汚い隅田川を観て、その末の篊(ひび)についた海苔を江戸の味などと喜んで賞味する人々を思ふと、あわれにも思われるし、またその汚い汚い流れーー大溷に大東京を貫かせて、それで文明がってゐる人々を思ふと、つくづく時代の自惚れというものの正体にも感心する
ー幸田露伴(「河川」)
わたしは東京オリンピックの前年に生まれた。当時から(東京の)河は汚いものだと思っていた。蒲田駅前から大森の方角へ伸びていた呑川も、多摩川の水も汚れていた。
そのような環境で育ったので、「綺麗な河のある東京」という発想がない。
けれども、わたしはそれが当たり前とは思わない。河の流れは本来澄んでいなければならないはずだ。
露伴は言う
時代の自惚れという奴で、誰でも自己の属してゐる時代をエライものだと思ってゐて、他の時代をば蒙昧のもののやうに信じてゐるが、それは自惚れ鏡の前の若旦那同然で、実際は何事も当人の思ったやうでも無いものである(同)
果たして今の世の中、21世紀の日本に生きて、いったい誰がこの時代に「自惚れる」ことができるのだろうか?
わたしはただ過去の世界の美しさへの郷愁と憧憬に焦がれるのみで、とても今の時代を誇らしいと思うことはできない。
露伴の言う「時代の自惚れ」というものに疑問を差し挟まざるを得ない。
本当に人々はその時代その時代、今の時代こそが最も啓けていると信じてきたのだろうか。逆に言えば、いつの時代も人々はかように無知蒙昧であったということではないか。
人間はなかなか自分の生まれ育った時代の精神から自由になることは困難らしい。
嘗て人類が単に「自惚れ」以上の、真に称賛に価する時代を持ちえたとは思えない。人間の「蒙」は、常に先行する時代より深まり、更にその闇を濃くしているということは言えるとしても。
この随筆の中に使われている「溷」という文字。読みは「コン」
意味は
みだれる(乱)
にごる(濁)
けがれる(汚)
まじる(雑)
はずかしめる(辱)
かわや(便所)
家畜小屋・・・等とある「大修館書店 新漢和辞典」
この溷の文字が今の時代を端的に表してはいないだろうか。
いや、今の時代こそが「溷」の時代だという思いもまた、さかしまの「己惚れ」であるのかもしれない。人類の歴史、その歩んできた道は、いずこも「大溷」であったはずなのだから・・・
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