2020年10月30日

言葉と社会

 
以前から読んでいるブログの最新の投稿が気になったので、以下その記事を全文引用する。

引用元のブログは「ひとりしずか




ポトンと音がした。

見るとボタンが落ちている。

直径2cmくらいの大きめのボタン。

失くしたことに気づいた時には補填が難しい品。


教えようかなどうしようかなと、一瞬迷った私。

でもやめておこうと思った私。


ところが、

「落ちたよ」と大きな声をかけた人がいる。

おじさんだった。


ボタンを落とした若い女性は黙って拾った。

そして、

そのまま電車を降りて行った。

「ありがとうございます」も言わずに・・・


それが想定できたから私は教えてあげるのをためらったのかもしれない。

おじさん、あなたは偉いよ、実に偉い。

何の反応も返ってこなくても呟かなかったもの。

おじさんって言いがちだよね「礼も言わないのか!」って。

あなたは言わなかった。


今朝の電車での一コマ。


些細な社会的言語さえ発語しない人が増えている。

オ・マ・エは機械か。

次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。

不気味だ。


仮にわたしがこのブログの筆者である露草さんの立場であったら、おそらくはわたしも彼女同様、落とし物を拾うことも「落としたよ」と声を掛けることもしなかっただろう。
落とし物を拾ってくれた人にお礼を言うこと。これを「些細な社会的言語」とは言い得て妙だと感じた。

以前愛読していたブログに書かれていた言葉が印象に残っている。

「俺は年上を敬えと言う時代に会社に入り、年上を敬わなくてもいい時代に、年下の上司のパワハラに遭っている」と。

わたしは上記の露草さんの文章に何も言うことができない。

露草さんは、「どうせ声を掛けてもお礼を言ってもらえないから」声を掛けなかったのではないだろう。わたしより少し年上で、今も電車通勤をしている露草さんは、「わたしたち」の「あたりまえ」が「今のあたりまえではない」ということを知っていたから、関わらなかったのだ。ボタンを落としたのが年配の方であれば、わたしも露草さんも、当たり前のように、「あ、ボタン、落ちましたよ」と拾ってあげるだろう。
そこには、「わたし」の「あたりまえが」相手にも共有されている(筈)という、曖昧で不確か乍らもある種の前提を持つことができる。

ボタンを拾ってあげた男性には、いつでも変わらない「あたりまえがある」という気持ちがあったのかもしれない。「お礼を言う」というあたりまえではなく、「人が物を落としたら教えてあげる」という「あたりまえ」である。

わたしや、おそらくは露草さんも、人に声を掛けることで、却って現代人との距離を痛感させられるのが厭なのだ。

声を掛けた男性の気持ちも、敢えて声を掛けなかった露草さんの気持ちもどちらも真っ当だと思うし、共感できるのだ。同時にわたしのスタンスとしては、基本的に「若い者」とは関わり合いたくないという側に傾斜している。


「社会的言語」という表現を露草さんはされた。

では果たして「社会的言語」とは如何なるものなのだろう?

今日、立川駅から約20分ほどバスに乗った、『うるさい日本の私』で中島義道も言っているように、最悪なのがバスである。

バスに乗っていられるギリギリの時間が20分である。それ以上は絶体に御免だ。駅からバスで40分などという場所には決して行けない。

バスの中で、エンドレスで流されるアナウンスは、果たして「社会的言語」なのだろうか?
もしそれを「社会的言語」と言い得るのなら、この国は社会的言語の洪水である。
そしてその洪水の中であえぎ、溺れているのは、現実にはごくごく少数の者たちだけである。


最近、偶然、メンタルヘルスのブログの中に興味深い記事を見つけた。
今年、2020年の、イグ・ノーベル賞、医学賞に「ミソフォニア」(=音嫌悪症)
の研究が受賞したという。


ざっとこのブログを読んでみて、わたしは「ミソフォニア」ではないと感じている。
それにしても、バスの車内の騒音で七転八倒している身には、「音嫌悪」「音恐怖」の苦痛は凄まじいもの=地獄であろうということは容易に想像がつく。

イグノーベル賞はノーベル賞のパロディーといわれますが、それでも知名度は抜群ですよね。
その医学賞がミソフォニアの研究なのですから、全世界のミソフォニアはこの受賞を知ったら大喜びですよね。
多くの人に、音嫌悪症というものがあるのだということを知ってもらい、咀嚼音や鼻すすりや様々な音が嫌悪の対象になっているんだということを理解してもらいたいですね。

みんなが一度でもそのことについて考えたならば、きっと世界はもう少し住みやすくなる、はず。

この言葉に深く頷くとともに、イグ・ノーベル賞医学賞に心からの拍手を送りたい。

わたしは外界の様々な音、臭い、光、色、などの刺激=信号に堪えられずに外出が困難なのだが、一方で、所謂聴覚過敏であるとか、ましてミソフォニアというものとは違う理由から音への憎悪がある。

おそらく「聴覚過敏」や「ミソフォニア」の方たちは、「刺激そのもの」「音自体」が苦手なのだろうと推測する。

けれども、わたしは、またおそらくは中島義道も、「何故このような音(アナウンス)が必要なのか?」というところで社会の中の(ノイズ=言語)との軋轢を生じている。

何故バスの中で、「横断歩道を渡るときは・・・」などという説明を繰り返し聴かされなければならないのかが理解できない。

以前にも書いたことだが、美術館でのど飴は禁止。何故ならば、咳やくしゃみで飴が飛び出して、作品を損ねるから・・・その話を窮極まで突き詰めてゆけば、何故そもそも「生き物」を美術館に入れるのかという話にはならないか?
めまい、立ちくらみで、思わず、壁や展示ケースに寄りかかってしまう可能性はほんとうにないと言えるのか?
美術品を毀損する意図を持った人間が入場していることは絶対にありえないという保証はどこにある?

バスで執拗に、「危険物の持ち込みはお断りします・・・」では、仮にほんものの危険物(爆弾など)を持ち、何処かを爆破しようとしている者がそれを聞いて「え?だめなのか・・・」と乗るのを止めるのか?

ほんとうに危険だと思うのなら、何故乗客全員のボディーチェック、所持品チェックをしないのか?


露草さんは書いている
オ・マ・エは機械か。

次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。

機械ならぬ「生き物」である人間を電車やバスに乗せて運び、美術館で展示品を公開するということは、人間が未だ完全に機械になりきっていない以上、考え得るあらゆる危険をいちいち読み上げて、おやめください、ご注意くださいと言っていたのでは単に音の洪水が生まれるだけではないのか?そしてそれ以上に、人間が言葉(忠告・警告)で完全に制御可能という発想はどこから生まれてくるのか?換言すれば、およそ犯罪を犯すものは、自分の行為が「犯罪(=違法行為)であるということを知らなかった者たちばかり」なのか?

バスの降り際に、「どのバスもこんなにうるさいんですか?」と尋ねるわたしに運転手は、あたりまえのように「決まりごとがいろいろあるんだからしょうがないでしょう」とわたしの顔を不思議そうに眺めていた。

どこまでも愚鈍な国民・・・

「近代都市」というのは、誰もが、幼児をのぞくだれしもが、文字通り行く先々で手取り足取り乗り方降り方を教えてもらわずとも、公共の交通機関を「まったくあたりまえに」「自然に」利用できることであり、わからないで困っている人には、誰もが「あたりまえに」声を掛けてあげられる都市の、国民の在り方を指すのではないのか。仮にそれを「理想論」であるというのなら、この国に「先進国」を僭称する資格はない。また人間の成熟というのは、自分で状況を判断し、そして良きにつけ悪しきにつけ、自分の行動に責任を持つことだ。
毎日街の至る所で、「ああしましょう」「こうしましょう」と躾られている人間だらけの国が、所詮未熟な「子供の国」であることは言を俟たない。

ひとりしずか

ミソフォニアの日常

加えて

KITAISM


以上のブログの筆者に深く感謝いたします。








 


2020年10月29日

疑問

 
「差別主義者に人権はあるか?」

他者の人権を認めない者の人権の根拠は、果たして何に依拠しているのか?







2020年10月28日

駄々・・・

 
冷静で善良、そして「言論の力」を何よりも重んじる日本人諸賢にとって、時折海の向こうから聴こえてくる「数百万人規模のデモ」(一部暴徒化)だとか「数日間にわたるゼネスト」(医療、消防ほか生命の維持に関する諸機関を除き、都市機能ほぼ完全麻痺)などというニュースは、結局いい大人たちが、まるで小さな子供か、さもなければ反抗期の学生の様に「クニ」のやることに対して「駄々」をこねている、としか映らないのかもしれない。

それを「駄々」と呼ぶのならそれでもいい。けれども、「言論こそが正義」と信じて已まない日本の優等生たちが「駄々」と呼び冷笑する行為が、実は「民主主義の要」なのだということを知るべきだ。

古代中国に曰く

「上に政策あれば 下に対策あり」

決して

「上に政策あれば 下に弁論アリ」ではないのだ。









2020年10月27日

ペソア

 

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づかなければ十分だ。”
ーフェルナンド・ペソア

*

”人を遠ざけるのは簡単だ。近づけばいい・・・”
ーTakeo 








全体主義の恐ろしさ

 
全体主義に於いては「正義」がはびこる。どのような形で?「正義に反する」という名の下での「処罰」が蔓延るのだ。
ところが正義の源をたどってみれば、「多数派」=「正常」=「正義」という虚構に過ぎない。









無思考と狂気

 ここ数日、東京は半袖の人も見かけるほどの気温が続いている。十月も末近いからなどと、季節で厚着をしていくと、ハンカチで汗を拭うことになる。

鹿児島の川畑さんも気温の変化で体調を崩されていたらしい。組織の代表だけに、今日は多少無理をして出勤されたのだろうか?川畑さんからのメールが届いていたが、返信は書かないでおく。返事を書かなければ、という負担(?)を多少でも減らしたい。

今日は用事で立川に行ってきた。月曜の午後。立川駅周辺はいつもと変わらぬ混雑ぶり。朝夕のラッシュも「いつもと」変わらないのだろうと想像する。
昨年の今頃と変わらないのは、皆がマスクをしているということだけ。

駅前の携帯ショップの近くで、目的の店は何処かときょろきょろしていたら、店から制服姿の若い女性店員が現れて、客が去った後、いつまでも、いつまでも、最敬礼をしていた。最敬礼とは身体を直角に曲げる姿勢で、最大限の敬意を表す姿勢だ。

それを見て感じたのは、さすが日本。さすがに若者。さすがにソフトバンクだな、ということ。その姿形の延長線上には当然ながら「全体主義」-ファシズムの影が見え隠れする。
改めて断るまでもなく、これは全く個人的な印象だが、いつまでも客の後ろ姿に最敬礼をしていた女性にわたしは微塵も客への敬意を見ることはできなかった。おそらく1時間前には別の男性が全く同じ姿勢で客を見送っていたのだろう。


わたしと川畑さんが「狂気」と「他者性」について話を始めたときに、真っ先に挙げられた「狂気」が、「無思考状態での服従」であった。
プリーモ・レーヴィがもっとも恐れた「モンスター」=「疑うことをしない多数」である。

また仮に、ちょっと考えにくいことだが、その店員が、自分の意思で、上司や会社(本部)の支持とはまったく無関係に、40秒近く最敬礼をしていたのだとすれば、「彼女」はわたしの理解を超えた「完全なる他者」である。

たとえば電話というものは基本的に、掛けた方が切ってから受けた方が切る。要件が終わってすぐ切られるのは不愉快だ。
一方いったい誰が、いつまでも自分の背後で最敬礼をされて平気で、平静な気持ちでいられるだろう?

「他者性」とは単なる相違をいうのではない。それは自分がどんなに想像力を働かせても、ついていけない他者性のことである。例えばわたしにとって『家畜人ヤプー』のようなスカトロマニアの気持ちは最大限の想像力を働かせても生理的な拒否反応以外なにものも見出すことはできない。無論スカトロジーという嗜好自体にいいも悪いもない。
いいわるいを言うのならば、「糞便を食したい」という嗜好よりも、「家畜になりたい」という思考/志向である。

わたしには折からの逆光の中、いつまでも最敬礼をする影が人間には見えなかった。
・・・家畜・・・


プリーモ・レーヴィを恐れさせた「家畜」は決して、決して「無害」ではないということを強調しておく。


ー追記ー

「群れ」ることによって思考が一元化される。それが「全体主義」である。一方、スカトロジーであれネクロフィリアであれ、それはあくまでも本来的にマイノリティーである。
そして「全体主義」が最も嫌うものが、「異質性」であり「例外的存在」である。つまり法則的に、また避けようもなくスカトロジーはファシズムの敵になる。故にわたしは好悪を超えて、常に少数派=異端の側に立っていたいと思う。何故なら「全体主義」を最大最悪の「狂気」であると見做す視点から見れば、必然的にその対極に位置する「極個別的嗜癖」は「非・狂気」ということになるからだ。










2020年10月24日

関係性の障害と治癒

 
「治療者は患者にとって、さしあたってはまず、自己を侵害し、自己の自由を制約する他者の代表者とみなされる。
このいわば倒錯した治療構造を助長しているのが、精神病は ── 自殺を重大な例外として ── 原則としては放置しても死に至らない、したがって患者という個別的な有機体だけを視野に入れる場合には、治療の必然性が成立しないという事実である。個体の死への方向性を示さない「疾患」について、医学はどのようにしてみずからの基本構造を維持できるだろうか。
 (略)
精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にないという構造の中では、治療の対象となるべき病苦の座を患者個人の有機体器官の病変に置く自然科学的医学のパラダイムは、たちまちその有効性を失う。それにかわって、患者が家族の一員であり、学校や職場の一員であり、結局は社会の一員であるという仕方で、逃れ難く自他関係の網の目に取り込まれている構造そのものが、精神科治療の、そしてそこから派生する臨床精神医学の研究の本来的な関心事となる。
 

人間を含むあらゆる生物は、種の保存と個体の生存のために、絶えず環境との間に必要な関係を維持し続けている。その場合、生物の側の内部事情も環境の側の外部事情も、それぞれ刻々に変化し続けているのだから、両者の関係もけっして安定した恒常的なものではありえない。関係は常に致命的な断絶の危機にさらされている。生物はそのつどこの危機を乗り越えて新たな関係を再建するという仕方でこの関係を維持しなければ、生を保全することができない。生物が種全体としても個体ごとにも生きつづけているということは、要するに環境との関係が保たれているということ、関係が存続しているということである。生物の存在の意味が生存ということに集約される以上、生物の行動の支配する究極の意志は、環境との境界面に於ける関係の維持に向けられている。

ー木村敏『分裂病の詩と真実』第2章「関係としての自己」3「自己と他者」及び  4「自他関係の生命論的構造」(初出1995年)より


エリクソンが「精神疾患とは関係性の障害である」というように、そしてここで、木村敏が指摘しているように、わたしに関して言うならば「精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にない」ということがあてはまる。
木村敏の言葉を借りれば、「環境」は「わたし」という個体とも、また、種としての「ヒト」とも全く無関係に、自己目的的に勝手に変容を続けている。
しかし、わたしの視界に入ってくる「種としての人類」は個体としてのわたしの環境との軋轢・葛藤をよそに、やすやすと、環境の変化に即応しているように見える。
だとすれば、環境の変化に容易に適応できる者たち(=種)と「わたし」という個体との共通項とはいったいどこにあるのだろうか。
人間(乃至生物)は常に自己を取り巻く環境とともに生きる存在である。では、ひとたび損なわれ、喪われた(不可逆的な外部環境との)関係性の修復とはどのような形で可能なのだろう。


ー追記ー

ここで木村敏が言っている「環境」とは、例えば「地球の温暖化・寒冷化」そして今回のような「世界規模の感染症の流行」のような、主に、生物の「生体」に危機を及ぼす「環境の変化」である。
けれども、わたしは「街の景観」「社会構造の変化」といった「心理面に影響を及ぼす環境」をも含めて、広義の「環境」と言っている。人間が身体と精神を持つ存在である以上、「環境」との関係性に於いて、その「心理的側面」を無視することはできない・・・