日頃知的ぶっていても、高踏を気取ってみても、何かの折に、いま巷で話題になっている所謂「ゴシップ」・・・俗世間の出来事について何事かを語ろうとするときに、その人物に本当の教養が備わっているかどうかが分かるのだろう。
のっけからこんなことを書いて自分の首を絞めているようなものだが、この手の話題について書くことに慣れていない。第一わたしは、人がどう見るかは知らないが、「知的」や「高踏」であることを以て自ら任じたこともないし、自分に相応の教養があるなどとも思っちゃいない。
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さて、所謂「ゴシップ」だが、29日火曜日、30日水曜日の朝日新聞朝刊に、例の(といっていいのかな?)アメリカの黒人俳優、ウィル・スミス氏のアカデミー賞授賞式会場での、司会のコメディアンに対する「平手打ち事件」が報じられていた。
29日の新聞より引用する。
アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスさんが舞台に上がり、コメディアンのクリス・ロックさんの顔を平手打ちする一幕があった。米国ではテレビ中継が一時止まる騒ぎとなった。ロックさんは、ドキュメンタリー部門の受賞者を発表している最中に、スミスさんの妻を指して、「(丸刈りの女性兵士が登場する)G・I・ジェーンの続編も楽しみにしている」という発言をした。スミスさんの妻の短髪をジョークにしたとみられ、直後にスミスさんが客席から舞台へ上がり、ロックさんの顔をたたいた。スミスさんの妻は脱毛症であることを公表している。米国での放送はその直後に止ったが、スミスさんは席に戻った後も、放送禁止用語を使いながらロックさんに「妻の名前を口にするな」と怒鳴った。その後スミスさんは主演男優賞を受賞。スピーチで、「(自分が)悪口を言われても、自分が軽蔑されることに慣れなくては。愛情のための船のような存在になりたい。みなさんに謝罪したい」として、自分の行為を謝罪した。
本日(30日)付けの記事では、
「暴力は全ての形において有毒で破壊的だ。私の行動は許容されるものではなく、言い訳もできない」。スミスさんは28日、「インスタグラム」にそう投稿した。ロックさんにも直接謝罪した。
授賞式ではロックさんが、脱毛症を公言しているスミスさんの妻ジェイダ・ビンケット・スミスさんの短髪についてのジョークとみられる発言をした。その直後、客席にいたスミスさんが舞台に上がり、ロックさんの顔を平手打ちした。
アカデミー賞を運営する「映画芸術科学アカデミー」は28日に声明を出し、「アカデミーは昨晩のスミス氏の行動を非難する。正式な調査を始めている」と述べた。俳優らでつくる労働組合「米俳優組合(SAG-AFTRA)も、28日の声明で、スミスさんの行動は「受け容れられない」と批判。「この行動が適切に対処されるよう働きかけてゆく」とした。(下線Takeo)
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さて、私見を述べれば、ウィル・スミスの取った行動は、単純にいえば「正当防衛」ではないかと思うのだ。
この一件については、わたしは、上記の2つの新聞記事以外の情報を一切持たないが、ここにはウィル・スミスの「平手打ち」という「身体的な暴力」のみが喋々されていて、司会(?)の三流コメディアン、クリス・ロックという者の「言葉による暴力」については一切触れられてはいない。「禿頭(とくとう)症を嗤う」という極めて悪質な言葉の暴力に対し、スミスの「平手打ち」は比較にならないほどに「わるいこと」なのか。
またスミスの公式な謝罪についても、個人的には納得がいかない。
そもそもわたしは「暴力は全ての形において有毒で破壊的だ」という考え方に与しない。
ここにも何度も書いてきたように、わたしは時と場合によっては(例えば9.11のような)「自爆テロ」に共鳴するし、所謂「刺客による暗殺」を支持する者だ。
下から上に向けての、弱者から強者に向けての、被差別者から差別する者への暴力は「正当な怒りの行使である」というのがわたしの持論だ。
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スミスの取った行動は正しかったと思っている。けれども、妻を嘲われたことに対して怒りを爆発させた行為を、その後の謝罪によって、自ら否定している。「自分は間違っていた」と。
これをわたしは「堕落」と呼ぶ。同時に自分の妻に対する裏切乃至背信行為であると。
今更言うまでもなく、事件後のスミスの一連の言動は、「大人としての」「名のあるハリウッド俳優としての」「オスカー受賞俳優としての」冷静な判断に基づいたものだ。
会場で、愛する妻を揶揄され、前後を忘れて壇上に駆け上り、愚昧なる司会者を「ぶん殴った」「生身の人間ウィル・スミス」ではない。
そもそも、彼のことは、顔と名前を知っていて、一本くらい作品を観たことがあるかもしれないが、特に関心のある俳優でもない。けれども、仮にわたしの敬愛する者が、今回のウィル・スミスの一連の行動のような「怒りという愛情の一形態に身を任せた真の人間」の姿から、「すべての暴力を憎む良識ある社会人」への変節を遂げるのを目の当たりにしたら、わたしは彼・彼女に愛想尽かしをするだろう。
わたしはウィル・スミスは「愛情」よりも、自己保身に走ったと受け取っている。
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「やったのは彼らだが、そう仕向けたのは私たちだ」(9.11について)
ー ジャン・ボードリヤール
「多くの人は「何をやったか」だけをみて、「なぜやったのか?」をみようとしない」
ー『雨あがる』山本周五郎