2021年6月27日

侘しさと寂しさと、便所の臭いのする生活だった シリーズ「アパート」1978年ー石内都(Miyako Ishiuch)



Apartment #58, 1978, © Ishiuchi Miyako



Apartment 4, 1978, © Ishiuchi Miyako



Apartment #56, 1978, © Ishiuchi Miyako


Apartment #60, 1978, © Ishiuchi Miyako



 Apartment #50, 1978, © Ishiuchi Miyako




流れゆく時に 遅れてはいけない

移り行く社会に 遅れてはいけない

斉藤哲夫「悩み多き者よ」









2021年6月25日

わたしは人を「軽蔑」することができない

 
「あなたはどうしようもなくくだらない人間を、心のなかで軽蔑し、無視するということができないの?」
立川駅に向かうバスの車内で母がわたしに不思議そうに尋ねた。例えば、信号で止まるたびに「止ります」「発車します」を連発し、「右へ曲がります」「左に曲がります」と、いちいち自分の動作を言葉に出して言わずにはおれないバスの運転手や、プラットホームや車内の、のぺ~とした面(ツラ)の「群れ」たちを。

直接的であれ間接的であれ、わたしは自分を傷つけ、不快にさせた人間、またはモノを、心の底から軽蔑し、内心で彼らに唾を吐きかけて無視するという器用なことはとてもできない。しないのではなく、したくないのでもなく、心的機制としてそのようなことができないのだ。

わたしはただ「彼ら」、「彼女ら」、そして、「それら」をひたすらに憎む。軽蔑も無視もできない。
蒙った「恩(おん・なさけ)」と「讐(仇)(うらみ・あだ)」は決して忘れない。

誰かに対して、「かわいそうな人」「哀れな人」といった表現で蔑みの気持ちを口にすることが、わたしに理解できないのも、おそらく、同じ理由に因るのだろう。
「無視」することも、「憐れむ」ことも、詰まるところは彼らの行為を「容認・黙認」する(している)ことになるとわたしは思う。

"Forgive Not Forget”「赦す、けれども忘れない」この気持ちもわたしには理解が難しい。
何故ならわたしは「忘れない」し「赦せない」から。

「恩讐」は、「彼方」に、「彼岸」に存するのではなく、常にわたしの実存と共にある。

わたしは人を軽蔑し、赦してしまうことができない・・・














2021年6月23日

フレンチ・ソング イン ニューヨーク


New York Times Square, 1954, Ernst Haas.


Les Parapluies De Cherbourg - Barney Wilen with Mal Waldron Trio

*

「シェルブールの雨傘」(I' ll wait for you) 

写真は、エルンスト・ハースの撮影した1954年のニューヨーク、タイムズ・スクエア。
ミシェル・ルグランの作曲したフランス映画のテ-マソングがニューヨークの黄昏によく似合います。

サックスのバルネ・ウィランはフランスのサックス・プレーヤー
ピアノのマル・ウォルドロンは、先日Mさんから送られたビリー・ホリデーの「レフト・アローン」を作曲した、’レディー・デイ’(ビリー・ホリデー)の最晩年のピアニストとしても知られています。











2021年6月22日

タッチング


 Touching, 1911, Jessie Willcox Smith (1863 - 1935)
- Watercolor on Paper mounted to Board -

「タッチ」ジェシー・ウィルコックス・スミス(1911年)水彩








2021年6月20日

生まれてきたことの罪

 
今日、いつものように食事を作りに来てくれた 母が、大月書店から出ている、『わたしたちはふつうに老いることができない』という本について触れた時、そしてそれが、重度障害者(児)の親たちの苦悩の言葉であると知った時に、わたしはただちに、植松聖が差し出した「障害者は不幸しか生まない」という、わたし自身にとって、いまだに答えを見出すことのできない、あまりにも巨きすぎる命題に直面させられました。

わたしは本を読んでいません。ただ、そのタイトルがあまりにも衝撃的で、わたしの心を打ち砕きました。「ワタシタチハ フツウニ オイルコトガ デキナイ」・・・何故なら「普通ではない」子供(家族)を抱えているからです。そして間違えなくわたしも、その「普通ではない人間」のひとりに違いありません。

嘗てエミール・シオランは、

「あらゆる罪を犯してきた。父親となる罪だけをのぞいて」

と、『生誕の災厄』の中に記しました。

あらゆる罪を犯してきた。「親となる罪」だけをのぞいて。

一方これは映画を観ただけで(母は原作を読んだそうですが)内容もほとんど忘れてしまいましたが、英国のマイケル・ウィンターボトム監督が映画化した、トマス・ハーディの『日蔭者ジュード』(原題JUDE)で、もっとも有名なシーン、
子どもが多すぎて、何処にも部屋を借りることができない両親が口論しているのに心を痛めて、まだほんの子供である長男が、弟、妹たちを殺し、自らも首を吊って命を絶ちます。ただひとこと「ぼくたちの罪をゆるして」(Forgive our sin)と書き残して。

嘗てこの話をした時に、当時、(今から10年ほど前でしょうか)わたしの親友であった、20歳年上の女性が、ふたりで散歩をしていた、お堀端、毎日新聞社の近くの辺りで、涙をボロボロこぼしていたことを忘れられません。まだほんの幼い少女の頃、自分の親兄弟に、むごい、主に言葉による虐待を受けた女性でした。
「お前なんか生まれてこなければよかったんだ!」・・・・


確かに重度の障害を持った「子供」(六十を過ぎても、その人の子供であることに変わりはありません)を持つ親たちにとって、その毎日は、母の言葉によると「夜も寝られない」「地獄の日々」であることは紛れもない事実でしょう。そかしその親たちの悲鳴が激しければ激しいほど、苦痛が大きければ大きいほど、「障害者は不幸しか生まない」という植松のテーゼはいやまして真実味を増してくるように思われるのです。

過去にここでも何度か書きましたが、わたしは植松の言葉を、どうしても打ち消すことが、否定しきることができません。

「人の犠牲の上に成り立つ生は果たして許されるのか?」というクローチェの問いにも答えることができません。(或いはクローチェの言葉は「他者の不幸の上に成立している幸福は許されるのか?」だったかもしれません。)

貧困も、ホームレスも、決して「自己責任」ではありません。彼らは、「食わせろ!」「生きさせろ!」と叫ぶ権利を持っています。
何故なら政治・政府とは、それが(スターリンやヒトラーの時代のような)独裁国家でない「民主 主義」国家である限り、「主権者である国民の下僕」であるからです。
ですからホームレスであれ、無職の引きこもりであれ、様々な障害を持った者たちであれ、すべての国民が国家の主人(主権在民)である以上、彼ら・彼女らは、どこまでも「食わせろ!」「生きさせろ!」と国に、政府に言うことができます。

けれども、わたしを含め、ひとの(=親の)援けがなければ一人では生きてゆくことのできない障害を持った者が、自分の親に対して、「食わせろ!」「生きさせろ!」と言うことができるでしょうか。
わたしは「応」と答えることが、「諾」と肯んじることができません。

母をはじめ、貴方たちが「普通に老いる」ことを妨げているのは、普通の人生を送ることを出来なくさせているのは、他ならぬ、「私(たち)」だからです。

『わたしたちはふつうに老いることができない』のは、不幸を生む障害者がいるからであると、わたしは思ってしまうのです。そしてジュードの小さな子供の「生まれてきた罪を許してください」という言葉は、正にわたしの言葉でもあるのです。

母がこの本につい手を伸ばしてしまった心の奥底の苦悩を思うと、「生まれてきたことの罪」、「生きつづけていることの罪」の深い深い悲しみとともに「死」=「消滅」ということ以外の贖罪を考えることができません。そうして、ジュードの子供にできたことができない自分を、ただひたすらに愧じています。
そして同じように「ふつうに老いることができない」わたし(たち)も、その親たちと同じ思いを抱いています。けれどもそれを口にすることはできないのです。



ー追記ー

わたしの最も好きな映画の一本は、マイケル・ウィンターボトムの『バタフライ・キス』です。主人公ユーニスが、親友に「わたしを殺して」と頼みます。親友は、親友であるが故に、彼女とともに海に入り、ユーニスの頭をひたすらに沈め続けます。苦しくて頭をあげると、また海中に押し込む。ユーニスが動かなくなるまで。
「神に忘れられた」ユーニスは、しかし、天使のような友に、最後に救われたのです。













2021年6月19日

Mさんへ

 こんばんは、Mさん。もうひとつのブログにコメントが残されていること、数日前から知っていました。けれども、この間わたしが別にブログを作って、そこに現在こちらで見られるような投稿を30ほど書いていた時に声をかけてきてくれた男性のコメントであろうと思い、見てみぬふりをしていました。

以下、Mさんの承諾を得ずに、いただいたコメントをここに転載することをお許しください。


Takeo さまへ。

こんばんは。Mです。
すっかり御無沙汰してすみません。

今日は、2021年6月11日です。
もう、かれこれ、、、2カ月余り、経ちますでしょうか、、、。

でもブログは、遠くから拝見していました。
特に4月~5月半ばの、揺れ動く頃。1日に2~3回、、、昼と、夕、寝る前とか、ね。

ですから、既に非公開になった記事も、多分、全て、、、読んでます。

*****

その頃。途中で何度もコメント入れようか、迷いました。
特に、、、心無い・酷いコメントの記事を読んだ時。

でも直ぐに、ふたつさんやJunkoさんが、愛情こもった長文コメントを書いておられたのを拝見し、
何だか少し、遠慮しました(笑)。あぁ、、、全然、変な、ひねくれた意味ではありません。

*****

礼節を欠く言動は、人として本当に恥ずべき事だと思うし、

実際、私自身。そんな失礼なコメントには怒りを覚え、
頭の中で「ピキッ!!」っと音がした気がしましたからね。

でも、お二人のコメントは冷静で、そのうえ、Takeo さんへの敬意や愛情も感じられる。
怒り!!の私とは、、、大違いだな。

とは言え、「礼節を欠く行為は、人として恥ずべき事である」という私の思いは
お二人のコメントと共通項でしたから、、、既に十分、書かれてる。
そういう意味で、少し遠慮しました。

それと、すごく難しい・哲学的な内容になると、、、自分には基礎知識も無くて、、、。
遠慮どころか、コメントはさむ余地が無い(苦笑)。

*****

難しい話はコメント出来にくいけれど、
でも、途中・途中で、、、ホントはコメント出来そうな事。色々在りました。

味覚が半分くらい戻って来たけど、未だ完全じゃ無い、、、とか。
でも、少し、戻ったんだ、、、ホント良かったな、、、とか。

同じ記事の中で、お母さまの記載が在ったけど、
お身体、大丈夫かな、、、とか。

食事の支度を2日分。大変だけど、Takeo さんの為に頑張って下さってるって。
本当に、お母さまの愛情は、深いな、、、とか。

でも御高齢だから、身体が少しキツイ日とか、
そういう、体調の要因でも、少し不機嫌にもなるかも、、、とか。

そうそう、眼科受診の記事もあったけれど、大丈夫かな、、、とか。

*****

それと、、、あの頃。色んな、酷いコメントの渦に巻き込まれない様に、
敢えてМさんって呼びかけず、伏せて下さっていると、行間から伝わっておりました。

Takeo さんは、そう言う繊細な気配りが出来る方だと、、、。
その気配りは、Takeo さんの人間性の根本だと。

*****

実は、今回お送りしたお便り内容は、ほぼ5/17頃に書いていたのですが、
お送りするタイミングを失い、下書きのままになっていた文章です。

実はその頃、87歳になる父の具合が少し悪くなり、
急な対応に追われました。今でも毎日(苦手な)早起きして、実家に通ってます。

すっかりタイミングを失ったメール内容ですが、
その当時の、感じたままの言葉ですので、

冒頭の部分のみ、一部改変し、お送りします。
丁度、1カ月余り、、、の文句が、2カ月余りになった感じです。

Takeo さんのブログ更新が、ほぼ止まってしまった今、
お気持ちを推察すると、、、やはり、お送りしようと。

遠くからで、すみません。

このコメントの存在に、気付いて下さるのかどうか解りませんが、
とにかく、、、お身体、大事にして下さい。それと、お母さまのお身体も。

*****

最後になりましたが、ここ最近、私が夜に時々聴く、お気に入りの歌(動画)をご紹介します。

昔のジャズとかお好きだって仰ってたから、ご存知の曲かもしれませんが、
でも歌ってるのは、確か80年代によく出ていた歌手の女性。懐かしい、、、。ヒット曲も結構聞きました。

この動画の曲は、哀愁があって、好きです。この声も。
夜に聞くと、すごく哀しくて、、、好きです。


https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%9e%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3+%e3%83%ac%e3%83%95%e3%83%88%e3%82%a2%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%b3&&view=detail&mid=E0A0ED3477056E068D56E0A0ED3477056E068D56&&FORM=VRDGAR&ru=%2Fvideos%2Fsearch%3Fq%3D%25E3%2583%259E%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%2520%25E3%2583%25AC%25E3%2583%2595%25E3%2583%2588%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25AD%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%26qs%3DSC%26form%3DQBVR%26sp%3D1%26pq%3D%25E3%2583%259E%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%2520%25E3%2582%258C%25E3%2581%25B5%26sc%3D1-7%26cvid%3D5348E32E88DC4F96987BC78EA2B3DBD6


では、、、お休みなさい、、、。

            メプ



Mさん、真情に満ちた親切なお気遣いに、心から感謝します。

以下、とりとめもないわたしの感想を、今の想いを、返信の代わりにMさんにお伝えし、お送りいたします。


正直、わたしはMさんはもうわたしを見切ったのだろうと思っていました。
これまで出逢って来たほとんどすべての人たちと同じように。わたしはそのことを・・・Mさんがわたしとこのブログに見切りをつけて去っていったことを、まったくあたりまえのこととして受けとめていました。それは、「穢い言葉を聞くと(読むと)つかれる」というわたしの感覚と照らし合わせて、まったく自然のことだと考えていました。逆の立場に立った時に、わたしが知り合いの「穢れた言葉」に満ちたブログから遠ざかることも充分に考えられるからです。

頂いたメッセージの中にある

>お二人のコメントは冷静で、そのうえ、Takeo さんへの敬意や愛情も感じられる。怒り!!の私とは、、、大違いだな。

この言葉を読んでとてもうれしく感じました。
わたしのために「怒って」くれる人が、母の他にもいたなんて。

おふたりの冷静な対応と、とにかくわたしのために「腹を立て」「怒ってくれる」ことの間にどれほどの差が、優劣があるでしょう。

ふたつさん、Junkoさんの対応と、Mさんの「怒り」、そこには、ただの1ミリの違いも存在しません。

極論すれば、愛情の極致とは、その人のために「復讐」することができるか、であるとわたしは考えています。つまり憎むべき者を殺めることができるか?というところまでゆくのが(わたしにとっての)真の愛情なのです。それは過去に、フランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』という映画について書いた時にも触れているはずです。

わたしはMさんを含む、ごく当たり前の人が、上に書いたようなことを考えているわたしという人間を理解することは不可能であるということを承知しているつもりです。
ですからわたしは「孤立と、独特の認識の化け物」であると、事あるごとに周知を徹底させるよう努めて来たつもりです。


先週、6月9日水曜日に、御茶ノ水の眼科で、引っ越し以降、急速に悪化した右目の緑内障の手術をしました。わたしの両眼は、22か3歳の時に、緑内障で手術をしています。
今回の処置は、その時、つまり35年ほど前に手術で作った、目の中にたまった水を排出する水路の、癒着による閉塞を再度開放するというものでした。

通常の緑内障の手術の場合には、1週間から10日の入院を必要としますが、癒着して塞がった排水路に再び水が流れるようにする今回の処置は、手術翌日の、再建した水路の再度の癒着防止のための注射を打つためと、手術直後の経過観察のため当日に一泊し、上記の処置と診察を経て、翌日に帰宅しました。今日で手術をしてから9日が経ちます。残念ながら、術後の様子は思わしくありません。もともと、右目は20代の時から、相当にダメージを受けており、視野の約半分が欠けている状態で、35年間なんとか普通に生活してきました。そして、昨年11月の慌ただしい引っ越しの後、更に悪化した右目。行きつけの眼科での検査・診察の上、既に薬だけでは高い眼圧を抑えきれない状態にあったため、できるだけ早い手術が必要という判断の下に、今回の手術を受けましたが、現時点での状態は、術前よりも、更に見えなくなっています。昨年の左目の白内障の手術、6、7年前の右目の白内障の手術の際、また、20代の時、大学病院の眼科に通っていた時もそうでしたが、医師はこちらの疑問や不安に全く答えてくれません。いえ、正確にいえば「答えてはいる」のです。「痛みがある」のも、「見えにくい」のも、「出血が見られる」のも、「手術の後ですから。」それが答えです。

故西部邁は、奥さんが入院中(結局亡くなりましたが)「医者に人間味や思い遣りを求めること自体が無理な相談である」と言いきっています。それはそのような人間的な対応を求めること自体が愚かだというのではなく、大病院で患者へのきめ細かい配慮を求めることは、そもそも不可能なことなのだという意味でした。


わたしはこわいのです、医師の無表情、病み、弱った者への無関心が、ついでに言えば、わたしは88歳の父が怖いし、弟がこわい、例のブログの連中もこわいのです。

9日の手術後、14日の月曜の診察の時の様子を見て、わたしはもう何も聞くまいと思いました。その日に次回22日火曜日の予約が取られましたが、わたしは病院の医療相談室に、「I先生の診察には行けません。」と伝えました。理由は、「何ひとつこちらから訊くことができないから」「あれこれと訊いて、鬱陶しそうな顔をされるのがこわいから」と。わたしの受診拒否の意思を受けて、医療相談室の男性看護師は、執刀医=病院の理事長に意見を求め、術後の経過観察は必要だから、別の医師の診察を受けるようにと回答してきました。それから3日が経ち、視界は相変わらずで、ほとんど何も見えないままです。鏡で見る限り、出血はないようです。けれども、わたしは、引っ越しまえのかかりつけの眼科に行くことはあっても、もう御茶ノ水には行かないつもりです。第一の理由として、この目が手術前の状態にまで回復することは最早ないだろうという諦め。加えて、特急を使い、母に付き添ってもらっても、立川ー御茶ノ水間の往復が、どれほど苦痛を伴うものであって、電車に乗る、バスに乗るということの強いストレスが自律神経を乱し、結果として、眼圧を上昇させているか・・・

Mさんもお父様のご様子がよろしくないとのこと。さぞご心配でしょう。その後いかがでしょうか?
どうかご自愛の上、お父様の体調が少しでも早く回復されることを祈っております。


長くなりましたが、最後に「ブログ」のことについて。現在右目はほとんど見えない。そして左の目も決して健康とは言えない。右目の状態が、ただでさえ眼圧の高い左目の負担になっていて、ものが見づらいのです。

それだけではなく、このところ、ブログを書くということも含めて、「インターネット」とはわたしにとってどのような空間・場であるのかが、わからなくなってきています。
いまではアート・ブログを含め、「このようなブログを書きたい」と、目標になるようなブログはどこにもありません。そしてブログでわたしが主張していることに共感してくれる人がひとりでもいるでしょうか?

霞んだ眼を酷使して、誰にも理解できないか、からかいの種にしかならない言葉を積み重ねてゆくことに何の意味があるのでしょう。

かつてわたしは、わずかだが、いい文章を書いてきたと言ったことがあります。あの言葉は取り消します。弱気になっているのでも、卑下しているのでもありません。そもそも「インターネット上でのいい文章」というものが存在するのでしょうか。そのようなことを差し置いても、わたしの文章は、お世辞にも上手いとは言えないものばかりでした。


今のわたしには、インターネットという摩訶不思議な空間で、言葉を発することの意味がわからなくなっています。

Mさんの「怒り」に心動かされたのと全く同じ次元で、わたしの中で「言葉」とか「知」というものに対する不信感と懐疑が閾値にまで達しているのでしょう。


贈ってくださった、「レフト・アローン」(一人取り残され・・・)、ビリー・ホリデーの歌として知られていますが、やはりいい歌ですね。

まだ耳が聞こえ、好きな音楽が聴けるということに深く感謝しながら、
とりとめのない饒舌な駄弁を終わろうと思います。

お読みくださりありがとうございました。

メプさんのご家族の健康を祈っております

重ねて、ありがとうございました。
















2021年6月15日

テリー・タレル / Terry Turrell

 以前にもご紹介したことのあるアメリカの画家であり彫刻家でもあるテリー・タレル / Terry Turrell (1946年生まれ)の作品(今回は絵画作品のみ)を再度掲載します。

彼の一連の作品は、いうところの、「アウトサイダー・アート」または「アール・ブリュット」(生の芸術)という範疇に入るようです。しかし芸術という創造的営みに対し、これは健常者が描いたもの。これは精神或いは知的障害を持った人が描いたものという但し書きがそもそも必要でしょうか。

仮に100%正気という人がいたとしたら、わたしはそのような人物になんの関心も持てないでしょう。

では能書きはこのくらいにして、(個人的に)ジャン・ミシェル・バスキアを思わせる彼の作品をお楽しみください。




Athenas Calling
- Oil, enamel & mixed media on wood -



Flight
- Oil and enamel on paper -


The Gift
- Oil and enamel on paper -


Breath
- Oil and enamel on Canvas Panel -


Mermaids
- Oil and enamel on Linen Wrapped Panel -


Summer of Love


Sea Level









2021年6月13日

「寂しい人」 フリードリッヒ・ニーチェ



いま、日は日に疲れ

憧れの小川という小川は

鮮やかに慰めの水音をたてる

大空さえ 金色の蜘蛛の巣をかけ

疲れたひとりひとりに話しかける・・・「さあ、おやすみ」と・・・

暗い心よ おまえを休ませないのは何?

傷ついた心でおまえを逃れさせるのは何?

おまえが めぐり逢おうとするのは誰?









何のために、誰に向かって、何を書くのか

 
今年5月17日から心機一転始めたブログは、自分がもっとも好きだと言える、2018年に半年間だけ書いたNostalgic Light のスタイルを継承できればと考えていた。
2017年12月28日から、2018年4月29日まで。投稿総数約100という、小さなブログだった。
その後につづく、この『ぼく自身或いは困難な存在』は、Nostalgc Light 程洗練されたものではなく、多くの夾雑物が混入しているが、良くも悪くも、わたしという人間をあますところなく伝えるものであった。

端正で静謐なブログ・・・しかし、病んだ時代に生き、自身も病み、ゆがんだ社会に唾を吐きかけることは、そんなにみっともない、恥ずべきことだろうか。

病んだわたしは執拗に「今の時代、この国で、元気になる、健康である」ということはどいうことかと問い続けた。けれども、同じような疑問を持つ者は、わたしのブログの読者の中にはいなかった。わたしと同様の疑問を強く、継続して持っていた者は、管見では辺見庸と、「この国に絶望する人がひとりでもふえること、それが希望です」という言葉を最晩年に遺し、多摩川で自死した西部邁だけであった。

わたしの文章は、Nostalgic Light 時代のものから次第に逸脱し、反・社会、反・現代への方向へと大きく傾いて行った。
定期的にコメントを寄せてくれていた数人の読者も、「治癒」ということへの考え方の相違、更には「孤独」に対する思いの隔たり、その他あれやこれやから次第に疎遠になっていった。「他者と良好な関係を築くことができない」「良好な関係を維持することができない」それがわたしだ。


良質の発信をするためには、良質の素材のインプットが必要だというのは、「わたしの持論」というより、表現する者にとってあたりまえのことと言っていい。

良質の受信をするためには、何冊も本を読み、いい映画を観、美術館に足繁く通うことを言うのではない。例えば文章で表現するものは、日常の生活の中で、自分が発し、そして、読み、聞く「言葉遣い」の美醜に鋭敏になることだろう。

矢川澄子の本の中で、吉行理恵の言葉が引用されていた。「引用」といってもアフォリズム・名言・警句の類ではない。それはただ一行、

「穢いものをみるとつかれる」

という言葉だった。

「穢いものをみてつかれる」のなら「穢い言葉を聞いて(読んで)つかれ」もしよう。

わたしは醜いもの、醜い言葉に溢れる世界に唾を吐きかけつづけ、呪詛の言葉を浴びせかけた。

それがわたしのブログの伏流水であった。

確かに読んでいて快いものではないだろう。特に現代という時代に曲がりなりにも適応順応できている者にとって、わたしの発言は単なる「我儘」にしか聞こえないかもしれない。
けれども、それを止めろというのは、病人に「呻くな」ということと同様に無理な注文であった。


こころを病んだ多くの人たちにとって、この社会、この世界は、唾を吐きかけたり、石を投げたりするものではなく、いずれ、病癒えた後に還るべき場所のようであった。

多くのものは、「きたないもの」を見続けることによって、「きたないおと」を聞き続けることによって、「生体の髄」が侵されるということが理解できないようにわたしには感じられた。それは言い換えればわたしのような人間を理解することはできないということでもあった。


今後このブログがどのようなスタイルになってゆくのか、正直いって見当もつかない。いつまで続けられるのかすらわからない。
けれども、どのような形にせよ、「醜いもの、醜い世界」への怒りと絶望によって、我が最晩年を穢したくはないと願ってはいるが・・・


   石原吉郎「痛み」

痛みはその生に固有のものである。死がその生に固有のものであるように。固有であることが痛みにおいて謙虚を強いられる理由である。なんびとも他者の痛みを痛むことはできない。それがたましいの所業であるとき 痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有であるであることが 人が痛みにおいて ついに孤独であることの最後の理由である。痛みはなんらかの結果として起る。人はその意味で 痛みの理由を 自己以外のすべてに求めることができる。それは許されている。だがいたみそのものを引き受けるのは「彼」である。そして「痛みやすい」という事実が、究極の理由として残る。人はその痛みの 最後の主人公である。

『現代詩文庫 120 続・石原吉郎詩集』(1994年)


 ー異論-

「固有であることが痛みにおいて謙虚を強いられる理由である。」何故痛みが「私」固有のものであるという理由で、謙虚であることを強いられなければならないのか?
100人中99人が感じもしない痛みを「私は感じている」それは厳然たる事実だ。
何故そのことを悪びれなければならないのか?「私の痛みを理解せよ」という主張が困難であるとしても、口を噤まなければならない理由はどこにもない。「私は私の痛みを感じている」と言うことに躊躇を感じる必要はない。この石原の理屈は、わたしには「固有性の否定」に繋がり得るとすら感じるのだ。即ち「そんなこと言ってるのはあなただけですよ!」という叱責と同根である。
「私は私である」ということと「私固有の痛みを私は感じている」ということの間にどのような異同があるというのか。

書くということは、「私固有のもの」と感じているもの・ことへの共感者乃至同類を見つけるための(虚しい)試みであるかもしれないのだ。
「そんなこと言ってるのはあなただけですよ!」という掣肘を内面化してはならない。
それが「私だけ」であるかどうかは神のみぞ知るのだから。


 

 








2021年6月8日

読む人


 La Liseuse devant la Fenetre / The Reader in Front of the Window, Paul-Albert Besnard. French (1849 -  1934)
- Etching printed in Black ink on Thick wove paper - 

『窓辺で読書する女』ポール・アルバート・ベスナード

エッチング





2021年6月6日

さびしともさびし われ生くるゆえに


石原吉郎に「目安」という詩がある

どこまでつきあえる
あの町かどの交番が
さしあたっての目安だが
その先もうひとつまでなら
つきあってもいい
そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから



石原吉郎自身がこの詩をどのような思いで書いたのかは分からない。
けれどもわたしはこの詩を読んで、改めて、ひとはひとりでも生きてゆけるのか?
という疑問に突き当たる。

「人は誰もひとりで生まれ、ひとりで死ぬ」とよく言われる。実際わたしにはこの言葉の意味がよくわからないのだが ── 人間(哺乳類)であれ、卵から生まれてくる鳥類、爬虫類、そして魚類、昆虫、およそほとんどの生物が「母胎から」産み出されてくるのであれば、それを「ひとりで生まれ」とは言わないはずだ。

仮に「ひとはひとりで生き ひとりで死ぬ」ような存在であるとしたら、そもそもわたしたちはなんのために生まれてきたのか?

そしてなぜひとりであるかなければ(=生きなければ)ならないのか。

人間が人間として生きる上で絶対に不可欠なのは「愛」である。

そして社会に愛というものは用意されてはいない。(いくばくかの親切はあるだろうが)

幸運にも、わたしは、母という存在に支えられて、なんとか今、ギリギリのところで生きている。しかし、わたしは母に支えられているが、その母を支えてくれる者はいない。
文字通り誰も。わたしと母がふたりだけで、身を寄せ合って生きている。

そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから

ひとりであるくということ、すなわち母の不在は、直ちにわたしの死を意味する。

わたしはひとりではあるけないし、あるきたいともおもわない。

わたしにとって人生は、愛する人と分かち合ってこそ意味がある。

「思い出」という。けれども、つい昨日までそこにあった人やものが、絶対的な、永遠の不在の陰に隠れてしまった後は、思い出や追憶は、ただわたしの苦しみの種になるだけだ。
わたしが求めるのはこの目でその顔を見ることができ、この耳でその声を聴くことができ、この手でその手や腕に触れ、この嗅覚をよみがえらせてくれる「目の前の現存」だけなのだ。二度と、永遠にその顔を見ることができない。二度と、永遠にその声を聴くことができない。二度と、永遠にそのからだに触れることができない、二度とふたたび同じ時間と空間を共有することができないという事実に、わたしはとても耐えることはできない。















 


2021年6月4日

弱さ

 

ある人間が、自殺できないほどに弱い存在であったとしても、誰もそれを嗤うことはできない。






人に非ずして愛を知らず

 
こころが喘いでいる。「くるしい・・・」と
からだが呻いている「つらい・・・」と

わたしがすべきことは彼らに安息を、終の安らぎを与えることではないのか?

以下ロラン・バルトの『喪の日記』(2009年)よりランダムに引用する。


1978年1月8日

みんなが「とてもやさしい」── それでも、わたしはひとりだと感じる。(「遺棄恐怖症者」)

わたしは「みんながとてもやさしい」と、錯覚にせよ感じたことがない。わたしは遺棄されることをおそれる以前に、予め「遺棄されてあるもの」だから。


1976年12月11日

この静かな日曜日の朝、もっとも暗いさなかにあって。

いま、すこしづつ、深刻な(絶望的な)命題がわたしの中で湧きおこってくる。これからは、わたしの人生にとっての意味とは何なのだろうか、と。

愛する母の死によって、バルトの生の立脚点が揺らいでいる。
けれどもわたしは嘗て「生きる意味」(こう言ってよければ「生きる動機」)を持っていたことがあっただろうか。嘗て、友人がい、街を自由に歩けていた時にはそれは無意識の裡に埋没していたのかもしれないし、或いは単に惰性であったのかもしれない。いづれにしても、今のわたしには、この心身の重苦しい苦痛を正当化する「意味」など見出すことはできない。

1977年1月16日

いまでは、街路やカフェなどいたるところで、わたしには見える。それぞれの人間が避けがたく死を前にした姿をしている、すなわち、確実に死すべきものである、ということが。──
そしておなじくはっきりと、彼らがそのことを知らないように見える。

わたしにはバルトの印象と反対に、死すべきなのは、わたしと母だけのように思える。道行く人、電車の中で見かける人たちは、永遠にこのままの姿でいるのではないかとさえ思える。確かにバルトに見えたものがわたしにはまったく見えない。ただ一点だけ、バルトと同様に感じるのは、「彼らがそのことを知らないように見える。」ということだ。

1977年11月28日

だれに(答えを期待して)この質問をできるだろうか?
愛していた人がいなくなっても生きられるということは、思っていたほどはその人のことを愛していなかった、ということなのだろうか・・・・?

わたしは繰り返し、「喪失後の世界」について書いてきた。以前の投稿から引用する。

「愛弟子、顔淵を喪った時、孔子は「天、予を喪(ほろ)ぼせり!」と慟哭した。
けれども孔子は顔淵亡き後も生き残った。

辺見庸は親友=心の友ともいえる者をふたりも獄中で亡くしながら(ひとりは執行前に病死、ひとりは死刑)も尚生き延びている。

何故か?

つまり、孔子にも、辺見にも、「顔淵」に代わる代替品がいたからだ。

言い換えれば、孔子にとっての顔淵にしても、辺見にとっての大道寺将司にしても、決して「かけがえのない存在」「それなしでは生きて行くことができない」ような存在ではなかったということだ。

人が、「喪失後の世界」にも尚生き存(ながら)えることのできる存在であるとしたら、人間とはなんと厚かましくも図太い存在なのか・・・」


幸か不幸か、わたしにとって、母(バルトにとってのママン)に代わり得る人間は存在しない。

バルトの質問には慎重に答えなければならないが、わたしの答えはほぼ「そうだ」「おそらく」だろう。

1977年11月19日

彼女がわたしに言ったあの言葉を思い出しても泣かなくなる時が、たんにありうるのだと思うと、ぞっとする・・・・。

1978年8月4日 マラケシュにて

マムがいなくなってからは、かつて(短いあいだだけ彼女から離れて)旅をした時に感じたあの自由な印象を、最早感じることができない。

この気持ちはよくわかる。どれほど離れていても、還るべき場所があるということ、自分が「愛し」また「自分を愛してくれる」人が「そこにいる」ということを知っていれば、人は一人旅でも孤独を感ぜずにすむ。


愛する人を喪った後の「新たな生」「再生」というものが、わたしにはひどく冒瀆的なものに感じられる。そしてまたしてもこのように感じるのは、わたしくらいのものだろう。

わたしは「持続する憎しみ」「持続する悲しみ」を重んじる。けれども、持続=時間の経過は、非情にも、当初の憎しみや悲しみの純度を次第に薄めてゆく。だからこそ、それに抗うために、持続・継続という時の流れを、ある時点で断ち切る必要がある。それが「忘却」であり「再生」なのか、或いは「消滅への意志」であるかは、それぞれに任されている。














2021年6月3日

こころの話をしなくとも、通じ合える人

 
久し振りに高校時代の友人と話した。わたしはズームとか、スカイプとかいうものは全然しらないので、彼がチャットルーム(?)を捜してくれて、そこでしゃべる。
彼を、わたしがいつも言っている意味での「友人」「親友」と呼べるのかどうか、よくわからない。高校時代の同級生で、放送部の仲間であり、軽音楽部で一緒にバンドをやっていた。
30代には、一緒に岐阜の郡上八幡や、滋賀ー丹後ー京都と旅行をした。大人しい人なので、一緒にいると安心する。

彼を「友だち」「親友」と呼ぶことに躊躇いを持っているのは、既に高校時代から、お互いの悩みを話したり、内面の、つまり心の話をしたことがないからだ。彼がわたしにとってかけがえのない人物であることに変わりはないが、彼は悩みを打ち明ける存在というよりも、昔から機械音痴のわたしのよきアドバイザーであり、彼の存在が無ければこのようにインターネットもやっていなかっただろう。彼のように、コンピューターやAV機器に詳しい人はいくらもいるだろうが、わたしのように極端になにも知らないものに、わかるまで根気よく説明してくれる人は稀だろう。

今日はヘッダーの画像(タイトルの背景のメインの画像)がどうしても大きくならないという相談に乗ってもらっていた。
彼は自分ではブログをやらないので、わたしの疑問、トラブルに対応するために自分でブロガーのブログを作った。その名も『只今実験中』。わたしがヘッダーの画像がどうしても大きくならないんだけど、と訴えると、早速「実験室」で、彼のブログのヘッダー画像がどうなるかを確かめる。最終的になんらかのバグだったようで、何とか元に戻ったが、その後も、わたしが、画像の両サイドの白い縁取り部分は何とかならないのかな?と更に食い下がると、再び試行錯誤し、どうやら、イメージ画像を囲む枠の色は、メインの背景と同じになっているようだと突き止めた。

昔からこんな感じだった、高校時代、数学が極度に苦手だったわたしに、彼が放送室の黒板で、教えてくれた。因数分解の問題だっただろうか、彼が「~で、こう展開するの」と言った時、わたしはすかさず、「なんでそう展開するの?」と訊き返した。いつもいっているように、わたしには「そういうものだから」「そうだからそうなの」という返事は、そもそも「説明」でも「理由」でもない。
わたしにとっては” Why? ” - ” Because...”というやり取りが重要なのであって、JUST BECAUSE!は無用なのだ。
わたしは「ジャスト・ビコーズ」=「なんで?」「なんでも!」という世界には馴染めない。

彼はわたしが納得するところまでどこまでも遡って説明してくれた。
機械の説明でも、パソコンに関しても、彼の口から、「そういうもんなの」という言葉を聞いたことがない。

「ファイル」と「フォルダー」「ダウンロード」と「インストール」の違いすら分からないわたしに呆れて天を仰ぐようなこともない。

心の話、悩みについて話せ(さ)ない代わりに、彼とはいつものわたしと打って変わって、ざっくばらんな話ができる。堅苦しいですます調ではもちろん話さない。「え、マジで?」などと言っている。

心の話ができるのが友だちだと、いまでも思っている。
けれども皮肉なことに、こころだ魂だ精神だと言わない相手が、一番気軽に話せる相手なのだ。

そろそろ、「友人」の定義を見直した方がいいのかもしれない。

もうそんなことはできないかもしれないが、もう一度、彼と旅行に行ってみたい。

 

彼と話していると、よくバックにジャズピアノが流れている。
彼自身が最も好きなのは高校時代から変わらずビートルズだ。

今日のお礼に

エロール・ガーナーの『ローラ」



そして、彼がビートルズの曲の中で何が一番好きなのかわからない(わすれてしまった?)
ので、彼に教えてもらった中からわたしのお気に入り。

アルバム『リボルバー』から
「アンド・ユア・バード・キャン・シング」







2021年6月1日

針金の輪

気がつけば、五体満足な友人などもうだれもいない。みんな、重かれ軽かれ、どこかしら病んでいる。たとえ本人がまだ病に臥していないまでも、両親ふたりとも、またはそのどちらか、子ども、義父か義母、兄弟姉妹、甥か姪・・・・が、心身のいづれかをわずらっている。
みんな笑みの下に、かたるにかたれない苦悩と凄絶な風景をかかえて、<まだ死ぬわけにはいかない、まだ死ぬわけにはいかない>とうめきながら、いつ斃(たお)れてもおかしくはない生を、這うようにして生きている。

友人のひとりは夜ごと針金の輪をさする。娘が2年前に首をつった輪。なにか低くうたいながら、輪があたたかくなるまで針金をさする。たくさんの抗うつ剤をのむ。別の友人は一日になんどもかがみこみ、寝たきりの父親がのどにためる痰をとってやり、おむつをかえ、床ずれにならなぬようにと枯れ枝のようなからだをころがす。たちこめるにおいが、かれのもっていたできあいの思想を手もなく粉砕する。死んでくれたらたがいに楽になる。思いが影のように胸をかすめ、あわてて影をのけようとする。影はいっかなのかない。

ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』(2021年)


このような文を読んで、不快感を覚えるよりも、寧ろ他の文章よりも、心が安らぐのだ。
わたしは「希望」という言葉を好きになれないが、自分が元気になることよりも、誰かのために、「『まだ死ぬわけにはいかない、まだ死ぬわけにはいかない』とうめきながら、いつ斃(たお)れてもおかしくはない生を、這うようにして生きている。」人がいるということはわたしにとってひとつの希望だ。

自分のことだけを考えるなら、わたしには、元気になる、良くなるということの意味がよくわからない。「今の世界で良くなる意味」「病んだ現代社会に於いて健康であるとはどういうことか」・・・これはこのブログで、それこそ何百回も考え、語ってきたことだ。


「まだ死ねない」という思いが果たして母の中に在るかどうかはわからない。
もう20年も前から、母はわたしの自死について、「それはあなたの自由だから」という考えを持っている。わたしが信頼できるのは、「苦しくても生きろ」とは言わない人たちだ。

やさしさとは、自分の上に、他の存在を置くことだと思う。
言い換えれば自己犠牲である。

母のやさしさと献身的な世話にもかかわらず、わたしの状態は一向に良くはならない。
イタリアの哲学者クローチェのいうように、他人(ひと)の不幸の上に成り立つこうふく(乃至生)は許されるのか?
この言葉がわたしの胸に、頭に常住している。

同様の思いは重い障害、複雑な障害を持った者の共通の心理ではないか。

「まだ死ねない。まだ死ぬわけにはいかない」という思いを抱き、今日も明日も、というより、24時間常に必死の思いで生きている人たちがいる。

一方でわたしは、わたしが死ねば母の重荷が僅かでも減るという思いを拭い去ることが出来ない。もっと率直にいえば生きていることが、苦しくて、痛くて仕方がないのだ。「人外」として、人交わりの許されぬ存在として、孤立と独特の認識の化け物として、人はそう長くは生きられない。このような状態になってから既に10年が経つ。

嘗て主治医は言った、「Takeoさんは人から敬遠されるタイプだから・・・」
話し相手を求めて、いのちの電話にかけても、気まずい雰囲気になることが度々あったのでもうわたしはどこにもでんわをしなくなった。

インターネット上でも、友だちのようなそんざいはいない。
わたしは、インターネットで、言葉の本来の意味で、人と人とが繋がることが出来るとは思っていない。(これはあくまでも個人的な感想である)

仮に相手の本名、性別、年齢、職業、そして顔を知っていたとしても、
そこには空間の共有がない。
そして非言語的なテクスチャー、相手の呼吸音、ぬくもりがない。

道を歩いていて具合が悪くなって蹲(うづくま)っている者に、見ず知らずの人が、「どうしましたか?」としゃがんでいる人の肩にかるく触れながら尋ねるのと、ネット上での嘆きに、文字だけで心配し、やさしいことばを掛けることとの間には大きな懸隔ある。

インターネットでも、現実の友達同様に親しくなれるという人を否定はしない。
ただわたしはそうではないというだけのことだ。


「生・老・病・死」という。
実際には病と死の間に上記のような長い長い「衰」の時期があるのだが、

この「生・老・病・死」をどこかで分けるとすれば、たいていの人は「生」-「老・病・死」のように分けるのではないか。

けれどもわたしなら「生・老・病(衰)」-「死」と分けるかもしれない。

母は時々、「生きるも地獄 死ぬも地獄」というけれど、「生きる」ことは確かに「地獄」である。けれども、一切の苦しみや患いからの解放が「死」ではないか。

仮にわたしに親しい友人がいて、彼が自殺したと聞いても、おそらく深い悲しみは感じないだろう。
「やっと苦しみから解放されたんだね」と思うだろう。

わたしは生のよろこびというものをついに知り得なかった。生とは孤独と同義だった。

対話とは、互いの違いを確認するための行為だった。

そしていま、世界から見捨てられたわたしも、そのわたしをたったひとりで支えてくれている母も、疲れ切っている。