2022年3月13日

戦争とは・・・

 「戦争は政治の継続である」この点からいえば、戦争は政治であり戦争そのものが政治的性格をもった行動であり、古来、政治性をもたない戦争は存在しなかった・・・。

だが、戦争には戦争の特殊性があるという点からいえば、戦争はただちに政治一般に等しくはない。「戦争は別の手段による政治の継続である」。

政治が一定の段階にまで発展して、もはや今までどおりに前進できなくなる。そこで、政治の障害を一掃しようとして戦争が勃発する。

・・・障害が一掃され、政治の目的が達成されると戦争は終結する。障害が一掃されないあいだは、戦争は目的の完結のため、ひきつづきおこなわれなければならない。

・・・・したがって、政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるということができる。

「毛沢東語録」竹内実 訳 (1971年)より


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Mao - Andy warhol 

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“Politics is war without blood,
while war is politics with blood.”

Mao Tse-tung (1893 - 1976) 







2022年3月11日

追記

 わたしは至らない人間ですが、友人としての彼女を失いたくありません。

話の中で彼女が最近『愛の嵐』を観たという話題になりました。
わたしは観たことがありませんが、シャーロット・ランプリング主演の、ナチス時代を舞台にした映画であることくらいは知っていました。わたしはその原作が「リリアーナ・カヴァーニ」ではなかったかというと、彼女は「知らない」と。「リリアーナ・カヴァーニは原作じゃなくて監督だったかな?それとも、監督はファスビンダー???」そんなことを独り言ちている間、彼女はスマホを取り出して確認することをしませんでした。「えー知らない」「わからない」
一瞬にして答えが分かってしまうこの無味乾燥な時代に、「知らない」「わからない」と言える人。そいういう人とこそ、友達でありたいのです。
逆にいえば、わたしがぶつぶつ言っている間(ま)に、さっとスマホを取り出して答えを出してしまう人とは友達になりたいとは思わないのです。





宿痾 或いはちっぽけな自分

今日は過去に何度か食事をしたことのある友人と、2年ぶりに落ち合って話をしてきました。
母以外、医者以外の人と外で話をするのは2年前にその人と会って以来。
ここのところ(もう長い期間ですが)の心身の低迷不調ぶりや、相手が極めてセンスのいい女性であることなどから来る様々な不安や緊張に縛られて、もう会うのはよそうかとさえ考えました。それでも心は乱れ、「あれか・これか」の迷いは消えることなく、困じはてて底彦さんに率直な不安と緊張を伝えるメールを認めました。
鬱で体調の優れない中、底彦さんは、最大級の賛辞を以てわたしに自信を与えてくれました。
底彦さんの言葉に励まされて、今日、会う勇気が出て、先程帰ってきましたが、今は自分のちっぽけさに打ちのめされています。


「江戸っ子は、五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先だけでハラワタは無し」という言い方をします。この言葉こそ正にわたしにピッタリの言葉で、卑俗な言い方をすればわたしは「口の達者なバカ」なのです。

以前行った心理テストで、わたしの知能指数は、平均よりもかなり劣っていることが明らかになりました。そんな中で、言語能力だけが際立って高い。つまりこれこそが、「口先だけで脳みそは無し」であり、「口の達者なバカ」である何よりの証明と言えるでしょう。

「普通に見える。或いは並の人よりも優れて見えるということが、却ってTakeoさんの不幸かもしれません」というのが主治医の意見です。平たくいえば、「馬鹿なのに利口そうに見えてしまう」という「不幸な誤解」を招くということです・・・

豊かな知性を具えているように見えるけれども、その実中身は空っぽ。
今日の友人との会話の中でもそのことを改めて痛感しました。真の「知性」とは程遠いところにわたしはいます。

知性豊かな人間になって、底彦さんや、今日会った女性のような友だちを持つのにふさわしい人間になりたいと願います。けれどもこれは持って生まれた障害であり限界です。加えて、こんな風になりたいと理想を口にしながら、現実には勉強が嫌い、努力すること、頑張ることが大嫌いとなれば、所詮それなりの友人を持つなどということは夢のまた夢ということになります。

今になってわかる気がします、若い頃からわたしの抱えて来た胸の裡の空洞感が何に由来するのか。
現に空っぽだったからです。実際に「空洞」だったのです・・・

わたしはこのブログに一片の「嘘」も書いたことはありません。
しかし、確たる「知」の欠如の上に記された文章に、どのような眞實が宿るのでしょう。








2022年3月9日

女優




メキシコの画家ロベルト・モンテグロによる女優マルキーザ・ルイーズ・カサーティのポートレイト。

多くの画家たちの手になる彼女の肖像が残されています。


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「容貌(ルックス)とはすなわち「態度」なのです」








 

2022年3月7日

障害者であるということは

 
ひたすらかなしいことですね





2022年3月6日

想い...

「率直に言って、私は私のいいところ(とされるもの)を犠牲にすることを厭いません。そもそも私が求める変化は、"スマホを代表とするような今の文化が好きになる"といったような相反する自分になる変化なので、今の私が犠牲になるのは必然と言えます。
共感し難いことだと思いますが私のような自分を愛せない者にとっては、自分という存在に苦しむ者にとっては、自分を失えることはむしろ幸福に近いことです。」


わたしはこの言葉に少しの違和感も感じなかった。「彼」乃至「彼女」の告白について何か書かなければ、少なくとも真剣に考えなければならないと思った。それほどまでにこの心情の吐露は、重い錨のように深く、わたしの胸の裡に沈んでいった。

けれどもわたしは疲れている。何故こんなに疲れているのか・・・

休みたい。身も心も。深い安らぎの中で眠りたい。

しかし現代社会の中で、身体の芯から、こころの芯から安らげる場所が、時間が、いったい何処にあるだろうか?

「生」という重い鎧を脱ぎ捨てぬままに・・・








2022年3月2日

病むことの意味

 再度確認しなければならない。

「健康」とは、あくまでも人間の生体と、その者を取り巻く様々な環境=外部の世界両者の調和にその基礎を置く。であるならば、目の前に座っている患者の心身の状態のみを改善しようと試みる精神医療の意味とは何か。

正直なところ、わたしにとって、精神科に通院することに何の意味があるのか皆目わからない。

一般に精神医療に於ける「回復」とは、河の汚染を放置したまま「患者」を「ドブ泥に適応させる」ことであると考える。

確かに「適応」することができれば、患者の主観にとって、そこは最早「ドブ泥」ではなくなっていると言えるだろう。

「少しでも楽に生きられるように」という精神科の謳い文句の意味が、「ドブ泥をドブ泥と思わなくなる」ということであれば、生体の精神を蝕む「社会の病」は、何時、如何にして治癒されるのだろう。

精神医療の発展によって、「回復者」が増加すれば、その分「社会の病理は深刻化しつづける」というパラドクスが成立しないだろうか・・・

われわれは「病む(病んでいる)ことの意味」を、その「意義」を「価値」を、もう一度熟慮しなければならないだろう。