「ふたつさんのコメントへの返信に託して」のコメント欄が、かなり長くなってきましたので、同投稿コメント欄末尾に寄せて頂いたコメントに対して、ここで新たな投稿をしたいと思います。
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「民主主義」の精神の根付いた国では、社会を覆滅できなくとも、「俺たちは現状に不満を抱いているんだ!」「今の政策には我慢がならない、自分たちは怒っているのだ!」という意思表示が必ずついて回りますが、日本にはそれがありません。
つまり大雑把に言ってしまうと、ふたつさんの仰る「レジスタンスとしての引きこもり」「抗議行動としての鬱病」という考え方は、いかにも遅れた国らしいなというのが率直な感想です。
実際に、この数十年間の間に、海外であっても「抗議活動」が『社会全体を変えた』というのを聞いたことはありません。
いや、それはわたしたちの不勉強に過ぎないと思います。例えば韓国の現・大統領が誕生した時はどうでしたか?
国民が「怒り」を表明しない限り、それはわたしにとって「抗議行動」とは思えません。
私は、「いま」という「おかしな時代」の「おかしな光景」の中で、「アクション」を起こすと、どんどん「いま」にエネルギーを与えることに成っていくような気がしているわけです。
わたし自身のことをいっても、「Takeoさんの今現在の存在自体が、現状に対するレジスタンスなのです」といわれても、ピンとこないし、そんな自分に誇りなど持つことはできません。
Takeoさんは、多くの「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちが、「社会復帰」を望んでいると、本当に、そう思いますか?
そう思っています。
わたしが何よりも重んじるのは、あれこれの行為行動が、「結果として」社会への抗議・批判になっているというようなものではなく、社会へのレジスタンスは、あくまでも主体的であり意思的であるべきだということなのです。
個人的な考えですが、わたしは、「現代社会への不適応」を「抗議・抵抗」と同一視はできないのです。
引きこもっている人に、鬱を患っている者に、どれだけ現実への怒り・憎悪が存在するか?それが指標です。
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「ひきこもり」や「鬱」の人たちは、自ら進んで、社会から撤退したのではありません。あくまでも、社会に振り落とされたのです。無論わたし自身も含めて。
繰り返しますがわたし自身は「抗議する者」という意識を毛一筋ほども持ってはいません。何故ならわたしはなんら「アクション」を起こしていないからです。
わたしにとって「アクション」とは、朝日や古田、磯部、難波、井上、三島などの行いを言います。或いはネッド・ラッド、ロベール・パダンデールの名を上げてもいいでしょう。エミール・ゾラを加えてもいいでしょう。
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すべての現状が「現状否定」から生み出された現状であることは否定できないはずです。
つまり、「現状」というのは「連続する現状否定の一瞬を切り取った今」にすぎないわけです。
この考えは、わたしには受け容れ難いものです。
つまり何故常に現状を否定しなければならないのか?何故現状維持は否認されなければならないのか?
「これまでのあたりまえ」は恒常的に更新され、明日には既に世界は「これからのあたりまえ」に染まっている。
休む間もなく移ろいゆく価値観や社会の姿についていける者だけを認める社会。それが日本社会です。『「現在」は常に否定されるためにある」そんな社会(世の中)で、人間の生体がどうして病まずにいられるでしょう。
時の流れを止めることができないならば、現状を肯定することができないならば、人類は早晩滅亡するでしょう。
『ぼくは、この「ぼくにとって都合のいい世の中」に続いていてほしいから、それを肯定する』と言っているに過ぎませんからね。
ああ。これはまさしくわたしの言葉であり、わたしの想いです。そしてこれは主にヨーロッパ的な(=非・アメリカ的な)考え方でしょう。
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話を戻すと、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうのは、すべての人が『社会に適応できる人間が優秀な人間である』という「催眠術」をかけられてしまっているからです。
その「催眠術」をかけたのは、人間ではなく「システム」としての「社会」です。
「社会」は、あくまで「システム」であって「人間の意志」を持ちませんし、多くの場合「人間の意志」を無視します。
そうでしょうか?
意思を持たない「システム」が人間を催眠状態に陥らせることが可能でしょうか?
「社会」は、言うまでもなく人間がつくったものです。そしてその社会を牛耳る者がいます。それは紛れもなく意思を持つ人間です。政治家であり資本家たちです。
「社会」を「人間」の上に置いたのは人間です。
社会から落ちこぼれたものは白眼視され、迫害されます。そして政治がすることは、あくまでもドロップアウトは良くないことであり、「従順な奴隷たれ」ということに尽きます。
自分の家族が「引きこもり」であること「鬱病」であることを「恥」と考える人の多さを考えた時に、孤立無援の現実の中で、自分の現状をどのように「肯定」出来るでしょうか?
「どこでもいいから逃げる」この意見には賛同します。
しかし繰り返しますが「逃亡」することと「抗議」とは同じではありません。(少なくともわたしにとって)
「ただ逃げる」「社会に背を向ける」これはどのようなかたちであれ、社会と手を切ることです。「抗議」でも「抵抗」でもありません。そして蛇足を言うなら「逃げる」ことこそ大事なことであり「人間の尊厳」を守ることに繋がると思います。わたし個人は「力」を伴わないいかなる「抗議」も「抵抗」も「無意味」であると考えています。
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ふたつさんは「抗議」「抵抗」という言葉を使うことで、何を目指しているのでしょうか?
「サイレントな抗議の声」は圧倒的な社会順応者たちの物笑いの種になるに過ぎません。