2022年2月28日

ふたつさんのコメントに対してのわたしの考え。

 「ふたつさんのコメントへの返信に託して」のコメント欄が、かなり長くなってきましたので、同投稿コメント欄末尾に寄せて頂いたコメントに対して、ここで新たな投稿をしたいと思います。



こんばんは、ふたつさん。

正直返信に頭を悩ませています。(苦笑)

先ず一つ言えることは、上にも述べたように、わたしは「抗議」は、あくまで「行動」であってほしいと思います。けれども現実には欧米諸国と日本を同列に考えることはできません。

「民主主義」の精神の根付いた国では、社会を覆滅できなくとも、「俺たちは現状に不満を抱いているんだ!」「今の政策には我慢がならない、自分たちは怒っているのだ!」という意思表示が必ずついて回りますが、日本にはそれがありません。

つまり大雑把に言ってしまうと、ふたつさんの仰る「レジスタンスとしての引きこもり」「抗議行動としての鬱病」という考え方は、いかにも遅れた国らしいなというのが率直な感想です。

実際に、この数十年間の間に、海外であっても「抗議活動」が『社会全体を変えた』というのを聞いたことはありません。

いや、それはわたしたちの不勉強に過ぎないと思います。例えば韓国の現・大統領が誕生した時はどうでしたか?

ギリシャやフランスの「ゼネスト」はどうですか?
ニューヨークの「ウォールストリート・ムーヴメント」をいかが思われますか?

大事なのは、実際に社会が目に見えて改善されるということではなく、「主権者であるわれわれ」は不満を持っているのだと、国に、政府に示すことだと思います。

国民が「怒り」を表明しない限り、それはわたしにとって「抗議行動」とは思えません。



私は、「いま」という「おかしな時代」の「おかしな光景」の中で、「アクション」を起こすと、どんどん「いま」にエネルギーを与えることに成っていくような気がしているわけです。

1970年の安保闘争以降、一体どのような、「体制を利する」ような「アクション」がおこなわれたというのでしょう?
わが国民は決してアクションを起こさない(起こせない)ということをクニは知悉している。そのことこそが彼らを利する行為=無為と言えるのではありませんか?




やはりどのような表現をなされようと、「引きこもり」や「鬱病」の患者さんたちが「存在論として」ガンジーの無抵抗不服従に連なるものであるとは思えないのです。

わたし自身のことをいっても、「Takeoさんの今現在の存在自体が、現状に対するレジスタンスなのです」といわれても、ピンとこないし、そんな自分に誇りなど持つことはできません。

Takeoさんは、多くの「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちが、「社会復帰」を望んでいると、本当に、そう思いますか?

そう思っています。

わたしが何よりも重んじるのは、あれこれの行為行動が、「結果として」社会への抗議・批判になっているというようなものではなく、社会へのレジスタンスは、あくまでも主体的であり意思的であるべきだということなのです。

個人的な考えですが、わたしは、「現代社会への不適応」を「抗議・抵抗」と同一視はできないのです。

引きこもっている人に、鬱を患っている者に、どれだけ現実への怒り・憎悪が存在するか?それが指標です。

意思的な社会からの離脱であるならば、それは確かに「無抵抗不服従」という「アクション」であると言えますが、はじき出されて呆然自失している状態を「社会への抗議」とは呼べません。


「ひきこもり」や「鬱」の人たちは、自ら進んで、社会から撤退したのではありません。あくまでも、社会に振り落とされたのです。無論わたし自身も含めて。

繰り返しますがわたし自身は「抗議する者」という意識を毛一筋ほども持ってはいません。何故ならわたしはなんら「アクション」を起こしていないからです。

わたしにとって「アクション」とは、朝日や古田、磯部、難波、井上、三島などの行いを言います。或いはネッド・ラッド、ロベール・パダンデールの名を上げてもいいでしょう。エミール・ゾラを加えてもいいでしょう。


◇◇


すべての現状が「現状否定」から生み出された現状であることは否定できないはずです。


つまり、「現状」というのは「連続する現状否定の一瞬を切り取った今」にすぎないわけです。


この考えは、わたしには受け容れ難いものです。

つまり何故常に現状を否定しなければならないのか?何故現状維持は否認されなければならないのか?

この考え方こそが正に明治以降の日本という国の本質を表わしています。

絶え間なく否定されるつづけるいま」。昨日と今日が、今日と明日とが連続しない。10年前と現在には何の連続性もない。

これまでのあたりまえ」は恒常的に更新され、明日には既に世界は「これからのあたりまえ」に染まっている。

休む間もなく移ろいゆく価値観や社会の姿についていける者だけを認める社会。それが日本社会です。『「現在」は常に否定されるためにある」そんな社会(世の中)で、人間の生体がどうして病まずにいられるでしょう。

時の流れを止めることができないならば、現状を肯定することができないならば、人類は早晩滅亡するでしょう。

『ぼくは、この「ぼくにとって都合のいい世の中」に続いていてほしいから、それを肯定する』と言っているに過ぎませんからね。

ああ。これはまさしくわたしの言葉であり、わたしの想いです。そしてこれは主にヨーロッパ的な(=非・アメリカ的な)考え方でしょう。



話を戻すと、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうのは、すべての人が『社会に適応できる人間が優秀な人間である』という「催眠術」をかけられてしまっているからです。

その「催眠術」をかけたのは、人間ではなく「システム」としての「社会」です。

「社会」は、あくまで「システム」であって「人間の意志」を持ちませんし、多くの場合「人間の意志」を無視します。


そうでしょうか?

意思を持たない「システム」が人間を催眠状態に陥らせることが可能でしょうか?

「社会」は、言うまでもなく人間がつくったものです。そしてその社会を牛耳る者がいます。それは紛れもなく意思を持つ人間です。政治家であり資本家たちです。

「社会」を「人間」の上に置いたのは人間です。

社会から落ちこぼれたものは白眼視され、迫害されます。そして政治がすることは、あくまでもドロップアウトは良くないことであり、「従順な奴隷たれ」ということに尽きます。

いったい「引きこもり」や「鬱病」等の社会から弾きだされた人たちが自らを「抗議する者」として誇りを持つことはどのように可能でしょうか?

自分の家族が「引きこもり」であること「鬱病」であることを「恥」と考える人の多さを考えた時に、孤立無援の現実の中で、自分の現状をどのように「肯定」出来るでしょうか?

「どこでもいいから逃げる」この意見には賛同します。

しかし繰り返しますが「逃亡」することと「抗議」とは同じではありません。(少なくともわたしにとって)

「ただ逃げる」「社会に背を向ける」これはどのようなかたちであれ、社会と手を切ることです。「抗議」でも「抵抗」でもありません。そして蛇足を言うなら「逃げる」ことこそ大事なことであり「人間の尊厳」を守ることに繋がると思います。わたし個人は「力」を伴わないいかなる「抗議」も「抵抗」も「無意味」であると考えています。



ふたつさんは「抗議」「抵抗」という言葉を使うことで、何を目指しているのでしょうか?

「サイレントな抗議の声」は圧倒的な社会順応者たちの物笑いの種になるに過ぎません。


“War is peace.

Freedom is slavery.

Ignorance is strength.”

*

「戦争こそ平和」

「服従こそ自由」

「無智こそは力」

ジョージ・オーウェル『1984』





2022年2月25日

男と女 第一章

Café Le Bidule, 1957, Willy Ronis (1910 - 2009) 

*

「少し話がしたい」

「私、あなたとお話したくありません」

「大丈夫、話すのは私だ」








二種類の人間

人間存在が多種多様であり、同時に完全なる社会、遺漏なき福祉体制というものが実現不可能である以上、人間は二種類に分類される。

すなわち「溺れる者」と「救われる者」。

ゆえに世界の涙(悲嘆)の総量は常に不変である。

われわれはただ瞑目し、自分自身を含め、溺れゆくものの心の平安を祈ることしかできない。

目を開けば、そこには「救われた者」の笑顔が輝いているだけなのだから。

人間にとって大事なことは、「救われた者」の手を取って、ともに破顔一笑することではなく

何処かに居る「溺れゆくもの」のために祈ることだ。









2022年2月24日

「目に見えるということに欺かれてはならない」2

 「誰かが泣き止めば何処かで誰かが涙を流し始める。結果として世界の涙の総量は変わらない」

ーサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

誰かが笑顔になった蔭で、誰かが悲嘆に暮れている。そしてその数は笑顔になった者の数よりも圧倒的に多い。

いま目の前にある「笑顔」で、「美談」で、世界を計ってはならない。わたしたちは常に陽の当たらない場所で涙を流している者の存在にこそ思いを馳せなければならない。

“The tears of the world are a constant quantity.”


「世界の涙の総量は不変である」







2022年2月22日

ふたつさんのコメントへの返信に託して

 先の投稿、「目に見えるということに欺かれてはいけない」に、ふたつさんからいただいたメッセージに関して、ここで改めて整理してみようと思います。敢えてコメントの返信に新たな投稿を設けたのは、メッセージに含まれた表現に、わたしの感性との「ズレ」を感じたからです。

いかなるものも、すべて「存在していること」それ自体が「誰かの迷惑」でもあり、「誰かのため」でもあります。

というふたつさんの考えに、いまひとつ素直にうなずけないのです。

というよりも、

言い換えるならば、「誰にも迷惑をかけずに存在すること」は不可能ですし、「誰のためにもならずに存在すること」もまた不可能です。

この表現に、わたしは同意できません。
何故かという理由を説明することは困難ですが、わたしには「誰のためにもなっていない」という存在が、確かに在ると感じているからです。自分自身を振り返って、「いったい誰のためになっているのか?」と自問した時、答えは出ません。ここに「主観」と「客観」との乖離があります。「自分は無価値だ」と感じて(信じて)いる者に対して、「そうではない」と諭すことにわたしは意味を見いだせないのです。何故なら、わたしはあくまでも「個々人の主観」を重んじるから、としか言いようがありません。


以下、ふたつさんの「詩」(詩のような題)を転載します。


『てんばつは けっして てきめんでは ない』

てんばつ てきめんと いうのは 
ものがたりの なかだけで
じっさいには
わるいことを した にんげんが 
てんばつを うけることは ほとんど ない

わるいことを した にんげんが
じっさいに ばつを うけるのは 
にんげんが つくった ほうを おかした ときだけ
でも
それは てんばつでは ない


てんは
その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
てんは
その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
てんは
その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
だから
そんな むだな ことは しない


だから
てんばつと おもうような しうちを うけて いる ひとは
それを はじる ひつようは ない
てんは
まだ あなたを みはなして いない
てんは
まだ あなたに なにかを あたえて いる
てんは
いまも あなたを すくって いるの だから

でも
その さいはいに かんしゃ する ひつようは ない
てんは
むじひに みすて むじひに すくって いるだけ


あなたが ばつを うけて いるのは
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない

あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから


もしも あなたが
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう

わらい ながら



あなたは 
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした


だから あなたは 

なき ながら



その てんばつを うけて いる


わたしはこれまで紹介してもらったふたつさんの詩の多くを好きですが、この詩に関してはどうも波長が合わないようです。



てんは
その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
てんは
その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
てんは
その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
だから
そんな むだな ことは しない

ここに描かれている「悪に染まった」の「悪」とはなんでしょう。

わたしは「善」という言葉よりも「悪」という言葉に、より強く惹かれます。
わたしが心惹かれる「悪」とはなんであるのか?これもまた明確に説明することはできません。

「悪に染まった」イコール「人間性の腐敗」であるというのなら、わたしは到底その考えを肯んじません。
盗みをはたらこうが、殺人を犯そうが、その一点を以て、「腐った人間」と断罪することはわたしには出来ません。おそらくふたつさんもわたしと同じであると考えます。
ではここに記されている「悪」とははたして如何なるものでしょう?

前にも書いたことがありますが、わたしにはそれが可能ならば、「殺してやりたい人間」が何人かいます。その者たちの存在が「誰かのために」なっているかどうか、それはわたしには関わりのないことです。多くの独裁者たちもまた、家族親族友人たちに慕われる「善き人」であったことでしょう。

これも前にも書きましたが、「刺客」「暗殺者」は「悪人」でしょうか。鼠小僧は「悪人」でしょうか?ひとことだけ言えることは、力のある者、権力を持つ者への力の行使は「悪ではない」と考えています。

「悪」とは「大」から「小」に向けて、「多」から「少」に向けて、「強」から「弱」へ向けて、そして「動」から「静」へ、「勝」から「負」に向けて行使される「力」であると、仮に定義しておきます。とすれば、自ずとその逆方向に用いられる「力」「行為行動」こそが「善」乃至「正義」ではないかと思われるのです。


あなたが ばつを うけて いるのは
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない

あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから

ここに関しては、わたしには理解できません。

あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから

率直に言って、この言葉は非常に危険な言葉であると感じます。
特に鬱病を患い恒常的な自己譴責に苛まれている者にとっては。
またこれは、わたしにある蒙昧な者の言った、「引きこもりとは、人生に対する「罪」であり「罰」である」という妄言を連想させます。

この詩行を、「あなたがいま苦しんでいるのは自業自得である」という以外に読むことが可能でしょうか。

そして

もしも あなたが
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう

わらい ながら

この「とめどなく腐り果ててゆく」であろう「あなた」とは、いったい誰に対しての言葉なのか?
そしてふたたびここで言われている「悪に染まっていたなら」の「悪」とはなんでしょうか。

あなたは 
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした


だから あなたは 

なき ながら



その てんばつを うけて いる

仮にわたしが底彦さんのような立場であるなら、この言葉は致命的です。このように繰り返し読んでいると、胸の裡に「怒り」のような感情が湧いてきます・・・

てんに かわって じぶんに ばつを くだした

かつてふたつさんの詩で、ここまで難解なものに出会ったことがありません。
更に言うなら、(少なくともわたしには)この詩は冷酷残酷でさえあると感じます。


以上、わたしにとって理解の域を超えているふたつさんの詩について述べて来ましたが、ひとつ確信を持って言えることは、ふたつさんは、わたしなり底彦さんなりに悪意を持ち、傷つけようとしてこの詩を公開したわけではないということです。その点だけは強調しておきます。危険な詩であるということは、コメントの中でも繰り返しふたつさんが述べていることです。

それ故、わたし(或いは底彦さんへの)「誤解」を解いてもらいたいと思い、紹介してもらった詩についてのわたしなりの忌憚のない感想を記しました。

言うまでもなく、わたしの言葉、わたしの文章が、誰も傷つけていないし、その可能性は無いはず。などと思ってはいません。

率直にものをいうことは、ある意味で暴力的なことです。

花一輪について詩を書いても、誰かを傷つけているかもしれない。
ふたつさんもわたしも、そのことについては自覚しているつもりです。

けれども言葉の持つ暴力性に無自覚無頓着な者がいる。それがわたしに先の投稿を書かしめた理由です。

◇◆◇



『てんばつは けっして てきめんではない』 by ふたつ


習作


上記の、「詩のような題」を持つ絵。『てんばつは けっして てきめんではない』

いい絵だと思いましたので、ふたつさんの承諾を待たずにこちらで紹介させていただきました。

詩に関して率直な意見を述べましたが、この絵を含め、一連のふたつさんの絵は、「個展」を催してもいいくらいの水準であるとわたしは思っています。これもまたわたしの率直な意見です。












2022年2月20日


人間存在に対する己の無智を、弱者へ振りおろす鞭にすり替えるな



「目に見えるということに欺かれてはならない」

 

Dance, 1931, Erika Giovanna Klien (1900 - 1959)
- Watercolor and Pencil on Cardboard -

*

"Visibility is a trap."

Michel Foucault - The Birth of the Prison, 1975

*

「目に見えるということに欺かれてはならない」

ー ミシェル・フーコー 『監獄の誕生』(1975年)



「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
そもそも、批判すべき「society」がない。

ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」



「改善すべき社会はない」「批判すべき社会は存在しない」故に「社会状況は極めて悪い」とはどういうことだ?

いったいこの者、自分で何を言っているのかわかって書いているのか?
失笑を禁じ得ない。

何故ハッキリと言わないんだ?自分は(自分の力では動けない)障害者と、所謂(部屋に閉じこもっている・・・ようにしか「彼らには見えない」)「引きこもり」なる人種が「キライ」なのだ、と。そして「あれこれができない」人間が存在するということ自体が自分にはわからないと。

「批判されることがこわい」のか?(言っとくが障害者や引きこもりをいくら叩こうが愚弄・嘲弄しようが誰も「批判」なんかしないよ)


繰り返す。

「可視的なるものに欺かれてはならない」

「(身体が)動いている」ことと「何かを為(成)している」ということを同一視してはならない。
愚かしくも「動いていない」ということと「なにもしていない」こととを混同してはならない。



Self-portrait, from the ensemble Prague - Sunday afternoon, 1937, Zdenko Feyfar. 


ひとつ大事なことを附記しておこう。およそ人間には「目に見えない」(Invisible
「精神」というものがあるということを。そして「精神」は容易に病み、崩れるということを・・・










2022年2月17日

唾棄すべき「人類」愛すべき「人間」

フェルナンド・ペソアはこう書いている。

「ルソーのように、人類を愛する人間嫌いがいる。
私はルソーに強い親近感を覚える。ある分野では、私たちの性格はそっくりだ。
人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛、その一方で、ある種のエゴイズム。これが彼の性格の根本だが、それはまた私のものでもある。」

『不穏の書、断章』より、「断章85」澤田直 訳



わからない。わたしには。「人類を愛する人間嫌い」などというものが。

何故ペソアがこんなに人気があるのか、わたしには理解できない。

まして「人類に対する燃えるような、強烈な、説明できない愛」となると、唖然として開いた口がふさがらない・・・

わたしは寧ろ

“I love mankind ... it's people I can't stand!!”

と叫ぶチャーリー・ブラウンに共感する。


Old Fashioned Kitchen, Virginia, ca 1936, Peter Sekaer (1901 - 1950)

これはピーター・セーカーの撮った、1930年代のアメリカ、ヴァージニア州の、とあるキッチンの写真だが、写真家自身がつけたものであるのかは定かではないが、タイトルに「オールド・ファッションド・キッチン」とあるので、1930年代といえども、このようなスタイルのキッチンは既に旧式のものだったのかもしれない。

この写真を見、そこに暮らす人々の生活を想像すると、正にペソアの言う「強烈な、説明できない愛」を覚えるのだ。

わたしはおそらく「人類」に対して、「唾棄」という言葉が決して大袈裟ではないほど「強烈な、説明できない嫌悪感、忌避感」を抱いている。けれども、この世界に、貧しく、質素に暮らしている人たちがいる限り、誰もが持つモノを持たずにいる人たちがいる限り、わたしの「人類からはみ出したひと」に対する愛情の灯は消えることはないだろう。

胸が熱くなるような、うつくしい写真である。









2022年2月15日

思考の波紋...

 

Wave Energy, Wilhelmina Barns-Graham (1912 - 2004)
- Pen, Ink, Oil on Card -

*

“It is hard enough to remember my opinions, without also remembering my reasons for them!”

― Friedrich Nietzsche

*

「いかにして私がその考えに達したか。その理由を知らずに、私のもろもろの思想を血肉とすることは極めて困難である」

ー フリードリッヒ・ニーチェ









2022年2月14日

「社会性」を持つことの危うさについて

先日以下のような文章をネット上で見かけた。

書かれていたのは、社会を批判をする前に、「自分自身の社会性の欠如」を省みるべきではないか、といった主旨の文章であった。文中、わたしの記憶に強く残っているのは、
 「社会批判の前に、自らが社会性を備えれば、批判の対象がなくなるかもしれないから。


この文章を書いた者にとって「いま・ここに在る(社会の)現実」は、個々の実存、「個々人の抱える現実」に優先される。
社会を批判する前に、先ず自分自身の『社会性』の欠如に目を向けろ」と。
これは容易に「いじめる側」の論理に通じ、そして「いじめられる側にも責任はある」と言った戯言(たわごと)に極めて近似した、残忍で冷酷な考え方であることがわかる。

では「社会性」とは何か?簡単に言ってしまえば、自己を取り巻く有形無形の環境への適応能力であり、順応性の謂いである。己を取り巻く「現実」への順応性・適応性が高い者ほど、「自分」=「エゴ」というものの弱さが目立つ。自身のスタイル、ポリシー、美意識、価値観、譲れない拘りなどがなく、自己の内面の水位と、社会の水位が常に平衡を保っている者ほど、社会性は高く、独自性は希薄である。


Anniston, Alabama, 1936, Peter Sekaer (1901 - 1934)


ナチの支配する「社会」があり、軍国主義が国民全体を洗脳する「社会」もまた「いま・ここにある社会」である。彼の理屈を極限まで推し進めれば、「プロテスト」というものは必然的に否定される。
「レジスタンス」「パルチザン」も、「ゼネスト」も「百万単位のデモンストレーション」も「暴徒化」も、なべて「社会性の欠如」に因があるということになるのだろう。

この写真の若者たちも「有色人種専用階段」の存在=「差別の象徴」を批判する前に、自分たちの「社会性の欠如」を省みた方がいいようだ。


North Carolina, (Segregation Fountain), 1950, Elliott Erwitt

「ノース・キャロライナ 白人と有色人種とに分けられている水飲み場」1950年
写真 エリオット・アーウィット


「いかに多種多様な個別性を包摂し得るかがその社会の成熟度の指標である・・・」などと、高校の優等生の言うような「陳腐な」セリフを今更言う代わりに、わたしは以下のセリフを引用する。

*

“ Let my country die for me.”

― James Joyce, Ulysses

「この国をわがために滅ぼしめよ」

ー ジェームス・ジョイス 『ユリシーズ』



ー追記ー

「社会性を備える」と言うことは、換言すれば、「わたし」が「わたし」であることを、「自己のアイデンティティー」を放棄せよということと同義である。何故なら「社会」(=多数派)と「私」(個ー「絶対的マイノリティー」)とは常に対立関係にあるものだから。














樹の話

「うつくしいもの」への憧憬、「いい文章を書きたい」という欲求は、いまだ心の底に熾火のように仄かな光を発している。けれども「生の倦怠」もしくは「生の蹉跌」がそれを上回る。

その Ennui を打ち破り、わたしを「生」へと回帰させる「うつくしさ」はどこにある?



窓の外の樹々が、「剪定」という名目の誤魔化しによって、繊細な枝々を無慚に斬り落とされてゆく。「裸木の美」を知らぬ粗野で野蛮な田夫野人たちによって。







なんとかお前に交わる方法はないかしら

葉のしげり方

なんとかお前と

交叉するてだてはないかしら




お前が雲に消え入るように

僕がお前に

すっと入ってしまうやり方は

ないかしら

そして

僕自身も気付かずに

身体の重みを風に乗せるコツを

僕の筋肉と筋肉の間に置けないかしら



川崎洋「どうかして」『現代詩文庫33川崎洋詩集』(1987年)より



My name is Takeo.

T is for Tree.

樹を伐られるのを見るのは自分の身を切られるのと同じくらい辛く悲しい

樹々の枝がなくなれば、小鳥たちの啼き声を聴くことも出来なくなる。
この邦で、美と、自然との交叉は限りなく難しい・・・


◇  ◇

Albín Brunovský. Slovakian (1935 - 1997) 
- Etching - 

*

“Your head is a living forest full of song birds.

e.e. cummings

*

「きみのあたまは生きた森だ。そこにはいつも鳥たちのさえずりが充ちている」

e.e. カミングス










2022年2月3日

レス・イズ・モア

 嘗て 「市場に詩情なし」と書いた。

「金儲け」と「美学」とは背馳する。

"Less is More" という美学、美意識ほど、現代社会、そしてインターネットの世界と縁遠いものはない。






困惑の中から...

 いまのわたしは非常に神経質になっている。現在、何もかもが悪循環に陥っていて、なにかをきっかけに状況は好転し得るのか?それとも、そもそも今の時代の何もかもが、わたしとは合わないのか・・・見極めは難しい。


一例をあげると最近アートブログにも、Tumblrにも投稿ができていない。だけでなく、フォローしているブログの投稿を見ても、心が高鳴るということがない。視ていて頭の中、胸の中に感嘆符〔!〕が灯るということが久しくない。

Tumblrに限らず、国内・国外を問わず、ブログを眺めていて、惹きつけられるような魅力を感じることがない。

人の投稿に美や歓びを見出すことができない上に、最近Tumblrのダッシュボード(フォローしているブログの投稿が流れてきて、イメージの下にある「スキ」や「リブログ」ボタンを押したり、自分もそこに絵や写真を投稿する場所の名称。SNSなら「タイムライン」というのだろうか)そのダッシュボード上に、Amazon Kindleの、








このような広告が頻繁に流れてきては気分を損なわせる。やる気を殺ぐ。

いいポストができていれば、このような広告など無視黙殺できるのだろうか。
それともやっぱり広告の「効果」が、そこに「うつくしいもの」を加えるという営み(=創作活動)に冷水を浴びせかけているのだろうか。わからない・・・

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、
「わたしは本に囲まれていないと眠ることができない」と言った。

見苦しい広告に囲まれて、「美」をその流れの上に浮かべることはできない。

そもそも先のSNSが自壊し、フェイスブックに行くものとTumblrに行くものとに分かれたとき、Tumblrを選んだ者たちの規準は、「目障りな広告がないこと」ではなかったか。

以前に比べるとだいぶ難しくなってきているが、わたしはネット上での「余計なお節介」を嫌う。


ただ、まっさらな画面に自分の選んだ「美」を写し出したいだけなのだ。










きつおんの うつくしさ

吃音はすでにして「詩」である



2022年2月2日

繰り返し 祈りのように...

 

‘Mine Own King Am I & Joel’ by Eric Vloeimans & Holland Baroque Society
 [Old, New & Blue, 2013]

*

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」

― エミール・シオラン『生誕の災厄』より







読めない 書けない...

最近愛読しているブログがある。 折々に感じたことを1・2行ほどの字数で表現する。

簡単そうで、わたしにも出来そうにも思うが、わたしが書くとどうしても「箴言」のようになってしまう。或いは「定義集」か。

そのブログが先日、こんな投稿をしていた。

「臨機応変」

書けない時は 読む

実は今日読み返すまで、「書けない時は 寝る」だとばかり思っていた。その方がわたしにとってすんなりと納得できるからだ。
書けない時は読む・・・わたしにいわせれば「読めないから書けない」のだ。

なにも読む気になれない。DVDで映画を観る気にもならない。枕元に置いてある、母に頼んで図書館から借りてきてもらっている本を、気まぐれに数ページ読んでみるが、すぐに気分が沈んでしまう。
いつも4~5冊、図書館のホームページを通じてリクエストして、母に運んで来てもらっているが、結局読めずに返却することの繰り返しだ。

胸の奥に「いい文章を書きたい!」という強い欲求はあるのだけれど、良質のインプット無しに、よい文章は書けない。

孤独なのだ。紹介したブログのタイトルじゃないが「文字のみ」(正確なタイトルは『文字の実』)ではなく、ひととのつながりを欲しているのだ。

これも図書館から借りているサイモン・アンド・ガーファンクルの「早く家にかえりたい」
(Homeward bound) の歌詞の一節にある

”I need someone to comfort me...”

という部分だけが浮き上がって、「太字で」聴こえる。

・・・若い頃は、「明日に架ける橋」の歌詞に涙を流したこともあったけれど、今はそれも、キャロル・キング(あるいはジェイムス・テイラー)の「きみの友だち」(You've Got a Friend) の歌詞も、まるで信じちゃいない。

このあいだ、「頑ななまでに自分の美意識に忠実と言えなくて、なんの「わたしのブログ」か!」と書いた。
【かたくな】という言葉を辞典で引いたら、こう書かれていた。

「頑固なこと。心がひねくれて片意地の強いこと」
『岩波国語辞典第二版』より

こころがひねくれて、か。いいさ。