2018年1月5日

無題

【土左衛門】- 溺れて死んだ人のふくれた死体。水死人。
  ▼昔、この名の力士の太り方が水死人と似ていたことからという。

国語辞典の中にこんな記述を見つけて笑ってしまった。



ニューヨークの赤


「赤い傘」ニューヨーク、ソール・ライター 1957年
Red Umbrella, 1957, Saul Leiter.

「ニューヨーク」1955年 エルンスト・ハース
New York, 1955, Ernst Haas. (1921 - 1986)




「ライク・サムワン・イン・ラブ」エディ・ヒギンズ・トリオ

2018年1月4日

無題

( 寒い冬の夜 )

吐く息の白さ哀しき わが孤独もてあましたる36.5分の熱

かなしき肉体(放哉の句に寄せて)

淋 し い か ら だ か ら 爪 が の び 出 す  ー放哉

この句は西行の

捨て果てて身は無きものと思へども 
雪の降る日は寒(さぶ)くこそあれ
花の咲く日は浮かれこそすれ

という歌と同じ状況を詠っている。

どんなに過酷な孤独の裡にあっても、どんなに世を厭うていても、躯からは爪がのび、ひげが生え、腹が減り、寒さに震え、花の頃には心も浮き立つ。
まるでこちらの懊悩や悲しみとはまったく無縁に、躯はそれ自体自律しているかのように見える。

同じく

の び て 来 る ひ げ が 冷 た い

も、凍てつく寒さの中でも芽を吹く木や花を思わせる。


こ っ そ り 蚊 が 刺 し て 行 っ た ひ っ そ り (放)

血の流れなくなった冷たい皮膚に蚊はとまらない。

死のうという間際、岸壁の際に立っても蚊に喰われた跡を無意識にかいている。

結局のところ、人間なんて、そんな愛(かな)しい滑稽な生き物なのだ。












奇れいな夕陽

「バー」ニューヨーク、1952年 エルンスト・ハース
Bar, New York, 1952, Ernst Haas. (1921 - 1986)




「ソリチュード」ベン・ウェブスター

2018年1月3日

本の内側

「古本のなかにさりげなくはさまっている紙切れが好きだ。」と、堀江敏幸は、エッセイの中に書いている。

「映画館や美術館の入場券、裏面に思いがけない広告が刷られている古い新聞の切り抜き、箸袋をやぶって書いたらしい電話番号のメモ、ブルーインクで書かれた流麗な女文字の暑中見舞い、ボールペンで住所に訂正のほどこされた名刺、「上様」とあるなにやら妙に区切りのいい数字がならんだ領収書、皺ひとつない戦前の拾圓札。紙切れの代わりに、何千万年もむかしの琥珀に閉じ込められた虫さながら蚊が平たくつぶれて半透明に乾き、鮮やかな朱が楕円の染み作っていたりするきわものもあった。衝動買いを名目にしながら中身をほとんど確かめず、表紙の感触だけで古本に手を出す悪癖は、じつはそんなふうに黄ばんだ紙の海の漂流物を見つけるためだといっても過言ではない。望んで得られるものでないだけに、頁のあいだからこぼれ落ちた過去の証人は、ときとして書物の中身以上に強い感動をもたらす。」
『回送電車』堀江敏幸 より「耳鳴り」(初出 1996年)

古い本のページを開き、ふとみつけてなによりうれしくなるのは、「押し花」や「押し葉」たちだ。
それは入場券や葉書、名刺や領収書といった「紙きれ」のように、且て「何かの用」を為していたものではなく、純粋にその愛らしさ、美しさを愛でるために拾われ、摘まれて頁の間にしまわれていたものだから。そして本の中に挟まれた花はおおむね小振りなものだ。

花も葉も、当時に比べれば色褪せてしまっているけれど、本が手に取られ、頁が開かれるのを待っていたようなその小さないのちのうつくしさは変わらない。
花や葉は、色褪せているからこそ愛おしいのだ。

「古本の中にはさまって入る紙切れ」といえば、昔銀座の教文館で求めたしおりを思い出す。その栞を長く使いたいためにぶ厚い本を読み始めたこともあった。それはロッソ・フィオレンティーノの「リュートを弾く天使」だった。












2018年1月1日

美(うる)はしきもの見し人は

美(うる)はしきもの見し人は
はや死の手にぞわたされつ、
世のいそしみにかなわねば。
されど死を見てふるうべし
美はしきもの見し人は。

『トリスタン』アウグスト・フォン・プラーテン(1796 - 1835) 生田春月訳



『セント・ジェイムス・ストリート』
ジョン・アトキンソン・グリムショウ、英国ヴィクトリア朝の画家。(1836 - 1893)

完璧な夜がかつてあった・・・



プラーテンの詩はもともとドイツ語で書かれたものだが、春月の訳は文語文で意味が通じにくいところがあるので、英語ではどのように訳されているのか調べてみた。

Who looked at the beauty with eyes,
Is already given to death,
Will not be good for any service on earth,
And yet he will quake before death,
Who looked at the beauty with eyes.


美をその目で見た者は、
既に死の手に渡っている。
この地上のいかなる活動にも適さず、
しかもなお(彼は)死を前に震えおののく
美をその目で見た者は。



もとよりわたしはいつの時代に生きようとも何の役にも立つことはないが、
美しいものを見てしまったばかりに、「アリウベキ世界」を観てしまったがために、
「現にアル」世界にどうしても馴染むことが出来ずにいる。



「家にあれば筍(け)に盛る飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは、行旅の情をうたったばかりではない。われわれは常に「ありたい」ものの代わりに「ありうる」ものと妥協するのである。
学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取ってみれば、椎の葉はいつも椎の葉である。
椎の葉の、椎の葉たるを嘆ずるのは椎の葉の筍たるを主張するよりも遥かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少なくとも生涯同一の嘆を繰り返すのに倦まないのは滑稽であるとともに不道徳(過度)である。実際また偉大なる厭世主義者は渋面ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディさえ、時には青ざめた薔薇の花に寂しいほほえみを浮かべている・・・

芥川龍之介『侏儒の言葉』より

けれどもこう書いたその人は、遂に美に殉じたのではなかったか?
椎の葉の椎の葉たるを一笑し去ること能わざる者ではなかったか?
美はしきもの見し人として、夙に死に供された魂ではなかったのか?

実用の世界に於いて、筍が椎の葉であっても、「不便を忍ぶ」ことはできただろう。
けれども美が醜によって駆逐された世界で、まして醜の美たるを主張する世界に於いて、尚それを一笑に附すことは彼にも為しえなかったはずである・・・