新しい投稿をしようかと考えましたが、ひどく億劫です。ですからまたもや底彦さんへの返信という形でここに書きます。これまでのやり取りとも無関係ではないし、底彦さんのブログを読んで感じたことも含まれています。「新たな投稿」となると、どうしても構えてしまい、文章の推敲なども面倒なので、特定の誰かに話すような気軽な形で書こうと思いました。
ですからこの文章に関してのお返事は、義務のように思われませんように。もちろん反論も含め底彦さんの忌憚のない意見を聞かせてもらえればうれしく思います。
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わたしは上で、自分は「内面」とか「自己の小宇宙」のようなものは持ち合わせてはいなかったと書きました。自己の空洞感。自分の内面がスカスカな感じは、既に20代の頃から感じていることです。しかし一方でわたしは「二階堂奥歯の世界観への異論」という投稿の中で、「自分の世界を持つということは、とりもなおさず、自己の外側に「わたし」とはまったく無関係に厳として存在している客観的世界=現実との乖離乃至対立を意味する。」というようなことを書いています。つまりもしわたしに自分の価値観や美意識、何を美しいとし、何を醜いとするかという規準、そしてじぶんにとって「あらまほしき」世界像というものがなく、自分というものと、世界(あるいは「世間」)の規準(水準)が全く同じ等高線上にあるのなら、なぜわたしはこんなに苦しむのでしょう?世界・世間と自己とが一心同体であるなら、なんら別個のものでないのなら、わたしは常に世界・世間と歩調を合わせて生きてゆけるはずではないでしょうか?「今はこういう時代ですよ」「これからはこういう時代になりますよ」と言われて「ハイハイそうですか」で済むのではないでしょうか?
「教養は富めるときは身の飾り、病める時は心の避難所」という言葉を憶えています。仮にわたしに「(豊かな?)内面」があったとしても、それはこころの避難所には成り得ないようです。
わたしがこの世界の中で呻吟しているのは、世界と対立する確固とした「内的自己」が在るためなのか?或いは避難所になるほどの大きさも奥行きも全然足りないということなのか・・・
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わたしは最近投稿した「'Mobile phones have killed photography' スマートフォンが「写真」を殺した。 ヴィム・ヴェンダース」の記事を非公開にしました。わたしにも見ることはできません。非公開にしたのは、あのビデオに映された多くのスマホの写真を見るたびに胸が悪くなるからです。記事の内容などどうでもいい。スマホをかざしているひとたちの写真ほど不愉快なものはありません。
ヴェンダースは、携帯で撮った「写真」を従来の「写真」と同一視することはできない、故にわたしはスマートフォンで写した「写真」をどのように呼んだらいいのかと考えている、と。
タンブラーを含め、わたしは自分の持つブログを、それが誰であれ、自宅外、自室外で見たり読まれたりしたくありません。スマホであれタブレットであれ、自分の家、自分の部屋で見る分には構いませんが、電車や喫茶店などでは見たり読まれたりはしたくない。「何処で見ようと勝手だろう」と居直るのなら、わたしはそのような行為は、書き手として極めて不本意であり不快であるとお伝えしておきます。このブログは「携帯端末用」には書かれてはいません。
わたしは辺見庸と違って、読んでもらえるなら電子書籍だって出すという現実への順応性もありませんし、そうまでして読む価値のあるものを書いたこともありません。
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目の手術を受けるにせよ辞めるにせよ。見える世界は見たくもない世界です。
仮に、仮に目の手術を受け、それが無事に済んだとして、わたしの気分が少しでも上向きになるようなことがあれば、なんだかそれは「堕落」のような気がするのです。
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母の買った、神田橋條治医師の『発達障害は治りますか?』という本があります。
論文のようなものではなく、複数の精神保健福祉士との対話ですが、要は、治す・治るということよりも、「少しでも生き易くなること」が治療の目的のようです。
借りたまま読んでいない中井久夫の本の中に「神田橋先生のいる風景」という文章があります。
「すこしでも生きやすく」とはどういうことでしょうか。
スマホのある世界で、「5G」とか呼ばれる世界で、これからは「スマートシティー」の時代と言われる世界で「生き易くなる」とはどのようなことでしょうか?
それは「治癒」の場合と同じで、自分にとっての穢土、戦場で、「生き易く感じる」ように操作することを意味するのでしょうか。でなければいったい生き易くなるとはどのような意味を持つのでしょう?
前にも書いたかもしれませんが、内田樹の新刊『生きづらさについて考える』の惹句は、たしか「どんな時代でも生き延びる内田流哲学」のような感じだったと思います。
「どんな時代でも生き延びる」ことはいいことでしょうか?「生き延びる」とはどのような意味なのでしょうか?それはつまり「自分の価値観」は二の次にして、とにかく「どんな時代でも」「生き延びる」ことを至上の価値としているということでしょうか?
「生き延びる」には二通りの途があります。「現実」に順応すること。もうひとつは「逃亡すること」── わたしにはそのどちらも出来ません・・・
わたしが二階堂奥歯にどうしても勝てない点、それは「自殺したもの勝ち」ということです。「自殺をした」この一点だけで、彼女は明らかにわたしよりも勝っています。無論辺見庸よりも。
「あなたは何故このような本を書き続けるのか?」と二人の学生に問われた時、エミール・シオランは「誰もが早世の幸運に恵まれているわけではない」と答えたといいます。
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底彦さんのブログを読んでいて、確実に足が止まるのは、「先のことを考える」というような言葉にぶつかったときです。わたしは「死ぬべき者であるのに死ねずにいる」人間です。ですから先のことを考えるということがありません。意識して見まいとしているのではなく、ただ、永遠の「今日」があるだけなのです。
「知恵多ければ憤り多し」といったのは誰だったでしょうか?
「知恵多ければ・・・」とは無論わたしのことではありません。ひとつの「真実」として、「豊かな内面」は現実世界に対する「避難所」には成り得ません。
寧ろ逆に内面など無く、外界の空気で身体中を充たせばいいのです。外界と内面の気圧を全く同じにしなければなりません。そうすれば「生き易く」なれるはずです。5Gでも、スマートシティーでも「いきいき」と「生き延びられる」はずです。
ヴェンダースは「スマホで撮った写真をどう呼べばいいのか?」と自問している。
スマホ時代に生きている人間が従来の「人間」の概念とは異なるということをわたしは痛感しています。
「アナタガタガニンゲンナラバ ワタシハニンゲンデハナイ
ワタシガニンゲンナラバ アナタガタガハニンゲンデハナイ」
ー追記(あとがき)-
底彦さん、この文章を書いてとても疲れました。
それはおそらく底彦さんが「認知行動療法」や「セルフカウンセリング」の際に「過去と向き合う」ことで非常に消耗し疲弊することと相似形だろうと思います。
底彦さんにとっては「過去」と向き合うこと、わたしにとっては「現在」「今」と向き合うことは非常に苦痛です。
シオランは学生にどんなに憎い相手のことでも、紙にそいつの悪口雑言を書くことで心の中からその屈託は消えると言っています。わたしには想像もできないことです。わたしは寧ろこのように書くことで、「現実」と癒着するような「汚辱感」を覚えます。
書くことは・・・「現実」について考え、「今・現在」に目を向けることは、苦痛です・・・
わたしには「5G」時代の精神医療の役割がわかりません・・・