2021年1月22日

ぬけられます


Ruelle à Paris, ca 1930, René-Jacques (1900 - 2004)


1900年生まれのフランス人フォトグラファー、ルネ・ジャックスの撮った1930年代のパリ。

ガス燈のシルエットが味わい深いですね。

「路地さえあれば建物なんて要らない!」と言い放ったのは、20世紀初頭から主に50年代くらいまで、夜のパリ 'Paris de Nuit' の情景をフィルムに写し取ったハンガリー出身の写真家ブラッサイです。

当時パリには世界中から写真家たちが集まってきました。木村伊兵衛がカラーで撮ったパリのうつくしいこと。

「路地」「隘路」それらは、人間の内面に呼応します。

「建物さえあれば路地も、空間も必要ない!」という日本の都市デザインの中で育った・・・否、今現在生きている者たちの心の、ひいては情緒の在りようにも影響を与えないとは思えないのです。

文人画家であった池大雅は、「描かぬ余白に苦労する」と深く息をつきました。
現代の日本の建築家には思いもよらぬ発想でしょう








 

「普通の人々」との軋轢・・・

 
しばしば訪れるいくつかの外国のアート系のブログを眺めていると、改めて自分も、アートや文学、詩、音楽、映画などについてもっと書きたいという気持ちがこみ上げてくる。
 
実際に、このブログの末尾に挙げてある「わたしの好きな投稿」のようなものを書いていた時期もあったのだ。

けれども現実には、わたしのブログは、そのような1990年代前後の『マリ・クレール』や『フィガロ・ジャポン』のような読み応えがあり、かつ洒落たものにはなら(れ)なかった。約3年間で1,100ある投稿の半分は精神障害者であるわたしの「闘病記」のような記事になっていた。しかし厳密に言えば、闘病記とは、己を苦しめる病なり障害を克服し、せめても苦痛を軽くして、可能な限り「普通の日常生活」を送れるようにすることを意味するはずだ。だがわたしは、「治癒」ということの意味が分からなかった。そして未だに分かっていない。
わたしが外に出られないのは、この世界の醜さであり、電車やバスの騒音である。何故わたしがそれらの音に耐えなけばならないのか。電車やバスが無駄なおしゃべりを止めればいいのではないのか。そう考えている。そして仮に薬の力で、スマホの群集や交通機関の「ノイズ」がほとんど気にならなくなるということが可能だとしても、それはいわば何かを醜いと感じる自己の感受性に猿轡をはめ、耳を塞ぎ、目隠しをすることに他ならないのではないのかというわだかまりが、どうしても払拭できない。
 
このようなわたしの拘りが、結局ブログを文芸+アート系のものから遠ざけ、のみならず、一時(いっとき)頻繁にコメントをくれていた人たちの離反をも招いた。
 
この手の投稿は読んでいて愉快なものではないし、わたしの考え(方)は、精神に障害を持つ人たちにさえ、理解することは困難・・・いや不可能だ。
 
しかし美しい絵画に泥を塗りつけるようなことになろうとも、ブログ全体の調和を乱そうとも、この部分に目を背けて、綺麗なことばかり書いていることはできない。何故ならこれこそが「わたし」という存在の核の部分なのだから。
 
同時に葛藤もある。「note」などというサイトで、数万、数十万のフォロワーを持つ「ライター」という肩書きをもつ人たちよりもいい文章を書けるという自負と、しかしわたしは彼等/彼女等のように「目の前の現実」「いま・ここ」と、あたりまえのように融和することはできないというジレンマである。わたしは「現実」と、「いま」と、手を握ることはできない。

社会と対立することで、障害の有無にかかわらず、普通の人たちともうまくいかない。
また上記のように「よくなること」に極めて懐疑的であるがゆえに、福祉に携わる人たち・・・保健士、精神保健福祉士などとも当然話がかみ合わなくなっている。
 
 
そして言わでものことだが、「多数派正常の原則」など持ち出すまでもなく、わたしは自分が狂っているという自覚を十分に持っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

迷い・・・逡巡・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年1月18日

生きる意味の不在・・・

 
昨日の『ヘンリー・ライクロフト』のセリフではないけれど、「自分の人生は終わった」・・・というのが、正直な感慨である。厳密に言えば、既に終わっているのだけれど。
 
心の病を持った人たちの書いたブログをいくつか読んでみたが、自分とのあまりの違いに鼻白んでしまう。
或いは本当に苦しんでいる人は、ブログなど書いている余裕などないのかもしれない。
 
 
先日の心理テストの結果分析の中にこう書かれていた
 
(対人関係の上での軋轢、ストレスの軽減のために)
具体的な対人コミュニケーションのスキルについて、支援してもらえる環境が必要と考えます。」
 
具体的にどのような「支援」なのか、次回行くことがあればぜひ訊いてみたい。
 
そもそも対人コミュニケーションのスキルとはどのようなものなのか?
 
それこそギッシングではないが、「わたしがわたしである」がゆえに、他者との軋轢が不可避であるのなら、それは仕方のないことではないのか。
 
「生まれつき自尊心が強く狷介な性分であった」ライクロフト=ギッシングには、人が感じてはいても口にすることをはばかる真実、人前で云ってはならぬ真実をあえて云う勇気、辛辣な精神があったようだ。それが彼をして田舎に隠棲せしめたのだった。彼は人々に嫌われ、彼もまた人を嫌った。そういう非社交性において、あるいはまた知性より心情に価値をおく点においても、ギッシングはルソーにいくぶん似ている。
 
まさかわたしの中にもあるこのような部分を矯正しようというのではあるまい。
上記のような性格・性分を持つからこそ、ギッシングであり、ジャンージャックなのだから。
 
先日、立川市の障害支援課に電話をした。この地区担当の保健士が席を外しており、大体の内容を電話に出た男性職員に話した。そして、後ほど担当者から電話をさせると。
 
午後になって地区担当の保健士から電話があった、その第一声は、「先ほど、お話はSからざっくりうかがいましたけど」
 
わたしはこの一言を聞いて、ああこの人とは深い話はできないなと感じた。
 
「対人コミュニケーションのスキル」などという前に、「友達でもない相手に対して卑語は使わない」 というのはあたりまえの礼儀ではないのか?
 
それはともかく、度々の繰り返しになるが、わたしは今の時代が嫌いである。
ライクロフトが「私の人生は終わった」と呟いたように、「私の(生きるべき)時代」は、もうとうに終わっている。そしてそれはまぎれもない真実なのだ。
 
どうしたら少しでも楽に生きられるか?そんなことを考えたことはない。何故か?楽に生きる術など存在しないからだ。世の中からスマホやタブレットが消えてなくなるのか?電車やバスが突然おしゃべりを止めるのか?
 
眼圧が高くても、髪の毛が伸び放題でも、バス、電車に乗るのがいやなので、そのままにしている。
このような格子なき牢獄に生きていることがたまらなく苦痛なのだ。
 
ではそれこそ嘗ての王侯貴族のように、何人、何十人もの、召使にかしずかれ、足の爪の手入れまでしてもらえるような生活ならどうか?
 
同じことだ。日々の生活に何の不自由もなくとも、生きる意味が、生きる動機が存在しない。
 
では考えうる「生きる意味」 「動機」とは何か?

おそらくは「友人」「親友」’Soul Mate...’しかし、ルソー、ギッシングの系譜を継ぐ「嫌われ者」の友達になれるものはいない。わたしを嫌うことのできないものは存在しない。
皮肉なことにわたしはギッシングのような「人間嫌い」ではなかった。わたしのモットーあるいは理想は、「人生はそれを分かち合う者がなければ意味がない」というものである。
 
 
次回、医療センターでのドクターとの話し合いに行こうかどうか迷っている。
 
医師にはわたしが「よくなる」「元気になる」「外に出られるようになる」という気持ちはないと伝えてあったはずだ。
 
「頼みの綱である友人がいればいいんですが、ご覧の通りの変人なもので・・・」
 
「ですから、少しでも人との摩擦を減らしてゆく訓練を・・・」
 
「いえ、いまのわたしのままで嫌われるというのは運命だと思っています。問題はわたしは既に生きることを放棄していますが、かといって死ぬのも楽ではないということ。もっともこれは先生には関係のないことですが・・・」
 
 
「苦しいから助けてくれ!」といって、どこに楽に生を終わらせてくれるところがある?
 
医療も、福祉も、「生かすこと」「その質は問わず、何が何でも生かすこと」のみにかかわり、「死」に関しては一貫して背を向けている。自殺幇助が罪であるという驚くべき後進性・・・(社会保障の目を覆い、耳を塞ぎたくなるような貧しさ・酷薄。即ち貧しくなってしまったものを掬い取ることのできない(救おうとしない)「日本社会そのものの(精神の)貧困」については、ひとまず措く)
 
そのような状況の中で、「自殺ははた迷惑」などと言う資格を持つ者は一人もいない。
 

ー追記ー

今いえることは、話がどう進もうが、医療センターの医師は3月いっぱいで異動になるということ。
少しでも長く寝ていられるように、前の医師に薬だけは母にもらいに行ってもらうこと。
「居場所」「行く場所」については、今の世の中を全否定する者が行く場所も、そのような人間と話そうという人も存在しないと考えられるので、最早これ以上、福祉の手は借りないということ。
 
 
 
 
 
 




2021年1月17日

山田稔氏の描く「ヘンリー・ライクラフト」

 
「今日、黄金色の太陽の光を浴びて散歩していたとき、(もう秋も終わろうという、暖かい静かな一日だったが)、ふとある考えが浮かび、私は歩みをとどめ、一瞬間ほとんど呆然としてつっ立ったままであった。私は呟いた。<自分の人生は終わった>と。考えてみれば、この単純な事実には、もっと前からはっきりそれと気がついているおるべきはずであった。このことが私の瞑想の一部をなし、しばしば私の気分に微妙な陰影をなげかけてきたことは否定できないことであった。しかし、口に出せるような言葉となって、決定的な明らかな形をとって現れたことはまだ一度もなかったのだ。自分の生涯は終わった。自分の耳にその真実性をたしかめさせようとして、私はこの文句を一、二度、声にだしていってみた。どうも妙な具合であるが、真実はあくまで真実なのだ。
 
当時ライクロフトは五十三歳ということになっている。(ギッシングは四十なかば)当時としてもまだそう高齢ではあるまい。そして、なんとつまらない人生だったか、笑い出したくなるがかろうじて微笑するのみである。


非常に詩的ではあるが、何故か心に響かない。この箇所は、著者の山田稔さんが、久し振りにこのギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』を読み返して、「もっとも胸を打たれたくだり」であった。

作者の分身ともいえるライクロフトは晩年を静かな田舎で平穏な隠遁生活をおくった。
しかし現実のギッシングは、『ヘンリー・ライクロフトの私記』の出版された1903年に肺疾患で死亡する。四十六歳であった。
幻覚にうなされ、ラテン語でうわごとをいい、グレゴリオ聖歌を口ずさみながら息を引き取ったという。
 
 なんという美しい死であることか。

世界からこのようなロマン派的な「美」が、「死」が、既に消え去って久しいという気持ちが、つまりあまりに無味乾燥な索漠たる散文的な世界にしか生きることのできないわたしにとって、ヘンリー・ライクラフト=ギッシングの詠嘆はあまりに遠すぎるのだ。

先日母が、職を失い、住処を失い、夜、寒くてとても眠れないので夜中歩いているという若者の新聞記事を教えてくれた。
 
嘗て貧しさと美は、しばしば膚接していた。今は、貧しさはあたりまえのように蔓延り、一方で、「貧しさ」に付随していた「美」は消えかかっている。 

ラテン語でうわごとをいい、グレゴリアン・チャントを口ずさみながら息絶えたから美しいのではない。
美と教養とはまるで無関係である。

現に黒澤の『赤ひげ』では小石川療養所での貧しき人たちの死が崇高に描かれている。

わたしには今の世界の美がまるで見えない。


『ヘンリ・ライクラフトの私記』は、老いの先取りの文学である。世の中には、老いをおそれるのではなく、老いを先取りすることによろこびを覚えるものが、多くはないが、確かに存在するのだ。若くしてこの作品に魅力を感じたものは、生のたそがれのなかできっと思い出すだろう。そして先取りされていた老いと再会して、たまらなく懐かしい思いにひたるだろう。
 (略)
自分の人生は終わった、と感じることはすこしさびしく、そしてなんとうれしことだろう。なにか元気のようなものまで湧いてくる。やっと自分というものがわかりはじめるからだろうか。
 
(初出「VIKING」1988年11月)

 


話は変わるが、わたしに最も必要なのは、「友人」、そして「ライバル」と呼ばれる存在だろう。
つまり文章に於いて、切磋琢磨することのできる人物である。 
前にも書いたが、アートブログでは、「敵わないなぁ!」というブログにいくつかめぐり合った。(残念ながら全て海外のブログだが・・・)
わたしには嫉妬という感情はほとんどない。それは少しでも「彼に/彼女に近づきたい」という原動力となる。
 
ところが残念ながら、日本語で書かれたブログで、そのようなブログに出会ったのは過去3回のみ。
そのうちのひとつが『八本脚の蝶』である。けれども、書き手は一足先にこの世界から去っていってしまった。
 
わたしの記憶によれば、この山田稔さんの『生の傾き』(1990年)の初出の多くは[VIKING]であり、これは確か同人誌だったと思う。
 
同好の士がいるというのはいいものだ。
 
一方、ギッシングだが、山田さんによると、
 
「生まれつき自尊心が強く狷介な性分であった」ライクロフト=ギッシングには、人が感じてはいても口にすることをはばかる真実、人前で云ってはならぬ真実をあえて云う勇気、辛辣な精神があったようだ。それが彼をして田舎に隠棲せしめたのだった。彼は人々に嫌われ、彼もまた人を嫌った。そういう非社交性において、あるいはまた知性より心情に価値をおく点においても、ギッシングはルソーにいくぶん似ている。
 (略)
この隠棲の願いを彼はおもいがけずころがりこんだ年金のおかげで実行にうつした。周辺の人たちから「世間を知らない」とか「馬鹿だ」とか云われた。確かに自分は馬鹿だ、と彼は自分をかえりみる。「明らかになにかが始めから私には欠けていた。なんらかの程度に、たいていの人々にそなわっているある平衡感覚が私には欠けていたのだ。」
(下線・太字Takeo)
 
続けて山田氏はこういう、
 
「しかしおよそ文学とは、本質的にそのようなものではなかろうか。創作活動とはある意味ですべて、わが身を犠牲にしての、平衡感覚回復のこころみであろうから。」
 
創作活動とは一種のセラピーであろうか?崩れたバランスを立て直すための営みであろうか?
確かに、創作活動には、一種のCure/Careの一面がある、けれども、この場合、立て直すべき平衡感覚は、あくまで、ギッシングならギッシング固有の平衡感覚回復のこころみに他ならない。即ち崩れたものを、水平或いは垂直に正すのではなく、本来の彼独自の傾斜・勾配を復元させることである。
「平衡感覚回復」という言葉が、「大抵の人々に備わっていて自分には欠けている何か」を回復乃至獲得することを意味するとしたら、それは文学或いは芸術が現実原則に従うという、本末転倒のまったくおかしな話になってしまわないか。
 
 
ー追記ー
 
この「ヘンリ・ライクラフト」の冒頭と末尾に、とても素敵な文章が記されています。
 
 
不悉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2021年1月16日

『田舎司祭の日記』

 
作家、野呂邦暢さんのエッセイに「田舎司祭の日記」という作品がある。
 
以下抜粋引用する。
 
昭和三十年代の初めごろ、田舎町にテレヴィはゆきわたっていなかった。ある日、新聞を開くとテレヴィ欄に「フランス映画祭」とかいう文字が並んでいた。ロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」がその晩、放映されるという。どういうわけでこれを見に出かける気になったものかわからない。新潮文庫版「田舎司祭の日記」はまだ手に入れておらず、ベルナノスがフランスのカトリック作家であるという知識すら持ち合わせていなかった。
 (略)
結局私は本に飢え、映画に飢えていたのだと思う。行きつけの喫茶店が諫早駅の前にあり、そこにはテレヴィが置いてあった。「田舎司祭の日記」は期待にたがわぬというより、期待以上の傑作で、私は夜おそくわが家へ帰りながら、気持ちが昂揚するのを抑えることができなかった。
(『夕暮の緑の光』 野呂邦暢随筆選 (2010年)


わたしもこのところ、ブレッソンのこの映画がとても見たいと思っている。実際に新宿や渋谷のツタヤで何度か借りたことがある。野呂さんのように「傑作」という言葉は出てこないが、何故か周期的に無性に見たくなる。
今「田舎司祭の日記」のビデオが置いてあるのは渋谷のツタヤだけではないだろうか?
 
映画を観たしと思へども渋谷はあまりに遠し・・・
 
同じように、わたしにもまた、本に飢え、映画に飢え、音楽に飢えていた時期があったなんて、今の自分を顧みて、俄かには信じがたい。仮に今「田舎司祭の日記」を見ることができたとしても、それに感応する感受性がまだわたしの魂の中にあるだろうか。そもそも魂などというものがまだ残っているのだろうか・・・
 
日々の生活に疲弊しているわけではない。「生きていること」「存在していること」それ自体に疲れているのだ。
 
本来はそれを慰めるのが本であり、映画であり、音楽であるはずなのだが、今は本や映画に接することがひどく面倒であり億劫なのだ。
 
それにしても、映画館ではなく喫茶店に据え付けられているテレヴィでブレッソンの作品を見るなんて、なんとも粋なこと。いずれは白黒テレビであったのだろうと思うが、「田舎司祭の日記」はそもそも上質なモノクロ映画である。
 
14Kの大型テレビなんて無粋なものでなく、ブレッソンは、喫茶店のブラウン管テレビで見るべきものである。
 
ああ、もう一度、寒い冬の日、一人だけの小屋で息絶えてゆく若き司祭の姿を目に焼き付けたい。
 
わたしがもう一度、本を読み、映画を観る時が来るのだろうか・・・
 
尚、ジョルジュ・ベルナノスの『田舎司祭の日記』はせめて原作でもと思い、図書館の読みたい本のリストに挙げているが、野呂さん自身の体験によると、「カトリックの教義をろくにわきまえもしないでベルナノスを理解するのは不可能である」と。原作の「田舎司祭の日記」とブレッソンの演出による映画版は、別のものと考えたほうがよさそうだ。
 
それにしても、若く貧しい司祭の住まいのうつくしさよ・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

2021年1月13日

ブログについて

 
ブログを書き続ける意味を見失いました。本を読む意味、映画を観る意味、そして食事をする意味すら見失ったように。
 
コロコロと気が変わるわたしのことですから、終了、乃至閉鎖とは言わずに、とりあえず、しばらく休みますとだけお伝えしておきます。
 
残念ながらわたしのブログに共感してくれる人がいたとは考えられませんので、ありがとうございましたは、省略いたします。
 
 
Takeo 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2021年1月11日

Till There was You.

 


Two Figures Silhouetted on Hill Top, Max Dupain (1911 - 1992) 

*

“Each friend represents a world in us, a world possibly not born until they arrive, and it is only by this meeting that a new world is born.” 
 
Anaïs Nin - The Diary of Anaïs Nin Vol. 1: 1931-1934
 
 
「「友情」が私達に「世界」を示してくれる。彼らの出現なしに、世界は生まれない。そして
この出逢いによってのみ、新たな世界が我々の目の前に開示される」


―アナイス・ニン

 

2021年1月8日

自死について

 
 
「少しでも楽に生きられるように・・・」なんて夢みたいな(実現不可能な、の謂)こと言ってないで、もっと真剣に、また現実的に「自死」について考えるべきなんだろうな。
 
所詮わたしは「生かすための医療」とは相容れないのだから。
 
自殺ができないのも、つまるところ、人としての様々な能力が劣っているせいなのだろうか?
 
そう考えると落ち込む・・・
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 

心理テストに関する疑問など雑感

 
● 生きているのが苦痛である。生を(できれば安楽に)終わらせたい。
 
● なかなか簡単には死ねない。
 
この間(はざま)で右往左往しているのがわたしの今現在の・・・いや、少なくとももう10年以上続いている状況なのだが、
この両者の間に、生きている苦痛を取り去るのではなく、少しでも楽に生きられるようにするという考えが割って入る。

これがわたしのような障害を持ったものに対する、精神医学の基本的なスタンスである。


さて、心理テストの結果を簡単に申せば、知的能力(IQ)は、同年齢のグループの中では、「平均以下」という結果が出た。
これはもう結果を聞く前から予想はできた。特に「能力が低い」とされるのは「目と手の協応による、作業を迅速に行う力」(=処理速度)、そして「視覚的に物事を捉える空間的理解、部分から全体を構成する力」(=知覚推理)であった。更に「聴覚理解による情報処理能力」(=ワーキングメモリー)も並以下であった。
 
以上の結果から、わたしは普通の人と同じように仕事をこなす能力に欠けるという結果が(改めて)導き出された。
 
ただ、IQは普通の人に比べて極めて低いが、言語能力は高いという結果には納得がいかない。
何故なら、言葉についてのテストといっても、幾つかの言葉を挙げ、それらの意味を知っているか、という設問だけだったからだ。例えばわたしは「インフルエンサー」という言葉の意味を知らない。「リモート」然り「ワイ・ファイ」「ペイ・ペイ」また然り。それでも、「語彙が豊富」「広範な知識」といえるのだろうか?
 
言語能力云々を言うのであれば、最低でも、大学入試の現代文に匹敵する程度の「読解」「記述」問題くらいやらせなければと思うのだが・・・
 
そのほかの能力が人並以下という点については異論はない。
わたしは、初めて車の免許を取るための本を開いたとき、そして高校時代の友人が次々に免許を採って乗せてもらったときに、「ああ、自分には車の運転はできないな」と感じた。
例えば交差点での左折・・・特に右折などは、いわば道路上の人と人との連係プレイである。わたしはその呼吸を、「間」を読むことができない。
 
以下大幅に省略するが、
 
注目したいのは、目の前の画をどう見るかが、とりもなおさずその人の世界の見方であるという観点から、わたしが世界をどのように見ているかを知るために行われたのが「ロールシャッハ」ということらしい。そして わたしの画の見方は非常に珍しく、通常は示された図形全体を見るのだが、わたしは、画の「部分」に焦点を当てる見方が多い。正にその通り。わたしにとって、世界は「ひとつの全体」などではなく「無数の細部の総和」に他ならない。

このような見方が特徴的に現れるのは、所謂「自閉症スペクトラム」(=アスペルガー)の特性を持つ人たちが多い、と。
 
「ロールシャッハで、ご自身が図版をどのように見ているかの説明では、表現が自己完結的で、他者に伝わりにくい面があり、情緒的に人に訴える能力の乏しさや現実検討力の弱さも示されていました。」

しかしこれは少々難易度が高すぎはしないか?或る旋律なり、ロールシャッハの図のような「抽象的な対象」を前にして、今自分が内面に感じていることを相手に理解できるように説明することができる人間って、いったいどういう人なのだろう?

最後に、

言葉によるやり取りを否定するものではありませんが、言葉のみでは人間関係がうまく回らないことが課題と考えます。日々の生活について現実的なアドバイスを受けながら、少しづつ行動につなげてゆけるとよいと考えます。」
 
過去に何度も書いてきたように、わたしにとって、「言葉」はコミュニケーションの障害にこそなれ、決して、医師の言うような、わたしの唯一の「武器」などではないと考える。
 
言葉に対する懐疑、言葉がわたしと他者との間の障壁になっているということは、ここにも、そして以前のブログにも繰り返し書いてきた。
 
今日の診察の最後に、医師は、「居場所として、今思いつく範囲ですが、最も適当だと思われるのは、発達障害の人たちの自助グループのようなところじゃないかと思いますが」といい、その時はわたしも同意したが、ネット上ではあるが、「発達障害の家族をもつ人、及び当事者だけが集まるサイト」で、ひどくいやな思いをしたことも思い出され、それもどうかと考えあぐねている。
 
そのような今後のことも含めて、来月の診察の後、ソーシャルワーカーと話す時間を作ってくれたが、それにしても、テストの結果・・・
わたしが全般的に人並以下の能力しか持たない人間であるということは認めるにしても、高々3時間程度で、「ぼく自身、或いは困難な存在」の全貌・・・とは言わずとも大体の人物像は把握できるものなのだろうか・・・
 
どこか「捌いてゆく」という感じが否めないのだ・・・
 
 
ー追記ー
 
 
「少しでも楽に生きられるように」 ということはよく聴く言葉だが、では具体的に、わたしが楽に生きられるようになるとはどういうことか?

どうしたら楽に電車やバスに乗れるようになるのか?
それをうるさいと思い、スマホの群集を醜いと思うことが苦しみであり、その上で、わたしの感受性・美意識を損なうことなく、「自由に電車やバスに乗れること」がそもそも可能だというのか・・・
少しの我慢・・・それを補って余りある何があるというのか?
 
 
  
 
 
 

 
 
 

2021年1月6日

苦しみは・・・

 
 
苦しみは「細部」に宿る




 

2021年1月5日

逃げ場はない・・・

 
わたしに必要なのは、どうやってこの生を終わらせるか、ということを具体的に話すことのできる相手なのだ。
 
正直もうバスにも乗りたくない。ここで一人でいれば、一日15時間寝てもまだ時間が余ってしまう。
 
外に出るためにはバスと電車の騒音地獄に耐えなければならない。
 
どうすればいい?どうすれば・・・
 
 
 
 
 
 

もう終わりにしたい

 
毎日何もすることがないものだから、「生き(てい)る意味」とか、「障害者の生きる権利」「どうしたら銃を手に入れるだろう?」など、そんなことばかり果てしもなく考えている。 
逆に言えば、もうそんなことしか考えることができなくなっているということなのだろう。

7日、木曜日に、医療センターに行く予定だ。以前書いたように、ドクターがわたしと対話をするという変則的な形を取っている。そもそも医師の診察日は月曜日で、木曜日にはわざわざそのために時間を作ってくれている。

昨年1年間でいちばん楽しかったことは、心理テストで行われたロールシャッハ・テストであった。
「心理テスト」といっても、心理士と一緒にやるゲームのような感覚だった。
結局わたしは、「問題解決の糸口を探る」などといった大層なものではなく、要は人と話したいから行っているのだ。
それに「問題解決の糸口」も何も、「時代と合わない」これはいわば不治の病である。
コロナが終わろうが、自民党政権が終わろうが、この社会は微塵も揺るがない。わたしの苦しみもまた。

ここで今年の冬まで暮らしていく自信などまったくない。

煎じ詰めれば問題は「楽に死ぬ」ということにこだわり過ぎているという点だ。

もっともっと精神的に追い詰められれば、「楽に死にたい」などとは言わなくなるのかもしれない。

わたしはこの世界に、そして自分自身にびた一文の値打ちも認めていない。
 
 
 
 
 
 
 

2021年1月3日

ある「視点」への極私的視点


今回の投稿は、「note」というサイトに載せられた、北米在住の日本人ライター塩谷舞(しおたにまい)さんの文章についての意見で、先ず元になっている塩谷さんの文章を読んでいただくことになるので、面倒くさいと思われる方はどうかそのままお通りください・・・

塩谷さんの文章のタイトルは、

あるものでなんとかする。「バナキュラー」的もの作り

彼女のツイッターによると、以前の上司に絶賛された文章のようです。

さて、以下、上記リンクにある塩谷さんの「視点」に基づいたわたしの意見です。



彼女は書いている。自然を取り入れるとか取り込むとかいうけれど、「自然」て「私(たち)」の外側にあるものなのか?はるばるやってきたアイルランドで、また現在活動拠点にしているニュージャージーで、「水(食べ物)が合わ」ずに、しばしばお腹をこわすのは、私の身体もまた生まれ育った「日本という気候・風土」という「自然」に依拠しているからではないのか?


「和食が好きだというアメリカ人の友人を招いて、手料理をふるったのだけれども、唐揚げと卵焼きとナムル(は韓国料理ですね)はSo Yummy!!!!とたいらげてくれた。けれども問題は、味噌汁にぷかぷか浮かぶワカメ。「ごめんね、これは前にも試したんだけど、ちょっと苦手で……」と箸を止めたのだ。「あぁごめん、そうだよね…!」と自分の配慮不足を反省した。

島国在住の日本人が海藻をちゃんと消化吸収できるのは、海藻を消化できる菌を歴史的に腸に住まわせてきたから、というのは有名な話だ。つまり、どれだけ遠くに引っ越したとて、小さな小さな「日本」みたいなものは、おなかの中に保っているのだ。それを「自然」と呼ばずに、なんと呼べばよいのだろう?

自然は「取り入れるか否か」を頭で取捨選択するよりもずっと前から、自分の中にちゃんとあるらしい。 」 
(太字Takeo)

けれども、 からだにとって「水が合わない」ことが「自然」であるように、個々人の精神もまた、「合わない物」「合わない場所」に抗うのではないだろうか?


べつに今の時代、Wi-Fiが入り、衛生的な都市であればどこでも生きていけるだろうと高を括って移住したので、これは大きな誤算だった。無論、仕事面だけに関して言えば、Wi-Fiさえ入ればどこでも出来る。テキストコンテンツで稼ぎ、アプリで円をドルに換金し、電子マネーで暮らしていく。なんて便利なソフトウェア時代なのだろう!

けれども私のハードウェア側は長距離移動に耐えられず「ここは違う!」「これは知らない!」と一生懸命抗っているのだから、定期的に油をさしながら、騙し騙しやっている。油というか、正露丸なのだけれど。」(太字・下線Takeo)

 
塩谷さんの「視点」には、人間の「生体」そしてまた「精神」「感受性」の問題が完全に捨象されている。
 
 
故郷で暮らしていた頃はあまりにも当たり前すぎて、さっぱり気づかなかった。けれども、遠い国で自分の身に、もしくは故郷の異なる他人に降りかかるバグのような出来事を通して、この身体はちゃんと自然の、気候風土の子どもなのだということにようやく気付かされたのだ。」
 
もちろん気候や風土によって「体質」は大きな影響を蒙るが、同時に人は、自分が生きてきた「過去」「時間の蓄積」によっても、「わたしがわたしである」ように「あらしめられている」
 
上記の下線を施した部分だけを取り出せば、まるで人間は身体だけでできているようにも聞こえる。
土地という物理的な変化のみに着目し、同じ場所に棲み続ける、「故郷喪失者」に対する視点が欠けている。 「同じ土地でも水は変わる」という認識が決定的に抜け落ちている。
一個の生体が苦しめられるのは、千数百キロ離れた異郷の水や食べ物に合わないだけではない。
50年間まったく同じ街に暮らしていても、環境の変化が精神や感性、そして美意識に与えるダメージは「異国の水」と変わらない。・・・無論このようなことは、自己の裡に自己を自己たらしめている「過去という時間の堆積」を持たない若い者たちに理解できるはずもないのだが・・・


 
「それに気がつくと今度は、「気候風土の影響力をふんだんに受けたもの」は自分の親戚であるようにも思えてくる。そうしたものを表すバナキュラー(Vernacular)という言葉を知ったとき、自分の身体が包まれるような心地よい衝撃を受けてしまった。」
 
 
 
このように見てくると、「バナキュラー」というのは、期せずして成った「非・グローバル化」といえるかもしれない。 

しかし、改めて考えなければならないのは、この文章は「パナソニック」という巨大企業の依頼によって書かれたものだということ。巨大企業のマーケットは言うまでもなく「ローカル」ではなく「グローバル」である。「バナキュラー」的ということが、特定の文化、風土に根ざしたものであるなら、それは大企業の存立を脅かすことになる。

パナソニックの製品は日本はもとよりアメリカでも、ヨーロッパでも売れなければ(売らなければ)ならない。

塩谷さんのこのコラムは以下の文章で終わっている。
 

「自然と一緒にうまくやる。それはなんだか「あるもんでご飯を作る」くらいの、地味で、飾らない、日常的な、けれども持続可能なもの作りの在り方なんだろうと思う。あるものでなんとかしよう。そうして作られたものは、異なる気候風土で暮らす人々から見れば、宝物と呼ばれるかもしれないのだし。」
 
これはある意味で、反・グローバリゼーションであり、反・資本主義のように見える。
読みようによっては、「もう成長の時代ではない」という宣言のようでもある。
 
しかし実際にはそんな大それたものではない。「バナキュラー 」というタームを用いて、一見目新しいことを言っているようだし、この部分だけを読めば、「古い時代に戻りましょう」という主張にも取れる。けれども他での彼女の文章を読めば、この書き手が決して今のままではいづれにせよこれまで通りに先に進むことは困難だから、後退しよう、時代を遡って、「現代」が捨てて顧みなかったものにもう一度目を向けようという考え方の持ち主ではないことが分かる。

そもそも1988年生まれの塩谷さんは、60年代も、70年代も知らないのだ。
 
北米在住の塩谷さん夫婦が、欠けた陶器の「金継ぎ」をやろうとして、金継ぎに適した温度や湿度を保つには、寒いアメリカ北部では大変な光熱費がかかってしまうことに気づいた。
 
だからこそ、世界のどこででも「金継ぎ」ができるようにしましょう、というのが企業の本質的な発想であり論理なのだ。
 
 
「日本の夏であれば暖房も加湿器も不要であるのに、ここは北米の冬であるから、電気代が馬鹿みたいにかかってしまう。金継ぎを北米でやるのはあまりにも不自然、反バナキュラーじゃないかと笑ってしまった。せめて電気代を節約するかと、小さな加湿器を買って段ボールの中に高温多湿な環境をこしらえ、ご丁寧に器を並べた。いまから卵でも孵化させるの? というような奇妙な装置が完成した。あぁ不自然!と笑ってしまう。

どうやら漆のほうも、遠い北米まで連れてこられた私の胃腸とおなじく「ここは違う!」「これは知らない!」と叫んでいたようなのだ。不自然な環境に連れてきてしまってまことに申し訳ないねと、胃腸と漆に申し上げたい。

 
改めて言うが、大企業の目指すのは、全世界を自社製品で埋め尽くすことだ。現実にF・A・G・Aなどがその実例ではないか。いったいどこに「バナキュラー」がある?
 
塩谷さん自身、こう言っていなかったか・・・
 
今の時代、Wi-Fiが入り、衛生的な都市であればどこでも生きていけるだろうと高を括って移住したので、これは大きな誤算だった。無論、仕事面だけに関して言えば、Wi-Fiさえ入ればどこでも出来る。テキストコンテンツで稼ぎ、アプリで円をドルに換金し、電子マネーで暮らしていく。なんて便利なソフトウェア時代なのだろう!」
 
そのような現代という時代の恩恵に浴しながら、同時に、あなたは、「バナキュラー」だ「あるもので間に合わせる時代」だというのか?


「自然と一緒にうまくやる。それはなんだか「あるもんでご飯を作る」くらいの、地味で、飾らない、日常的な、けれども持続可能なもの作りの在り方なんだろうと思う。あるものでなんとかしよう。そうして作られたものは、異なる気候風土で暮らす人々から見れば、宝物と呼ばれるかもしれないのだし。」
 
塩谷さんたちの世代、そして更に若い世代には想像もできないだろうが、つい数十年前までは、このような光景がそれこそ日常だったのだ。牛乳でもジュースでも酒でもビールでも、繰り返し使用可能なガラス瓶を用い、食べ物は味噌でも醤油でも豆腐でも、必要な分だけを量り売りしていた。肉も魚も、野菜も果物も、すべて日本で作られたものだった。輸入ものも、養殖も、水耕栽培もなかった。そして殊更「マイ・バッグ」などという他の国の言葉を使わずとも、誰もが買い物に行くときには「買い物籠」を下げていった・・・

ないものを求めない。足るを知る。即ちある種の不便さを受け入れる。

あなたが求めているのは本当にそういうことなのか?
あなたはご自身で、自分の生活の基盤をなしている「瞬時に世界を繋げる(世界とつながる)ネットワーク」と、あくまでも「地域の唯一性」にこだわるという「バナキュラー」という概念の背馳・矛盾に気付いておられるのか・・・
 
 
 
◇◆◇
 
 
塩谷舞 
 

 
 
 
 
 



 







ディア ステファン

 
久し振りにページのメイン・フォトを取り替えてみたのは、数ヶ月ぶりにTumblrの旧友である、ステファンのブログを訪れたからだ。ステファンは現在ギリシャに住むドイツ人。嘗てわたしが何故ギリシャに?と訊いたときに、「きみはドイツの冬の寒さを知らないんだよ」と言われたことを憶えている。
 
ハイネはイタリアの春を見て、「イタリアの春に比べれば、ドイツの春など色の付いた冬に過ぎない」と言った。
 
 
ステファンの写真を、彼のTumblr, A Funny Space Reicarnation の中から幾つか紹介する。 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 

 
 
 

 
 
 

 
 
 

 
 
 

 
 
 彼の一群の写真を見ていて思ったことがある。
 
嘗て
 
"You're on earth. There's no cure for that."

「あなたはこの地球に生きている。それについての治療法はない」
 
 
というベケットの言葉を引用をした。けれども、 治療法はあるのではないか。それはまさに「地球に住む」ということに他ならないのではないか、と。
顧みて、わたしが生きている「トウキョウ」という街は、はたして「地球」と言えるのだろうか?
わたしは自分が「地球に住んでいる」という実感が持てない。
 
 
ステファンの写真は、大袈裟に言えば、これからの「人間」の生き方に示唆を与えているようにも思える。
 
こんな言葉も思い出す
 
 
“Nature is not a place to visit. It is home.”

― Gary Snyder
 
 「自然は「訪れる場所」ではない。それは生きる場所なのだ」
 
 
 
 


 
 
 
 

2021年1月2日

「スカート」(他掌編一編)

先日「本が読めない」「映画を観る気になれない」とこぼした。その状況は相変わらずだが、「いい文章を書きたい」という気持ちはいまだに冷めていない。
 
以下紹介するのは、 1988年の素晴らしく美しいフランス映画、『読書する女』の中で、カフェテラスで、主人公コンスタンスの女友達がせわしなげに読んで聞かせる、いわば「掌編小説」で、新潮文庫版の原作の翻訳にはこのシーン、この物語はない。
 
以前、楽天ブログ時代、いくつかショートショートを書いたことがあるが、このような洒落たストーリーではない。いつかこんなお話を書いてみたい。そのために、こういう文章をもっともっと読みたい。
(繰り返すが、このショート・ストーリーは映画版にのみ収められているのだが・・・)

 
◆◇◆


ある日曜日、男が妻をサン・ランドリ街に散歩に誘った。有名な娼婦街だ。
妻も知っていたが散歩に応じた。スレた娼婦たちも驚いた顔で妻を連れた男と、その妻をジロジロと眺めた。
妻は無言で夫の後を歩く。
妻も女たちを見返す。
そして驚きの事態が。
赤毛の女の前で夫が立ち止まり、短く言葉を交わすと、妻に待つように言い、階段を上がっていった。
屈辱を目撃した娼婦たちは無表情に妻を眺める。憐れみも同情もない。
妻は歩き出したが、めまいを感じ壁に寄り掛かった。泣くのも隠れるのも嫌だった。
絶望の瞳がやさしさを惹きつけたのだろうか、通りがかった男が立ち止まり、見つめて来た。
女は立ち去ろうとしたが男に腕をつかまれた。男に誘われ薄暗い階段を上り、ホテルの一室に入る。
壁紙も、家具も目に入らなかった。
女はベッドに座り頭を垂れた。男は椅子に座り「君はうつくしい」と言った。女は目を見開き笑おうとする。
室内は暑い。男は上着を脱ぎ、女にも脱ぐように勧める。女は躊躇うが、コートを脱ぎ椅子に置く。
男は震える女を抱きよせ、セーターを脱がせ、スカートのホックを外す。
女は足でスカートを払い、未知のもののようにそれを見つめる。
女は横たわり腕で目を覆った。男は残りを脱がせ愛撫を始めた。女は恥ずかしさで身動きもできない。男も裸だ。男が入ってきたときには初めてのような痛みを感じた。だが一瞬の後男が動き始めると未知の悦びが肉体を充たした。

男は紅茶を注文し、女は部屋を出た。
夫はカフェで待っていた。妻が近づき、謝罪の言葉を口にする。黙っている妻に更に言う。
「10分で戻ってこの辺りを散歩していた」
「君は何をしていた?」
「歩いてた」妻は答える。
夫は妻の手に自分の手を重ねる。「すべて忘れて今度から日曜は家でテレビを観よう」
無言の妻に夫は紅茶を飲むかと尋ねる。普段は紅茶を飲まないのに。
妻は答える「さっき飲んだわ」
夫は妻の膝に愛情をこめて手を置き、スカートの布地をなでる。





映画『読書する女』より

新潮文庫版 レイモン・ジャン原作 鷲見佳子訳『読書する女』にはこのシーンは描かれていません。
 
 
 
まったくの蛇足ですが、嘗てわたしが書いたショートショートの中から比較的気に入っているものを改めてここで紹介します。
 
 
◆◇◆
 
 
「窓」
 
 
空調の効いた白い部屋に男はいた。彼は囚人であった。男はしかし何故自分が今ここにいるのかを憶えていない。そこにあるのは過去の記憶ではなく、彼を取り囲む四方の白い壁だけである。
周囲が白いのは真新しい壁の白さと、部屋の広さには不必要なほど明るい照明のせいだ。
彼がこの部屋で目を覚ましたのがちょうど一週間前。三度の食事は昔の映画などで見る刑務所の食事のイメージとは違って、「外」の世界の人たちが日常口にしているようなものと変わらないものを食べている。ラジオも音楽番組だけは聴くことができた。彼は試しにレコードを聴けないかと訊ねてみたが、それも叶えられた。ポータブルのレコードプレーヤが貸し与えられ、彼のリクエストするレコードはほとんど聴くことができた。本も大抵の本は読むことができた。
しかし彼は次第に落ち着かない気分になり、夜も安眠できないようになってきた。

この部屋には窓がないのだ。

実際には窓は部屋の扉に取り付けられていて、刑務所内の様子を垣間見ることはできる。しかしこの部屋からは娑婆の草木一本眺めることができない。
運動もやはり屋内のジムのような場所で行われた。囚人たちは体育館のような建物の中で自由に運動することができた。器具も一通りそろっていた。そしてこの建物の天井にも、大きな白い照明が要所要所に取り付けられていた。刑務所の至る所から「影」を一掃しようとするかのような配慮がなされているようだった。
彼は次第に精神のバランスを崩していった。彼は看守に向かって訊ねた。何故この部屋には窓がないのか、と。しかし看守は首をすくめて、さあね。窓を付け忘れたんじゃないか、と、まともに取り合ってはくれない。
彼は刑務所長に宛てて嘆願書を提出した。外を見ることができる窓を取り付けて欲しい。その代り、食事をもっと質素なものに代えてもらって構わない。なんなら三度の食事を二度にしてもいい、と。所長は「考えておく」とだけ答えた。

彼は読書も音楽も愉しむことができなくなった。砂漠で一滴の水に渇える者のように外の世界に焦がれた。今や彼の求めるものは、目に沁みて、そこから血管を巡り、全身を潤してくれる木々の緑と青い空の色だけであった。彼は直に所長に会って話をしようと考えた。
彼は両手を後ろに縛られて、所長室に通された。
所長は正面の椅子に座っていた。彼の小さな期待はたちまち失望に変わった。この部屋には窓があるだろうと思っていたのだ。しかし所長の背後の窓は閉じられ、ブラインドが窓全体を隠し、外の光の代わりに、ここでも白い照明が部屋の隅々までを隈なく・・・まるで部屋の隅のほんの小さな影でさえ、駆除すべき不衛生なゴキブリででもあるかのように・・・隈なく照らしていた。

所長はあれこれと理由を述べていたようだったが、結局窓の件は認められなかった。
男は刑期が多少延びても構わないから窓のある刑務所に移してくれないかと頼んでみたが、それも受け入れられなかった。

看守は彼の肩をつかみ、部屋に戻るようにと促した。彼はその腕を振り切り、所長室の窓に突っ込んでいった。
ガラスの砕ける音が響く。男は建物の外へ落下していった。それが何階の高さからだったかわからない。しかし男はドサリと地面に積もった雪の上に落ちた。
どうやらここはどこかの山奥の刑務所で、今は真冬だったのだと男は悟った。
男は雪の中を歩いた。雲は灰色に重く垂れ込め、古びたシャッターのように、空の光のほとんどを遮っている。木々も全て雪に覆われている。
深い雪の中を何度も転びながら男は歩いてゆく。
ふと目を上げると山小屋らしきものが目に入った。
男はそこにたどり着くと、中に入りドアを閉めた。軽装の彼にとってはまるで氷の湖に浸っているようだった。彼は丸太小屋の粗末な窓も閉めた。そこから寒風が流れ込んでくるのを避けるために。
男は震える手でなんとか火をおこし、戸棚の奥にあったウィスキーを飲み、毛布にくるまっていると、次第に体が暖かくなってくるのを感じた。

やがて追っ手は彼に迫った。小屋の外で声がしている。出てきなさいと。
冗談ではない。おれは死ぬつもりで窓から飛び降りたんだ。雪の上に落ちて助かったのは全くの偶然だ。
男は小屋の窓から彼を包囲している者たちに喚いた。
「おれは二度とあの刑務所に戻る気はない!おれは丸腰だ。これから出て行くからさっさと撃ち殺すがいい!」
「馬鹿なことを言うな、武器を持たない者を撃つことはしない。わかった。お前を別の刑務所に移送しよう。さあ、早く車に乗りなさい」
「は!そんな手に引っかかると思っているのか?捕まれば、おれはまたあの部屋に逆戻りだ。一旦とらえてしまえばお前たちの意のままだからな」
「そんなことはない。約束は守る!」
「そんな言葉を信じると思っているのか」
男はこれ以上の話し合いは無用とでもいうように窓を閉じ、火の前に戻った。
武器を持たない彼が捕まるのは時間の問題だ。窓のある場所へ移してやるなどと言ったところで所詮は空証文だ。あそこに戻されればおれは二度と外の世界に出ることはできない。少なくとも正気のままでは・・・
仮に丸腰のおれを撃つことはないにしても、向こうには犬がいるし車もあり、人数もいる。どうやったって逃げおおせるものではない・・・

男はしばらく暖炉の火に見入っていた。
今はひょっとしてクリスマス・シーズンなのだろうか?
子供の頃、姉や妹と一緒に暖炉の周りに靴下をぶら下げたことを思いだす。
みなの笑い声、クリスマス・キャロル・・・クリスマスの朝、どうしても眠れずに、まだ夜が明けないうちに靴下をのぞいてしまった。暖炉の火は小さくなりながらもパチパチと暖かい寝息を立てていた。カーテンの隙間から、クリスマスの朝の光が刺しこんでいた。
「みんな元気にしているだろうか・・・」

再び外からの声が聞こえた。
「いいか、これからそちらへ行く。おとなしく出てきて、一緒に行くんだ・・・」
男は立ち上がると両の掌の汗をぬぐい、薪割り用の斧を摑み、ひとつ大きく祈るように息をつくと、それを自分の頭上に降り下ろした。
その瞬間、強い寒風が小屋の窓を押し開けた。最後の瞬間に彼の目に映ったものは、窓の外に広がるどこまでも白い世界だった。
 
 
 

 






鳥帰る・・・


ここでかかなくとも何処かで書く。そして何処へ行こうとわたしの周りは常に敵意と排除そして軋轢に満ちていた。

そこで思い出したのが安住敦の句

鳥帰る 何処の空も 寂しからむに

安住 敦 / Azumi Atsushi. Japanese Haiku Poet, Writer (1907 - 1988)

この句と、安住(あずみ)=安住(あんじゅう)という名のコントラストが皮肉ではある。

Bird returns

Wherever you go

Every skies must be sad.


わたしはここを離れられない。わたしはいいものを書いてきた、というあくまで主観的な自負がある。それは風にそよぐ樹のように常に揺れ、大きく撓んでいるのだが。
わたしは離れられない。ここにわたしの時間の堆積があるからだ・・・