今回の投稿は、「note」というサイトに載せられた、北米在住の日本人ライター塩谷舞(しおたにまい)さんの文章についての意見で、先ず元になっている塩谷さんの文章を読んでいただくことになるので、面倒くさいと思われる方はどうかそのままお通りください・・・
塩谷さんの文章のタイトルは、
『あるものでなんとかする。「バナキュラー」的もの作り』
彼女のツイッターによると、以前の上司に絶賛された文章のようです。
さて、以下、上記リンクにある塩谷さんの「視点」に基づいたわたしの意見です。
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彼女は書いている。自然を取り入れるとか取り込むとかいうけれど、「自然」て「私(たち)」の外側にあるものなのか?はるばるやってきたアイルランドで、また現在活動拠点にしているニュージャージーで、「水(食べ物)が合わ」ずに、しばしばお腹をこわすのは、私の身体もまた生まれ育った「日本という気候・風土」という「自然」に依拠しているからではないのか?
「和食が好きだというアメリカ人の友人を招いて、手料理をふるったのだけれども、唐揚げと卵焼きとナムル(は韓国料理ですね)はSo Yummy!!!!とたいらげてくれた。けれども問題は、味噌汁にぷかぷか浮かぶワカメ。「ごめんね、これは前にも試したんだけど、ちょっと苦手で……」と箸を止めたのだ。「あぁごめん、そうだよね…!」と自分の配慮不足を反省した。
島国在住の日本人が海藻をちゃんと消化吸収できるのは、海藻を消化できる菌を歴史的に腸に住まわせてきたから、というのは有名な話だ。つまり、どれだけ遠くに引っ越したとて、小さな小さな「日本」みたいなものは、おなかの中に保っているのだ。それを「自然」と呼ばずに、なんと呼べばよいのだろう?
自然は「取り入れるか否か」を頭で取捨選択するよりもずっと前から、自分の中にちゃんとあるらしい。 」 (太字Takeo)
けれども、 からだにとって「水が合わない」ことが「自然」であるように、個々人の精神もまた、「合わない物」「合わない場所」に抗うのではないだろうか?
「べつに今の時代、Wi-Fiが入り、衛生的な都市であればどこでも生きていけるだろうと高を括って移住したので、これは大きな誤算だった。無論、仕事面だけに関して言えば、Wi-Fiさえ入ればどこでも出来る。テキストコンテンツで稼ぎ、アプリで円をドルに換金し、電子マネーで暮らしていく。なんて便利なソフトウェア時代なのだろう!
けれども私のハードウェア側は長距離移動に耐えられず「ここは違う!」「これは知らない!」と一生懸命抗っているのだから、定期的に油をさしながら、騙し騙しやっている。油というか、正露丸なのだけれど。」(太字・下線Takeo)
塩谷さんの「視点」には、人間の「生体」そしてまた「精神」「感受性」の問題が完全に捨象されている。
「故郷で暮らしていた頃はあまりにも当たり前すぎて、さっぱり気づかなかった。けれども、遠い国で自分の身に、もしくは故郷の異なる他人に降りかかるバグのような出来事を通して、この身体はちゃんと自然の、気候風土の子どもなのだということにようやく気付かされたのだ。」
もちろん気候や風土によって「体質」は大きな影響を蒙るが、同時に人は、自分が生きてきた「過去」「時間の蓄積」によっても、「わたしがわたしである」ように「あらしめられている」
上記の下線を施した部分だけを取り出せば、まるで人間は身体だけでできているようにも聞こえる。
土地という物理的な変化のみに着目し、同じ場所に棲み続ける、「故郷喪失者」に対する視点が欠けている。 「同じ土地でも水は変わる」という認識が決定的に抜け落ちている。
一個の生体が苦しめられるのは、千数百キロ離れた異郷の水や食べ物に合わないだけではない。
50年間まったく同じ街に暮らしていても、環境の変化が精神や感性、そして美意識に与えるダメージは「異国の水」と変わらない。・・・無論このようなことは、自己の裡に自己を自己たらしめている「過去という時間の堆積」を持たない若い者たちに理解できるはずもないのだが・・・
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「それに気がつくと今度は、「気候風土の影響力をふんだんに受けたもの」は自分の親戚であるようにも思えてくる。そうしたものを表すバナキュラー(Vernacular)という言葉を知ったとき、自分の身体が包まれるような心地よい衝撃を受けてしまった。」
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このように見てくると、「バナキュラー」というのは、期せずして成った「非・グローバル化」といえるかもしれない。
しかし、改めて考えなければならないのは、この文章は「パナソニック」という巨大企業の依頼によって書かれたものだということ。巨大企業のマーケットは言うまでもなく「ローカル」ではなく「グローバル」である。「バナキュラー」的ということが、特定の文化、風土に根ざしたものであるなら、それは大企業の存立を脅かすことになる。
パナソニックの製品は日本はもとよりアメリカでも、ヨーロッパでも売れなければ(売らなければ)ならない。
塩谷さんのこのコラムは以下の文章で終わっている。
「自然と一緒にうまくやる。それはなんだか「あるもんでご飯を作る」くらいの、地味で、飾らない、日常的な、けれども持続可能なもの作りの在り方なんだろうと思う。あるものでなんとかしよう。そうして作られたものは、異なる気候風土で暮らす人々から見れば、宝物と呼ばれるかもしれないのだし。」
これはある意味で、反・グローバリゼーションであり、反・資本主義のように見える。
読みようによっては、「もう成長の時代ではない」という宣言のようでもある。
しかし実際にはそんな大それたものではない。「バナキュラー 」というタームを用いて、一見目新しいことを言っているようだし、この部分だけを読めば、「古い時代に戻りましょう」という主張にも取れる。けれども他での彼女の文章を読めば、この書き手が決して今のままではいづれにせよこれまで通りに先に進むことは困難だから、後退しよう、時代を遡って、「現代」が捨てて顧みなかったものにもう一度目を向けようという考え方の持ち主ではないことが分かる。
そもそも1988年生まれの塩谷さんは、60年代も、70年代も知らないのだ。
北米在住の塩谷さん夫婦が、欠けた陶器の「金継ぎ」をやろうとして、金継ぎに適した温度や湿度を保つには、寒いアメリカ北部では大変な光熱費がかかってしまうことに気づいた。
だからこそ、世界のどこででも「金継ぎ」ができるようにしましょう、というのが企業の本質的な発想であり論理なのだ。
「日本の夏であれば暖房も加湿器も不要であるのに、ここは北米の冬であるから、電気代が馬鹿みたいにかかってしまう。金継ぎを北米でやるのはあまりにも不自然、反バナキュラーじゃないかと笑ってしまった。せめて電気代を節約するかと、小さな加湿器を買って段ボールの中に高温多湿な環境をこしらえ、ご丁寧に器を並べた。いまから卵でも孵化させるの?
というような奇妙な装置が完成した。あぁ不自然!と笑ってしまう。どうやら漆のほうも、遠い北米まで連れてこられた私の胃腸とおなじく「ここは違う!」「これは知らない!」と叫んでいたようなのだ。不自然な環境に連れてきてしまってまことに申し訳ないねと、胃腸と漆に申し上げたい。」
改めて言うが、大企業の目指すのは、全世界を自社製品で埋め尽くすことだ。現実にF・A・G・Aなどがその実例ではないか。いったいどこに「バナキュラー」がある?
塩谷さん自身、こう言っていなかったか・・・
「今の時代、Wi-Fiが入り、衛生的な都市であればどこでも生きていけるだろうと高を括って移住したので、これは大きな誤算だった。無論、仕事面だけに関して言えば、Wi-Fiさえ入ればどこでも出来る。テキストコンテンツで稼ぎ、アプリで円をドルに換金し、電子マネーで暮らしていく。なんて便利なソフトウェア時代なのだろう!」
そのような現代という時代の恩恵に浴しながら、同時に、あなたは、「バナキュラー」だ「あるもので間に合わせる時代」だというのか?
「自然と一緒にうまくやる。それはなんだか「あるもんでご飯を作る」くらいの、地味で、飾らない、日常的な、けれども持続可能なもの作りの在り方なんだろうと思う。あるものでなんとかしよう。そうして作られたものは、異なる気候風土で暮らす人々から見れば、宝物と呼ばれるかもしれないのだし。」
塩谷さんたちの世代、そして更に若い世代には想像もできないだろうが、つい数十年前までは、このような光景がそれこそ日常だったのだ。牛乳でもジュースでも酒でもビールでも、繰り返し使用可能なガラス瓶を用い、食べ物は味噌でも醤油でも豆腐でも、必要な分だけを量り売りしていた。肉も魚も、野菜も果物も、すべて日本で作られたものだった。輸入ものも、養殖も、水耕栽培もなかった。そして殊更「マイ・バッグ」などという他の国の言葉を使わずとも、誰もが買い物に行くときには「買い物籠」を下げていった・・・
ないものを求めない。足るを知る。即ちある種の不便さを受け入れる。
あなたが求めているのは本当にそういうことなのか?
あなたはご自身で、自分の生活の基盤をなしている「瞬時に世界を繋げる(世界とつながる)ネットワーク」と、あくまでも「地域の唯一性」にこだわるという「バナキュラー」という概念の背馳・矛盾に気付いておられるのか・・・
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塩谷舞
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