2018年2月18日

牙をむくアメリカの民主主義

「北朝鮮、韓国そして「在日」の問題をめぐる反左翼あるいは保守を自称する人々の議論の仕方をわたしは好まない。というのも、彼らの論法がどこか底が抜けているからだ。北朝鮮の「拉致」についていうと、アメリカの(原爆投下をはじめとする)「空襲」によって九十万の(兵士ではなく)一般市民が大量虐殺されたことに一言の抗議もしてこなかったのが戦後日本である。そんな国家がどんな顔(かんばせ)あって、何十人か何百人かの「拉致」にたいして非をならすことができるのか。ソ連によるシベリア抑留という名の(「洗脳」のことを含む)捕虜虐待とそれによる六万人の大量虐殺にしても、戦後日本は「餓えて凍えた兵隊さんはかわいそう」としか言ってこなかった。そんな風に国家の体裁を保つことすら忘れてきた「似非国家」が戦後日本である。その自覚のない北朝鮮批判にはついていけないのだ。

韓国が「靖国と教科書」について内政干渉してくることに対する自称保守の反発にも、同じ疑念を覚える。アメリカは、外交のみならず内政にかんしても、我が国に休みなく干渉し続けてきた。それを甘受するのみならず、対米屈従を「日米同盟」と呼び替えて、アメリカの属国になることを喜んできた戦後日本が、いかなる面子を張って、韓国や中国に対抗しようというのか。おのれのメンツがとうに破れていることについて、自称保守は一言もない。」

- 西部邁「在日「関勇」よ、あの節は本当に有り難かった」『生と死、その非凡なる平凡』(2015年)より

「右派・保守」と呼ばれる人物の、上記のような(わたしからみれば)至極まっとうな見解には賛成だが、一方で、日本の核武装論や中曽根(元首相)支持の点で、どうしても西部とは相容れない部分が大きい。またアメリカこそ諸悪の根源と言わんばかりの論調にも同調できない。
日米国家間のやり取りがどうあろうと、アメリカは映画や音楽、また文学や詩、そして芸術の面で、日本には到底太刀打ちできないほどの豊かな文化を育んできた。そして何よりも、アメリカ国民は、自国政府のやり方に唯々諾々と従ってはいない。時には数十万、百万単位でのデモを繰り広げ「必要とあらば」彼らは暴徒とも化す。

18世紀、アメリカ建国時代の思想家トマス・ペインは次のように言っている。

" The Duty of a True Patriot is to Protect his Country from it's Government "


「真の愛国者は、国をその政府から守らなければならない」

アメリカにはいまだその思想が脈々と受け継がれているように思える。
仮に日本人と日本政府が、一部は緩やかであれ、ほぼ等式で結ばれているとしても、「アメリカ政府」イコール「アメリカ国民」ではない。その融和・・・言葉を換えれば「狎れ合い」の所作が、日本を日本たらしめているように、その分離・独立の仕方こそ、「アメリカ」を「アメリカ」たらしめている所以である。




「信仰」或いは「趣味の問題」としての歴史

プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムスは、
「神を信じることによってその人が救われるのなら(その人にとって)神は確かに実在する」と言っています。

同じように「歴史」とは、わたしにとっては「宗教」乃至「信仰」と同義です。
つまり歴史的事実というものは存在しない。
ニーチェの言葉に従えば、「事実というものはない。ただ解釈だけがある」のだと思っています。

極論すれば、南京大虐殺があったと思う人には、それはあったのだし、
ホロコーストはデッチアゲだという人には、ユダヤ人虐殺はなかったのだと思います。
広島も、長崎も、沖縄戦も同様です。歴史に「客観的事実」というものは存在せず、ただ主観的事実のみが存在します。
「趣味の問題」として。

ホロコーストはなかったというネオナチの人間に「あったのだ」と思わせるには強制的な「洗脳」による以外方法はありません。

わたしは右も左も信じていませんし、選挙にも行きません。
指示する政党も、信頼できる政治家も存在しないからです。

けれども個人的には、60年代後半から70年代にかけての反戦(非戦)・現在の形での9条死守の洗脳(洗礼)を自ら選択しました。これはわたしの「信仰」です。

慰安婦強制連行があったのか?
南京大虐殺があったのか?
関東大震災時に朝鮮人の虐殺があったのか?

わたしは「事実」は知りませんし、過去は永遠に知り得ないことだと思います。
ただわたしは「あった」という「信仰」を棄てません。

繰り返しますが、わたしの歴史観は、「趣味」に基づくわたしの信仰に他なりません。


2018年2月17日

みなさん、よい週末を。


わたしの好きな曲を送ります

ジェームス・テイラーの「キャロライナ・イン・マイ・マインド」

デクスター・ゴードンの「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」

James Taylor - Carolina In My Mind 


Dexter Gordon - I'm a Fool To Want You


2018年2月15日

言葉そして生と死

かつて辺見庸は、「わたしが読みたくないものは「闘病記」と「人生論」だ」と言った。

人は自分の個有の生を生きるしかない。それはあくまで一回限りの個的(孤的)なもので、他人と共有し得るものではないし、一般化して「教訓」として活かすことができるものでもない。



「病人介護のことも含めて家事に精出していると、何の変哲もないのがエコジョッブ(家事)だとつくづく感じ入る。たとえそれが人間の死というものにじかにかかわる作業となろうとも、死もまた生の必然の結末なのであってみれば、そこに騒ぎ立てるべき変哲の一抹も見いだせない。そう見るほかないのである。驚きに価するのは、むしろかくも変哲の少ない活動に、人は、とくに多くの女性が、一心不乱に取り組むことができたのはなぜなのか、ということのほうだと思われる。

昔、雄猫を飼っていた折、「こいつは、なぜ飽きもせずに、来る日も来る日も飯を喰って散歩をし、欠伸を繰り返して昼寝を楽しむ」ことができるのかとしばし考え、「この動物には生の活力が漲り溢れているからなのだ」、「人間の雄が新奇なものに興奮しているのは生きるエネルギーが涸渇しているせいなのだ」という答えに辿り着いた。家事をひたすらにやりつづける人間の雌たる女性は、ひょっとして、異常な活力の持ち主なのではないか。それにくらべて男性には、破壊的創造に過ぎぬイノベーションを創造的破壊と呼んで自画自賛しつつ、ノーヴェルティ(新奇)のイン(中)に淫する者が多い。」
ー 西部邁『生と死、その非凡なる平凡』(2015年)

西部邁の著書は、今回初めて手にとった。そのきっかけは、こういってよければ、彼の「美しい自死」であった。
わたしは己の人生を、自ら終(しま)う人に惹かれるところがある。

文化勲章をもらって天寿を全うする人たちよりも、人知れず自らのいのちを水の中に沈めてこの世から消え去るという生き方が、動物の一種に過ぎない人間としての身仕舞いという意味で、遥かに上等なもののように思われるのだ。

もうひとつ、わたしにとって大事なことは、言葉が通じるということだ。
思想・信条が必ずしも一致しなくとも、言葉が通じるということはあるし、逆に、反戦・平和・改憲反対・脱原発と叫ぶ人の多くと、屡々わたしは「言葉が通じない」と感じている。

わたしは言葉に関しては極端な保守主義を持っている。思想の内容以前に「形式」を重視する傾向があるのかもしれない。
きれいな(或いはまっとうな)言葉を話せる人であるなら、極右であっても、テロリストであっても、耳を傾けるに価すると思っている。人柄はなによりも端的に言葉に現れると思っている。

シェイクスピアに極悪人は数多登場するけれども、彼らの独白を聴いていると自然に悪感情が氷解してゆくのを感じる。殺人すらも、「言葉」により「浄化」され得ると・・・わたしがいわゆる「リベラル」と呼ばれる一群の人々と、どうしても肌が合わないと感じてしまうのは、その十年一日の如き紋切型のパロール(話し方)エクリチュール(書き方)のゆえだ。

「自分が直面する状況に対して実践的にかかわっていくなかでのみ思想が具体化されるのであり [・・・]
大仰と聞こえようが、「家人の介護をすることすらできずに思想だの哲学だの、片腹痛い」と(もう一人の)自分が考えているのである[・・・]
「一人の男と一人の女が生活を共にし、あまつさえ子供まで作った」というのはまるでお伽噺のような不思議な出来事であり、そのお伽噺の起承転結に全力で関わるのでなければ、そんな人間の喋ったり書いたりする言葉のすべてが重力を失ってシャラクサイものに変じ、単なる空気の振動もしくはインクの染みに化していくからだ・・・」
(同上)

思想は、それを下支えする日々の生活「その非凡なる平凡」或いは「平凡なる非凡」によって醸成されていなければならず、汗をかき、歯を食いしばりながらの日常という底流のない思想は羽毛のように軽いに違いない。
やはりわたしはその人がひとりの人間としてどのように振る舞ってきたかということを考えずにはいられない。
上記の引用に見られるように、西部は、身近な・平凡な実生活に参加することこそが、真の思想の土壌になると考えている。政治を語り哲学を論ずる前に、またはその大前提としての地道な家庭生活。「隗よりはじめよ」と。

・・・いや、結局のところ、わたしは彼の入水自殺というものの思想性に、その生の美学に、心打たれているだけなのかもしれない。そして同時に、およそ屈託というものの感じられない笑顔で、反戦や護憲を唱えている者たちの「微笑」が強いてくる屈託が、わたしの心の奥底のアンダーカレントとして滔々と流れているのを感じる。

「この世界に絶望する人がひとりでも増えること、それが希望です・・・」と語ったその人の、この世への訣別、その放棄・・・その一事に(言葉・思想を越えたところで)強く共鳴しているのかもしれない。

言葉が通じ合うものがいなくなったと感じた時、彼はこの世から去った。
わたしもその姿に容易に自らの遠からぬ未来を重ねて見ることができる。






2018年2月13日

「左右を弁別せず」 中島貞夫『日本暗殺秘録』

「本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの ”つよさ” からか、これらを” 抵抗3部作 ”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
                                                     (略)
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を” テロ ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。」
ー 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』(2004年)あとがき


昨日の日記で、わたしは「シンフェーン」というゲール語の意味が「我らのみ」であると書いた。そしてわたしは「我ら」という「等」を持たない孤絶した「我のみ」であると。昨夜観た映画で、主演の千葉真一演じる血盟団員「小沼正」は同志(村井国男)に向かって。「俺、わかったよ。「革命」ってのは「俺たち」でやるんじゃないんだな。「俺」がやるんだ・・・」

監督中島貞夫、脚本笠原和夫の1969年作品『日本暗殺秘録』は、先日かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだ折りに知り、是非観たいと思っていた。
若山富三郎、片岡千恵蔵、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、田宮二郎、里見浩太郎、藤純子といったオールスター・キャスト。それだけでエンターテインメントとして第一級の作品だが、微瑕を言えば、冒頭、吹雪舞う桜田門外の殺陣のシーンで、黒澤ー三船や、今井正ー中村錦之助ほどの凄まじいまでの迫力が感じられなかったことだろうか。

タイトルの通り、この映画は日本の暗殺ーテロルの歴史をオムニバス形式で描いている。
143分。登場する暗殺事件は、 幕末桜田門外の変から昭和11年の2.26事件まで九つ。140分で九つの暗殺事件を描くなら、ひとつのエピソードあたり15分ほどになってしまって、事件の背景などは描きようもないのではないかと思っていたが、この映画のメインは、昭和7年に起こった血盟団事件で、次に2.26事件と、ギロチン社事件に多少の時間をかけているが、その他は、単に何時何処で誰が誰によって殺されたというシーンのみである。だったら初めから井上日召と血盟団事件の作品にすればいいのではと思うが、やはり、幕末ー明治ー大正、そして戦前と、絶えることなくつづく権力の支配・圧迫と被支配・屈従の「歴史」が続いていることを示唆する必要があったのだろう。
暗殺の前にも暗殺があり、テロルの後にもテロルがある。その変わらぬ国の風景の背後に何が潜んでいるのかを暗示する必要があった。

興味深かったのは、「ギロチン社」の古田大次郎も、血盟団の小沼正も、また2.26事件の磯部浅一も、異口同音に「革命」というタームを用いること。大杉栄虐殺の復讐に起ち上がったギロチン社の面々は、言うまでもなくアナキストであり、血盟団は右翼と言っていいだろう。
作品が作られた当時、「政治の季節」と言われた60年代後半~70年代にかけての時代の精神というものも影響しているのだろうが、そもそも竹中労が指摘するように、「左右を弁別せざる」思想にわたしは共鳴する。
戦いは左右の水平上の闘いではなく、上下の垂直方向の戦いであるべきなのだ。

政治的なスタンスをいうなら、わたしは勿論右ではないが、だからといって、左派かというとそうでもないような気がする。そもそも現在のこの国で、言葉の正確な意味での「右翼・保守」或いは「左翼・革新」というものが如何なるものであるのかがよくわからない。

戦後、俳優山村聰は映画『蟹工船』(1953年)を監督し、また国鉄下山総裁の轢死事件に材を取った、井上靖原作の映画『黒い潮』を撮っている。同時期、佐分利信は、2.26事件に取材した『叛乱』(1954年)の監督をしている。これこそ正に「左右を弁別せざる」時代背景ではなかったろうか。

わたしには「右」も「左」もないように思える。ただ、上(かみ)と下(しも)、富裕の貧困の対立があるのみだと。

映画は

「そして現代
 暗殺を超える思想とは何か?」

と問いかけている。
けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。映画の中で田宮二郎の言う「我々の革命は、失敗はもとより、成功もまた死のはずだ。生きて二階級特進など、貴様ら、本気で革命をやろうと思っておるのか!・・・連夜紅灯の下に酒を飲み、女を抱き、自己の栄達のために革新を語る。たとえ成功してもそれでは単なる政権の交代、自分たちが権力を握るためのさもしい権力抗争に過ぎんではないか!」という心情に心打たれる。

狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それが故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。


働けば血を吐き働かなければ喰えなくなる現在(いま)の俺の態(ざま)を見てくれ

喰うために全力をあげてなお足らぬこの世になんの進歩があろう

ー 渡辺順三 (1929年)







2018年2月12日

ブログ紹介及び自己紹介

はじめまして。

こちらのブログはもともと' Myspace 'というSNSが無くなった後に、引き続きアートを投稿する場所として始めました。Clock Without Hands がそのブログです。
当時Myspaceの友達は全て外国人でした。勿論わたし同様、英語があまり話せない国の人も多くいました。
その後上記ブログからTumblrに移り今に至っています。

英語が通じない、或いは言葉が通じなくても、アート(絵画・写真)は言語の垣根を越えて人々との繋がりをもたらします。' Clock Without Hands ' は、便宜的に英語を使用しています。

Nostalgic Lightのプロフィールが英語なのは、わたしの知識の無さのため、Bloggerで新しいアカウントの取得が出来ず、Clock Without Handsのアカウント上で新たなブログを作ったため、「別館」のように見做され、同一の(元の)プロフィールが使用されているという事情です。

Clock Without Hands は、細々ながらいまだに世界中から見に来てくれる人々がいるので、そのことを重視し、プロフィールの変更は行っていません。



さて、わたしは東京在住の男性、です。1963年東京都大田区生まれ。
精神・知的障害を持つ引きこもりです。

このブログに書かれていることは、それが本についてであれ、映画や音楽の話題であれ、すべては、ひとりの孤独な精神障害者、引きこもりの内面の記録です。
多くのブログのように、記事の内容ごとにカテゴリーに分類することをしないのは、わたしのものぐさのせいと言うよりも、そのような気持ちに依るものです。

このブログを読んで(反感なり共感なり)興味を持たれた方は、こちらのブログ が日本語で書かれたわたしのメインのブログですので、そちらをお読みください。
(ここにも相当数の過去の記事がありますが、それらは主に上記ブログのバックアップの意味で転載したものです。)

お気づきのように、'Clock Without Hands' は「針のない時計」
'a man with a past' は「過去と共に生きる男」
共に「時の静止」を意味し、現代という時代に適応できない=したくない、いのちの在り様を表現したタイトルです。

IRA、アイリッシュ共和軍の公然組織の政党名は「シンフェーン」と言います。
これはゲール語で「我らのみ」という意味です。(『刑事コロンボ』「策謀の結末」をご覧になった方はご存知でしょう。)
しかしわたしは「我ら」のみ、ではなく「我」のみで生き、またこのブログを書いています・・・というとなにやら悲壮な覚悟の下に綴られた、大層なもののように思われてしまうかもしれませんが、所詮は泡沫(うたかた)の如きひとりごとです。

わたしは買い被られることがなによりも苦手です。
気軽な気持ちでわたしの内面と向き合っていただければなによりです。

みなといっしょに安息をえようとしてはならない。
みなとともに癒されてもならない。
他とともに陶酔するな。
他とともに変質するな。
他とともに変色するな。
唱和するな。号令に応じるな。気息を世界に合わせるな。記憶を彼らに重ねるな。リズムを合わせるな。声調を合わせるな。語法を合わせるな。
世界といっしょに目覚めるな。
世界とともに眠るな。
世界とともに憂いてはならない。
ともに慈しんでもならない。
世界と心をひとつにしてはならない。
世界と手をつないではならない。
ー 辺見庸『記憶と沈黙』より

Takeo (poboh)