2018年3月6日

辻潤、そして真のアナーキズム

国家とは、どのような政体を持とうとも、ひとつの専制である。すなわち、支配者の意思が被支配者の意思と同義と見做される。その矛盾に国家は立脚する。

「支配者の意思」とは、つまり「法律」である。国家は個人の意思を規定する。
国家にとっては誰一人「自らの法」を持ってはならず、そうした意思を抱くものはただちに排除(拘禁・追放・死刑等々)される。もし万人が自己の意思を持てば、国家は当然廃絶される。服従が止む時、支配もまた終わるのであるーー

この意思は国家の破壊を願う。
国家とは人々にとって、税金であり、監獄であり戦争であることの他に何であり得るのか?国家は専制体である。支配者がひとりであろうと、多数だろうと変わりはない。「民主制」について言えば、「万人が主人である」ことは各人が他者を制圧する、という意味に他ならない。

ーー例えば、私がいかなる義務も認めず、自己の意思を拘束せずまた拘束せしめぬことを望めば、却ってそのために『法律』によって拘束を受けるに違いない。だが何人も私の意思は拘束し得ず、反抗の意思は自由でありつづける。

諸国家は様々な方法で、「最高権力(暴力)」を分配する。つまりある個人がそれを所有すれば君主制と呼ばれ、万人が有すれば民主制であるといったふうに。ともかくも、最高の権力を、だ。それは誰に対しての権力か?個別人間の自己意思への、だ。

国家は権力を行使するが、個々人には許されない。国家の権力(=暴力)は、「法律」(=正義)と称されるが、個々人の権力は「犯罪」と名づけられるのである。
故に、「国家が個人の上にある」のではなく、「個人が国家の上にある」という見解、乃至感覚を持つ者は、「犯罪」によってのみ、「国家権力」を破ることができるーー

ー 辻潤訳『唯一者とその所有』シュティルナー





辻潤は明瞭に言う、「ボンクラな秀才を養成する赤門式教育」「都会をメリケンの場末の町なみにするのを繁栄と心得ている政治屋・資本家」・・・すなわち「人間を取り締まろうとする連中の馬鹿の多いことを見よ」と。

彼が現代に生きていたら、「税金を納めるために小説を書きとばしている流行作家」「首相に招待されることを無上の栄光と思い込む文化人」等々、馬鹿の数が増えていることに驚倒するだろうが、今も昔もその本質に変わりはないのである。

大正デモクラシーの時代に、辻潤は率直かつ果敢に言った。
「民衆と称せられる大多数の賤民たち」と。誰憚りなく、これほど正直な言葉を吐く者がいまあるだろうか?
内心そう思いながら、常にその賤民思想・大衆に阿諛し、利用する側に立つ社会主義者・エセ革新党派ほど、民衆から遠い存在はないのだ。
辻潤は暗澹と述懐する・・・
「民衆はオリンパスに憧憬する。彼ら自身の裡に、あらゆる暴政と、偽善と、あらゆる背理と、あらゆる奴隷根性の種子を蔵しながら、”凡庸と無資格のあこがれ”である民主主義に、日常の無事を願ってぬかずく」
この言葉は断じて民衆に対する侮蔑、絶望のあらわれではない。民衆自身の裡なる「怯懦」を撃つ”愛情”の逆説的表現なのである。
ゆえにいう、「わたしはいうまでもなく弱者・貧乏人の味方である。なぜなら自分が弱者で、貧乏人だからである」「わたしは夢をみているときにはアリストクラシーであり、目覚めているときはプロレタリアートである」

辻潤の実践したダダイズムとは要するに、なべての固定観念をかなぐり棄てた自由な人間の生きざまであり、この国のジャーナリズム、知識階級のありようは、そのような異端をついに許容しなかった。
  (略)
思想と結びついた生活がなく、建て前と本音とが乖離したこの国では、真に透徹したデカダンやニヒルの何たるかを人は理解できない。第二次大戦終結の前夜、辻潤は虱に喰われて陋巷に文字通り窮死した。

ー 松尾邦之助『ニヒリスト / 辻潤の思想と生涯』(1967年)



竹中労著『黒旗水滸伝・大正地獄編』中にこの引用を見つけたわたしは、早速図書館で松尾何某の本を探してみた。と、社会評論社より『無頼記者、戦後日本を撃つ 1945・巴里より「敵前上陸」』という本が2006年4月に上梓されている。
氏の略歴も附記されていて、
【1899〜1975年。静岡県生まれ。パリ大学高等社会学院卒業。新聞記者、評論家。大東文化大学教授。64年フランス政府よりアール・エ・レットル(芸術文化勲章)を贈られる。】とある。

率直に言おう、
「・・・「首相に招待されることを無上の栄光と思い込む文化人」等々、馬鹿の数が増えていることに(辻潤は)驚倒するだろうが、今も昔もその本質に変わりはないのである。」云々と述べている夫子自身、フランス政府=すなわち「国家」からの叙勲を受けているということは矛盾してはいないか?

嘗て辺見庸は書いた、「別に(日本)共産党が好きじゃないけど、ただ一ついいなと思うのは、「叙勲だけはお断りします」と。まあ当たり前のことなんだけどね・・・」

辺見庸の言葉を待たずとも、勲章をもらうということは国家権力と睦むこと、情を交えることに他ならない。それをしないのは、独立不羈の一個人としての最低限の廉恥であり矜持である。
わたしは日本に限らず、なべて「国家」と名の付くところから受勲した者たちを、その才能を認めつつも、一個の人間として到底好きになる事が出来ない。それが文化勲章であれ、国民栄誉賞であれ、紫綬褒章であれ、文化功労章であれ、レジョン・ドヌール勲章であれ・・・
わたしは最近、何故人はかくも「勲章」が好きなのだろうと考えている。(以前 『勲章 知られざる素顔』岩波新書 新赤版 という本を読んだのだが、まだまだ資料が足りない・・・)
  
かつて阪急ブレーブスで活躍した「盗塁王」福本豊が、国民栄誉賞を辞退していたということを最近知った。
その理由として「俺は酒も飲むしタバコも吸うし・・・決して人から褒められるような立派な人間じゃないから」ということらしい。

わたしは国から受勲しながら一方で戦争反対を言う人たちを心底から軽蔑する。
勲章を手にした瞬間から、彼らは「国家(お上)」と一身(一心)同体になっているはずなのだから。
故に仏国よりの受勲者、松尾某氏、アナーキスト辻潤について喋々するは僭越推参、自家撞着の婆伽者也と申しあげておこう。

附言して曰く、
「国家とは人々にとって、税金であり、監獄であり戦争であることの他に何であり得るのか?」
国家とは税金であり、牢獄であり戦争であるとともに、それらを正当化し名利ニ堕落セル才子を籠絡・懐柔する勲章であるのだと・・・

















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