生に意味があるかどうかをいまだにいぶかしく思っている人々がいる。実際にはこれは、生が耐えうるものかどうかという問いに帰着する。ここに問題が終わり、決断がはじまるのだ。
エミール・シオラン『涙と聖者』金井裕 訳 より(太字、本書では傍点)
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これは「生きる意味」の存在が「生を耐える力」になり、逆に「生きる意味」の不在は、即ち「生を耐え難いものにする」と読むこともできるだろう。
一方で、いつの時代にも、ある種の個体、ある種の生体、実存にとって、予め、「生は耐え難いもの」として存在しているということを看過してはならない。
そしてまた、自身、或いは自己を取り巻く環境の激変などにより、ある時期を境(契機)に、生が突如として「耐え難いもの」になる場合もある。
シオランは、「ここに問題は終わり「決断」がはじまる」と言っているが、実際にはここから問題が・・・つまり"To Be or Not To Be " という「決断の問題」が生じるのだ。
ところで、現実に目を向ければ、ほんとうに多くの人が「生いることは耐え難い」にもかかわらず、「生きなければならない」という状況にあるというのが、現代の社会(世界)であろう。
いずれにしても、「にんげん、生まれてきたからには生きなくちゃ」という「生善説」信仰は、いつになったら、もう少し考えなおされるのだろう。そして生まれてきた以上は生きられる(はず)だという無責任且無根拠の信仰も・・・
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