2021年1月18日

生きる意味の不在・・・

 
昨日の『ヘンリー・ライクロフト』のセリフではないけれど、「自分の人生は終わった」・・・というのが、正直な感慨である。厳密に言えば、既に終わっているのだけれど。
 
心の病を持った人たちの書いたブログをいくつか読んでみたが、自分とのあまりの違いに鼻白んでしまう。
或いは本当に苦しんでいる人は、ブログなど書いている余裕などないのかもしれない。
 
 
先日の心理テストの結果分析の中にこう書かれていた
 
(対人関係の上での軋轢、ストレスの軽減のために)
具体的な対人コミュニケーションのスキルについて、支援してもらえる環境が必要と考えます。」
 
具体的にどのような「支援」なのか、次回行くことがあればぜひ訊いてみたい。
 
そもそも対人コミュニケーションのスキルとはどのようなものなのか?
 
それこそギッシングではないが、「わたしがわたしである」がゆえに、他者との軋轢が不可避であるのなら、それは仕方のないことではないのか。
 
「生まれつき自尊心が強く狷介な性分であった」ライクロフト=ギッシングには、人が感じてはいても口にすることをはばかる真実、人前で云ってはならぬ真実をあえて云う勇気、辛辣な精神があったようだ。それが彼をして田舎に隠棲せしめたのだった。彼は人々に嫌われ、彼もまた人を嫌った。そういう非社交性において、あるいはまた知性より心情に価値をおく点においても、ギッシングはルソーにいくぶん似ている。
 
まさかわたしの中にもあるこのような部分を矯正しようというのではあるまい。
上記のような性格・性分を持つからこそ、ギッシングであり、ジャンージャックなのだから。
 
先日、立川市の障害支援課に電話をした。この地区担当の保健士が席を外しており、大体の内容を電話に出た男性職員に話した。そして、後ほど担当者から電話をさせると。
 
午後になって地区担当の保健士から電話があった、その第一声は、「先ほど、お話はSからざっくりうかがいましたけど」
 
わたしはこの一言を聞いて、ああこの人とは深い話はできないなと感じた。
 
「対人コミュニケーションのスキル」などという前に、「友達でもない相手に対して卑語は使わない」 というのはあたりまえの礼儀ではないのか?
 
それはともかく、度々の繰り返しになるが、わたしは今の時代が嫌いである。
ライクロフトが「私の人生は終わった」と呟いたように、「私の(生きるべき)時代」は、もうとうに終わっている。そしてそれはまぎれもない真実なのだ。
 
どうしたら少しでも楽に生きられるか?そんなことを考えたことはない。何故か?楽に生きる術など存在しないからだ。世の中からスマホやタブレットが消えてなくなるのか?電車やバスが突然おしゃべりを止めるのか?
 
眼圧が高くても、髪の毛が伸び放題でも、バス、電車に乗るのがいやなので、そのままにしている。
このような格子なき牢獄に生きていることがたまらなく苦痛なのだ。
 
ではそれこそ嘗ての王侯貴族のように、何人、何十人もの、召使にかしずかれ、足の爪の手入れまでしてもらえるような生活ならどうか?
 
同じことだ。日々の生活に何の不自由もなくとも、生きる意味が、生きる動機が存在しない。
 
では考えうる「生きる意味」 「動機」とは何か?

おそらくは「友人」「親友」’Soul Mate...’しかし、ルソー、ギッシングの系譜を継ぐ「嫌われ者」の友達になれるものはいない。わたしを嫌うことのできないものは存在しない。
皮肉なことにわたしはギッシングのような「人間嫌い」ではなかった。わたしのモットーあるいは理想は、「人生はそれを分かち合う者がなければ意味がない」というものである。
 
 
次回、医療センターでのドクターとの話し合いに行こうかどうか迷っている。
 
医師にはわたしが「よくなる」「元気になる」「外に出られるようになる」という気持ちはないと伝えてあったはずだ。
 
「頼みの綱である友人がいればいいんですが、ご覧の通りの変人なもので・・・」
 
「ですから、少しでも人との摩擦を減らしてゆく訓練を・・・」
 
「いえ、いまのわたしのままで嫌われるというのは運命だと思っています。問題はわたしは既に生きることを放棄していますが、かといって死ぬのも楽ではないということ。もっともこれは先生には関係のないことですが・・・」
 
 
「苦しいから助けてくれ!」といって、どこに楽に生を終わらせてくれるところがある?
 
医療も、福祉も、「生かすこと」「その質は問わず、何が何でも生かすこと」のみにかかわり、「死」に関しては一貫して背を向けている。自殺幇助が罪であるという驚くべき後進性・・・(社会保障の目を覆い、耳を塞ぎたくなるような貧しさ・酷薄。即ち貧しくなってしまったものを掬い取ることのできない(救おうとしない)「日本社会そのものの(精神の)貧困」については、ひとまず措く)
 
そのような状況の中で、「自殺ははた迷惑」などと言う資格を持つ者は一人もいない。
 

ー追記ー

今いえることは、話がどう進もうが、医療センターの医師は3月いっぱいで異動になるということ。
少しでも長く寝ていられるように、前の医師に薬だけは母にもらいに行ってもらうこと。
「居場所」「行く場所」については、今の世の中を全否定する者が行く場所も、そのような人間と話そうという人も存在しないと考えられるので、最早これ以上、福祉の手は借りないということ。
 
 
 
 
 
 




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