2018年3月2日

不悉・・・

これまで、わたしにとってインターネットとは、海外のアート・サイトを閲覧・渉猟し、そこで見つけた絵や写真をブログに投稿することがすべてだった。
昨年暮れからはじめて本格的(?)に日本人の「ブログ」を読むようになった。
社会と隔絶した生活をしているわたしにとっては、へんな言い方だが、普通の日本人の生活を知るには、本人が書いたものを読むに若(し)くはなかった。

暫く各世代のブログを読んでいて、いくつか気になった点がある。
先ず、現在そこそこ潤沢な年金で生活している人、或いは現実に生活に窮迫していない人の社会的行動が、如何なる動機によって行われているかという疑問である。
彼らは一方で、現政権の打倒を叫び、時には街頭に出てデモ行進さえしているが、「裕福」とまでは言えなくとも、お金に困っているわけではないので、デモの後には美食に舌鼓を打ち、結構頻繁に催し物にも足を運んでいるようである。

わたしのように精神のバランスを著しく欠いた者には、この「二重生活」というものが理解し難い。彼らの社会的行動は、別段「生存の必要から発したもの」ではない。デモ行進で拳を振り上げ、誰某の更迭、何々反対と叫ぶその手、その口は、別のところで何某の芸に拍手と歓声を送る。スマートフォンで写したペットや風景写真をブログに投稿し、たくさんの「いいね!」の反響を得る・・・社会の変革を望みながらも現行・現実の社会体制と手を携え、その齎す文化・技術・芸能によって、「反・社会的活動」で疲れた心身を癒すという矛盾・・・

もう一方の人たち・・・非正規雇用のワーキング・プアと呼ばれる人たちや、こころの病を持って引きこもっている人たち(わたし自身を含め)の書いたものを読む限り、彼らは全くと言っていいほど政治・政情には言及していない。彼らには、そんな「暇」も「エネルギー」もないのだ。ただその日その日を生きてゆくことだけで精一杯で、その日を生きていくために、その日のすべてのエネルギーが消費される彼らにとって、政(まつりごと)=「上の方」に目を向けている余裕などない。

けれども、彼らの宿命論に対しても、わたしは少なからぬ違和感を覚えている。確かに彼らにとって、このように「奈落」に生きることは自分の運命であって、それを変えることは不可能と思う気持ちも分からなくはない。現にわたしも選挙にはほとんど行ったことがない。(信頼できる政党や応援したいと思わせる候補者が皆無であるということが第一の理由だが、「もっとも過激な革命家でも、革命成った翌日から保守派に変わる」というハンナ・アーレントの言葉の持つ真実味がわたしを掣肘しているのも事実なのだ。)
わたしもまた、「人々の力」とか「我々」というものが「社会を変える」ことができるとは思えない。この国に生まれ半世紀、そのような現場を目撃したことがないのだから。

反・社会的行動に意味を見出しているような人たちは、おそらくわたしのような無為に対し、「それでは為政者の思うつぼ」だというだろう。けれども、わたしは敢えて、投票に行かないことで、社会の一員として、この社会に対しての「緩慢な自殺」に加担しているのかもしれない。社会が良くなるとは思わないのと、社会を良くしたいとは思わないというふたつの意識は、その底流に於いて繋がっているのではないだろうか。

わたしが前者の偽善的、乃至趣味的・遊戯的な「反」社会行動にも、後者の運命論的現実容認にも馴染めないのは、結局のところ、両者ともに望むのは一身の保身という点で共通しているかに見えるからだ。敢えて極論を附言するなら、シュプレヒコールや「粛々たる」デモ行進という旧態依然・古色蒼然、且て一度たりとも勝利を手にしたことのない方法によって今尚本当に社会の変革が可能だと思っているのだとしたらそれこそ噴飯物であり、わたしは寧ろ「机上の革命家たらんよりは街頭の暴徒たらん」とした難波大助の志操により強く惹かれるのだ。


わたしの理想は、繰り返しになるが、「国破れて山河在れ!」すなわち全き滅亡に他ならない。



フランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』で、夫となる人を誤って射殺した男たちを次々に殺してゆく女性に、神父は「憎む心で愛せるのか?」と詰問する。
否!「愛しているから憎む」のだ。「あなたのために狂えるのは私だけ」それが愛である。

わたしにとって国を愛するとは、即ち国という存在の全的滅亡である。



「この世の出来事を承認しないこと、それはこの世が存在しないことを望むことである。 この世界が存在しないようにとねがい求めることは、今このままのわたしのような者が全体であるようにとねがい求めることである。」

ー シモーヌ・ヴェイユ 「カイエ」

















0 件のコメント:

コメントを投稿