2020年3月26日

底彦さんへの返信に代えて、思いつくままに


新しい投稿をしようかと考えましたが、ひどく億劫です。ですからまたもや底彦さんへの返信という形でここに書きます。これまでのやり取りとも無関係ではないし、底彦さんのブログを読んで感じたことも含まれています。「新たな投稿」となると、どうしても構えてしまい、文章の推敲なども面倒なので、特定の誰かに話すような気軽な形で書こうと思いました。

ですからこの文章に関してのお返事は、義務のように思われませんように。もちろん反論も含め底彦さんの忌憚のない意見を聞かせてもらえればうれしく思います。



わたしはで、自分は「内面」とか「自己の小宇宙」のようなものは持ち合わせてはいなかったと書きました。自己の空洞感。自分の内面がスカスカな感じは、既に20代の頃から感じていることです。しかし一方でわたしは「二階堂奥歯の世界観への異論」という投稿の中で、「自分の世界を持つということは、とりもなおさず、自己の外側に「わたし」とはまったく無関係に厳として存在している客観的世界=現実との乖離乃至対立を意味する。」というようなことを書いています。つまりもしわたしに自分の価値観や美意識、何を美しいとし、何を醜いとするかという規準、そしてじぶんにとって「あらまほしき」世界像というものがなく、自分というものと、世界(あるいは「世間」)の規準(水準)が全く同じ等高線上にあるのなら、なぜわたしはこんなに苦しむのでしょう?世界・世間と自己とが一心同体であるなら、なんら別個のものでないのなら、わたしは常に世界・世間と歩調を合わせて生きてゆけるはずではないでしょうか?「今はこういう時代ですよ」「これからはこういう時代になりますよ」と言われて「ハイハイそうですか」で済むのではないでしょうか?

「教養は富めるときは身の飾り、病める時は心の避難所」という言葉を憶えています。仮にわたしに「(豊かな?)内面」があったとしても、それはこころの避難所には成り得ないようです。

わたしがこの世界の中で呻吟しているのは、世界と対立する確固とした「内的自己」が在るためなのか?或いは避難所になるほどの大きさも奥行きも全然足りないということなのか・・・



わたしは最近投稿した「'Mobile phones have killed photography' スマートフォンが「写真」を殺した。 ヴィム・ヴェンダース」の記事を非公開にしました。わたしにも見ることはできません。非公開にしたのは、あのビデオに映された多くのスマホの写真を見るたびに胸が悪くなるからです。記事の内容などどうでもいい。スマホをかざしているひとたちの写真ほど不愉快なものはありません。

ヴェンダースは、携帯で撮った「写真」を従来の「写真」と同一視することはできない、故にわたしはスマートフォンで写した「写真」をどのように呼んだらいいのかと考えている、と。

タンブラーを含め、わたしは自分の持つブログを、それが誰であれ、自宅外、自室外で見たり読まれたりしたくありません。スマホであれタブレットであれ、自分の家、自分の部屋で見る分には構いませんが、電車や喫茶店などでは見たり読まれたりはしたくない。「何処で見ようと勝手だろう」と居直るのなら、わたしはそのような行為は、書き手として極めて不本意であり不快であるとお伝えしておきます。このブログは「携帯端末用」には書かれてはいません。
わたしは辺見庸と違って、読んでもらえるなら電子書籍だって出すという現実への順応性もありませんし、そうまでして読む価値のあるものを書いたこともありません。



目の手術を受けるにせよ辞めるにせよ。見える世界は見たくもない世界です。
仮に、仮に目の手術を受け、それが無事に済んだとして、わたしの気分が少しでも上向きになるようなことがあれば、なんだかそれは「堕落」のような気がするのです。



母の買った、神田橋條治医師の『発達障害は治りますか?』という本があります。
論文のようなものではなく、複数の精神保健福祉士との対話ですが、要は、治す・治るということよりも、「少しでも生き易くなること」が治療の目的のようです。

借りたまま読んでいない中井久夫の本の中に「神田橋先生のいる風景」という文章があります。

「すこしでも生きやすく」とはどういうことでしょうか。

スマホのある世界で、「5G」とか呼ばれる世界で、これからは「スマートシティー」の時代と言われる世界で「生き易くなる」とはどのようなことでしょうか?

それは「治癒」の場合と同じで、自分にとっての穢土、戦場で、「生き易く感じる」ように操作することを意味するのでしょうか。でなければいったい生き易くなるとはどのような意味を持つのでしょう?

前にも書いたかもしれませんが、内田樹の新刊『生きづらさについて考える』の惹句は、たしか「どんな時代でも生き延びる内田流哲学」のような感じだったと思います。

「どんな時代でも生き延びる」ことはいいことでしょうか?「生き延びる」とはどのような意味なのでしょうか?それはつまり「自分の価値観」は二の次にして、とにかく「どんな時代でも」「生き延びる」ことを至上の価値としているということでしょうか?
「生き延びる」には二通りの途があります。「現実」に順応すること。もうひとつは「逃亡すること」── わたしにはそのどちらも出来ません・・・


わたしが二階堂奥歯にどうしても勝てない点、それは「自殺したもの勝ち」ということです。「自殺をした」この一点だけで、彼女は明らかにわたしよりも勝っています。無論辺見庸よりも。
「あなたは何故このような本を書き続けるのか?」と二人の学生に問われた時、エミール・シオランは「誰もが早世の幸運に恵まれているわけではない」と答えたといいます。



底彦さんのブログを読んでいて、確実に足が止まるのは、「先のことを考える」というような言葉にぶつかったときです。わたしは「死ぬべき者であるのに死ねずにいる」人間です。ですから先のことを考えるということがありません。意識して見まいとしているのではなく、ただ、永遠の「今日」があるだけなのです。


「知恵多ければ憤り多し」といったのは誰だったでしょうか?
「知恵多ければ・・・」とは無論わたしのことではありません。ひとつの「真実」として、「豊かな内面」は現実世界に対する「避難所」には成り得ません。
寧ろ逆に内面など無く、外界の空気で身体中を充たせばいいのです。外界と内面の気圧を全く同じにしなければなりません。そうすれば「生き易く」なれるはずです。5Gでも、スマートシティーでも「いきいき」と「生き延びられる」はずです。

ヴェンダースは「スマホで撮った写真をどう呼べばいいのか?」と自問している。
スマホ時代に生きている人間が従来の「人間」の概念とは異なるということをわたしは痛感しています。

「アナタガタガニンゲンナラバ ワタシハニンゲンデハナイ
 ワタシガニンゲンナラバ アナタガタガハニンゲンデハナイ」



ー追記(あとがき)-


底彦さん、この文章を書いてとても疲れました。
それはおそらく底彦さんが「認知行動療法」や「セルフカウンセリング」の際に「過去と向き合う」ことで非常に消耗し疲弊することと相似形だろうと思います。
底彦さんにとっては「過去」と向き合うこと、わたしにとっては「現在」「今」と向き合うことは非常に苦痛です。

シオランは学生にどんなに憎い相手のことでも、紙にそいつの悪口雑言を書くことで心の中からその屈託は消えると言っています。わたしには想像もできないことです。わたしは寧ろこのように書くことで、「現実」と癒着するような「汚辱感」を覚えます。

書くことは・・・「現実」について考え、「今・現在」に目を向けることは、苦痛です・・・

わたしには「5G」時代の精神医療の役割がわかりません・・・


















2020年3月20日

ク ル シ イ …


今日は弟に気の毒なことをしてしまった。最近目立ってこちらに泊まる回数が増えている。無論いつでも好きな時に泊まれる権利・・・といえば大袈裟だが、ここは弟の家でもあるのだから。彼が3日に一度泊まることになっても文句を言う筋合いではない。実際本来はここに住んでいるはずが、わたしの我儘身勝手のせいで1日の3分の2をたったひとりで何年も過ごしているのだ。悪いのはわたしだ。何故弟がわたしの犠牲にならなければならないのか?

けれども、頭ではそう思いながら、気持ちがどうしてもついていかない。物理的に傍にいることが苦痛なのだ。まだ2人とも大田区で家族4人で暮らしていた頃、たぶんお互いに10代のころ、或る夜、弟と一緒にいるのが苦痛で、行く当てもないのに夜外に出て行ったことがあった。その頃池上に高校時代の友人がアパートを借りていた。放送部の他の3人の中では、どちらかといえば苦手(?)なタイプだったが、気さくな人間なので一晩泊めてもらおうとしたのだが、彼のアパートには他の友人2人と一度行ったきりで、1時間くらいうろうろしたが遂に見つからなかった。結局その日は上野のオールナイトのポルノ映画館で夜を明かした。
馬込に部屋を借りるようになってからも、弟がいるからと、正月三が日、帰らなかったことも一度だけではなかった。

弟が泊まる回数が増えれば、わたしはここから出て行かなければならない。それは誰のせいでもない。現実にここにとまる日が確実に増えている以上、そう遠くないうちに数万円をもって夜中にそっと出てゆくことになるかもしれない。弟が母と離れて生きることが出来ず、わたしがどうしても弟と同じ屋根の下に暮らすことができない以上、それ以外の途はない。
何故そうなるのか?それはわたしにもよくわからない。わたしがひとり暮らしができない理由のひとつに、突然のノックやチャイム、電話を異常に怖れるということがある。これはなにも「予告なし」の場合だけに限らない。宅急便や修理の人に、何日の何時から何時に伺います、と言われた時、その「何時から何時まで」の間、文字通り脂汗を流しながら、トイレにも行けず、呼吸は浅くなり、本を上下逆さまに持ったりと、静かなパニック状態に陥ることとなにか関連があるのかもしれない。しかしわからない。



4月3日の予定だった目の手術の正確な来院時間がなかなか決まらないので、それでは前日になって「行けない」ということにもなりかねないと伝えたところ、前日の2日なら「午後」で大丈夫だと言われた。そして手術の翌日(翌朝)執刀医が診察をするのであれば、その日は病院の近くに泊まらなければならないので、翌日の診察はいつもの地元の眼科でも構わないか?ということも訊いたが、執刀するドクターの診察は朝早いので無理だとしても、手術の翌日と翌々日は執刀医ではなくとも、少なくともこの病院の医師の診察を受けてもらいたいということだった。勿論午後で構わないが、と。

御茶ノ水の眼科はこちらの事情を考えてくれている。手術をした医師が術後の経過を見るのは当たり前だし、逆に地元の眼科医で構わないですよという方が無責任ともいえるのだ(いくらその眼科医がその病院のOGであったとしても)。けれども、そもそも今のわたしのような状態の人間が、電車で40~50分も乗ったところにある病院に行くということ自体、ハードルが高すぎたのだ。手術も午後、翌日とその次の日の診察、そして10日後くらいの予後の観察もすべて午後でいいといわれても、とにかく「電車に乗ること」が、とても難しい・・・困難なのだ。

片目が見えないストレスは日増しに膨らんできているが、手術当日から3日連続プラス10日前後の診察のために「通う」=「電車に乗る」ということは、少なくとも今の状態では無理に思われる。

数年前、もう片方の目の手術をした時には、やはり翌日の診察のために近くのビジネスホテルに一泊したのだった。当時は外出困難も今ほどひどくはなかった。電車で二駅の主治医のところにも、不規則乍ら通えていた。

5月21日の手術が4月2日になるというのは助かるが、電車に乗るという難関を、どうすることも出来そうにない。早いうちに結論を出さなければならないが、御茶ノ水での手術は、おそらく無理だろうと思う。



精神科も、デイケアも辞めようと思う。わたしは確かにアタマがおかしいが、精神科に通って、薬を飲んでどうこうなるものでもあるまい。デイケアの担当も、何しろ規模が大きいので、「主治医との連携」と、口ばかり言っている。仮に「口ばかり」ではなく、主治医や保健所の保健師と「連携」したところで何が変わるというのか?
更に、デイケアのディスカッションに参加して、いつものようにみなと違う意見を述べていったい何になる?


御茶ノ水に行った時にわかったことがふたつある。ひとつはもう電車には乗れない。乗りたくないということ。強烈な拒否感。そして空のひろがりのうつくしさ。「飛びたい」という強い憧れ・・・


いまはただただ生きていることが苦しい。そして自分が一体なんのために生きているのかを考えた時、どうしても死ぬことの容易でなさ以外の一切の理由が見つからない。そして思うことはただただ楽になりたいということだけなのだ。わたしがいなくなることは母や弟の負担を激減させることにもなる。そして何よりもわたしはこの苦しみから解放されたいと願っている。

冒頭に「弟に悪いことをした」と書いたのは、どうしても苦しくて、夜の6時過ぎまで起きることが出来なかったこと。弟がいるとどうしても機嫌が悪くなってしまうこと。
早くなんとかしなければ・・・




ー蛇足ー

アートブログ「Eye of a Painter」はあまりの人気のなさに気落ちして閉鎖することにしました。わたし自身はあのブログを気に入っています。ですから削除はしませんが公開を止めます。過去のポストはそのままにして、同じものをすこしづつ、Clock without Handsに移していこうと思っています。

しかし実際にはこの2つのブログのテイストは対照的で、Clock without Handsに訪れてくれる人が「エロ・グロ・ナンセンス」に抵抗を示すことは明らかです。

わたしはドロローサが、ブログとフェイスブックを2:8の割合で使い分けていることを残念に思います。それはSNSの画面の味気無さです。このブロガーは、ある程度自分で画面を好きなように作り上げることが出来ます。バックの色も、文字の色、フォントも。わたしは自分の好きな絵を自分の創り上げたフレームに収めたいのです。
その点ではタンブラーもSNSに近い。
あまりの人気(ひとけ)の無さ、と書きましたが、SNSなどで、薄汚い絵文字などを送られるのは真っ平御免蒙ります。汚い賑わいよりも、清浄な孤立を選びます。

では。










 

2020年3月17日

底彦さんへ


先の投稿で、わたしのことばが底彦さんにとって攻撃的だったかもしれないと気にしています。若い頃、更に若い外国の女性ミュージシャンのインタヴューを読んで、そこに書かれていた「率直に物を言うことは時に暴力的でもあるから・・・」という言葉が強く印象に残っています。

率直に物を言う、自分の気持ちに誠実である、しかしそれが結果として人を傷つける場合に「率直であること」「自分の心に忠実」ということが言い訳になるでしょうか?
わかりません。
おそらくそれを見極められることが、センスなのだと思います。

生きることも死ぬこともままならず苛立っています。
このような穢土にあって、片目が見えるようになることにいったいどんないいことがあるのか、まるでわかりません。

ブログに自分の気持ちを正直に綴ることは許されても、誰かを相手に、それが自分の考えだからと率直に物を言うことは時に・・・屡々暴力になり得るのだと肝に銘じておかなければならないと思いました。

真実よりも大切なのはひとを傷つけないこと・・・わたしにはとても難しいことですが・・・

最近わたしはどんどん自分がきらいになっています。











2020年3月16日

底彦さん、Junkoさんへ、お返事に代えて。


こんばんは、底彦さん、Junkoさん。

最近はまたアートのブログの方に時間を割いています。「見るべきほどのものは見つ」ではありませんが、以前(昨年暮れあたり)から、「書くべき程のこと」は書きつくしたという気持ちがあります。
それに、生きていても無意味な人間が何かを書くことの意味がわからなくなっています。

先日「生きづらさ」についての本を借りましたが、結局パラパラとめくっただけで翌週には返却しました。それほど新しい本ではありません。精神科医の香山リカ、上野千鶴子などが、書いているのだか、語っているのだか、そんな本でした。
わたしは巷間「リベラル」と呼ばれている人たちの言葉にどうしても馴染めません。香山リカもそうですし、最近『生きづらさについて考える』という本が人気(?)の内田樹(たつる)といった、「軽い感じ」のものを書く人たち。それでいてわたしには香山リカの本の方が、木村敏の著書よりも難しく感じるのです。


今のわたしは所謂「生きづらさ」というよりも「生きていることの苦痛」をより強く感じています。生きづらい・・・「この道具は使いづらい」「この自転車は乗りづらい」「このペンは書きづらい」等、「~しづらい」という言葉は、非常に限定的な表現に聞こえるのです。書きづらいけど、乗りにくいけど、使いづらいけど ──「仕方がない」と後につづくような感じ。わたしは「生きづらい」のではなく「生きているのが苦痛」なのです。



Junkoさん。

コメントをありがとうございます。

なんでそこまで人間の手を機械化しなければいけないのでしょうね
レジには人がいるわけだから、彼女が金銭のやり取りをすればいいだけの話
結局人を信用していない。ってことに帰結するのでしょうね。

信用云々以前に、単純に人件費を抑えたいということではないでしょうか。
しかし、「人間を信用していない」という考え方にもちょっと「惹かれ」ます。
経営者が、そもそも雇った人間たちを信用できない。確かに今は人間が他者を、見知らぬ人を信用しない(「できない」ではなく「しない」)時代のように思えます。携帯端末により、人と人との≪コミュニケーション≫は、より速く、より遠くまで、という時代ですが、現実には、生身の人と人との距離は、船が陸から離れるように、徐々に、徐々に広がりつつあるのではないでしょうか?
それは何故か?より簡単に、より速く、より遠くまで、より広範囲の人間と接点(?)を持てるようになったということのサイドエフェクトではないでしょうか?

今は必要な時に人がいません。家電の量販店でも、ツタヤでも、ちょっと訊きたいことがあっても店員の姿が見えません。駅には駅員がおらず、車椅子の人が電車に乗る時には、予めの「予約」が必要な場合が増えているようです。それも都心の駅でです。その日の気分でちょっと出かけたいということが、だんだん困難になってきている。

主作用があれば副作用がある。作用があれば反作用が働く。そして今の時代、一体何が「主作用」なのでしょう?誰にとっての?


イタリアは欧州の中でも、感染者が激増しているようですね。
大変不謹慎な言い草ですが、例えば、先日フランスでゼネストがあって、都市機能がほぼ完全にマヒしました。香港ではデモ。香港政府の首脳は「社会が秩序を持ってスムーズに動いていることがなにより大事」だと言いましたが、香港市民は耳を貸しませんでした。

「社会が滞ることなくスムーズに動いていることが最も大事」これは日本人にとっては殺し文句です。スムーズに動き続けるということは、問題に直面した時に、立ち止まって熟考する、或いは社会の理不尽さ、自分たちの尊厳を無視・軽視する政治の在り方に反旗を翻すことはしないということです。


目の手術に関しては、いろいろと複雑な思いです。先ずわたしには限られた選択肢しかないということ。歩いていける場所に都立の病院がある。けれども、手術は5月の末まで待たなければならない。もうひとつは以前片方の目の手術をした御茶ノ水の病院です。今の眼科の医師が提携しているのはこの二か所。わたしは大学病院には行けないし行きたくありません。ここから一番近いのは三鷹の杏林大学ですが、三鷹からバスで20分(?)ほど。わたしはバスには乗れません。

お話した御茶ノ水の眼科の医師が他の医者に比べて特別に横柄だとは思いません。
そもそも診療科を問わず「親切な医者」を探すこと自体が大変なことなのです。
仮に選択肢を広げるという話しになれば、とりあえず今回はどちらの手術も見送る、という「選択」も含まれてきます。「見るべきほどのものを見つくした後」尚目を治すということの意味は・・・ということを考えてしまいます。

白内障の手術の後に、眼内のレンズが薄暗い場所で光が乱反射するという現象について、都立病院の医師は、そういうケースは万に一つもない。だから術後にこういう症状が出ることもあります、などとは書かないと言い切りました。
一方御茶ノ水の医師及び、現在の眼科医は、目にレンズを入れるのだから当然起こりうる症状だと言い切りました。このようなこともわたしに手術を躊躇わせる一因となっています。つまりわたしは眼科医の間でも意見が真っ向から対立する問題の渦中にいるのです。都立最大の病院の眼科医は白だといい。月に数十件の目の手術をこなしている医師は、「そりゃ黒に決まってます」という・・・

わたしは医師を選べないのです。そしてもうこの目も含めて、この世界に「在る」ことに疲れ切っているのです。

Junkoさんもお元気で過ごされますよう。まだ書き残したことがあるように感じますが、このところ、片目のストレスが日増しに強まっていて、片目で考えることの限界を感じています。不充分なお返事をご理解ください。


P.S.

最近一切メールのチェックをしていません。もしメールをくださっていたら申し訳ありませんでした。


◇◇


底彦さん。お返事をありがとうございます。

『八本脚の蝶』解説は穂村でしたか。彼は昨年か一昨年か『泳ぎに行きませんか?』という本を出しています(書名は確かではありません)。この、真夜中に、「これから泳ぎに行きませんか?」といったのが、二階堂奥歯です。多分そのことも書かれていると思います。一時穂村のエッセイを随分読みましたが、ここ数年はまったくダメですね。めっきりつまらなくなりました。穂村は歌人ですが、わたしは現代詩同様、今風の歌にも関心がないので、彼の本分である「短歌」は読んだことがありません。

尚、アマゾンのレヴューによると、書籍化された『八本脚の蝶』には一部収録されていないところがあり、また、疲れていた時に書いたブログのミスタイプがきちんと直されているという点も、そのレヴューをした人には不満足(?)のようでした。実際底彦さんも気づいたかもしれませんが、「シモーヌ・ヴァイユ」と書かれた箇所があります。それを正しく「ヴェイユ」と訂正することがいいことなのか?わたしにはそういう点に拘ったレヴュアーの気持ちがよくわかります。電子書籍を蛇蝎の如く嫌うわたしでも・・・

わたし個人は、彼女を「メンヘラの女王」と呼ぶ人たちの気持ちも分からないし、また底彦さんの言うように、彼女に現実離れした一面を見ることも出来ないのです。
確かに夜、突然「これから(おそらく海へ)泳ぎに行きませんか!」という点では「現実離れ」していると言えなくもありませんが。

それ故に彼女は見るという行為によって自分を現実に繋ぎとめることにこだわったのではないでしょうか.

「現実」とは何でしょう。何故「私」は「現実」(と呼ばれているもの・場所)に繋ぎ留められていなければならないのでしょうか?

わたしはいまここにある現実以外の世界があると思うことで救われています。二階堂が「異世界」に憧れながらも、「今・ここ」に自らを繋ぎとめておこうとする動機或いは理由は何でしょうか?何故糸の切れた凧のように果てしなく「いま・ここ」という「現実」から遊離していってはならないのでしょうか?

 内的世界を蔑み現実に即さないものを一段低く見る

という意識は、底彦さんご自身の内面に、あるのではないでしょうか?

私の思考や空想の世界までも侵入して管理・支配しようとしている

のは底彦さんご自身の深く内面化された、現実を、非・現実の上に置くという価値観であって、それはけっして「外部からの侵襲」ではないように思えるのです。(その起源は措くとして)


わたしは「生きている」とはどのようなことか、と考えます。

例えば、「ホームレスは生きているのか?」また「わたし」は生きているのか?

家無き者たちは、身体の動かせない重度障害者は、そしてわたしは、「外側」から見れば「生きている証し」を持っています。けれども、わたしたちは、はたして他ならぬこの自分が「生きている」という「実感」を持っているでしょうか?

生物学的な生と、形而上学的な生を分けて考えずにはいられないのです。
わたしは生物学的には「死んでいない」。けれども「生きている」と言うことは難しい。誰にとって?わたし自身にとってです。

底彦さんは

けれども, 彼らには間違い無く彼らの「存在と生」があります. 

それをわたしに向かって言えるでしょうか?

たけおさんには間違い無くたけおさんの「存在と生」があります. 」と言われたら、わたしはどう応えたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

不思議なものですね。わたしはそういいながら、自分は底彦さんには同じことを自信と確信を持って言うことが出来るのに・・・

逃げ場所が無くなったとき, しかも自分で可能な逃げ場所を全て否定して台無しにしてしまったとき, 鬱病者の救われる場所は何処でしょうか.

「困ったときには相談を!」しかしいまのわたしに逃げ場はありません。
亡命・移住するだけの大金でもあれば別ですが。

わたしはこれまで、わたしと弟で母の両肩にぶら下がっていると考えていました。またそれは事実ですが、最近は、わたしの存在が弟の自由を奪っていると考えるようになりました。


Junkoさんへのお返事同様、散漫なものになってしまいました。

改めてお二人にお詫びします。

尚ついでに昔穂村弘について書いたものをご紹介します。

底彦さんも少しづつでも回復に向かわれることを願っています。


Junkoさん、底彦さん、お読みくださってありがとうございました。





















2020年3月14日

厄介者


御茶ノ水の眼科での手術は4月3日の予定。右目白内障手術。費用は6万~10万円。
いつごろかわからないが、父も過去に白内障の手術をしていて、母によると、その時かかったお金は2万円以下だったらしい。わたしの右目はもう光(あかり)が見えるだけにまで悪化していて、おまけに、過去に緑内障の手術をしている。眼圧が上がるのを防ぐため、眼球内に房水を溜めないための「水路」を確保している。その眼を手術する。
通常の白内障の手術で6万円であるなら。10万円かかってもおかしくない状態だ。

仮に5月末に都立多摩総合医療センターでやってもらったら、3万~5万だとしたらどうだろう?手術は確かにひと月半ほど早まった。けれども、この目が6万から10万出してまで治すべき目だろうか?医療センターの費用は聞いていないが、仮に5万だとしたら5月末でもいいのではないか?というよりも、そうすべきではないのか。



明日は真冬並みの寒さだという。弟に気軽に今日は寒いから泊まっていけばいいよと言えない自分が恨めしい。弟もここに帰りたがっている。というよりも、もうひとりで暮らすのは限界のようだ。けれども、わたしは弟がいると落ち着かない。ストレスが溜まってそれが暴力という形で表れるかもしれない。だからわたしの主治医は弟との同居には賛成していない。けれども、何故弟がこの訳のわからない兄の犠牲にならなければいけないのか?

母と話したのは、弟と母がどこかで一緒に住み、わたしがひとりここに残るという形。
勿論わたしは外には出られないし、出たくもないので、せいぜいもって1、2ヵ月だろう。
つまりわたしは、最後の時をひとりで静かに過ごしたいのだ。
いま弟がここに帰ってくるということになれば、わたしはすぐにでも出てゆかなければならない。無論どこかで生き続けるつもりはない。

しかしこれから母と弟が住む場所をまた探さなければならないのも大変だし、小規模であってもそこで生活するのだから、引っ越しということになる。

わたしは人と一緒に住むことはできないのだ。
例えば、友達がいて、仮に2~3日でも、1週間でも、ここに居てくれていいよといってくれたとしても、わたしにはそれができない。また、ちょっとした風邪くらいならいいが、本当に重い病気になったときに傍に人がいるということが苦痛なのだ。
だからわたしには「孤独死」を怖れる気持ちは到底わからない。














2020年3月12日

「見るべきほどのものは見つ」


「見るべきほどのものは見つ」とは何の、誰のセリフだったか・・・

今日は数年前に左目の白内障の手術をした御茶ノ水の眼科に、母に付き添ってもらって行ってきた。前にも書いたが、多摩総合医療センターで手術を受けると5月の末になる。
約3か月後。それまでこの目の状態では精神状態が持ちそうにないということで、現在かかっている眼科で、前回と同じ病院同じドクターに都合を訊いてもらった。
何故最初から前回の左目の時と同じ病院にしなかったのか。
それは術後の調子がいまひとつだったからだ。具体的には、目に入れたレンズの円周が薄暗いところで乱反射するのが鬱陶しいという症状だった。
両目ともそんな状態になっては・・・という危惧がここまで手術を遅らせていた原因のひとつだった。その他にも医師の態度。前回も同じ医師が執刀したが、説明の時に頻りに腕時計を見ていたことだけが強く印象に残っている。

わたしは20代初めに両眼の緑内障の手術をしている。当時の主治医のぶっきらぼうな態度。ごった返す待合室。その後、昭和医大の眼科に移ったが、こちらが繰り返し質問をした時の医師たちの露骨な迷惑そうな態度・・・わたしは20代に眼科で相当な嫌な目に遭っている。その当時の新聞の切り抜きで、いかに医師の言葉が患者を深く傷つけているかという記事をいくつもとってある。医師の暴言によって傷ついた患者さんたちの言葉を集めた小冊子も持っている。それに比べれば、しきりに時間を気にするだとか、患者の質問に迷惑そうな表情を浮かべるなどまったく日常茶飯事で、プリーモ・レーヴィの言葉ではないが「これが人間か!」というような信じられない言葉を浴びせかけられた人たちがいくらもいるのだ。



今日は天気も良かったが、御茶ノ水まで、中央特快に乗って約30分。ほんとうに苦痛だった。目に入ってくるもの、耳に聞こえてくるものすべてが苦痛だった。
「いったい何のために目を治すのか?」病院での長い待ち時間に何度も考えた。
外の世界は本当にすっかり変わってしまった。わたしの見るべきものは、最早今の時代にはないと痛感した。

診察室の前に小さな待合室があり、その突き当りが大きな窓だった。横幅が2メートル半ぐらい、縦2メートルくらい。見下ろすと真下にニコライ堂が見える。BGMには少し音量が大きいのでは、と思うくらいのボリュームでショパンのノクターン(?)が流れている。空には夕暮れを間近にたなびく雲。
隣の母に、「こういう雰囲気だったら、バックに自分の好きな曲を流して、空が緋に染まる頃、ここ(20階)から案外簡単に飛ぶことが出来るかもしれない・・・」といった。そしてそれができれば本当は一番いいのだとも思っていた。
20階ほどの高さになると、「飛び降りる」というよりも「飛ぶ・・・」といった方が近い気がする。

母は、「(下が)海とどっちがいい?」と訊いた。わたしは海だと即死できない可能性が・・・などと考えていた。母は、20階から眺める東京の街並みを、「雑多なビルがただ雑然と犇めきあっているだけの雑な街」ということで、一向感心している様子はなかった。
向いに40階建てくらいのマンションのようなビルがあり、わたしが、「月5万なら借りてやってもいいかな。」と言ったら、母は「いやあ、ただでも御免だね」と言い捨てた。
わたしも母も、土(大地)や樹々、草花のないところには住むことはできない。



帰りは7時台になっていて、電車はいつもと変わらぬ帰宅ラッシュであった。わたしはとてもこんな混んだ電車で、とろとろと50分近く乗っていられないからと、一旦東京駅まで引き返して始発に乗った。当たり前のように、必ずそれを持っていなければならないかのように、誰もが片手に「スマホ」を持っていた。
勿論老人が乗って来ても気づいて席を譲る人は稀だ。

やっと駅について、スーパーで買い物をしたのだが、1台を除いて、すべてが、自分で清算するように変わってしまっている。世の中からどんどん人が消えてゆく。レジでの清算の際に交わす、「今日はいい天気ですねぇ」「ほんとにねえ。昨日は雨だったのに」「ちょっと待ってね、3円、あるはずだから・・・あれ、1円しかないわ!」「ふふふ」・・・そんな会話が、やりとりが、非効率という名のもとに削られてゆく・・・実際もうここまで何もかも機械で賄えるなら、そもそも人間(他者)なんて存在しなくてもいいのではないか?

それでもまだ(また電車に乗って)目を治そうという滑稽さ。前回頻りに腕時計を見ていた同じ医師は、今日は一度もこちらを向かず終始パソコンの画面を見乍ら横顔だけを見せて「簡潔な」説明をしてくれた。










2020年3月10日

追記


母は下の投稿を読んで、ひとこと、「諦めることができないんだね」といった。
なにをあきらめるのか?生きることを?生の質を?よくなるとはどういうことか、と問い続けることを?






2020年3月9日

治癒ということ4


春らしい陽気だが気分は冴えない。

こんな夢を見た。

大きな診察室で、これまた場違いに大きなテーブルを挟んで、向かいに白衣の精神科医がいる。見たところ60代、もう70に近い感じ。
わたしは医師に「いちばんの問題は、精神科医でも、カウンセラー、デイケアのスタッフでも、わたしの気持ちが伝わらないだろうということです・・・」といった。
すると医師は表情を変えずに「それじゃあ、今回のごあいさつで終了ということにしますか。」と。つまり、「治療」はできないということだ。その後医師が何かを言ったか、覚えていない。

例えば底彦さんは鬱病に苦しめられている。具体的には「過去の記憶」に。
そして過去の記憶に苦しめられなくなった時、過去と現在の連続性が分断された時が彼にとっての「癒えた」ということであると。

つまり底彦さんには、何のために「治療」をするのか?そしてそのゴールはどのような状態であるのかが明確にわかっている。本人にも、そして彼の周囲の治療者にも。

けれどもわたしは底彦さんとは全く違う。
何のために治療をするのかとは、治癒というゴールを目指すため、その状態に至るためだ。けれども、わたしには、そもそも、「治療」のゴール、目的というものがわからない。どうなりたいのか?どのような状態がわたしにとっての治癒と言えるのかがわからない。










2020年3月7日

治癒ということ3


自然治癒以外の、人間の手による病気の治療とは、ことによると、生にとって有害なある病気を薬物その他の手段によって、相対的に有害度の低い「別の病気」に変換しようとする試みに過ぎないのかもしれないのだ。それが医学にとって、医師にとって、いかにその自尊心を傷つける洞察であろうとも、私たちはそこから目を逸らしてはならないだろう。

ー木村敏『心の病理を考える』(Ⅳ 生命論と精神病理学)(1994年)



大雑把な言い方のようだが、わたしに関していえば、「外に出られるようになる」ということは、明らかに木村敏のいうように「相対的に有害度の低い「別の病気」に変換」するということに他ならない。別の言い方をするなら、「何かを犠牲にして」その結果として「外に出られる」ようになるのだ。



以下に引用する中井久夫の文章は、文末に、「東京大学関係の方の前で話すのは初めてですし、おそらく最後でもありましょう。」と記しているように、講演またはシンポジウムの記録だが、その中にこのような記述(発言)がある

「次に、これは家族にいうこともあり、本人には初診でないときにいうことが多いのですが、「精神科における治療の難しさは、病気の前に戻せばよいというわけではないと僕は思う」ということです。「病気の前に戻りたいかい?」と訊くと、たいていの患者が否定します。「あれは嫌です」「あれは辛かった」といいます。これはある程度治療が進んでからのほうがいいと思いますけれども、「病気の前よりも良くなんなきゃならないところに精神科の治療の難しさもあり、それから大切さもあるんだ」と申します。」

ー 中井久夫『日時計の影』「患者に告げること 患者に聞くこと ── 統合失調症を中心に」(2006年)より (下線Takeo)



仮にわたしが「精神疾患」であるとすれば、わたしは「その前に戻りたい」

「病気の前よりもよくなる」とはどういうことだろう?
わたしはひとえに病気の前に戻りたい。仮にわたしが「精神疾患」であるのなら・・・


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2020年3月6日

町、家、器が人をつくる・・・


人間のつくりだす変化の九割方は失敗である」といったのは、英国の詩人・工芸家・社会活動家のウィリアム・モリス(1834-1896)だが、それは単なる経験主義の国の後ろ向きな意見を代表しているのではない。モノづくりの精神的な価値について訴えているのである。彼が本当にいいたかったのは、心がモノの変化についてゆくには相当の時間と労力が要るにもかかわらず、そのことなどまったく関係なくモノは機械的に増殖しつづける。しかも、不特定多数を相手に作られるモノが、目にあまる速さで変貌してゆくことへの無力感と、それと知らずに加担する社会のおぞましさのことである。彼が目指したデザインの美しさは、古くても新しくても、モノが日常生活の中で刻む心のリズムに合わせることの優しさであり、時とともに移ろうことへの慈しみにあったはずである。
 (略)
都市の美しさは、決してその場限りの算術にもとづく容易なパッチワークで守りきれるものではないことを、モリスは「古建築保存協会」で訴えた。モリスによれば、仮に、老朽化しつつある建築に「修復」の手を入れたとすれば、その建築は全く別のものになるか、さもなければその時点で建物が一旦死んでしまうというのだ。「保存」に徹することで、それは朽ちながら生き続けるのである。
どうしてもつくり変えなければならない部分は、改築したところの素材と工法を正直に明示し、決して古めかしく見せようと欺いてはいけないと説く。

時間の星霜が残した外観やかたちは、その建築をわれわれのなかに生かし続けるなにかをもっている。見る人の心にそうした想像力をコンストラクトするのが建築というものであり、建築が社会を育てるとは、このことをいうのである。はじめから消費し捨て去ることを前提にした「建てモノ」とのかかわりのなかでは、モノのなかで熟する時間の美しさなど想像だにできない。
 (略)
繰り返しになるが、本来デザイナーとは、近代産業社会が誕生した時点で、近い将来必ず、モノによってそれをつくった人間から、畏れと謙虚さが奪われるという事態を想定できるだけの想像力の持ち主であった。ラスキンやモリスがモダン・デザインのパイオニアといわれるのは、実際にモノを作ったり、その技術を指導することよりもむしろ、モノと人間のあるべき精神的なつながりを具体的な言葉で諭したことにたいしてなのである。

ー 横川善正『スコットランド 石と水の国』「第4章 絵のような国のデザイン」(2000年)より



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2020年3月5日

治癒ということ2


自然治癒以外の、人間の手による病気の治療とは、ことによると、生にとって有害なある病気を薬物その他の手段によって、相対的に有害度の低い「別の病気」に変換しようとする試みに過ぎないのかもしれないのだ。それが医学にとって、医師にとって、いかにその自尊心を傷つける洞察であろうとも、私たちはそこから目を逸らしてはならないだろう。

ー木村敏『心の病理を考える』(Ⅳ 生命論と精神病理学)(1994年)より






2020年3月4日

デイケア「自殺予防」について、雑多なまま


「自殺」ということに勝る哲学的テーマがあるだろうか? -カミュ


本日のデイケアのディスカッションのテーマは「自殺予防」。そう。単に「自殺について」ではない。今日のプログラムであるWRAP(ラップ)というアメリカ発の「元気回復行動プラン」ー(W=Wellness, R=Recovery, A=Action, P=Plan )で取り上げられたテーマだ。

デイケアに参加して1年ちょとになるが、この「WRAP」と「集団認知行動療法」にはあまり積極的に参加していない。何故なら双方ともその根底に、「治癒」「回復」という前提があるからだ。「良くなる」とはどういうことか?「回復」とは如何なることか?ということがわからずに、「治癒・回復」を前提としたプログラムには参加できない。とはいえ、参加者がこのテーマについてどのような発言をするのか興味がある場合は出席している。今日の「自殺予防」もその一つ。

先ず冒頭に、参加者一人一人、「いま頑張っていること」についての一言を求められた。
わたしは頑張っていることなど何もないのでそのまま書こうとしていた。参加者からはそれぞれ、「現在通っている作業所にこれからも遅刻せずに通い続けたい」「ウォーキングを継続する」「あまり深く考え込まないようにする」などの発言が挙がった。わたしの順番が回ってくる前に、同い年で、結成したまま停滞中のバンドのメンバーが「生きること」と書いた。「あなたがいまがんばっていることは?」の問いに「生きること」と。
なるほどな、と思った。それでわたしも、「初めは頑張っていることなど何もないと書いたんですが、Oさんの、「生きること」という答えを読んで、ああそうだなと思いました。Oさんと同じです。」と答えた。

ただ、「生きることに(を)がんばっている」といっても、Oさんとわたしとでは、意味が違うかもしれない。
嘗て團伊玖磨が、「あまり無理をしないでください」といわれ、腹を立て、「無理をしてるからこうして生きてるんじゃないか!」と応えたというエピソードがある。わたしの「生きること(生きていること)に頑張る」というのは、どちらかというと、この團伊玖磨の気持ちに近い。決して精一杯生きているという意味ではなく、生きているだけで精一杯といった感じ。



WRAPの立場からすると、「自殺は悪いこと」とされている。配られたプリントにも、「仮に本人の意思に反しても死なせてはならない」と記されている。
そして「遺された者の悲しみ」云々という話しが持ち上がった時に、わたしは少しムキになって「あなたが死ねば私は悲しい。あなたは辛くて苦しいかもしれないけど、私のために生きてくれ」と言えるんですか?」と。

言葉の上では確かにそれは遺されるもののエゴと言えるかもしれないし、誰も「あなたは生て苦しみ続けなさい」と「生の刑」を科する権利は持たない。

けれども、プログラムの最後に、親しい人(たち)を自死で亡くした人たちの悲しみ・・・「夢でもいいからもう一度会いたい」と涙を浮かべる人を目の当たりにすると、これまでのわたしは、死ぬ自由乃至権利、誰も「死ぬな」「生きて苦しめ」とは言えない・・・という方向ばかりに目が行って、遺された者の喪失感に思いを馳せたことはなかったと感じた。

しかしそれには理由がある。先ずわたし自身が、「生きていてはいけない人間である」という強い意識、そして二階堂奥歯のように、「私が死ねば悲しむ人がいて・・・」とは言えない「愛されざる者」であるという自覚。それが、わたしに「遺された者の悲しみ」ということを見えなくさせているのだろう。

それでもなおわたしは、親しい者が自ら死を選んで、それが「成功」したなら、きっと「彼/彼女」は今、苦しみから解放されたのだと思うだろう。



ロバート・レッドフォード監督作品『普通の人々』(Ordinary people)で、自殺未遂で入院していた若者が、新たな精神科医にかかる。医師は彼に「何かあったら、いつでも電話してこい」と、自宅の電話番号を渡す。この映画でも特に印象に残っているシーンだ。
そのことについて尋ねると、進行役のスタッフTさんは、「詳しいことはわからないけど、日本じゃ自宅の電話番号を教える精神科医ってほとんどいないんじゃないかな」

そこで、WRAPの創始者であるエレン・コープランド女史のいう「助けてくれる人は必ずいる」ということも、「アメリカならそういうこともありうるかもな」と感じた。

「いのちの電話」にかけても繋がらないという声が多かった。
数日前の東京新聞『本音のコラム』での精神科看護師宮子あずささんによると、宮子さんは、東京都武蔵野市に住んでいる。そしてこの一帯、わたしの住む市も含め、保健所が一箇所しかなく、電話がなかなかつながらないという。宮子さんは、助けや情報を求めている人が、緊急の電話を掛けても繋がらない現状。もっともっと保健所を増やさなければならない、と。

「困ったときにはひとりで悩まずに相談を!」けれども電話は通じない。そしてわたしが盛んに「いのちの電話」を利用していた1990年代。基本的に時間の制限はなかった。けれども今は、最初に、「ひとり30分くらいでお話を伺います・・・」残念ながらこれが日本の現実なのだ。電話が繋がっていたら、もう少し話せたなら、ひょっとして助かったかもしれない命がいくつもあるのだ。



以上つらつらと書いてきた。卒論に「自殺」をテーマに取り上げたほど自殺はわたしにとって積年のテーマであり、自殺の是非については最終的には当人の意思に委ねられる。

今夜は以上のことや、「障害を持った者が生きやすい社会が誰にとっても生き易い社会である」というようなことについて母と2時間以上話した。

わたしの自殺肯定は変わらないが、今日のわたしの発言で、現実に身近な人を自殺で喪った人の心を傷つけてしまったかもしれないと、気にしている。

そしてこれがインターネットとの決定的な差であるとしみじみ思った。

震える声やあふれる涙を捨象したネット上の議論であれば、わたしはあくまでも「お前は生きて苦しめとあなたは言えるのか?」という「理屈」にこだわり続けただろう。愛するものを喪った人の深い悲しみを顧みることもできずに。








2020年3月1日

いま思ふこと


このところインターネットでは底彦さんのブログの過去の投稿を読むことと、You Tubeで音楽を聴くことくらいしかしていない。アート系のブログはTumblrも含め、まるで気が向かない。ドロローサやOrphanのFBもブログも暫く訪れていない。

底彦さんの投稿に屡々出てくる「外出恐怖」について。底彦さんは、「働きもしないで昼間からブラブラしていることへの罪悪感」が外出恐怖の背景にあるのではないかと分析している。わたしの外出困難はもっと単純で即物的なものだ。外の世界の色・音・光・ニオイへの嫌悪感。更に言えば、それら「外界のノイズ」の元になっているこの国特有の文化への嫌悪に他ならない。わたしをそのようにあらしめている「別の理由」など無いのだ。
「まずい」「くさい」「みにくい」という感覚・気持ちに理由など無い。



昨夕、主治医のクリニックに行くために電車に乗った。僅か二駅。ほとんどガラガラに空いた車内でも、あちらでひとり、そちらでひとり、スマホに見入っている莫迦を見、車内での気取った英語のアナウンスを聞くにつけ、つくづくもうわたしの生きる時代は終わったのだと実感させられる。

主治医はわたしの希望をすんなりと聞き入れてくれた。いつものように。
「先方がカウンセリングを認めてくれるならそちらに行けばいい。」更にわたしの懸念する、「これまでの経験から新たな医師やカウンセラーと良好な関係を築くことは難しいだろうと思う、その時には出戻りは可能か?」という点についても、快諾してくれた。

わたしの「生きることの困難さ」については、「自分なりにいくつかの仮説を持っているが、どれもこれがその本質であるとは言い切ることは難しい。「広汎性発達障害」というのも考えられる大きな可能性だが、それであると決めつけることはできない。仮説のひとつに過ぎない。」

またわたしが何故、25年間に亘り「精神科」に通い続けてきたのか?ということについては、おそらくは今このブログでやっているように、自分が何者かを知りたいという強い欲求のためではないか、と。

先方のドクターがわたしの希望を受け容れてくれるかはまだ不明だが、仮に何らかの理由で断られたとしても特に落ち込むことはないだろう。逆にいえば通院が認められ、カウンセリングを受けることになっても、特に喜ばしいことではないということと対称を成している。腕のいいカウンセラーを期待できないということではない。そもそもわたしが今の時代に生き延びることに何の意味も見出していないからだ。

「喪失後の世界」に尚生きること。それはもはや惰性以外の何ものでもない。
そしておそらくは何者も、「良くなること」── 昨今流行りの言葉で言えば、「生きづらさ」から快癒する肯定的な意味をわたしに説くことはできない。

デイケアに通うためにはどこかしらの精神科(医)とのつながりが必要なので、精神科に通う意味をすでに失っているとはいえ、今現在の主治医か、受け入れられれば新たな主治医との関係の上にデイケアに通うことになる。



一方で、最近になって弟がこちらに泊まる日が次第に増えてきた。
無論ここは弟の家でもあるので何の不思議もないし、弟にはその権利があるのだが、ここに戻ってくるようなことがあれば、やはりわたしも進退を考えなければならないだろう。

弟もわたしも、母なしでは何もできない以上、やはりわたしの頭からは「2マイナス1」という考えが消えることはない。
ひとつの家、ひとりの母親にふたりの障害者・・・この事実が既に20年以上前からわたしの自己否認のひとつの大きな理由になっている。(もうひとつは「愛されざる者」であるという事実)

わたしが消えることが、わたしにできる唯一の親孝行であるという考えが、所謂「認知の歪み」「誤った思考」「イラショナル・ソート」(=非合理的な考え)であるとは露思ったことはない。だたわたしに意気地がないばかりに実行に移せないだけだ。

また仮にそれが明らかに「非・合理的な考え」であったとしても、そしてわたしもそれを認めるとしても、「非・合理的」だからなんだというのだ。

わたしが無能な、無力な存在であるということが、とりもなおさずわたし自身にとっても最大の不幸でもあるのだ・・・


「障害者は不幸しか生まない」── この命題を否定し得る論理をわたしは持たない・・・


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