2020年5月12日

愚かなる者・・・


猫額洞のツイッター・デモ礼賛、大阪のチャラけたアンチャンの「自警団こそこの国に住む僕たちの「抗体」だ!」発言は、ほんとうに身体に悪い。

そしてもっとも愚かしいのは、このような救いようがない(その分本人たちは、だからいつだって上機嫌)バカたちの発言を、いくら「いかもの食い」と言って、もわざわざ覗きに行くわたし自身に他ならない


死因は「馬鹿に中った」では洒落にもならない・・・


ー追記ー


ここは「ツイッター・ジャパン(?)」に一つ頑張って「デモ」を潰してもらいたいところ。






2020年5月11日

失笑まじりに・・・


今日ふと見たブログのタイトルが「不機嫌という作法」。
その内容とコメント欄でのやり取りを一読して苦笑交じりにひとこと。


「イヨッ!大将、ご機嫌だね!」









2020年5月10日

悪癖


わたしは現在2つのアートブログを持っているが、「このようなブログにはしたくない」、というブログを2つ紹介する。

基本的にわたしがケチをつけるのは、わたしの知る限りにおいて明らかにわたしのブログよりも「人気のある」「多くの人に支持されている」ブログに限定されている。「猫額洞」さんにしても、そもそも、その世界では名の知れた古書店の店主夫婦(書いているのは妻の方だが)であり、下の投稿で「あの人」とけなしたブログも、いうまでもなく、わたしのブログなど全く問題にならないほど人気のブログだ。

以下のタンブラーのブログにしても、一目瞭然だが、双方とも3万人以上のフォロワーはいるだろう。

わたしはどうしても「上位」のものに対して唾を吐きかけずにはいられない悪癖があるようだ。無論「下」などはないのだが。

これも双方に失礼な言い方だが、わたしは底彦さんのブログと同列だと思っている。そして、今はどうされているのか知らないが、Junkoさんのブログは「上位」であると。
「あなたは単に支持者の数で判断するのか?」と言われれば、そうだと答えるしかない。





https://catonhottinroof.tumblr.com/


https://laclefdescoeurs.tumblr.com/


わたしはドロロサーのファンとして、上のふたつのブログのような投稿はしたくないと思っている。上のブログは画像の下にリアクションの数が表示されている。
下のブログは、画像の上にカーソルを乗せると、リアクション数が現れる。

これをみてもわかるように、わたしごとき泡沫ブログなどとは比較にならない。
だからわたしは彼/彼女の悪口を言う資格があると思っている。

ただし、彼/彼女らのブログも、まんざらわたしにとって無意味というわけではない。
このように「趣味のいい」ひとたちが、まだタンブラーにいるから、わたしは安心して「悪趣味」に徹することができるのだ。

何故とくにこのふたつのブログに敵意を抱くのか?
それはこのふたりが、わたしを嫌っているからだ。
かつてわたしは、下のブログのいけすかないスターリニストと言い争った(?)ことがある。彼の鼻持ちならない自信家ぶりが我慢ならなかったのだ。そして上のブログの彼女が彼の肩を持った。遺恨ではない。とにかくわたしは「自信のあるやつ」というものが大嫌いなのだ。そしてそれに伴った支持者に囲まれていれば尚更である。

これを嫉妬と思うものが多いだろう。わたしはいつでもより弱い者、より少数派の側にいたいのだ・・・












ニッポン的なるもの


昨日「猫額洞」さんの投稿「スェーデン式対処法」にコメントを残した。コメント自体は承認され、公開されているが、返事はもらえなかった。
これはわたしの勝手な解釈だが、「優生思想」-「生きていてもいい」或いは「生きる価値のある生」と「生きていてはいけない」乃至「生きている価値のない生」といった「哲学的」な問題に対しては、人それぞれ考え方が違うので、ここでそんなことを議論したって仕方がないと思っているのだろうか?

わたしはここで瀬里香さん、ふたつさん、Junkoさん、底彦さんと、様々なテーマについてそれこそ延々と議論をして来た。無論なにひとつ結論など出てはいない。
けれどもそれなくてなんのブログか、とも思っている。

先日のJunkoさんの言葉ではないが、誰も本気で自分の言葉を理解してもらおうなどと思ってはいない・・・のかもしれない。その点でわたしのブログは、猫額洞さんのブログに最も多くコメントを残している人の書くブログと対極の位置にある。
わたしは「あの人」の書くものにまったく興味をそそられない。皮肉なことにJunkoさんと知り合ったのは「その人」のブログなのだが、わたしは早々に「飽きて」しまった。

猫額洞さんの最新の投稿についても、一家言あるが、猫額洞さんのブログは、以前一度だけ行ったことのある「発達障害の専門医」の言葉ではないが「ここ(わたしの診察室)は心の問題についてあれこれ話すところじゃないから・・・」と通じるのかもしれない。
しかし問題提起をしながら、それについて意見を述べても黙殺とはどういう意味があるのか・・・
無論わたしのコメントが、猫額洞さんの書いていること、言わんとしていることに対して、まったくピント外れであるということも十二分に可能性としては考えられるのだが。


わたしのブログの人気(ひとけ)のなさについて、わたしの趣味が悪すぎるのか?或いはみんなの趣味が悪すぎるのか?そんなことは全く無意味だと思った。そこにはただ「通じ合えていない」という事実があるだけで、どちらの趣味がいいとかわるいとか、そんなことは全く問題ではない。仮に、仮に、わたしの趣味が高尚過ぎるから・・・としても、「通じていない」という事実の前では、その「趣味の良さ」など「無」・・・ではないか?








2020年5月9日

Tumblrの外観を変えてみました


2011年春に初めてこれまで一度も変えたことがないのですが、今回ダッシュボードがひどくチープになったので、少しでも投稿のモチベーションを上げるためにブログのデザインを一変しました。

わたしはインスタグラムというものをいちども見たことがありませんが、少なくとも、フェイスックやツイッターは自分でデザインをつくる・選ぶことはできません。
タンブラーは所謂SNSではないので、各々がそれぞれの「ブログ」を持っています。

多分瀬里香さんは見たことがあるかと思いますが、底彦さんも、Junkoさんもよかったら、
「新しい」(苦笑)わたしのタンブラーのブログを覗いてみてください。

さすがにこのブロガーほどは細かいところまでの設定はできませんが、これまでは良くも悪くもシンプルだったのをすこし変えてみました。結構気に入っています。


Poboh.tumblr.com 



ー追記ー


「猫額洞」さんの昨日今日一昨日の投稿は読み応えがあります。
ただし今日の投稿について考察する元気はいまのわたしにはありません。
そしてこれらの投稿は素晴らしいのですが、わたしは今も、今後も、インターネットで情報を収集するということはしないでしょう。

タンブラーでは「リブログ」は一切しないというのがわたしのスタンスです。
絵や写真はすべて自分で世界中のアート系のサイトからハンティングしてきます。
ただし、「情報」は別。まったく別ものです。














2020年5月7日

繰り返される愚昧さ


ドイツでもお店がほぼ正常営業できるようになった。新聞には、再び患者数が増えるようなら再度外出禁止令を出すということ、6月2日までは外出時のマスク着用を「義務付ける」ということが書かれていた。

「どうして日本は韓国やドイツのようにできないのか!」といったところで、どだい無理なこと。そもそも戦後に築き上げてきた歴史と、そもそもの民族性が違うのだ。

前の投稿で、「過去」と「現在」との時間軸ー垂直方向での対比をしたが、同じ時代を生きるにしても、また或いはデジタル・ワールドの様子は韓国やEUの方が進んでいるのかもしれないが、日本ではGWが明けても、相も変わらず、「フヨウフキュウノ ガイシュツハ ヒカエマショウ ミナサマノ ゴキョウリョクヲ オネガイシマス・・・」と繰り返し放送が流れる。

中島義道のいう(日本の)「文化としての騒音」そして根生いの「パターナリズム」

これだけはドイツはもちろん韓国や中国にも存在しないだろう。

電車に乗れば「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」「ホームと電車との間に隙間が空いている箇所がございますので気を付けて・・・」「事故防止のため「やむを得ず」緊急停止することがございますので、お立ちの方は手すりや吊革につかまって・・・」「携帯電話はマナーモードにして車内での通話はお控えください」「優先席があります。妊娠中の方、身体の不自由な方におゆずり・・・」

バスに乗れば「走行中の座席の移動は大変危険ですので・・・」「バスから降りて道路の横断には気をつけて・・・」「爆発物の持ち込みはおことわり・・・」

商業施設では「エスカレーターにお乗りの際はベルトにつかまりステップの中央に。良い子のみなさん。エスカレーターの駆け下り駆け上りはたいへん危険ですのでやめませう・・・」

つまりなにもかも手取り足取りああしろこうするなと教えてもらわないと電車にもバスにも、そしてエスカレーターにさえ乗ることができない民族が、どうして突発的な危機に際して適切かつ迅速な行動に移せるだろうか。

これだけ街に騒音が溢れていても、誰も「ガキ扱いするな!」とは言わないし、おそらくはそんなこと感じてもいない。現に中島の本『うるさい日本の私』には、「アナウンスがないから忘れ物をしたじゃないか!」と怒鳴り込んでくる客がいるという。

これがまさしく「文化」である。

70余年をかけて成熟してきた国と、決して「成長」も「成熟」もあり得ない国と、同列に扱うことは不可能だ。

しかし「お前は国から「義務付けられ」たり「禁止命令」を出されるようなことは嫌う人間じゃなかったのか?」と思われるかもしれない。確かに日本は、ドイツや韓国のように、いざとなれば数百万単位のデモ行動を起こし、大統領でも引きずり下ろすようなことは決してしない。エスカレータの乗り方も毎日その都度教えてもらわなければ忘れてしまうようなこどもの国だから、すべて「親」=「お上」の言うがまま。皮肉なことに「自己責任」・・・言い換えれば「自分で判断して行動する」という観念から最も縁遠い国・・・そこに日本という国の、どうしてもアジアを含めた諸外国に追いつけない「限界」がある。














バンクシー、或いはあらまほしき世界と現にある世界との齟齬



Untitled, before 2003, Banksy. born in 1975 in UK
- Stencil, Oil on Canvas -


つまり、結局はこれなんだよな。


わたしにとってはドローンも、オスプレイも、スマートフォンもタブレットも、電子書籍もキャッシュレスもペイ・ペイもスイカもパスモもみな同列なのだ。

そういう意味でまさしくわたしは過去から未来(つまり「現代」)に紛れ込んでしまった異質の存在であることに間違いはない。



Ruiner i Riesengebirge, ca 1834, Caspar David Friedrich (1774 - 1840)

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ、ドイツロマン派・・・わが心の源流