「傷をなめ合う」という言葉が、屡々否定的な文脈で語られているのを聞く。
しかしわたしはこの言葉が好きだ。
傷ついたけものが森の洞窟の中でお互いの傷をなめ合う。
彼らは人間のように、器用な手を持ってはいないし、薬も包帯もないから、お互いの舌で愛撫しあう。なぐさめ、いたわり合う。
怪我をした人間が、病院で機械的に傷口を処置されることに比べて、彼らの行為は遥かに愛情に満ちた「手当て」ではないだろうか。
◇
「選べば即ち遍(あまね)からず」(荘子)
なにかを書こうとするとき、この言葉が時によみがえる。
ひとつを選ぶということは他を捨てることに他ならない。
ひとつの言葉、ひとつの表現を採ることで、他にあり得た言い方が取りこぼされる。
わたしはいつも、その掬い取った手から零れ落ちた言葉たちの輝きを見つめている。
◇
ある人が引用していた言葉
「誰かが死んだという事実は、その人がいま生きていないことを意味するかもしれないが、存在しないことまでは意味しない。 悲しみの回帰線を超えたことがない人には、そのところが理解できない。」 ー ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』
わからない。
誰かが死に、もはやそこにも、ここにも、どこにもいないということは、即ち存在しないことではないのか?
もし死んだことがその人の不在を意味しないとしたら、世の中には何故悲しみというものがあるのか?
かくれんぼをしていて、いくら待っても決してその人は姿を現すことはない。
もう二度と、うしろからくすくすと忍び笑いをもらしながら、あたたかな両のてのひらでわたしの目を覆い隠してはくれない。
それを不在といわずになんというのだろう・・・
わたしには一体なにが「理解できていない」のか・・・
◇
スマートフォンが普及し尽くし、電子書籍が跳梁跋扈するに至って、
この世から「現実逃避」というものが無くなった。
かつて人は本を読むことによって、架空の物語、見知らぬ世界、未知の国に逃避した。
けれどもいま世の中のひとの姿がおしなべて「現実べったり」に見えるのは、彼らの持ち、彼らの読むものが本ではなく、「機械」であるからだけではない。
彼らが「それら」を用いて、小説を読めど物語を辿れど、それを「現実逃避」とは呼ばない。何故なら彼らは業界に、資本に奉仕する消費者に過ぎないのだから。
そこには「現実という穢土」から高く離陸し飛翔しようとする人間精神の高貴な営みは存在し得ず、魂の浄化も、解放も、救済も成されることはない・・・
◇
一人旅や散歩が趣味だと書いている人を見ると、いったいわたしは彼/彼女と同じ世界に属してゐるのだろうかと訝しくなる。
◇
HUG や KISSの文化・習慣を持たないことは決定的な、致命的な弱みと言える。
言葉など所詮は凍える裸身にぶら下がる「一糸」(「一糸纏わぬ」の一糸)に過ぎない。
抱擁こそが遍きものだ。
ぎゅっと抱きしめることが出来れば、賢しらの千言万語など風の前の塵に等しい。
◇
見知らぬ人のブログで、うつくしい田舎町の風景を写した数葉の写真を見る。
けれどもそのありのままの自然、無邪気な子供たちの姿が何故かわたしには空々しい作り物・・・映画のセットのように感じられてしまう。
およそ自然に見えるものが(観光用に周到に仕組まれた)フェイクに感じられ、光沢を持つ人工物こそが現実味を持つ世界にわたしは生きている(生かされている)
落ち葉をゴミとして掃き清められる街にわたしは生きている・・・
◇
お い と ま を い た だ き ま す と 戸 を し め て 出 て ゆ く や う に ゆ か ぬ な り 生 は
ー 齋藤史
・・・しかしわたしはこの女流歌人が後年二つの勲章を受勲したことを決して忘れない。
わたしたちは、過剰な添加物に着色された人の口から溢れた言葉を、無自覚に、無頓着に呼吸している。
しかしわたしはこの言葉が好きだ。
傷ついたけものが森の洞窟の中でお互いの傷をなめ合う。
彼らは人間のように、器用な手を持ってはいないし、薬も包帯もないから、お互いの舌で愛撫しあう。なぐさめ、いたわり合う。
怪我をした人間が、病院で機械的に傷口を処置されることに比べて、彼らの行為は遥かに愛情に満ちた「手当て」ではないだろうか。
◇
「選べば即ち遍(あまね)からず」(荘子)
なにかを書こうとするとき、この言葉が時によみがえる。
ひとつを選ぶということは他を捨てることに他ならない。
ひとつの言葉、ひとつの表現を採ることで、他にあり得た言い方が取りこぼされる。
わたしはいつも、その掬い取った手から零れ落ちた言葉たちの輝きを見つめている。
◇
ある人が引用していた言葉
「誰かが死んだという事実は、その人がいま生きていないことを意味するかもしれないが、存在しないことまでは意味しない。 悲しみの回帰線を超えたことがない人には、そのところが理解できない。」 ー ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』
わからない。
誰かが死に、もはやそこにも、ここにも、どこにもいないということは、即ち存在しないことではないのか?
もし死んだことがその人の不在を意味しないとしたら、世の中には何故悲しみというものがあるのか?
かくれんぼをしていて、いくら待っても決してその人は姿を現すことはない。
もう二度と、うしろからくすくすと忍び笑いをもらしながら、あたたかな両のてのひらでわたしの目を覆い隠してはくれない。
それを不在といわずになんというのだろう・・・
わたしには一体なにが「理解できていない」のか・・・
◇
スマートフォンが普及し尽くし、電子書籍が跳梁跋扈するに至って、
この世から「現実逃避」というものが無くなった。
かつて人は本を読むことによって、架空の物語、見知らぬ世界、未知の国に逃避した。
けれどもいま世の中のひとの姿がおしなべて「現実べったり」に見えるのは、彼らの持ち、彼らの読むものが本ではなく、「機械」であるからだけではない。
彼らが「それら」を用いて、小説を読めど物語を辿れど、それを「現実逃避」とは呼ばない。何故なら彼らは業界に、資本に奉仕する消費者に過ぎないのだから。
そこには「現実という穢土」から高く離陸し飛翔しようとする人間精神の高貴な営みは存在し得ず、魂の浄化も、解放も、救済も成されることはない・・・
◇
一人旅や散歩が趣味だと書いている人を見ると、いったいわたしは彼/彼女と同じ世界に属してゐるのだろうかと訝しくなる。
◇
HUG や KISSの文化・習慣を持たないことは決定的な、致命的な弱みと言える。
言葉など所詮は凍える裸身にぶら下がる「一糸」(「一糸纏わぬ」の一糸)に過ぎない。
抱擁こそが遍きものだ。
ぎゅっと抱きしめることが出来れば、賢しらの千言万語など風の前の塵に等しい。
◇
見知らぬ人のブログで、うつくしい田舎町の風景を写した数葉の写真を見る。
けれどもそのありのままの自然、無邪気な子供たちの姿が何故かわたしには空々しい作り物・・・映画のセットのように感じられてしまう。
およそ自然に見えるものが(観光用に周到に仕組まれた)フェイクに感じられ、光沢を持つ人工物こそが現実味を持つ世界にわたしは生きている(生かされている)
落ち葉をゴミとして掃き清められる街にわたしは生きている・・・
Andrew Wyeth |
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お い と ま を い た だ き ま す と 戸 を し め て 出 て ゆ く や う に ゆ か ぬ な り 生 は
ー 齋藤史
・・・しかしわたしはこの女流歌人が後年二つの勲章を受勲したことを決して忘れない。
わたしたちは、過剰な添加物に着色された人の口から溢れた言葉を、無自覚に、無頓着に呼吸している。
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