2021年7月29日

断想 健康礼賛の罪

夕方5時近く、御茶ノ水の眼科の待合室で、他の医師の診察が次々に終わり、わたしの目の執刀医に患者が集中している。待合室の各医師の診察室の前にモニターが据え付けられていて、受付番号が表示され、あと何人、どのくらい待つのかがわかるようになっている。2時の予約で行って、4時を回った時点で、現在の診察は1時半予約の患者だ。

診察の終わった医師の、順番を表示するモニター画面が、待合室の患者に配慮してか、オリンピックの画面に切り替わった。映っているのは、男子高飛び込みという競技で、高いところの飛び込み台から、ふたりの選手が同時に数回回転して、水中に飛び込む。
率直に言って、見ていて心地のいいものではなかった。既に2時間待たされているという苛立ちもあるだろうが、それだけではない・・・二人の人間が全く同じ動作をするという、なんというか機械化された人間を見る居心地の悪さ、更に言えば薄気味の悪さを感じてしまう。わたしは決して同性愛差別者ではないし、自分でも、美しく若い男性に(性的に)魅力を感じることさえあるが、競技が終わった後、若くつやつやした、ほとんど全裸の男性同士が抱き合っているのを見て、嫌悪感を感じた。
おそらくこれが女子選手であっても同じことだったろう。特にシンクロナイズド・スイミングのように、複数の人間が寸分違(たが)わぬ同じ行為・動きを行うことが、いかにわたしの審美観とかけ離れているかを改めて認識する。
男子水泳自由形の場面も映されたが、どうしても彼らが、西部邁ではないけれども、「サイボーグ」のように思えて目を背けたくなる。
スポーツ選手(最近はアスリートと呼ぶらしいが)は、いかに天然自然の人体=肉体から遠ざかるかが目的ではないのか。

いずれにしても、若く、色艶がよく、「健康」という観念を具現化したような若い選手たちを視ていると、オリンピックというものは、少なくともわたしにとって、「美」とは最もかけ離れた場所・行為だと思わざるを得ない。

若いこと、力強いこと、健康であること、彼ら、彼女らのこれら身体的、形而下的な属性は、当然彼らの精神の在り方にも影響を与えているのだろう。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」── 仮にオリンピックの精神が、この言葉に限りなく近いとすれば、それは限りなくわたしの美意識とは隔絶している。
(精神も含めた)「健康・健全さの礼賛」「統制のとれた動作」「国威発揚」「諧調・均整・均衡への傾斜」・・・これらがどうしても、ファシズム=軍国主義と結びついてしまう。或る人はオリピックを「健康の祭典」と揶揄した。パラリンピックの選手たちを、誰が「障害者」と見做すだろうか。


目の調子は相変わらず良くない。けれども、3時間待って5分間診療の医師は、検査結果だけを以て、「経過は良好ですね」という。相変わらずこちらから目の霞みや視力がなかなか手術前の状態に戻らないことについては訊く余裕がない。この医師の患者が後20人ほど待っている。
アートのブログを再開して、つくづく目の大切さを実感したが、やはりいつもいうように、(経過の)説明なく、患者への質問なく、そしてこちらから質問もできない医師のために、丸一日潰されるのはもう終わりにしたい。

なぜこうなるのか?つまりは医師が健康・健常だからである。

「病め医者 死ね坊主」という俚諺がある。これは、医者は病んでみて初めて目の前にいる「病み弱った者」の気持ちがわかり、坊主は死んでみて初めて遺された者の悲しみがわかるという庶民の怨嗟である。

健康であることはかならずしも罪ではない。けれども健康を礼賛することは決して好ましいことではない。健康礼賛は・・・限りなく罪に近い。

霞んだ眼のまま、推敲もままならず書く。


ー追記ー

ヒトラーは嘗て、レニ=リーフェンシュタールに「ベルリン五輪」の様子を『美の祭典』と銘打って映画化させたが、五輪は「健康の祭典」ではあるけれども、決して「美」の祭典などではない。(仮初にも「健康の祭典」と呼ばれるものが、「美の祭典」足り得るわけがないじゃないか。)














 

16 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    3時間待って5分の診察って酷すぎません?
    説明も質問もなしーー?!??
    患者を舐めるなよって。
    でも不思議なのは、こうやってちょちょいと軽く診察してるってのになんでこれだけ診察の順番が押して、時間が何時間もずれ込むのでしょうか?
    要するに、適当に診察するばかりでなく、時間のマネージもできてないって事ですよね
    予約取る意味ないじゃん。

    あ、オリンピックに出るようなアスリートたちの身体、私も全然美しいと思えないんですよね
    なんつーか、彼らから訴えかけてくるものが皆無だし、そうそうなんか肌も筋肉ついてるにが当たり前だってのに、なんだかぽてっとしている感じを受け、ぼてっと言うのは、指で押したら皮膚に弾力無くて、押したところにそのまま指の跡が残ってそうな、、まさにその下に血管が通ってて、熱い血が通ってて、そこに筋や筋肉が、と言う生の鼓動を感じない。
    ただのモノ。
    虫とか、花とか、見てると本当に感心するくらい精巧で美しく、かつ細やかな手ほどきさえも感じられて、うはーと感心しちゃうってもんだけど、、、
    あとね、栄誉を求めてる人って言うのも、見てて美しいないんですよ
    モチベーションが貧しいから、その辺のところが現れている。
    大体さ
    金と欲と見栄の臭いしかしませんしね、オリンピック
    なんだかああ言うのに狂喜すること自体が鈍臭いと思っています。

    目の調子が医者に頼らなくてもTakeoさんの自然治癒力で良くなって行きますように。


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    1. こんにちは、Junkoさん。

      3時間待って、診察は5分なんてのは、(他の国の事情は知りませんが)日本の大病院では「あたりまえ」のことです。
      今回は、厳密には、わたしたちが待ったのは、2時間半前後でしたが。(苦笑)

      日本の精神医療は欧米(=先進各国)に比べて30年遅れていると言われます。けれども、遅れているのは必ずしも精神科に限定されないと思います。世界でも最先端の医療機器を具えていても、そもそも「人間」という存在に対する認識が極めて薄く、浅く、且また「人権」ということに対しての意識が極めて低い国ですので、患者を数時間待たせるということに何らの痛痒も感じていない医療従事者が大半でしょう。
      「人権に対する意識が低い」というのを言い換えれば、今自分の目の前にいる「患者」と呼ばれている人たちも、自分となにも変わらない「人間という存在」なのだという感情です。

      確かに「5分間診療」で「捌いて」いっているのですから、いつまで経っても、人の流れがないというのは不思議です。
      「待った甲斐あって」というならはなしは別ですが、2時間、3時間待っても、そこら辺の町の眼科と同じような診察しかできないのなら行く意味はないと思い始めています。
      少なくとも(個人的な経験からですが)「町医者」は大病院の医師たちよりも患者の訴えを聞いてくれます。(これも「人による」のでしょうけれど)

      御茶ノ水のわたしの主治医=理事長が、どれだけ豊富な知識があって、たくさんの手術をこなしていたとしても、それが患者の診察の際に、何ら反映されていないのでは、わざわざ1時間以上も掛けて通院する意味がありません。もう再び行くことはないでしょう。



      「鍛え上げられた肉体」の美しさは、わたしにはわかりません。どうしても人為的に造り上げられた、それこそ「人造人間」という感じです。

      画家が絵を描き、写真家が写真を撮ることも、もちろん「人為」であり「作為」ですが、キャンバスに絵の具を塗ること、フィルムに瞬間を写し取ることで「美」は生まれません。「美」はあくまでも生成乃至発生するもの、期せずして見出されるものであると考えます。映画だって、監督が細かく動作を支持しているじゃないかと思われるかもしれませんが、しかし、できあがった映画の魅力は、ハンフリー・ボガードなり、オーソン・ウェルズなり、アル・パチーノ、デ・ニーロ、ハックマンたちの個性の魅力に他なりません。
      彼らの魅力を・・・自然の魅力をいかに上手に引き出すかが、監督の力量でしょう。

      そう。Junkoさんの言われるように虫も、植物も、「自然」=(「ネイチャー」だけでなく「ナチュラル」)だからこそ美しいのです。ですからわたしは「生け花」をどうしても受け付けません。
      「無為」であること。そこに美は「見出される」のだと思います。
      それに対して、オリンピックの選手たちの肉体及び動きは、人工の極致です。

      >栄誉を求めてる人って言うのも、見てて美しいないんですよ
      モチベーションが貧しいから、その辺のところが現れている。

      仰ることに全く同感です。更に「勝って喜ぶ」という心理がわかりません。
      「アート」にも「文学」にも、「遊び」にも「勝ち負け」はありません。
      或るのは観賞者の主観的な好き嫌い=趣味の問題だけです。いったい誰が、バッハとモーツァルトとの間に優劣をつけられるでしょう。ラファエロとゴッホとの間に・・・

      そもそも「勝敗を競う」って何でしょう?それにどんな意味があるのでしょう。
      わたしは「勝負」の魅力がわかりませんし、もともと「敗残者」に、「落伍者」に魅力を感じる者です。しかし、「敗者に魅力を感じる」といっても、「銀メダルで悔しい!」などと言っている、言葉の本来の意味での「莫迦者」共には、いうまでもなくまるで魅力など感じませんけれど・・・

      「勝った負けたと騒ぐじゃないよ」って、演歌の歌詞にあったと記憶しています。
      繰り返しますが、わたしは勝ったとか負けたとかに関心を寄せる心情がどうしても理解できません。



      上記の文章の中に、ひょっとすると、メプさんの心情を害するようなことが書かれているかもしれませんが、わたしはメプさんがコメントに書かれているような努力を、暗に批判したり、皮肉を言うつもりは毛頭ありません。人(御両親、そして家族)のために、なにか努力をすることに何のために皮肉を言ったり批判したりする必要があるでしょう。

      メプさんの行われた「作為」と、ここで話題にしている作為とはまるで無関係です。
      メプさんの行為を作為・加工というのなら、それは母親が(或いは父親が)、家族のために「料理・調理」することと似ているでしょう。それはいかに素材の本来の味を生かしつつ、美味しく作るかという「サービス」と同義です。



      目に関しては、いまだに読み書きには苦労しています。ただ、現在は眼圧などに関しては安定しているようなので、その状態が保たれればと願うばかりです。本来なら、何故今眼圧が安定しているのか?日常生活の中で気を付けることはどういうことなのか?そういう「説明」があるべきなのですが日本の大病院に、それを求めるべくもありません・・・

      アートのブログを始めてから、ひとのブログを読むことがほとんどなくなりました。
      写真や絵画は雄弁です。けれども、(今現在のわたし自身も含めて)現代の日本語の不毛さ。貧弱さ。ありきたりで貧相な発想。想像力の射程距離の短かさ等々・・・更に言えば言葉遣いの低劣さにはうんざりです。

      書き手には、書かれている内容がすべてかもしれませんが、読み手にとっては、そもそも「文字」はひとつの「形象」であり「意匠」であるという発想はないのでしょうか?



      最後にJunkoさん、そしてメプさんに、どうでもいいといえばどうでもいいことですが、ちょっと気になっていることをお聞きします。

      例えばJunkoさんが蛇蝎の如く嫌い、軽蔑している者が、Junkoさんのブログに日参しています。それはそれで無視できればいいのですが、最近知り合った人が、Junkoさんの考え方に興味を持ち、共感もしている。けれどもその人は、例のJunkoさんが忌み嫌う人間にも同時に心酔している。そういうことって可能だと思いますか?

      クラシックもヘビメタも大好き、という人はわかります。けれども、黒人とレイシストが両方とも好きだという人って、どう思われますか?

      ふたつさんあたりなら、黒人とレイシストと、両方とも好きだ、という人間をどう評するでしょう。



      コメントをありがとうございました。

      Junkoさんのコメントのわりには短めなのは、メプさん同様、わたしの目の状態を気遣って下さっているのだと感じました。

      またこの場を借りて、先のメプさんの、わたしの無礼な返信に対するいつに変わらぬご理解に感謝します。

      改めて、Junkoさん、メプさん、どうもありがとうございました。

      乱文失礼します。

      Takeo










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  2. こんにちは。

    せっかく私の名前を出していただいたので、コメントします。
    (あら、忘れられてなかったのね、うれしいわ!)

    まず、『黒人とレイシストを同時に好きなれるか?』

    私の場合は有り得ません。
    これは黒人が好きかどうかとは関係ありません。
    私の場合、どんな条件を付けられたとしても、レイシスト(人種差別主義者)を好きになるということは有り得ません。
    私は、何が一番嫌いか?と聞かれたら、迷わず「差別」と答えるでしょう。
    だから、人種差別に限りません。
    如何なる「差別」であっても、それを公然と行う人を好きになるということは有り得ません。

    だから、どういう意味での「差別主義者」であっても、また、その人が誰を好きであっても、嫌いであっても、同じですね。
    私にとっては、「差別」とは、「この世界に存在し得ないこと」であって、それを力ずくで存在させようとする行為に、どのような形であっても同意することはありませんね。

    (私にとっての「差別」とは、「この世界に存在し得ない上下の差を創り出す行為」のことです。)

    ただし、前にTakeoさんが言っていたように『差別された者が差別した者を差別する』と言うパターンだけは「アリ」です。
    これは、私の解釈の中では「差別」ではないので。

    (こちらは「上下の差を解消する行為」に当たります。)

    「暴力」と「防御」の関係に成ります。


    ただ、私は、前にも書きましたが、「自分の好み」をあまり重視しません。
    だから、嫌いな相手には何をしてもいい。
    例えば、不必要に『あなたが嫌いです』と言っていいとは思っていません。
    これも、上の「暴力」と「防御」の関係が成立する場合は「アリ」です。


    「自分の好み」を絶対視するということこそ「差別」のモトに成っているものだと考えるからですね。

    「好み」は、「どうしても発生してしまうモノ」ですが、それを基準に全てを測ってしまえば、必ず「差別」や「迫害」が生まれます。

    「好み」を持ってはいけないとは思いませんし、「好み」を重視してもいいと思いますが、絶対視することは、私は否定的ですね。
    と言うか、どういうことも「絶対視」はしない方がいいと思っています。


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それから、次に、オリンピック選手についてです。

    私は、「外見」も重視しません。
    だから、その人がギリシャ彫刻のような体をしていても、映画のエレファントマン(私は見てませんが)のような体をしていても、同じようにしか見ません。

    私が区別するのは「人間」と「ほかの動物」あたりからで、「人間」だなと思えば、そこから先に区別は無いですね。

    例えば「男女」の区別はありますが、それはあくまで上下の差のない横並びの区別です。
    これは、人種であっても民族であっても同じです。
    と言うか、「ほかの動物」であっても、上下の差が無いのは同じです。
    「人間」と「猫」も同じ高さです。
    ただし、私の場合は、自分に近い者を、重視してしまうということからは逃れることができません。

    そういう意味で、「人間」は、どうしても強く意識せざるを得ませんね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    最後に、別のコメント欄にあった、Takeoさんとメプさんの会話についてですが、私が考えるところでは、Takeoさんも「嘘=ホワイト・ライ」が言えなかったのと同じように、メプさんも「嘘=ホワイト・ライ」が言えなかったという解釈が成り立つと思いました。

    おそらく、このブログをたくさん読んでおられるであろうメプさんは、きっと「トリミング」や「補正」という言葉にTakeoさんが敏感な反応をするであろうことは予測できていたんじゃないでしょうか?
    だとすれば、メプさんは何の気なしに、つまり、無思慮・無配慮に、その言葉を使ったのではなく、あえて、「ホワイト・ライ」を避けて、「ブラック・トゥルー」(そういう言葉は無いでしょうが)を使ったのだと思います。

    そして、Takeoさんがあえて「ブラック・トゥルー」を封印したのも「やさしさ」だし、メプさんが、あえて、馬鹿正直に(いい意味です)「ブラック・トゥルー」を使ったのも、また、一種の「誠意」であり「やさしさ」なのではないかと、わたくしは、思いました。


    それでは。

    いつも拝見しておりますので、忘れないでね!

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      Junkoさん、メプさんに、まどろっこしい質問をしたので誤解を与えてしまったようですが、わたしが上でおふたりに聞きたかったのは、「差別」の問題ではないのです。

      ある人物(=あるブログ)が、わたしのブログに多少の共感を持ちながら、同時に「例のブログ」の「彼」に心酔している。そのことがどうしても理解できないのです。

      それを比喩で語る時に、例えば「白と黒」「右と左」といった、「正反対」の言葉では表すことはできません。何故なら色にも方角にも優劣はないし、違いはあるが敵対しているわけではない。そこで敵対・対立という関係を表わすのに「黒人」と「レイシスト」という譬えを用いました。この譬えが適切だったとは思いませんが、要は、「人は、まったく相容れないふたりの人物に共に共感できるものか?」ということが質問です。

      もし少しでも「彼」の言葉、考え方に共感する人がいれば、その人は必ずわたしを嫌うはずです。そうでなければおかしいのです。

      「(その人に)嫌って欲しいの?」とふたつさんなりに訊かれれば「はい」と答えます。

      「彼」を少しでも好きな人間に好かれたくはありません。

      寧ろ彼と共にわたしを嫌って欲しいと願います。

      それほど「彼」に心酔している者に僅かでも好かれるということは極めて不名誉なことです。
      強いて言えば侮辱です。


      「彼」はレイシストでも差別主義者でもないでしょう。けれどもふたつさんの文中にある、

      >私にとっての「差別」とは、「この世界に存在し得ない上下の差を創り出す行為」のことです。

      自分が優れていると感じていること、自分より劣った者を批判し、また嘲ることは「存在し得ない上下の差を創りだすこと」と同義であると思います。



      >「自分の好み」を絶対視するということこそ「差別」のモトに成っているものだと考えるからですね。

      >「好み」は、「どうしても発生してしまうモノ」ですが、それを基準に全てを測ってしまえば、必ず「差別」や「迫害」が生まれます。

      そういう点では、「彼」よりもわたしの方がより差別主義者に近いと感じます。
      何故ならすべての規準は「自分」の「好悪」ですから。

      >「自分の好み」を絶対視するということこそ「差別」のモトに成っているものだと考える

      もしそうなら、ふたつさんはわたしが差別主義者に極めて近接していると既に理解しているはずです。わたしは「不寛容」です。そして人は少なからず自分の属する社会に対し、またその追随者に対し不寛容であるべきだと考えます。



      最後に、わたしはメプさんは率直で繊細、人に対して細かい思い遣りを持たれた方だと思っています。先のコメントですが、彼女はただ自分の頭に浮かんだことを文字にしたのだと思っています。わたしも、ふたつさんも、そのことに対し、「配慮が足りなかった」とはまるで思ってはいません。

      そもそも一体誰がこのブログを書き手であるわたしがどういう言葉遣いに敏感に反応するか予想できるほどに読み込んでいるでしょう。

      メプさんがわたしの反応を予想せずに、「補正」という言葉をつかったところで何の問題もありません。ふたつさんの説は少々深読みし過ぎだとちょっと思いました。

      コメントをありがとうございました。

      追伸

      「いつも見てますよ」というのは、アートブログのことでしょうか?

      今日はここに書いたことのわだかまりもあるせいか、あまりいい投稿が出来ませんでした。



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    2. こんにちは。

      まず、Takeoさんをイラつかせてしまったのであれば、ごめんなさい。

      見ているのはこちらのブログだけです。

      それから、最初の話ですが、Takeoさんは、誰かがブログを見る時、その人のことを好きだとは限らないと思いませんか?
      例えば、嫌いな人のブログを見る人も居るでしょうし、いろいろだと思います。
      もしも、どうしても見られたくないならば、なんとかしてその人の閲覧をブロックする方法を探すのが一番いいんじゃないでしょうか。
      徹底的に探せば、ブロックする方法があるんじゃないかと思いますよ。

      メプさんとのお話には余計なことを言った私が悪いと思います。
      だから、忘れてください。
      失礼いたしました。

      それから、「好み」についてですが、Takeoさんは「相対論」を支持していると言っていたと思いますが、「好み」だけは別ということでしょうか?
      もし、「好み」だけは「絶対」なのだとしたら、なぜ、「嫌いな人」を「憎む」ことは出来ても「軽蔑」することは出来ないのでしょうか?

      それは、Takeoさんが「自分の好み」を「その相手」よりも、「上」に位置付けることが出来ないということだと思いますが、どうでしょうか?
      もしも、「自分の好み」が「絶対」であれば、「その相手」よりも「上」に成るような気がしますが。

      少なくとも、私の中では、「絶対」と言うのは、そういう「上下関係」で成り立つものだと思っています。

      フラットなものに「絶対」はあれはまらないということですね。


      いつもいつも、一言多くて、どうもすいません。

      削除
  3. Takeo さまへ。
    こんばんは、メプです。

    先日の、私の不用意なコメントで、
    何だか予期せぬ展開になってしまい、反省しています。

    Takeo さんは、私が不快になったであろうと、何度も言って下さいますが、
    そんな事、全くありませんし、Takeo さんは悪くないですから。

    むしろ、Takeo さんを落ち込ませる要因になった事を
    本当に申し訳なく思います。

    それに、ふたつさんをも、意図せず巻き込んだ形になり、
    お気を悪くしないよう、、、ごめんなさい。

    先日の元記事コメントにも書きましたが、
    単純に、汚れてしまった写真が可哀想だったから、、、やった作業、、、でしたが、

    正直、このコメントで、こういう展開になるとは予想しておらず、
    やはり結果的に配慮が足りなかったのだな、、、って、反省しています。

    ごめんなさい、、、。

    *****

    今回、Junko さん宛てのコメントの中で、
    見え方はまだだけれど、眼圧は何とか安定しているとの文面がありました。

    良かったです、、、。眼圧は、大事です。

    とにかく、出来るだけ、目を休めて下さい。
    では、、、。

                  メプ。

    返信削除
  4. ふたつさん、メプさん。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
    今回頂いたおふたりのコメントで、わたしが気分を害したという箇所はどこにもありません。

    メプさんも、ふたつさんもわたしにとって、このブログにとってとても大切な方です。

    この件はもう打ち切りましょう。要はわたしが見に行かなければ済むことですから。

    おふたりの、そしてもちろんJunkoさんの友情に感謝します。

    くれぐれもわたしが気分を害しているのに、それを口にしないなどとは思わぬように(苦笑)

    更新もしていないのに訪れてくださってありがとうございます。
    いつかまた自分で満足のいく投稿が出来ればと思っています。

    簡単ですが、お詫びと、お礼に代えさせていただきます。

    Takeo

    返信削除
  5. Ciao Takeoさん
    さて苦心してまとめたコメントをさて投稿しようとやってきましたら、「この件は打ち切りましょう」と言うTakeo さんのコメント。ありゃりゃ、、
    実は結構苦労して私の思うところをまとめてしまいましたので、それを闇に葬りたくない、、、ので投稿します。苦笑

    まずご質問にお答えして、、
    、、私は、そういう事、、あり得るんじゃあないかと思います。
    特に日本のような国では、、。
    私やTakeo さんには多分あり得ないけれど、つまり自分の価値観やら主義主張が一貫して揺るぎないものになっている人には、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、許せるものと許せないものが自ずとはっきりしているのですが、周りを見渡してみてもその境が曖昧な人の方が多いと感じます。
    それが、私がよく人に「世の中は君が考えるように白黒だけではない」と言われる所以かもしれませんが、、。
    そう言う曖昧な人たちの「価値観」とも言える中心線は、その線の上に水を垂らして滲ませたかのようにじわーっと滲みが拡がっていますから、つまり面積が広い、よって他者の意見と共感する、重なる部分が広い、(薄いけどね)
    それに較べて、多分私なんかのは、(おそらくTakeoさんもそうだと感じます)しっかりくっきりな線ですし、さほど滲んでもいませんからその範囲が狭い、だから共感と言うものを勘じる、つまり他者のなにか、思考や嗜好と重なる部分が少ないのではないかと考えます。
    しかしながら、前者の人々が感じる共感はぼやけているところに重なっているのですから、その共感の深さは曖昧で薄く脆く、後者の共感は濃く、確固として揺るぎないものになる。のではないかと考えます。

    だから、Takeo さんの質問に戻ると、そう言う前述したような人々はあっちでもこっちでも、共感まがいなものを感じる事ができる。つまり、私に何か共感するものを感じながら、私と相反する、私が嫌悪するような思想を持っている人の何かとも共感を感じる事ができる、そう言う可能性は、それ故有り得るのではないでしょうか。
    おまけに、彼ら自身が自分はもしかして真逆なものに寄り添っているのではないかなどと言う疑問を感じる事もあまりない。
    どうでもいいのじゃあないかとさえ感じます。
    私が常に人々が何事にもおいても真剣じゃあないなあと感じているのはそう言うところでもあります。

    ふたつさんが言及していらっしゃる差別の件ですが、私もTakeo さんがふたつさんへのお返事の中で書いていらっしゃるように、肌の色や国籍や貧富の差や職業姿の美醜、そして性的傾向などの違いによる差別はしませんが、そういう事をあからさまに行なう人をあえて蔑視します。
    つまりふたつさんの言葉を借りれば、自分の好みを絶対視しています。
    いや他の人が何を好もうがいいんですよ、彼らの勝手ですから、でも事自分に関しては好きなもの、嫌いなものに対して妥協しません。
    好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。なのです。
    先日友人が「好きなものだけ愛するのは簡単だ」と言いました。
    私は「それが何か?」と言いました。
    好きでもないものを愛そうと努力する時間も手間も興味がないのです。
    ましてやこの歳でです。
    好きなものだけ愛し、好きなものに囲まれて生きたい、それがなんでいけないのかわかりませんもん。
    卑怯で意地悪で傲慢でそしてダサい( 卑怯で意地悪で傲慢という事はイコールダサい事なのですが) 私は、そう言った人間たちを嫌悪し、彼らを決して受容しようとは思いません。
    そして私は人間と他の動物を区別しますが、(それは人間が彼らより劣っていると言う意味でですが)しかしながら、私と言う一個の生き物と人間と言う種類以外の生き物を区別しません。私は自分が多分人間より動物に近いと感じています。

    私の主義や考え方と相反している、つまり私が「あ、嫌だな」と思う人の文章はもう鼻から臭ってるんで、最後まで読んで自らの気分を悪くすることがないように、すぐに読むのをやめます。大体そういう人たちが何を考えているかなんて興味がないのです。
    そして2度と訪れないと思います。
    そういう意味で言うと、私も好き嫌いで生きてるようなところがあります。私の場合は好き嫌いの裏にちゃんとした理由はあるのですが、それは私の勘、と言うか皮膚感覚に近いような感覚であり、それを言葉にして説明するのがとても難しいということもあるけれど、それ以上にそんな事に時間や言葉を費やすことは無駄であると思っています。
    何故なら、この好き嫌いはあくまでも私だけのためにあり、他の人に一緒に嫌悪しましょうと誘う気も、ましてや他者に同意してもらおうとは思わないからです。

    ここまで読まれて気づかれたと思いますが、私は好きな人にはとびっきりやさしいのですが、嫌いなやつ(あえてやつと呼ばせてもらいます) 相手がかわいそうになるくらい冷たくなれます。笑

    最後にホワイトライとブラックライの話
    私は多分他者に対しては、時と場合によっては、ホワイトライをも使うと思いますが、基本ホワイトライは好きではありません。ホワイトライが誠実さに欠けるのではないかと考えるからで、とりわけ私個人について言えば、ホワイトライはやめていただきたいと思っています。なぜって、相手が言ってる事がホワイトライだと私にはすぐにわかってしまうのですから、そんな詭弁を重ねる相手に多分少しがっかりしてしまうと思うのです。
    言葉は誠実になにか本当の事を語る時に使うべきだと思っており、それができないのなら私はホワイトライよりも沈黙を選びます。

    もとより誰の気持ちも傷つけるつもりは毛頭ありません。けれどもわたしのすべきことは、「いい人」になることではなく、このかなり特異な経験と、思考を持ったわたしという人間に忠実であることなのです。」

    エドワード・W・サイード

    Takeoさんが引用していたこの言葉こそ私と言う「批判的」な人間を言い表してくれていると感動し、そして同時に共感しました。

    素敵な言葉をありがとうございました。早速手帳に書き留めます。
    エドワード・サイード氏、パレスチナ人なのですね。
    パレスチナ人は好きです。

    ふたつさんとのコメントのやり取りの中で感じる事も多々あり、そこにも言及させていただきましたので、話がTakeo さんの疑問にお答えすると言うことから若干逸れてしまったかもしれませんが、これが私の考えるところです。

    あーー難しかった!
    目に見えない感情とか感覚とかを言葉にするって本当に難しいですね。苦笑
    でもね
    Takeoさんのブログではこう言う禅問答にも似たやり取りができるので、楽しいです。

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    1. Junkoさん、長文のメッセージをありがとうございました。

      当人が見ておられない状態で、この場である種の三角関係に言及することは、公正を欠くと思いますので、この話題についての返信は見送らせてください。
      一般論として書くということも、結局は「一般論にかこつけて個人を語る」ことになります。

      今回の文章が非常におもしろかったし、読み応えがあったので、先のふたつさんの意見と併せて「個人的な好悪」については改めて書きたいと思っています。

      >あーー難しかった!

      改めて長文の、中身のあるコメントをありがとうございました。

      Takeo

      削除
  6. Takeoさん。。5月から6月にかけて、いろいろ投稿させていただいたビタという
    ハンドルのものです。。その後も、楽しく、興味深く、時に共感しながら。。
    (悲しみや憤怒に共感しながら)読ませていただいていました。でも、あるかた
    との交流も続けたいと思っており、そのことは、Takeoさんにとっては「侮辱」だ
    とのこと。。その言葉、とても悲しく思いました。

    で、いろいろ考えましたが、Takeoさんとの交流は断念します。とても悲しいですが。

    あ、そうだ。確か明日はTakeoさんのお誕生日でしたよね。(ブログのどこかで読み
    ました。。医師というサービス業の職業柄、他人様の誕生日は覚えてしまいます(^_^;)

    一日早いですが、お誕生日おめでとうございます☆

    では、これが最後の投稿になります。。どうか、どうか、Takeoさんがこころ穏やかに
    過ごせますよう、祈っております。

    さようなら

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    1. ビタさん。バースデー・グリーティング(誕生日のお祝いの言葉)素直に受け取ります。
      憶えていて下さってありがとうございました。

      ビタさんもお元気で。

      Takeo

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  7. 追記

    以上のコメントを読まれた方が誤解されるかもしれませんので、ひとこと蛇足めいたことを付け加えておきます。

    わたしはビタさんとの訣別を望みました。けれども、ビタさん本人は決してわたしにとって「嫌な奴」ではありませんでした。またビタさんがわたしよりも「彼(ら)」を選んだ、とも思っていません。

    但し、如何にビタさんが「いいひと」で、わたしの考えに、感覚に、共感してくれる人であっても、「彼」と仲良くできるという一点だけで、わたしはビタさんとの訣別を選びました。

    わたしはビタさんに僅かにも悪感情は持っていません。

    ただ、氷炭相容れざる者に共に共感できるという摩訶不思議な人物であるとは思いますけれど。

    繰り返しますがビタさんを悪く思ってはいません。

    子どもっぽい言い方になりますが、敵の味方は、その人の人柄の如何を問わず、付き合えないということです。

    それだけわたしが「彼(ら)」を忌み嫌っているということです。

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  8. 訂正します

    >敵の味方は、その人の人柄の如何を問わず、付き合えない

    ではなく、「敵の味方は敵である」と言うことです。

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  9. Takeo さまへ。
    こんにちは、メプです。

    今日は、お誕生日なんですね、、、。コメントで知りました。
    おめでとうございます!!

    お誕生日は、本人にとっておめでたいのは勿論ですが、

    本当は、産んで・育ててくれた親御さんへの感謝の日、、、らしいです。
    そう言われれば、、、そうだな。

    夏場の出産は、大変だったでしょうね。
    8月の暑い中、、、大きいお腹で。

    お母さまに、お電話でも入れて、おしゃべりして下さい。
    では、、、。

                メプ

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  10. みなさん、こんにちは。

    今回は、どうも私のコメントで、お騒がせしてしまったようで失礼いたしました。
    Takeoさん、メプさん、JUNKOさんのコメントに救われた気がしています。

    とりあえず、件のビタさんと言う方につきましては、抜きにして自分のコメントを補足いたします。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    まず、私がTakeoさんに言いたかったのは、「Takeoさんの馬鹿正直」は、ご自身が思っているほど人に害を与えるものではないということです。
    それを『メプさんの正直さだって、Takeoさんに害を与えていないでしょ?それと同じことなんじゃないですか?』と言う意味で言いました。
    (私がメプさんのお名前を勝手に使ったので話が混乱したかもしれません)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    次に、私が言いたかった「好み」や「絶対視」とは、JUNKOさんやTakeoさんがおっしゃっているのとは、かなり違います。

    私が言っている「絶対視」と言うのは、「絶対的な上位」を意味します。
    つまり、それが至上のモノであるという意味です。
    つまり、それに逆らうモノには、いかなる制裁を加えてもいいということに成ります。
    つまり、一人の人間を多数の人間が寄ってたかってなぶり者にしてもいいということを含みます。
    つまり、親が「自分の好み」で子供を虐待してもいいということに成ります。
    つまり、いじめも、人種差別も性差別も、すべて『好みで決めていいんだ』ということを「絶対視」と言っているわけです。

    でも、そういうのは、TakeoさんやJUNKOさんは除外しているでしょう?
    だから、「絶対視」には当たりません。

    そういう、最も極端な意味での「絶対視」を私は避けているということなんです。

    『そんなの当たり前すぎて論外』と思われるかもしれません。
    ただ、私は「絶対視」という言葉そのものが極端な性質を持っていると考えているので、この言葉に曖昧な意味を持たせることはしないということなんですね。

    お二人は「好き嫌い」を重視していると言っても、『あなたの顔が嫌いだから、あなたは外を歩かないでください』と人に言わないでしょう?
    でも、たった数十年前(’60年ごろまで)のアメリカ南部では、それは当然のことだと思われていたんです。
    つまり、白人の権利だと思われていたということです。
    けっして、K.K.K.のメンバーに限った話なんかじゃありません。
    ごく一般的な人たちが、そう思っていたそうです。
    (というか、K.K.K.のメンバー自体が一般的な人だったんでしょう)
    つまりそれが常識だったということです。

    ご存じかもしれませんが、その当時はアメリカ南部の州法では「ジム・クロウ法」と言う人種差別法があり、黒人用の席・黒人用の入り口・黒人用の〇〇は、すべて白人用のそれらとは分けられていて、それが当たり前だったんだそうです。

    でも、それだけじゃありません。
    その当時、アメリカ南部には「囚人農場」と言うモノがあり、囚人たちが、懲役の一種として、農場で過酷な労働を課せられていたわけですが、その「囚人農場」に送られた黒人たちのかなりの数の者は、大した罪も犯していないのに重罪をきせられて、そこで過酷な労働を強いられていたそうです。

    もちろん、素行の悪い黒人が目を付けられることが多かったのかも知れませんが、中にはただ単に白人に逆らったというだけの理由で懲役を科せられた者もたくさん居たそうです。
    その当時の南部では裁判官も弁護人も判事もすべて白人です。
    黒人は一人も居ません。
    黒人には選挙権すら与えられていなかったのですから。
    そして、その白人たち全員が『自分たち白人には、黒人を差別する権利がある』と考えていました。

    そんな中で、白人に逆らった黒人がしょっ引かれてきたとき、どう抗議したら見逃してもらえますか?
    黒人たちは教育もろくに与えられていません。
    『法律ってナニ?』と言う状態です。
    それ以前に、そのころ南部の黒人たちは『白人に逆らっても無駄』ということを、嫌っと言うほど思い知らされていますから、『オマエは罪を犯したんだから懲役5年だ』と言われれば、『へぇ、白人の旦那、寛容なお裁き、ありがてぇです』と言うしかなかったんですね。
    つまり、黒人たちはアメリカ国内で二度目の奴隷狩りに合っていたということです。
    そして、それはつい数十年前の「自由の国アメリカ」で行われていたことなんです。

    私は、こういうのを「絶対視」と呼んでいます。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    つづく・・・

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  11. ・・・つづき
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    でも、この「絶対視」には、いくつかの性質があります。
    つまり、「絶対視」することで、上のような差別が生まれるという性質と同時に、人が、長い間、「自分の好み」を高い位置に位置付けていると、その「自分の好み」が、いつの間にか「絶対視」に変化してしまうという性質があって、その変化に全く気付かなく成ってしまうという性質があると、私は思っているわけです。
    (だから、ごく一般的な人々がそういう極端な状況に何の迷いも感じずに居られるように成ってしまうということですね)

    これは、JUNKOさんやTakeoさんには直接当てはまらないでしょうし、これをお二人に言うのは、いたって失礼な話なんですが、やはり、人間と言うのは、自分に都合よく物事を判断してしまうという性質があります。
    そんな人間が、「自分の好み」を高く位置付けて、さらにそれを長く続けていると、いつの間にか「絶対視」するように成り、結果的には上のような状況が発生してしまうということはあるんです。
    これは、お二人のような方が、直接そういうことをしてしまうという意味と言うよりも、お二人のような方には、その個人性ゆえの「魅力」がありますから、人に影響を与えるという意味を含めて申し上げているのです。

    Takeoさんは、きっと否定されるでしょうが、お二人には人を惹きつける「魅力」があります。
    それは、このブログを見ていても、分かることですし、きっとJUNKOさんがブログを書いていらしたときには、さぞ賑わっていたことは想像に難くありません。
    Takeoさんは、不人気と仰っているこのブログにも、絶えず閲覧者のケハイがありますし、コメントも完全に途切れたのを見たことがありません。
    (例えば、一年以上コメントなしなんてないでしょう?)

    お二人に、これを言うのは酷なことかもしれませんが、そういう「人を動かしてしまう人」と言うのは居ます。
    お二人には、そういう性質が備わっています。

    ※これは、青梗菜さんのような人も同じです。
     彼の場合は、社会適応度が高い人ですから「個人性」は
     薄いと思いますが、その分、一般性がありますから、
     「人気」や「数の力」を得る確率が高く成るわけです。
     そして、その「力」に動かされてしまう人が現れます。
     おそらく彼は、もう「自分の絶対視」が見えない状態に成
     っていると思います。
     だから、悪意なく「差別的な発言」をして、それを正当化
     してしまうのだと思います。

    たとえば、Takeoさんが、手紙を書くと出版社の編集者の方が直接電話をかけてきたり、ラグーナ出版の方もしかりですが、そういう人たちの心を惹きつけてしまう「ナニカ」を、Takeoさんが持っているのは間違いないことだと思います。

    JUNKOさんも、同じで、他人を動かしてしまうモノを持っているんです。
    Takeoさんが、前に「ひまわりのような」と言っていたのは、JUNNKOさんのそういう部分なんじゃないかと思います。

    そういうお二人のような方が、ハッキリとした言葉で『自分の好みは絶対!』と言ってしまうと、結果的にその言葉に動かされた人の中から、必ず「差別」が発生します。
    もちろん、その責任は、その「差別」をした人の責任であり、お二人の責任ではありません。
    しかし、そういうところから「差別」が生まれるのは事実なんです。

    だから、「自分の好悪」を「絶対視」してもいいし、それを言ってもいいと思いますけど、その時に、その言葉に浮かれる人が居るということを少しだけ意識して欲しいなと、私は思うわけなのです。

    繰り返しますが「自分の好悪」を「絶対視」してもいいし、それを言ってもいいと思います。
    ただ、そこに「迷い」を失わないようにした方が私はいいと思っているというだけのことです。
    お二人が、それでも自分はそこに「迷い」は無いというのであれば、それはそれでもかまわないと思います。
    きっと、お二人自身が、「差別」や「迫害」に向かうことは無いでしょう。

    ただ、そこから「差別」や「迫害」が生まれたとしても、その段階では、その原因はほとんどの場合確認できませんし、誰かがその責任を問われることはありません。
    しかし、一度生み出された「差別」や「迫害」を止める術はないのです。
    もしも、お二人の頭の片隅を、その「差別の原因」が、あの時自分が言ったことにもほんの僅かにはあるのかも?と言う思いがよぎることがあったとしても、その時には、もう手遅れだということを、いま頭の片隅に置いておいていただければ、私といたしましては、少しうれしいです。

    それからもう一つ、それと似たことですが、私とお二人の間に違いがあるのは、私は自分を信用しないということです。
    お二人は、ご自身のことを疑うことをあまり好まないと思いますが、私は、自分を常に疑う性質があり、「自分の好み」も常に「疑い」の対象に成りますから、それを重視すことは出来なく成ってしまうわけですね。

    ある意味では、「優柔不断」で「自信がない」ということです。
    だから、JUNKOさんのおっしゃっている「曖昧な好み」にも近いです。

    私は好みのハッキリした人が嫌いということもありませんが、好みがあいまいな人が嫌いということもありません。
    (まぁ、これはJUNKOさんの言っていることと少し意味が違うと思いますけど)

    たぶん、話が飛躍しているように見えてしまうかも知れませんが、私は「迷い」を非常に重視しています。
    「迷うこと」こそ「美しいこと」だと思っているくらいです。
    (これはまえにTakeoさんにも言ったことがあったと思います)
    私は「本質に近いもの」は美しく「本質を失ったもの」は醜いと考えているんですが、人間に「本質」を見極める能力は備わっていないと思っていますから、当然そこには行きつけません。
    そう成ると、後は迷い道をさまようしかないんですね。

    これは、前にTakeoさんが誰かの言葉を引用していたと思いますが、

    『美は細部に宿る』

    私は、少し違います。
    『美は本質に宿る。ただし、人間の目に映るのは細部だけだ』

    ※「細部」と言うのは「表面」のことだと私は解釈しました。

    その「細部」が「本質」を反映したものであると考えて、「細部」を通して「本質」を表そうとするのが「具象表現」です。
    そして、「細部(表面的な形や色)」を使わずに「本質」をダイレクトに表そうとするのが「抽象表現」ですが、「本質」は見ることも感じることも出来ませんから、あてずっぽうになってしまうというのが現在までの「抽象表現」の在り方です。
    「本質」は、人間の容量を超えているので、人間には見ることも感じることも出来ないということだと思います。

    そこで、私はその「あてずっぽうな迷い」に形を与えようと思っています。
    それを「抽象の具体化(具象化)」と呼んでいます。
    だから、「迷い」は重視しています。

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