2018年3月14日

しゃぼん玉 ある引きこもりの独り言・・・

前にも書いたかもしれないが、昨年暮れに登録した「ブログ村」では、主に「引きこもり」「社会不安障害」「ダメ人間」などのカテゴリーにあるブログをフォローしている。

「うつ病」のカテゴリーに並んでいた日記を眺めていたら、二つの言葉が目に飛びこんできた。

なんで生きてるのかわからない」

そして

どうして外がこんなに怖いのかわかりません。」

今年、これまでに読んできたブログの中のどんな言葉よりも重く、深く心に響いた。

わたしもまたしばしば考える、というよりも「何のために生きているのだろう」という思いが、ため息のように、フッとマッチを吹き消した後にゆらめき消えてゆく煙のように、自然に脳裡に立ち上ってくる。

ナ ン ノ タ メ ニ イ キ テ イ ル ン ダ ロ ウ ・・・

わたしも、そしてこのようにつぶやく者たちも、みなわかっている。
これは疑問ではない、そして問いかけでもない。ただ、漏れてくる言葉ならぬ言葉でしかないことを。弱音(じゃくおん)を伴った、深く暗く、かそけき吐息でしかないことを。
草の上に置かれた夜露の如きものでしかないことを。





ド ウ シ テ ソ ト ガ コ ン ナ ニ コ ワ イ ノ カ ・・・

わたしも外が怖い。
玄関から出た瞬間、そこがまったく見知らぬ場所であるかもしれないという恐怖。
よく知っているはずの道が、角の公園が、見慣れた家が、ビルが、跡形もなく消え去り、外に出てものの五分もすれば道を失ってしまうのではないかという怯え。

昨日見えた景色は最早今日の景色ではなく、今日見た風景が既に明日には見えないという寄る辺のなさ。
この手で触ることの出来るもの、ずっと昔からそこにあり、昨年もそこにあり、今日も、そしておそらくは来週も、来年も、確かにそこにあるという確信の持てる実質が何もないという絶望・惑乱・・・

確かに「ここ」と感じることの出来るのは最早方丈に等しい自分の部屋だけ。
一歩外に出ればたちまち「ここ」ははるか後方に遠ざかり、「そこ」ですらなく、目の前には「どこ?」が茫洋として広がる世界のただ中に、途方に暮れてわたしは佇む。

「わたし」と「世界」との間には、髪の毛一筋ほどの繋がりもないという足場の喪失感・・・エトセトラ・・・エトセトラ・・・












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