2021年7月9日

ウツリユク シャカイニ オクレテハ イケナイ

先月、6月9日の右目緑内障の(22歳頃の両眼手術以来の)再手術からひと月が過ぎた。
経過は相変わらず良くない。というよりも、もうこれ以上良くなることはないだろうと思っている。手術前の状態まで戻ることはないだろうと・・・

一昨日、母に付き添ってもらって御茶ノ水に最後の診察を受けに行った。「最後の診察」と言っても、医師が、「術後の経過もいいようだし、癒着の兆候もなく、眼圧も正常に抑えられてるし、視力もちゃんと出ているようなので、ここへの通院は一旦終わりにしていいでしょう。」と言ったわけではなく、わたしが勝手に「これで最後」にした。このひと月間毎週通ってきた。そして眼圧は二桁単位で上がったり下がったり。先週計った時には35あったものが、一昨日には20。視力も、手術前は、両眼とも1.2あったのだが、現在は左右ともに1.0を下回っている。このようにパソコンに向き合って読み書きをしたり、画を選ぶことも楽ではない。

1週間前から左目が充血していて、母はすぐに気付いたが、一昨日の診察で医師がそのことに触れないので、こちらから質問すると、「充血?」
もう一度目を診て、「目の奥の方で炎症を起こしているといったようなことはないので、大丈夫でしょう。じゃあまた今度、来週か再来週に。都合のいい時に診せてください。」

わたしも、診察室に同席した母も、今回の診察で終わりにしたいというようなことは一切言わなかった、形式的に次回20日の予約を取って帰って来た。

何故眼圧が前回は30台、おとといには20台と、一向に安定しないのか?
前回よりも視力が落ちているのは何故なのか?

手術後1ヵ月経過して、現実に何かが良くなったということが実感としてまるで感じられないどころか、手術前よりかなり見えにくくなっているが、これは少しづつでも改善されてゆく=元のように戻ってゆくのか、それとも、ひと月経ってこの状態では、今後これ以上良くなるということは考えにくいのか?

なにもこの病院、この医師に限ったことではない。このようなことが自然に質問できる医者は、特に大きな病院では、そもそも稀有な存在なのだ。

1週間以内にかかりつけの眼科に行き、執刀医になにも伝えず、病院の医療相談室の看護師とも相談もしなかったが、これ以上御茶ノ水に行くつもりはないと伝えるつもりだ。如何に名医であっても、「聾唖」の状態であっては患者として通うことはできない。無理な注文と重々承知していても、わたしが求めているのは、患者の訴えに耳を傾け、その疑問や不安に丁寧に答えてくれる医師なのだ。


いずれにしても、目の手術からひと月が経ち、更に一段低いところからこの社会を見てみると、益々深刻に「生きるということ」がどういうことか、わからなくなった。
このひとつき、毎週母と一緒に立川から御茶ノ水まで、バスに乗り、電車に乗り、駅周辺の雑踏や電車の中、バスの中のありように接していると、「どう生きるか?」などという質問が、手もなく粉砕されてしまうように感じる。「どう生きるって・・・こんな世界で生きようがないじゃないか」というのが、現在のわたしの偽らざる心境だ。

社会との接点、人とのつながりと言っても、今のわたしには、そもそも、「社会」とか「他者」と繋がるということは何を意味するのかがまるで分からない ── いや、もっと厳密に言うならば、「シャカイ」とか「ニンゲン」といわれる存在が如何なるものなのかが、わからないのだ。

デイケアに行く、地域活動支援センターに行く、自助グループを捜してみる・・・
しかしそもそもそのような場にいる(行く)人たちが、果たして、「人が生きるとはどういうことか?」といった疑問を持っているだろうか。ほとんどすべての人にとって、「生きている自分」=「生きている自分」という感覚しか持ってはいないのではないだろうか。
「生きている(?)わたし」=「生きるとはそもそもどのようなことを言うのか分からないわたし」が、一体どこで、どのような「接点」を持ち得るというのか。


わたしは片目をほぼ失った、けれども、それ以前に、わたしが観るべきものがまだ「この世界」に残されているとは思えないのだ。逆にいえば、見える目を持っていても、見るべきものなどほとんどない世界にわたしはひとりで立ちつくしている。

確かに本がある、映画がある、アートがある・・・けれどもわたしは人とはつながれない。生身の人間とはつながれない。何故なら現代社会に於いて、わたしの考える「生身の人間」とめぐり逢うということは、盲亀の浮木優曇華の華・・・干し草の山の中で一本の針を探し出すよりも困難なことだと思っているからだ。

「生きる」とはどういうことか?わたしはその意味が分からずに立ち止まっている。そして生きること。生きていること。即ち、「移りゆく社会に遅れないこと」という大前提を、曲がりなりにも実践している人たちと、接点を持てるとは思えないのだ・・・








7 件のコメント:

  1. Takeo さまへ。
    こんばんは。メプです。

    7/7が受診日だと、以前のコメントに記載ありましたから、
    病状結果は心配しておりました。

    でも、先ずはとにかく目を休めて頂く事が第一だと思い、
    記事の更新をチェックしていました。

    ですから新着記事は直ぐに拝見したのですが、

    どう、、、お声をかけたら良いのか、、、考えてしまい、
    時間が経ってしまいました。

    *****

    目は、本当に大事だと思います。

    でも、見るべきもの・生きる事、、、という、根底の課題とリンクすると
    単純に「目は大事」と片付けるのは、何だか無責任な気がして、言葉に詰まります。

    いい言葉が見つからず、ダラダラ時間が経ってしまいました。

    でも、これ以上、時間が過ぎてしまわぬうちに、
    先ずはお見舞いのコメントだけでも入れようと思い、

    何だかまとまりの無い文章で申し訳無いのですが、お書きしました。

    毎週、通院して、お疲れだと思います。
    お母さまも、きっとお疲れでしょう。

    とにかくお大事にして下さい。

    それと、出来れば点眼薬だけは切らさぬ様、
    せめてそこだけでも、どこかで必ず継続してもらって下さい。

    *****

    一年にたった一度、在るか無いかの、
    哀しいほど美しい夕暮れって、在りますよね。

    しかも、一番美しいな瞬間は、たった5分間くらい。
    色がどんどん変わるから。

    そんな瞬間を、また、ご自身の目で、見て頂きたいと思います。

    *****

    お大事にして下さい。


               メプ

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    1. こんばんは、メプさん。いつに変わらぬお気遣いを感謝します。



      「生きるということはなんとまあ、大変なことなのだろう・・・」わたしがこれまでに読んだ、詩人、石原吉郎の全ての言葉の中で、最も深く、重く、わたしの心にとどまっている彼の静かな悲鳴です。

      わたしは絶望しています。手術をする以前よりも、両眼ともはるかに見えにくくなったことが、わたしの厭世観をいやまして深めたとは思ってはいません。この立川のアパートから御茶ノ水駅前の眼科までの一本の道筋ですが、その道を繰り返し繰り返し往復して、バスや電車のキチガイ染みたうるささ、ひとりの人間を電車恐怖にさせるほどの、スマホ人の群れ、群れ、群れ・・・
      病院でもスーパーでも支払いは全て機械。それらの機械は、人がもたつくことを決して許しません。少しでももたもたしていると「お金を入れてください オカネヲイレテクダサイ」── 愚かな機械は「ちょっと待つ」ということを知りません。基本的に「人間」ではなく、スマホとカードを中心に日常の生活が回っているので、「いまだに」現金を使って支払いをしている者はいやでも馬鹿な機械たちの「カネ カネ」という催促を、「うるさーい!」と叫びたくなるほど聞かされる羽目になるのです。

      そこまでわかっているのなら、何故スマホを使いカードを使わないのか?と訝る人も出てくるでしょう。「スマホとカードさえあれば、気が狂うほどの「せっつき」「催促」を聞かずに済むのに」と。
      しかしそれは嫌なのです。特別な理由はありません。スマホやカードというものが、非常に「鈍臭い」という感覚があります。便利さや速さ、機械をありがたがるのは田舎者(いうところの「カッペ」の証しであるという意識があります。



      まだ見えていた目で見た最後の世界は、とてもわたしの美意識とは相容れないものでした。
      成程世界には、未だ「美」と呼ぶことができるもの・ことが存在しているんかもしれません。
      けれども、この世界、この社会の圧倒的な醜さの前では、あるかなきかの微かな「美の残骸」など無に等しいと考えます。

      長く外界と接触のなかった者が、少しの期間ではあるけれども、一定の時間、外気と触れ合ったのです。そして外の世界というものは、わたしの生にとって、わたしという「生体」にとって、「毒」であり「汚穢」以外のなにものでもありませんでした。

      眼病以前に、わたしが今のこの世界で生きている人間と同じ生き物であるとは、最早どう考えても「違う」としか思えないのです。

      わたしは自分が到底その内側で生きることのできない世界に生きている人間たちを軽蔑しません。わたしは「移り行く社会」に適応できない(したくない)人間であると言うことです。



      わたしの生命を何よりも蝕んでいるのは、「孤独」です。「現代に適応できる者」と「今の社会では生きられないもの」との、どうしても架橋不能な隔絶です。
      わたしは現代社会の外側にいる人間です。そして決して「中には入りたくはない」と考えている。そのような者が、どうして「他者」=(インサイダー)と友好的な関係を築くことができるでしょう。



      母も、ここと実家との行き来で、相当疲弊しているはずです。実際にバスのやかましさにはかなり神経を傷めているようです。これから夏を控え、わたしと母と、どちらが先に倒れるか、という状態だろうと思います。わたしもこの狂気じみたバスや電車に乗ることにほとほと疲れ果てています。けれどもわたしにはもうどこにも行くところがないのです。
      わたしは母なしでは生きられない。そして弟も、それ以上に母の傍を離れません。
      そしてわたしは弟と同じ屋根の下には決して住むことができない。
      であれば、当然母は、わたしのいる場所と弟のいる場所をどうしても行ったり来たりしなければなりません。3人の内誰かが死ぬまで。
      わたしはまだ死ぬ覚悟が出来ていませんが、覚悟も何も、もう今現在、わたしか、弟かのどちらかが死ななければならない状況になっているのです。
      何故ならわたしは母に生きていてもらいたい。そしていまのわたしの頭と心の中は、「とてもこの世界では生きられない」「これ以上母を苦しめたくない」という思いだけが占めているのです。「生きる意味」を見いだせないのです。

      少なくともわたしの気持ちは「生」の方角には全く向いてはいません。

      わたしにとって、この生は、自身と、母の苦しみ以外の何ものをも意味しないのです。

      「生きている意味」それは母の苦痛であり、「生きている歓び」はこのデジタルワールドには存在しません。



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    2. 追伸

      最近母に勧められて・・・というほどではないが、「気晴らしに」と貸してもらった本の中から串田孫一の言葉を

      「古代人は現代人よりも優れた思考をしていた」
      そして
      「文明は人間の勝利ではなく、意図的敗北の結果である」

      「意図的敗北」とは言い得て妙じゃないですか?

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  2. お詫び(メプさんへ)

    メプさん。昨夜、というか、今朝上のコメントを書きました。これはメプさんの親切なメッセージとは何の関係もない絶望した人間のひとりごとでしかありませんでした。
    なによりも先ず、自分の思いを優先させたことを羞じ、メプさんに深くお詫びします。

    ご心配頂いた点眼薬は、20代の手術以降、欠かしたことはありません。
    明日、かかりつけの眼科に行ってまた必要な薬を処方してもらってくるつもりです。

    >何だかまとまりの無い文章で申し訳無いのですが、お書きしました。

    まとまりのない文章歓迎します。わたしに声をかけてくれた、わたしを気遣ってくれたことだけで励まされ、慰められます。これからも、「まとまり」など考えずに書きたいことをそのままここに書いてくださればうれしく思います。

    >一年にたった一度、在るか無いかの、
    哀しいほど美しい夕暮れって、在りますよね。

    しかも、一番美しいな瞬間は、たった5分間くらい。
    色がどんどん変わるから。

    そんな瞬間を、また、ご自身の目で、見て頂きたいと思います。

    *****

    お大事にして下さい。


               メプ


    ほんとうにどうもありがとうございました。

    武雄




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  3. Takeo さまへ。
    こんにちは。メプです。

    目の調子が悪い中、沢山お書きいただき、恐縮です。

    それに、お書きくださった内容に関して、詫びる事なんて、何もありませんよ。大丈夫です。
    そんな事はどうか気になさらず、目は、どうぞお大事にして下さい。

    点眼薬は欠かさない、、、と伺って、少し安心しました。
    目薬は、大事です。

    *****

    ずいぶん前(数年前)にもお書きしたかと思いますが、
    私もスマホ、持ってません(笑)。

    古い、二つ折りケータイです。しかも使うのは、最低限の電話機能のみ。
    メールすらやりません。メール受信も拒否設定してもらってます。

    でも、この二つ折りケータイは2026年で終わりらしく、
    ドコモから再三、スマホへの切り替えお誘いが在ります。

    それと、、、今どき!?でしょうが、クレジットカードすら持ってません。
    自己破産系、、、じゃ無いですが(笑)。

    基本、、、カード類は、信じてませんから。
    なので、いつもニコニコ・現金決済。

    こういうタイプは、確かに、ずいぶん少数派になりましたね。

    *****

    今のご時世、、、音楽聴く為に購入するのも、ダウンロード。
    やった事、無いけど(笑)。

    本も、、、そうらしい。紙の本じゃ無いのが、売ってる。電子書籍?って言うのかな。
    買った事、無いけど。

    やっぱり、紙のページ、めくらなくちゃ、、、ね。

    何だか、味気無い、嫌な世の中ですね、、、。

    *****

    でもね。そう言う、今風の流れに逆行する形で、
    ホンの一部ですが、何か、復活してるモノも在るらしいですよ。

    移動販売とか、、、しかもリアカー使っての!!移動販売。
    大昔は、在りましたねぇ、無骨な・木製・リアカー。

    今のリアカーは、それよりも小型で、洒落てる(笑)。

    *****

    目をお大事に、、、と言いつつ、
    何か、長くなりました。読むのが疲れますね。

    お返事は気になさらず、目をいたわって下さい。
    それと、お母さまのお身体も、どうぞお大事にして下さい。

    では、、、。

                  メプ

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  4. Ciao Takeo さん
    Takeoさんの目の調子がなかなか良くならない事を案じていました。
    しかしながら、目という実に精巧な器官がその機能を修復するにあたって、1ヶ月と言う時間は短いかもしれないとも考えます。
    私、一昨年手術したでしょ?
    自分ではすぐに元気になったと思っていましたが、(そう思いたかったのだと思います)、手術から1年と3ヶ月ほど経って、ですから今年の始めにやっと自分の身体が元のような状態に近い、普通の身体に戻っていることを実感しました。
    Takeoさんの目の細胞さん達は、今一生懸命頑張っているのだと私は思います。
    そのうち思っても見なかった時に、あれ?と良くなっている事に気づく、
    身体ってそう言うものだと私は自分の体験からそう考えます。
    目が見えづらいのは、とても憂鬱なものですから、こう言う事は他人事だから言えるのかもしれませんが、
    Takeoさんや私の嫌いなデジタルワールドこそ、その速効性を売りにしており、その昔は温泉に湯治に行ったりして、何ヶ月もかけて治したものです。
    私は速効性も即効性も怪しい、どこか胡散臭いものだと考えているので、穏やかな治癒こそ身体にやさしい治癒であると、そう思います。
    Takeo さんの目さんの努力が実ることを心から祈っています。

    今さっき、こちらにお邪魔する前に、知人のブログにこう書き残して来たばかりです、

    「熱海の土石流とか、自然の力は侮れず、で、そこに欲に面の皮をツッパらかした無知な人間たちが、自然への畏怖などと言う分別、智慧は持ち合わせず、自然を舐め切った行動で防げる災害を増大させる。
    雷様と言って恐れたあの時代の人たちの方が、よっぽど良識深かったと私は思っています。
    進化って何? 
    私にとっては精神的、霊的退化に他なりません。」

    人間の生を司るのは、精神であり、魂であると私は考えますから、その一番大事な部分が抜け落ちている人間という生き物など、電源の入らない家電のようなもの、それこそただの物体と同じではないかと思っています。

    前にも書いたけれど、
    私はスマートフォンに操られている人々を軽蔑しています。
    全ての意味で「醜い」ので、見るに堪えないのです。
    そして、
    日本の街や電車やバスの中での、、いわば至る所で私たちを襲ってくる、あの騒音こそ、無知で無神経な人間のなす技でしかあり得ないと考えますし、
    「雨が止みましたから窓をお開けください」とか
    「雨が止みましたから傘をお忘れなく」とか、
    ああいう、騒音よりも我慢ならない、意味のない雑音になぜ誰も 「大きなお世話だっーーー!!」と怒らないのだろうと不思議で仕方がありません
    脳みその中のどこかの感知機能が酷く衰えていなければ、到底我慢できない事です。
    食料品店のケーキ売り場だとか、お惣菜売り場での、あの甲高い、金属的な不快な声で間断なく客を呼び込む、あれもまた私が嫌いな日本の一面です。
    しかしながら、それが彼女たちにとっては、一生懸命仕事をしていると言う事なのだろうとふと考えてみると余計に哀れが増します。
    日本はそう言う意味で、まさにTakeo さんのおっしゃる通り、かっぺです。
    騒音や雑音、そしてあの夥しい趣味の悪い色の群れ、それらをどうして暴力であると考えないのか、私には理解できません。
    静けさ、暗闇の美しさを理解し、尊べない人間に美は語れない、そう言う人間たちと私は語る言葉を持ちません。

    私はTakeo さんほどではないにしても、このおぞましい、趣味の悪い社会からむしろ遅れをとることこそが、私の良識、品性の証であると考えています。
    ですから、私は喜んでむしろせいせいした思いで群れから遠く離れます。
    Takeoさんの思いがそのかけらほどであっても理解できる私は、Takeoさんがそう言った醜悪なものに耳を塞いで自ら孤独に隠らざるを得ない現実を想像して胸が痛みます。
    お母様のお疲れもいかんばかりかと案じます。
    母と言う人が持つ超人的な力、強さ無くしてはできない事です。

    お母様にお身体と心の休息が与えられますように、、
    どうぞ引き続き、お大事になさってください。









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  5. メプさん、Junkoさん、あたたかいメッセージをありがとうございました。

    今、日付が変わりましたが、昨日、水曜日の午後におふたりに返事を書こうと試みましたが、
    どうしてもうまく文章がまとまりません。メプさんに言ったように「まとまり」など気にせずにとにかくお礼の気持ちを伝えればいいと思いながら、どうしても、いざ書いてみるとおふたりの文章の中にあるあの言葉、この部分について、話が広がってしまいます(苦笑)

    例えばメプさんなら、今の時代にいまのスタイル(時代)に合わせて、音楽を聴いたり本を読むことの「意味」を考えてしまいます。

    Junkoさんなら、「人間にとって進歩とはどういうことか?」など、ひとくさり語りたくなってしまい、やはり「まとまり」がない・・・というか、収拾がつかなくなってしまいます。

    「一を聞いて十を知る」聡明さはありませんが、話慣れた人だと、どうしても、一を読んで十を書いてしまいます。

    昨日、二駅とはいえ、バスと電車に乗って眼科に行ってきた疲れもあるのでしょう。

    おふたりにはなによりも、お礼をお伝えし、また後程、(書ければ)メッセージへ「返信」を書きたいと思います。

    見えづらさ、だけではないけれど、今はシンプルに、メプさん、Junkoさんに、お気遣いとご心配、そして助言をありがとうございましたとだけ書くことだけしかできませんが、おふたりに甘えさせていただきます。

    それから、アートのブログはやってるじゃないかということも思われる方もいらっしゃると思いますが、これはわたしの「苦痛からの逃避」だとお考えいただければ幸いです。

    メプさん、Junkoさん。改めて形だけではない、気持ちのこもったメッセージをありがとうございました。

    Takeo 拝



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