最近わたしは何故これといった必要もないのに人間の姿をしているのか、と自らを訝る。
雪の日に笑顔の子供たちによって作られた純白のスノーマンも、翌日の太陽に照らされてその形を失ってゆく。
歪み、縮み、小さくなり、やがて溶けてなくなる。
「人間てつまりこれだよ」 と・・・
わたしは自分の「輪郭」が、わたしという存在を規定していることを厭う。
わたしの「皮膚」という「境界線」が、わたしと自然、わたしと他者との間を分け隔てていることに倦んでいる。
もっと容易に、「人の形」つまり「人間であること」から解き放たれることができたら。
「人間であることの恥辱」と、かつてプリーモ・レーヴィは言ったが、「人間であること」とは、単にその内面、人間性(=非人間性)のみを指すのではなく、同じように「人間の輪郭を持っていることの恥辱(或いは屈辱)」とは言えないだろうか?人間の姿・形とその内面とは不可分なのだから・・・
水が液体となり、固体となり、気体になるように、人間も内面の状態に応じてその形態を変えることが出来たなら・・・
雪のように、雲のように、風のように、煙のように、うたかたのように、また夢のように、影のように、光のように、雨のように、響きのように・・・あらゆるはかなき姿を持つもののように。
この輪郭を、この存在を放棄する意思が、跡形もなく溶けて揮発することであればいいのに・・・
雪の日に笑顔の子供たちによって作られた純白のスノーマンも、翌日の太陽に照らされてその形を失ってゆく。
歪み、縮み、小さくなり、やがて溶けてなくなる。
亡くなった三島由紀夫さんが、いつぞやわたしたちの目の前でご自分の腕の皮をつまんで見せながら、こんなことをおっしゃっていたことがあった。
「近頃つくづく考えるけれど、人間てこれ、この皮膚の内側におこることは、けして他人にはわからないわけで、このうすっぺらな一枚の皮膚こそ、自他の間を決定的にわかつ曲者なんだよ、」と。
人間てつまりこれだよ。そんなふうないいかただったかもしれない。もう十二、三年もまえで、正確なことばづかいなどはわすれてしまっているけれど。それでもその、夏物の半袖からむきだしになった二の腕の皮を二本の指でひょいとつまんでみせた、その手ぶりだけはいまも鮮やかにこの目に残っている。
ー 矢川澄子『反少女の灰皿』(1981年)より
「人間てつまりこれだよ」 と・・・
わたしは自分の「輪郭」が、わたしという存在を規定していることを厭う。
わたしの「皮膚」という「境界線」が、わたしと自然、わたしと他者との間を分け隔てていることに倦んでいる。
もっと容易に、「人の形」つまり「人間であること」から解き放たれることができたら。
「人間であることの恥辱」と、かつてプリーモ・レーヴィは言ったが、「人間であること」とは、単にその内面、人間性(=非人間性)のみを指すのではなく、同じように「人間の輪郭を持っていることの恥辱(或いは屈辱)」とは言えないだろうか?人間の姿・形とその内面とは不可分なのだから・・・
水が液体となり、固体となり、気体になるように、人間も内面の状態に応じてその形態を変えることが出来たなら・・・
雪のように、雲のように、風のように、煙のように、うたかたのように、また夢のように、影のように、光のように、雨のように、響きのように・・・あらゆるはかなき姿を持つもののように。
この輪郭を、この存在を放棄する意思が、跡形もなく溶けて揮発することであればいいのに・・・
日の光が そっと小声で
雪にさそいの言葉をかける
苦しみなしに 死んでお行き
雲だってそうしている と
ー ジュール・シュペルヴィエル 「日の光が そっと……」
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