2021年1月22日

「普通の人々」との軋轢・・・

 
しばしば訪れるいくつかの外国のアート系のブログを眺めていると、改めて自分も、アートや文学、詩、音楽、映画などについてもっと書きたいという気持ちがこみ上げてくる。
 
実際に、このブログの末尾に挙げてある「わたしの好きな投稿」のようなものを書いていた時期もあったのだ。

けれども現実には、わたしのブログは、そのような1990年代前後の『マリ・クレール』や『フィガロ・ジャポン』のような読み応えがあり、かつ洒落たものにはなら(れ)なかった。約3年間で1,100ある投稿の半分は精神障害者であるわたしの「闘病記」のような記事になっていた。しかし厳密に言えば、闘病記とは、己を苦しめる病なり障害を克服し、せめても苦痛を軽くして、可能な限り「普通の日常生活」を送れるようにすることを意味するはずだ。だがわたしは、「治癒」ということの意味が分からなかった。そして未だに分かっていない。
わたしが外に出られないのは、この世界の醜さであり、電車やバスの騒音である。何故わたしがそれらの音に耐えなけばならないのか。電車やバスが無駄なおしゃべりを止めればいいのではないのか。そう考えている。そして仮に薬の力で、スマホの群集や交通機関の「ノイズ」がほとんど気にならなくなるということが可能だとしても、それはいわば何かを醜いと感じる自己の感受性に猿轡をはめ、耳を塞ぎ、目隠しをすることに他ならないのではないのかというわだかまりが、どうしても払拭できない。
 
このようなわたしの拘りが、結局ブログを文芸+アート系のものから遠ざけ、のみならず、一時(いっとき)頻繁にコメントをくれていた人たちの離反をも招いた。
 
この手の投稿は読んでいて愉快なものではないし、わたしの考え(方)は、精神に障害を持つ人たちにさえ、理解することは困難・・・いや不可能だ。
 
しかし美しい絵画に泥を塗りつけるようなことになろうとも、ブログ全体の調和を乱そうとも、この部分に目を背けて、綺麗なことばかり書いていることはできない。何故ならこれこそが「わたし」という存在の核の部分なのだから。
 
同時に葛藤もある。「note」などというサイトで、数万、数十万のフォロワーを持つ「ライター」という肩書きをもつ人たちよりもいい文章を書けるという自負と、しかしわたしは彼等/彼女等のように「目の前の現実」「いま・ここ」と、あたりまえのように融和することはできないというジレンマである。わたしは「現実」と、「いま」と、手を握ることはできない。

社会と対立することで、障害の有無にかかわらず、普通の人たちともうまくいかない。
また上記のように「よくなること」に極めて懐疑的であるがゆえに、福祉に携わる人たち・・・保健士、精神保健福祉士などとも当然話がかみ合わなくなっている。
 
 
そして言わでものことだが、「多数派正常の原則」など持ち出すまでもなく、わたしは自分が狂っているという自覚を十分に持っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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