2008年にブログというものをはじめて10年。約3千650日。その間に古いブログに投稿した数が671。今年になってこちらに移ってきて、今まで55個の記事を書いている。一方2011年春、即ち7年前の3月に始めたTumblr(タンブラー)、最近は投稿も間遠になりがちだが、過去にポストした絵・写真の数は約2万1000点ほどになる。
この数だけでも、この間どれだけわたしが「アート探し」に没頭していたかが知れる。
直観的に「あ、いいな!」と感じたイメージを選んできたつもりだが、仮に、中でもいちばん好きな写真は何ですか?と訊かれたとしたら、おそらくわたしは、「最も思い出深い」写真という意味で、ユージン・スミスの『楽園への道』"The Walk To The Paradise Garden" (1946年)を選ぶだろう。
ひとりの少年がまだあどけない少女(妹)の手をしっかり握って、森の中の光の中に歩み入ってゆく、ふたりの背後から撮った写真なので、子供たちの表情は見えないが、男の子の確かな足取りに幼い妹は全幅の信頼を寄せている様子が感じられる。
◇
いま読んでいる本の中に、「ぼくはちっちゃいちっちゃい女の子と遊ぶのが好きなんだよ」という言葉が出てくる。
これはルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンについて語られた文章中に出てくる言葉なのだが、この言葉の主については触れられていない。
ところで、アリスは、わたしのなかでは「ちっちゃい女の子」の範疇には入らない。
彼女は『オズの魔法使い』のドロシー同様に、少女ではあるけれども、女の子ではない。
小さくとも、年若くとも、既に人間である。
わたしのいう「ちっちゃい女の子」とは、より正確に定義しようと試みるなら、未成の人間、生まれてから、「人間」という一個の動物になる以前の、束の間、どこにも帰属しないはかなく無垢な魂とでもいうべきか。
自・他の区別も未分化で、好・悪についても定かならず、きれいやきたないという観念にも無頓着。上手い喩えではないかもしれないが、『泥んこハリー』のように、泥の中で転げまわって、黒いブチの白い犬が、灰色のブチのついた黒い犬になってしまったような、そんな無邪気さ・・・
宮崎勤の事件が起きた後に、伊丹十三と岸田秀、そして精神科医福島章が、事件について対談した『倒錯』という本を読んだ。その中に「彼(宮崎)は自己のアイデンティティが不確かで、大人の女性と向き合うことができなかったので、少女を対象として選ぶようになったのではないか?」というようなことが書かれていたように思う。
実はわたしはこの事件について詳しいことをほとんど知らない。
ただ、自分に置き換えてみると、アイデンティティを持つ相手に対するときには、こちら側にもまた、自己のアイデンティティというものが求められる。
しかしたとえば犬や猫、或いは象でも馬でも、はたまた樹々や草花のような存在であっても、相手が「自意識」というものを持たない場合、こちらもまた自己を拘束する自意識を脱ぎ捨て、放擲することができる。アリスやドロシーの場合にはそういうわけにはいかない。
女性を「異性」として意識し始めると、鉛のような頑丈鈍重な感受性の持ち主でさえ、過剰な自意識に絡めとられる。ひとりでいるときでさえ、自分に全く自信が持てず、劣等感の塊の如きわたしにとって、女性のエッセンスは「ちっちゃい子供」か、それでなければ、年老いた女性である。
「ちっちゃい女の子」にしても、老いた女性にしても、共通しているのは、彼女たちにはただ「現在(いま)」だけがあるということではないだろうか?
「明日のことを思い煩うな」という言葉がかつてある人の唇から発せられた。
それを体現しているのが泥んこになって夢中で遊んでいる幼子であり、明日を頼めぬ老女ではないだろうか。
人間社会のシステムに組み込まれる以前と、そこから解放された存在。それが幼女であり老女ではなかろうか。
人間であることに倦み疲れた時、異性の柔肌に身を埋め、己が全存在を預け肉の悦びにひたるというのもひとつの「忘我の境地」ではあるだろう。わたしはそれを否定もせず嫌悪もしない。
けれどもなまじい「自意識」や「エゴ」或いは「エロス」などを持つばかりにそれらにギュウギュウに縛り上げられて悲痛な呻きを漏らすよりも、幼子のように・・・
『あなたに愛の花束を』という邦題だったろうか?" Charlie" (チャーリー)という映画があった。(書籍のタイトルは『アルジャーノンに花束を』)その作品のラストシーン・・・
いったんは天才的な知能を獲得しながらも、実験の失敗によって、再び「子供同様の知能を持つ大人」に戻ったチャーリーが、公園の子供たちと一緒に、小さな滑り台からすべりおりてくる時の満面の笑顔のストップモーションを忘れることができない。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」と、憶良は詠った。幼子の笑顔はなにものにも勝る宝である。そしてまた老女の、晩秋の太陽のようなやわらかな笑顔も。
「うつくしい女性」といい「美女」といっても、それはつまるところ人間界の価値基準を超えるものではない。けれども幼女、或いは老女には、それよりも更に高い次元での崇高、神秘、清澄、透明、慈愛、そして気高さが宿っているように思えてならない。
この数だけでも、この間どれだけわたしが「アート探し」に没頭していたかが知れる。
直観的に「あ、いいな!」と感じたイメージを選んできたつもりだが、仮に、中でもいちばん好きな写真は何ですか?と訊かれたとしたら、おそらくわたしは、「最も思い出深い」写真という意味で、ユージン・スミスの『楽園への道』"The Walk To The Paradise Garden" (1946年)を選ぶだろう。
ひとりの少年がまだあどけない少女(妹)の手をしっかり握って、森の中の光の中に歩み入ってゆく、ふたりの背後から撮った写真なので、子供たちの表情は見えないが、男の子の確かな足取りに幼い妹は全幅の信頼を寄せている様子が感じられる。
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いま読んでいる本の中に、「ぼくはちっちゃいちっちゃい女の子と遊ぶのが好きなんだよ」という言葉が出てくる。
これはルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンについて語られた文章中に出てくる言葉なのだが、この言葉の主については触れられていない。
ところで、アリスは、わたしのなかでは「ちっちゃい女の子」の範疇には入らない。
彼女は『オズの魔法使い』のドロシー同様に、少女ではあるけれども、女の子ではない。
小さくとも、年若くとも、既に人間である。
わたしのいう「ちっちゃい女の子」とは、より正確に定義しようと試みるなら、未成の人間、生まれてから、「人間」という一個の動物になる以前の、束の間、どこにも帰属しないはかなく無垢な魂とでもいうべきか。
自・他の区別も未分化で、好・悪についても定かならず、きれいやきたないという観念にも無頓着。上手い喩えではないかもしれないが、『泥んこハリー』のように、泥の中で転げまわって、黒いブチの白い犬が、灰色のブチのついた黒い犬になってしまったような、そんな無邪気さ・・・
宮崎勤の事件が起きた後に、伊丹十三と岸田秀、そして精神科医福島章が、事件について対談した『倒錯』という本を読んだ。その中に「彼(宮崎)は自己のアイデンティティが不確かで、大人の女性と向き合うことができなかったので、少女を対象として選ぶようになったのではないか?」というようなことが書かれていたように思う。
実はわたしはこの事件について詳しいことをほとんど知らない。
ただ、自分に置き換えてみると、アイデンティティを持つ相手に対するときには、こちら側にもまた、自己のアイデンティティというものが求められる。
しかしたとえば犬や猫、或いは象でも馬でも、はたまた樹々や草花のような存在であっても、相手が「自意識」というものを持たない場合、こちらもまた自己を拘束する自意識を脱ぎ捨て、放擲することができる。アリスやドロシーの場合にはそういうわけにはいかない。
女性を「異性」として意識し始めると、鉛のような頑丈鈍重な感受性の持ち主でさえ、過剰な自意識に絡めとられる。ひとりでいるときでさえ、自分に全く自信が持てず、劣等感の塊の如きわたしにとって、女性のエッセンスは「ちっちゃい子供」か、それでなければ、年老いた女性である。
「ちっちゃい女の子」にしても、老いた女性にしても、共通しているのは、彼女たちにはただ「現在(いま)」だけがあるということではないだろうか?
「明日のことを思い煩うな」という言葉がかつてある人の唇から発せられた。
それを体現しているのが泥んこになって夢中で遊んでいる幼子であり、明日を頼めぬ老女ではないだろうか。
人間社会のシステムに組み込まれる以前と、そこから解放された存在。それが幼女であり老女ではなかろうか。
人間であることに倦み疲れた時、異性の柔肌に身を埋め、己が全存在を預け肉の悦びにひたるというのもひとつの「忘我の境地」ではあるだろう。わたしはそれを否定もせず嫌悪もしない。
けれどもなまじい「自意識」や「エゴ」或いは「エロス」などを持つばかりにそれらにギュウギュウに縛り上げられて悲痛な呻きを漏らすよりも、幼子のように・・・
『あなたに愛の花束を』という邦題だったろうか?" Charlie" (チャーリー)という映画があった。(書籍のタイトルは『アルジャーノンに花束を』)その作品のラストシーン・・・
いったんは天才的な知能を獲得しながらも、実験の失敗によって、再び「子供同様の知能を持つ大人」に戻ったチャーリーが、公園の子供たちと一緒に、小さな滑り台からすべりおりてくる時の満面の笑顔のストップモーションを忘れることができない。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」と、憶良は詠った。幼子の笑顔はなにものにも勝る宝である。そしてまた老女の、晩秋の太陽のようなやわらかな笑顔も。
「うつくしい女性」といい「美女」といっても、それはつまるところ人間界の価値基準を超えるものではない。けれども幼女、或いは老女には、それよりも更に高い次元での崇高、神秘、清澄、透明、慈愛、そして気高さが宿っているように思えてならない。
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