、孤立させているのか?
 
いちばんわかりやすく誰もが納得する答えは、わたしが、「今・現在」を、即ち「現代社会」を憎み、嫌悪していること。
 
 
現代社会を憎み、そのために、孤立し、抑うつ状態に陥っているのは当然のことなのだろうか?
 
しかしアメリカなどで、「国旗を燃やす自由」が認められている(州がある?)」と聞くが、いまわたしの両足を支えている「この国」を嫌うことは直ちに「孤立」を意味するのだろうか?
 
 
色々な人のブログを読んでみても、「目指せ社会復帰」という声はいたるところで耳にするが、「社会を憎んでいる者」を見たことがない。
また図書館のホームページで、「引きこもり」に関する数百冊の本の中から、気になったタイトルの本の簡単な紹介を読んでも、いったいわたしは巷間言われている「引きこもり」なのだろうかという疑問が募るばかりだ。
 
そもそもわたしの外出を困難にしている、「現代社会の在り方」・・・例えばスマートフォンの氾濫であるとか、電子音声の洪水であるとか、そんなことによって外に出られない者を一般の「引きこもり」と同列に扱うことができるだろうか?
外に出られるようにサポートすると謳っている行政・民間の機関は少なくないようだが、そういうところで、わたしの症状が劇的に(或いは段階的にであっても)軽快するのだろうか?
 
 
わたしは現代社会を嫌っている。その中には、府中市であれ、立川市であれ、何故こう無用な防犯(防災防疫)の放送を飽きもせずに毎日毎日市内中に流すのか?そのセンスのなさに辟易しているということも含まれている。「子供たちの下校時刻になりました、市民の皆様の見守りで、子供たちの安全を守りましょう」という放送に一体何の意味が、効果があるのか?
 
そして先日も書いたが、立川市の障害福祉課に電話をした際、担当者が不在で、後から電話があり、わたしに向かっての第一声は「先ほどお話は××からざっくりお聞きしましたけど・・・」
 
この言葉が忘れられずに、なかなか市役所に電話ができない。この女性がこの地区の担当者なので、別の人を、ということもできない。
 
 
以上、くどくどと書いてきたが、「楽になりたい」とは言いながら、誰にもこれからどうすればいいのか相談することができない。
 
そして、上記のことをひとまず措いて、相談をして、「デイケア」とか「作業所」或いは「地域活動支援センター」のようなところを紹介されたとしても、わたしは今の世の中のことをほとんど何も知らない。
バスや電車に乗るときに、小銭を使わずに乗ることができない。固定電話か、公衆電話以外の電話の掛け方を知らない。そして、最近の言葉のほとんどを知らない。テレビを見ない、ラジオを聴かない、新聞は敢えて見ないようにしている(読むと気が滅入って仕方がないので)、インターネットでニュースを見ることも一切していない。自分には不必要だと思われるニュースが多すぎるからだ。
 
だからわたしは誰と、どんな話ならできるのか?皆目見当もつかない。
 
わたしは様々な精神疾患、障害をもった人たちに比べて、あまりにも何も知らなすぎる。
 
 
これらのことをまとめると、わたしの外出困難は通常の「引きこもり」とは異なるということ。そしてなぜわたしが現代社会を憎むのかを掘り下げ、分析できる医師なり心理士に出会うことはないだろうということ。
そしてどうしても自由に外に出たいと希むのなら、文字通り、僻地僻村へ行くか、海外移住以外の選択肢は思いつかないということ。
 
そして
 
わたしは今の社会の仕組みについてまったく無知であるということ。
今後も、支払いは全て、現金で通すつもりであるということ。
このような事情から、障害者健常者を問わず、話の通じる人間を見つけるのは至難の業であろうということ。
 
 
「性格は運命である」・・・故に、こののたうつような苦しみもまた、微塵もわたしのせいではないということ。
 
 
 
 
 
 
 
 



2021年2月13日

「生きづらさ」について




最近はあまり訪れなくなった英国のエディター兼アーティストの女性のブログを見ていて、偶然見つけたイラストである。作者はChris Dunn(クリス・ダン?)。
夜、お父さんが子供に本を読んで聞かせている絵だろう。
キルトの布団、木のベッド、オイルランプ、木製のおもちゃ、壁に飾られたおそらくは子供が描いた絵・・・
シンプルだけど安らぎのある部屋だ。
 
この絵を見ていると飽きることがない。
 
結局はホームシックなのだ。この絵に描かれている世界への。
 
 
図書館で数人待ちだった内田樹(たつる)の『生きづらさについて考える』という本の順番が回ってきた。しかし結局借りることなくキャンセルした。
 
生きづらさ、という言葉を耳にすることは多いが、今更学者先生の売らんかなの著述を拝読するまでもなく、この時代、どう考えたって生き易いわけがないじゃないかと思わずにいられない。
 
安っぽいプラスティック製品に溢れかえる世界。

旧聞になるが、スウェーデンの環境保護運動家グレタさんは、新聞で斜め読みしただけで記憶が曖昧だが、環境保護の演説を行うために、国連だったかに向かう際、ヨットを使ったと話題になった。
 
けれども、彼女を揶揄したトランプ元大統領にやり返したのはツイッターではなかったか。そしてそれは「何で」発信したのか?それはまさしくプラスティックを主な素材として作られたものではなかったのか?── そしてわたしは使ったことも、持ったこともないので知らないが、「それ」は古くなったから、壊れたからといって「捨てる」ということはないのか? ──
結局は彼女も避けがたく「時代の子」であったのではないか?
 
そういうわたし自身、このようにパソコンを使いCDを聴いている。
 
世界にそのようなものと一切かかわらずに生きている人が少数でも存在する以上、わたしもまた堕落している。そしてこれを皮肉というべきか、わたしはこれ以上はもう一歩も進むことはできない。
 
 
嘗てわたしの親友だった人が言ったことが鮮明に記憶に残っている。
 
「今は物質だけが豊かになって心の貧しい時代だなんていうけど、物質的にも全然豊かじゃないじゃない。わたしの子供の頃は、ものは少なかったけど、「ほんもの」しかなかった」
 
確かに今は何から何まで、本当に何から何まで、フェイクの時代に生きているという感覚を拭い去ることができない。
 
では「本物」と「フェイク」=「まがいもの」はどのように区別しうるのか?
 
あくまでも個人的な規準だが、「山(土)川草木」からの距離によって。
 
わたしは上の絵に「まがいもの」は何一つないと考える。
 
 
小津安二郎の『お茶漬けの味』という作品にふたつ、印象に残っているセリフがある。
 
ひとつは、若き日の鶴田浩二が、ラーメン屋で、津島恵子に言う言葉。
 
「せつ子さん。世の中にはね、安くておいしいものがいっぱいあるんですよ」
 
わたしは今ではほとんど外には出られないが、10年ほど前までは、東京の街をあちらこちらと毎日のように歩いていた。親友と入った店も数知れない。けれども、この1950年代に作られた映画の中のセリフを思うたびに、「失われた古きよき時代」としか思えないのだ。
わたしはバブル期に若き日を送った世代である。大量生産大量消費、言い換えればわたしの20代は既に「本物」の時代ではなく(旨いものは当然ながら値も高く)「粗製濫造」の時代であった。
「安くてうまいものがたくさんある時代」はとうに過ぎ、「安かろう悪かろう」の時代に突入していた。
 
その後ファストフード、ジャンクフードの時代、どの町にも同じチェーン店を見る時代が間近に迫っていたことは周知の事実である。
 

 
『お茶漬けの味』のもうひとつのセリフは、佐分利信が妻の小暮美千代に言うセリフ。
 
「プリミティブでインティメットな関係がいいんだ」(「根源的で親密な」とでもいうのか)
 
例えば、わたしが始めて会った人と、喫茶店なり、レストランなり食堂なりに入ったときに、「スマートフォンの電源を切ってくれますか?」といえるか?おそらくはいえないだろう。
 
先日紹介した「ミソフォニアの日々」に
 
大切な人がいてその人が嫌悪音を出すということであるなら、理解を求めることもできるのです。
自分には嫌いな音がある、だからその音を出さないでほしい、と言うだけで変わる現実もあります。
 
わたしはスマートフォンの電源を切ることは目の前の相手に対する当然のマナーだと思っている。
何故なら、電源を入れたままいつ何時電話がかかってくるかわからない状態にしておくということは、わたしと、その人との間にもうひとり、3人目の人間を割り込ませることに他ならないからだ。そして向き合っている双方が同じように携帯電話の電源を入れたままにしているということは、現実にはその場には最低4人の人間がいることになる。
それがはたして、根本的で親密な会話といえるだろうか。わたしはそのような状況ではとてもリラックスして話はできない。
 
もしそれが親しい間柄の男女だとして、向き合って、或いは並んで座っている時にどちらか一方の携帯が鳴るような関係が、そもそも「恋人」と呼べるだろうか?
 
携帯電話は人と人との、原初的な、親密な関係を毀損しなかったか?
 
数年前の新聞で、生命科学者の女性だったか、新聞に「人は超高層ビルの中で生きることができるか?」というようなことを書いていた。
 
つまり、人はどれほど反自然的状態の中で、大地から離れて心身ともに健康で生きることができるかという問題提起である。
 
誰もが何の問題もないと思っている。誰もが、それが現代だと平然としている。
しかし、それは知らず知らずのうちに、所詮は地球上の生物の一種類に過ぎない我々の生体を、そして精神を、魂を毀損してはいないか。
 

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

Mさんへ

 
いつもと変わらず、やさしい語り口のお返事をありがとうございました。
 
いただいたご提案は何一つ難しいというものがなく、すぐにもやれそうなことばかりで、そのようなご配慮もされているのだろうなと改めて感じています。 

まだまだ寒い日が続きますが、Mさんもどうかご自愛の上、お過ごしくださいますよう。
 
追伸
 
Mさんがわたしの返信をきちんと読んでくださり、それを快く微笑みを以って受け取ってくださったことが伝わってくるお返事でした。