作家、野呂邦暢さんのエッセイに「田舎司祭の日記」という作品がある。
以下抜粋引用する。
昭和三十年代の初めごろ、田舎町にテレヴィはゆきわたっていなかった。ある日、新聞を開くとテレヴィ欄に「フランス映画祭」とかいう文字が並んでいた。ロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」がその晩、放映されるという。どういうわけでこれを見に出かける気になったものかわからない。新潮文庫版「田舎司祭の日記」はまだ手に入れておらず、ベルナノスがフランスのカトリック作家であるという知識すら持ち合わせていなかった。(略)結局私は本に飢え、映画に飢えていたのだと思う。行きつけの喫茶店が諫早駅の前にあり、そこにはテレヴィが置いてあった。「田舎司祭の日記」は期待にたがわぬというより、期待以上の傑作で、私は夜おそくわが家へ帰りながら、気持ちが昂揚するのを抑えることができなかった。(『夕暮の緑の光』 野呂邦暢随筆選 (2010年)
わたしもこのところ、ブレッソンのこの映画がとても見たいと思っている。実際に新宿や渋谷のツタヤで何度か借りたことがある。野呂さんのように「傑作」という言葉は出てこないが、何故か周期的に無性に見たくなる。
今「田舎司祭の日記」のビデオが置いてあるのは渋谷のツタヤだけではないだろうか?
映画を観たしと思へども渋谷はあまりに遠し・・・
同じように、わたしにもまた、本に飢え、映画に飢え、音楽に飢えていた時期があったなんて、今の自分を顧みて、俄かには信じがたい。仮に今「田舎司祭の日記」を見ることができたとしても、それに感応する感受性がまだわたしの魂の中にあるだろうか。そもそも魂などというものがまだ残っているのだろうか・・・
日々の生活に疲弊しているわけではない。「生きていること」「存在していること」それ自体に疲れているのだ。
本来はそれを慰めるのが本であり、映画であり、音楽であるはずなのだが、今は本や映画に接することがひどく面倒であり億劫なのだ。
それにしても、映画館ではなく喫茶店に据え付けられているテレヴィでブレッソンの作品を見るなんて、なんとも粋なこと。いずれは白黒テレビであったのだろうと思うが、「田舎司祭の日記」はそもそも上質なモノクロ映画である。
14Kの大型テレビなんて無粋なものでなく、ブレッソンは、喫茶店のブラウン管テレビで見るべきものである。
ああ、もう一度、寒い冬の日、一人だけの小屋で息絶えてゆく若き司祭の姿を目に焼き付けたい。
わたしがもう一度、本を読み、映画を観る時が来るのだろうか・・・
尚、ジョルジュ・ベルナノスの『田舎司祭の日記』はせめて原作でもと思い、図書館の読みたい本のリストに挙げているが、野呂さん自身の体験によると、「カトリックの教義をろくにわきまえもしないでベルナノスを理解するのは不可能である」と。原作の「田舎司祭の日記」とブレッソンの演出による映画版は、別のものと考えたほうがよさそうだ。
それにしても、若く貧しい司祭の住まいのうつくしさよ・・・
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