2021年1月8日

心理テストに関する疑問など雑感

 
● 生きているのが苦痛である。生を(できれば安楽に)終わらせたい。
 
● なかなか簡単には死ねない。
 
この間(はざま)で右往左往しているのがわたしの今現在の・・・いや、少なくとももう10年以上続いている状況なのだが、
この両者の間に、生きている苦痛を取り去るのではなく、少しでも楽に生きられるようにするという考えが割って入る。

これがわたしのような障害を持ったものに対する、精神医学の基本的なスタンスである。


さて、心理テストの結果を簡単に申せば、知的能力(IQ)は、同年齢のグループの中では、「平均以下」という結果が出た。
これはもう結果を聞く前から予想はできた。特に「能力が低い」とされるのは「目と手の協応による、作業を迅速に行う力」(=処理速度)、そして「視覚的に物事を捉える空間的理解、部分から全体を構成する力」(=知覚推理)であった。更に「聴覚理解による情報処理能力」(=ワーキングメモリー)も並以下であった。
 
以上の結果から、わたしは普通の人と同じように仕事をこなす能力に欠けるという結果が(改めて)導き出された。
 
ただ、IQは普通の人に比べて極めて低いが、言語能力は高いという結果には納得がいかない。
何故なら、言葉についてのテストといっても、幾つかの言葉を挙げ、それらの意味を知っているか、という設問だけだったからだ。例えばわたしは「インフルエンサー」という言葉の意味を知らない。「リモート」然り「ワイ・ファイ」「ペイ・ペイ」また然り。それでも、「語彙が豊富」「広範な知識」といえるのだろうか?
 
言語能力云々を言うのであれば、最低でも、大学入試の現代文に匹敵する程度の「読解」「記述」問題くらいやらせなければと思うのだが・・・
 
そのほかの能力が人並以下という点については異論はない。
わたしは、初めて車の免許を取るための本を開いたとき、そして高校時代の友人が次々に免許を採って乗せてもらったときに、「ああ、自分には車の運転はできないな」と感じた。
例えば交差点での左折・・・特に右折などは、いわば道路上の人と人との連係プレイである。わたしはその呼吸を、「間」を読むことができない。
 
以下大幅に省略するが、
 
注目したいのは、目の前の画をどう見るかが、とりもなおさずその人の世界の見方であるという観点から、わたしが世界をどのように見ているかを知るために行われたのが「ロールシャッハ」ということらしい。そして わたしの画の見方は非常に珍しく、通常は示された図形全体を見るのだが、わたしは、画の「部分」に焦点を当てる見方が多い。正にその通り。わたしにとって、世界は「ひとつの全体」などではなく「無数の細部の総和」に他ならない。

このような見方が特徴的に現れるのは、所謂「自閉症スペクトラム」(=アスペルガー)の特性を持つ人たちが多い、と。
 
「ロールシャッハで、ご自身が図版をどのように見ているかの説明では、表現が自己完結的で、他者に伝わりにくい面があり、情緒的に人に訴える能力の乏しさや現実検討力の弱さも示されていました。」

しかしこれは少々難易度が高すぎはしないか?或る旋律なり、ロールシャッハの図のような「抽象的な対象」を前にして、今自分が内面に感じていることを相手に理解できるように説明することができる人間って、いったいどういう人なのだろう?

最後に、

言葉によるやり取りを否定するものではありませんが、言葉のみでは人間関係がうまく回らないことが課題と考えます。日々の生活について現実的なアドバイスを受けながら、少しづつ行動につなげてゆけるとよいと考えます。」
 
過去に何度も書いてきたように、わたしにとって、「言葉」はコミュニケーションの障害にこそなれ、決して、医師の言うような、わたしの唯一の「武器」などではないと考える。
 
言葉に対する懐疑、言葉がわたしと他者との間の障壁になっているということは、ここにも、そして以前のブログにも繰り返し書いてきた。
 
今日の診察の最後に、医師は、「居場所として、今思いつく範囲ですが、最も適当だと思われるのは、発達障害の人たちの自助グループのようなところじゃないかと思いますが」といい、その時はわたしも同意したが、ネット上ではあるが、「発達障害の家族をもつ人、及び当事者だけが集まるサイト」で、ひどくいやな思いをしたことも思い出され、それもどうかと考えあぐねている。
 
そのような今後のことも含めて、来月の診察の後、ソーシャルワーカーと話す時間を作ってくれたが、それにしても、テストの結果・・・
わたしが全般的に人並以下の能力しか持たない人間であるということは認めるにしても、高々3時間程度で、「ぼく自身、或いは困難な存在」の全貌・・・とは言わずとも大体の人物像は把握できるものなのだろうか・・・
 
どこか「捌いてゆく」という感じが否めないのだ・・・
 
 
ー追記ー
 
 
「少しでも楽に生きられるように」 ということはよく聴く言葉だが、では具体的に、わたしが楽に生きられるようになるとはどういうことか?

どうしたら楽に電車やバスに乗れるようになるのか?
それをうるさいと思い、スマホの群集を醜いと思うことが苦しみであり、その上で、わたしの感受性・美意識を損なうことなく、「自由に電車やバスに乗れること」がそもそも可能だというのか・・・
少しの我慢・・・それを補って余りある何があるというのか?
 
 
  
 
 
 

 
 
 

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