昨日「猫額洞」さんの投稿「
スェーデン式対処法」にコメントを残した。コメント自体は承認され、公開されているが、返事はもらえなかった。
これはわたしの勝手な解釈だが、「優生思想」-「生きていてもいい」或いは「生きる価値のある生」と「生きていてはいけない」乃至「生きている価値のない生」といった「哲学的」な問題に対しては、人それぞれ考え方が違うので、ここでそんなことを議論したって仕方がないと思っているのだろうか?
わたしはここで瀬里香さん、ふたつさん、Junkoさん、底彦さんと、様々なテーマについてそれこそ延々と議論をして来た。無論なにひとつ結論など出てはいない。
けれどもそれなくてなんのブログか、とも思っている。
先日のJunkoさんの言葉ではないが、誰も本気で自分の言葉を理解してもらおうなどと思ってはいない・・・のかもしれない。その点でわたしのブログは、猫額洞さんのブログに最も多くコメントを残している人の書くブログと対極の位置にある。
わたしは「あの人」の書くものにまったく興味をそそられない。皮肉なことにJunkoさんと知り合ったのは「その人」のブログなのだが、わたしは早々に「飽きて」しまった。
猫額洞さんの
最新の投稿についても、一家言あるが、猫額洞さんのブログは、以前一度だけ行ったことのある「発達障害の専門医」の言葉ではないが「ここ(わたしの診察室)は
心の問題についてあれこれ話すところじゃないから・・・」と通じるのかもしれない。
しかし問題提起をしながら、それについて意見を述べても黙殺とはどういう意味があるのか・・・
無論わたしのコメントが、猫額洞さんの書いていること、言わんとしていることに対して、まったくピント外れであるということも十二分に可能性としては考えられるのだが。
わたしのブログの人気(ひとけ)のなさについて、わたしの趣味が悪すぎるのか?或いはみんなの趣味が悪すぎるのか?そんなことは全く無意味だと思った。そこにはただ「通じ合えていない」という事実があるだけで、どちらの趣味がいいとかわるいとか、そんなことは全く問題ではない。仮に、仮に、わたしの趣味が高尚過ぎるから・・・としても、「通じていない」という事実の前では、その「趣味の良さ」など「無」・・・ではないか?