"Goodbyes hurt the most when the story was not finished." 📸: David Coppens
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Tumblrで当初からフォローしていたロシアの男性のポスト。
わたしは基本的には「リブログは(音楽と引用以外は)しない」というスタンスでやっているが、この絵は自分のブログにリブログした。単純な理由のひとつには、わたしがまったく彼の投稿をリブログしないにもかかわらず、彼は時々わたしの写真を彼のフォロワーに紹介してくれるから、とでも言っておこう。
この写真自体はまったく通俗的だが、この状態こそ、わたしが、現在蹲って動けない、身動きが取れない状態を端的に表している。
人はわたしをわたしたらしめている外部を喪った時、どのように立ち上がり、また歩き出すことが可能なのか?
いや、言い方を換えよう、人はなぜ、自分にとって自分の生とまったく等価なものや人を喪いながらも、何故再び立ち上がり歩き出すことができるのか・・・
青年にとって犬の存在は、わたしにとっては喪われた過去であり、また母でもある。母を喪ってわたしが尚、生き存らえるということはまったく考えられない。
繰り返すが、「わたしの生の根拠はわたし自身の内部には存在しない。」わたしはわたしの外にあるなにものかによって生かされている。
この写真は通俗的でありながら、人間存在に対する本質的、根源的な問いを孕んでいる。我々を支える外部、わたしをわたしたらしめている「外部」がなくなった時に我々は如何にして生き続けることができるのか。或いはそもそも生き続ける意味とは何か、と・・・
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"Goodbyes hurt the most when the story was not finished."
「さようなら」を言った時に物語(つまり人生)は終わるのだ。
仮に肉体がまだ滅んでいないにしても。
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葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
腕よ樹の枝になれ
髪よ樹の葉になれ
わたしは自然の序列に還ろう
わたしの肋骨の隙間に
秋の風よ ふけ
ー多田智満子
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